学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

教育と結果責任

2010-05-06 | 教育
教育に関する論議がいつも不毛なのは,
教育という営みが,
その結果に対する検証が不可能な営みだからである。


これこれこういう教育システムの下で,
かくかくしかじかの教育を行ったために,
このような人間や社会が形成されたという議論は,
証明不可能である。

にもかかわらず,
あらゆる教育改革は,
教育の現状を問題の多いよくないものと断定し,
この教育改革を行えば,
将来において,必ずやよい成果があがり,
明るい未来が待っているという論法を使う。
すなわち,未来社会において成果が検証されるはずだという論法である。

しかし,その教育改革の成果が検証されることはない。
いや,検証されたかのように言いつくろうことはあっても,
本当の意味で検証されることはない。

教育というのは,
いつも現在社会の価値観に最適化されているのであって,
未来が不可知である限り,
子どもたちが生きるであろう未来社会に最適化することはできないからである。
もしも,それが可能だという人がいるならば,
それは詐欺師か狂信者である。

畢竟,教育という営みは,
過去の文化遺産を未来に継承するために,
現在の価値観に基づいて構成されるものである。

その教育を生かすか生かさないか,
その教育に価値を見い出すか見い出さないかは,
その教育を受けた子どもたちが決めることであり,
子どもたちに教育を施した大人は,
どのような方法であれ,
過去の文化遺産を子どもたちに伝えたならば,
充分その責務は果たしたと言わなければならないのである。
それ以上のことができるというのは,大人の驕りである。



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1 Comments

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哲学と実践で可能では (tsuguo-kodera)
2015-08-20 04:23:55
 及川先生は成城で30年近く教員をし、数年校長をしたはずです。すると5回クラスを持ったはずです。だから教育手法に対する結果を少なくとも3クラスは見て分かったはずです。だから哲学と信念があるのでしょう。
 結果を見られる仕組みはこの他にもあるはずです。やはりシステムがないのでしょう。個々の学校に、しかも個々の先生にあればできるはずです。要求分析すれば、4人ほどの先生の要求条件でできるかもしれません。
 新人の指導計画書をその要望でまとめたらいいのかもしれません。表題は管理人様の信念ではありませんか。私も根本は同じだと思っています。間違っていたら謝ります・
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