ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

ゲリラ化する「偽札事件」-情報としての貨幣流通がもたらすもの

2005年01月29日 | 貨幣、ポイント
木村剛さんがメルマガの中で「なぜ偽札作りは罪が重いのか?」について書いていた。そういえば昨年末から今年にかけて、やたら偽札報道が多いような気がする。そう思ってgogleニュースで「偽札」で検索してみたところ昨日も松戸で「偽札」事件が…事実、日銀では偽造紙幣防止のめたに新札への切り替えを急ぐというニュースがあったばかりだ。

木村剛メルマガ
[コラム] なぜ偽札作りは罪が重いのか?
Google ニュース:「偽札」事件
日銀、1万円札の発注前倒し・偽札対策急ぐ

木村さんによると、「私たちが普段『おカネ』だと思い込んでいるお札の正式名称は、日本銀行券」であって、「平たく言えば、日本銀行が発行した借用証書にすぎない」とのこと。つまり「一万円札というのは、日本銀行総裁が『一万円分の何かを借りました。いつか必ずお返しします』と約束している借入証文に過ぎない」。なるほど。
で、「私たちが『おカネ』だと思っているものの価値が儚いもの」であり、「偽札の横行を放置しておくと、本物の『おカネ』がじつは紙切れに過ぎないことがバレてしま」い、「貨幣経済の秩序はガタガタになる。だから、偽札作りは厳罰に処さないとならないのだ」とのこと。

まぁ、その通りなのだが、これが社会学者やサブカル系の評論家が言っているのならともかくも、木村さんのような金融コンサルタントが「貨幣制度は幻想だ!それがバレルのが怖いんだ!」ってのはどうか。

貨幣というのは、もちろん「幻想」であり、本来「無根拠」なものである。だからこそ時には、「貝」であり「銅」であり「紙」がその役目を果たしているのである。それが意味することは、そのモノ自体に価値があるわけではなく交換のための媒体としての役割自体に意味があるのであり、その機能の喪失につながりかねないからこそ、偽札作りは重罪なのだ。

ここで情報という観点で「貨幣」を考えてみよう。

木村さんも述べているように実は「おカネ」は紙切れに過ぎない。透かしを入れたり複雑な配色を使ったりとコストがかかっているといっても1万円札を作るのに1万円がかかっているわけではない。1万円のものを購入するのに1万円札を店員に渡して品物と交換するのは、何も1万円札が1万円札のコストを投じて作られたものだからではなく、1万円札の価値がある「紙幣」だからだ。つまり「貨幣」とは「物理的な媒体(=紙幣)」と「情報(=1万円という価値)」とによって成り立っている。

現状、PC用プリンタの性能が上がったこともあって簡単に「紙幣」を模倣できるようになった。これは「物理的な媒体」部分を本物に似せることでありもしない「情報」をそこに埋め込もうとする行為だと言えるだろう。

偽札への対策とはこの「情報」の正しさをいかに保証するかということである。それがこれまでは「物理的な媒体」である程度担保することができた。つまりいくら似せようとしても似せれなければ「物理的な媒体」を見ただけで本物か偽物かの判断ができた。

だからこそこれまでの偽札作りというのはかなり大掛かりな組織によって行われていたのだろう。それなりの技術がないと、ある程度流通してしまう偽札が作れなかったのだ。しかし今起きていることは、ごくごく素人が1台数万~20万円くらいのプリンターで簡単にある程度の品質の偽札を作り簡単に流通させてしまうという、ある種、ゲリラやテロのような偽札事件だ。

事実、これからもPCプリンタの技術が発達すれぱ、ぱっと見て気付かない程度の「偽札」はますます流通することになるだろう。となると、これからは「物理的な媒体」というよりもそこに刻まれている「情報」そのものの真偽を問うための新しい社会システムへの転換が進むのではないだろうか。

それは例えば、Edyのように完全に物理的な媒体と切り離されて流通する「電子マネー」化かもしれないし、あるいは紙幣自体にICカードやバーコードのようなものが埋め込まれ、レジ機と「紙幣」の間で認証をとるというような現状と「電子マネー」化との中間のような形式なのかは分からない。

いずれにしろ今後ますますテロ化・ゲリラ化する偽札事件に対して、2~3年に1度新札を発行して対応するというのでは、社会システムの維持コストとしてはもたないだろう。2000円札のように対応する機械が普及しなければ新しい貨幣は流通しないのだから。


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