学校教育を考える

混迷する教育現場で,
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応援の意味を込めて書いています。

教育愛の欺瞞

2010-06-03 | 教育
「教師が愛情をもって
 根気よく子どもに接すれば,
 必ず子どもにその愛情が届き,
 子どもは教師の愛情に応え,
 よりよく成長する」
というと,非常に教育的なすばらしい言説のように感じられる。

しかし,同じ論理構成をもつ次の言説はどう感じられるであろうか。

「男性が愛情をもって
 根気よく女性にアプローチすれば,
 必ず女性にその愛情が届き,
 女性はその男性の愛情に応え,
 よりよい関係が結ばれる」

これでは,ストーカーである。

なぜ,このふたつの言説の捉えられ方に
違いが生ずるのであろうか。

このあたりから考えると,
教育愛の欺瞞が見えてくるように思われる。


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22 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (主婦)
2010-06-04 05:50:40
「教師が愛情をもって
 根気よく子どもに接すれば,
 必ず子どもにその愛情が届き,
 子どもは教師の愛情に応え,
 よりよく成長する」

必ずその愛情が届くとも、よりよく成長するとも保障はないが、少なくとも、愛情がない教師に学ぶより,愛情がある教師に学ぶ方が、子どもは幸せであり、少しでも、愛情が届く&成長する可能性が高くなるだろう。
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Unknown (madographos)
2010-06-04 07:03:40
>主婦さま。コメントありがとうございます。その場合の,教師がもつべき愛情とはどのような愛情になるでしょうか? 愛情豊かで技術的に未熟な教師と愛情に乏しく技術的に卓越した教師では,どちらが子どもを成長させ得るか,というような極端な対比をした場合,どのように考えられるでしょうか? 「教育愛」に対して,問題提起したいのはそのあたりのことです。なぜ,愛情があるほうが,成長可能性が高まると言えるのか?愛と支配の関係は,など,考えるべきことは多いような気がします。
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Unknown (主婦)
2010-06-04 07:37:46
極論から言うと、愛情のない教師に限って、技術は未熟である。
a先生は愛情はあるが、技術はない。
b先生は愛情はないが、そこそこ技術はない。
c先生は愛情も技術もない。

10年後。。。。
a先生は、きっと、10年の間に、子どものために努力してある程度の技術を身につけている。
b先生は、愛情がないので、技術は経験で身ついている部分もあるが、そこそおどまり。
c先生ははなしにならない。

生徒や親はどの教師と一緒に学びたいと思うか。。。。

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Unknown (主婦)
2010-06-04 15:10:02
b先生は愛情はないが、そこそこ技術はあるの間違いです。
すみません。

書いたついでに。
現場の先生を見ていて、授業が上手な先生は、やはり、子どもたちに愛情があるのです。言葉がけ一つ一つにおいて、子どもの人権を大切にしながら、厳しく指導すべきところは厳しく、褒める時は褒めて、認めてあげています。
しかし、授業が下手な先生は、子どもに対する言動も、子ども一人一人の人権を無視しているものが多いです。そして、そんな先生に多いのは、子どもが悪いというのです。

子どもに愛情があれば、自分の技術を磨く努力をすると思います。そりゃあ、産まれもったセンスもありますが、努力でカバー出来る部分も多いと思います。

また、ストーカーを例にあげていましたが、「愛情をもってアプローチすれば、よりよい関係が結ばれる」ことは100%ではありませんが、少なくとも男女の関係は愛情のない相手と成立することは0%ですよね。

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Unknown (madographos)
2010-06-04 17:57:19
>主婦様。コメント2件ありがとうございます。エントリーの主旨とはかなりずれてしまいましたふが,興味深いご議論です。教育の前提に,「愛情」を置いておきたいという強いお気持ちが分かります。
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Unknown ()
2010-06-04 18:56:29
この2つの言説を比較され、教育愛の欺瞞を見出そうとしているが、「愛」の質的な違いや対象の違い、目的の違いなど、比較対照とはならないように思われる。
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Unknown (madographos)
2010-06-04 20:16:30
>み様。コメントありがとうございます。それでは,両者の「愛」が本質的にどのように異なるのかをまず考えなければなりませんね。
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Unknown (グリーン)
2010-06-05 00:30:09
「み」さんと同感です。

でも、自分は教育愛を持っていると思い込み、勘違いされている教師ほど、本当に教育愛を抱いているの?!と思うような指導をされていますよね?

それを教育愛の欺瞞と呼ぶのかしら????
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親として (母の目)
2010-06-05 03:41:22
子どもが成長のために求めているものを与えるか,自ら手に入れるのに力を貸すのが「その場」にいる教師の役割です。
愛情を抱く対象となる「子ども」や「女性」にとって何が必要か,何を求めているかということに無神経な人間にとっては,両者は「同じ論理構成」になってしまうのです。
教師という職業の方には,親=保護者の目線になって,教育愛を語ることは不可能なのでしょうか。
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Unknown (madographos)
2010-06-05 05:45:00
>グリーン様。コメントありがとうございます。そもそも学校教育において,「教育愛」というようなものが本質的に必要不可欠とされるべきものなのかどうかについて,疑問をもっています。なぜならば,教育を受けたい者が師匠のもとに赴き,弟子入りを請い,師匠がそれを認めて弟子にするというような個と個の一種の契約関係を取り結んだ古い時代の教育・被教育関係では,「師弟愛」は不可欠のものとして存在し得たでしょう。しかし,それを学校という社会システム,すなわち強制力を伴った組織的集団教育システムにあてはめることが果たして妥当なのかどうか。自明のことと思われているかもしれませんが,そこに問題は含まれていないかということを指摘しています。
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