光村の小学校5年の国語教科書に「わらぐつの中の神様」という物語がある。
この作品に,さまざまな教材としての価値を見出そうとする指導案が見受けられるが,この作品は,きちんと読めば読むほど,おばあちゃんのノロケ話という以外の意味はないのではないかと思えてくる。
そもそも,明日学校でスキーがあるといっているマサエに対して,スキーぐつが乾かないならわらぐつをはいていけというおばあちゃんの言葉は理不尽である。わらぐつではスキーはできない。せめて,スキーぐつをできるだけ乾かしてやろうとするのが肉親の情であろう。
おばあちゃんが自分自身の昔のことを話しているにしては,自分についての描写が,第三者的さもなくば自画自賛的であることも不可思議である。
また,大工さんの言う,不恰好なわらぐつを「いい仕事」という理屈も変である。なぜなら,「使う人の身になって,心をこめて作ったもの」が,「いい仕事」であるためには,不恰好であってはならないからである。もしも,技術的に未熟で,不恰好なものしかできないのであれば,「使う人の身」になれば,売るべきではない。
当然,おみつさんのわらぐつは「わらまんじゅう」なのであって,「いい仕事」ではあり得ないのである。それを「いい仕事」と評価するのは,「もの」の価値以外の価値付けがなされたということなのである。若い半人前の職人が若い娘のつくった不恰好なものに「いい仕事」というからには,娘に同情かもしくは好意を寄せているゆえの理屈としか解釈できない。
ともあれ,この物語に出てくる母親もマサエもおばあちゃんも三者三様に自己中心的である。マサエは,自分が濡らしたスキー靴をほったらかしにして,母親にそのケアを求めているし,母親は母親で,明日の学校のスキーに困るだろうから,娘のスキー靴を明日までに何とか手を尽くして乾かしてやろうとする配慮は見えない。果ては,おばあちゃんは,わらぐつをはいていけなどという理不尽なことを言って,自分のノロケ話である。しかも,このおばあちゃんは夫がせっかく買ってくれた高価な雪げたを履きもしないのである。「かざり物じゃないんだぞ」と言ったおじいちゃんの気持ちには思い及ばないのであろう。
さて,ノロケ話であるがゆえに,マサエは機嫌よくその話を聞き終わり,マサエは,雪げたを手に取るのである。おばあちゃんが言うべきだったのは,せめて,「わらぐつはいていきない」ではなく,「その雪げたはいていきない」なのである(もちろん雪げたでもスキーはできないが)。
教科書に載っている作品は優れた作品であるという前提で指導案を立案するのは,とても危ういことなのではないかと最近思っている。教師は,作品の価値をきちんと吟味すべきである。少なくとも,国語教育の研究者や教師は教科書作品を批判的に吟味して,教科書から不適切教材を除く努力をしなければならないのではないか。以前,「ちいちゃんのかげおくり」の教材としての不適切さを指摘したことがあるが,この作品もまた,扱いの難しい作品であるし,文学作品としての価値も疑問である。教えにくい作品は,教え方に問題があるのではなく,その作品に問題がある場合もある。教科書に載っている作品は,玉石混交である。教科書に載っているから教えなければならないという考えは,そろそろ捨てたほうがよさそうである。
この作品に,さまざまな教材としての価値を見出そうとする指導案が見受けられるが,この作品は,きちんと読めば読むほど,おばあちゃんのノロケ話という以外の意味はないのではないかと思えてくる。
そもそも,明日学校でスキーがあるといっているマサエに対して,スキーぐつが乾かないならわらぐつをはいていけというおばあちゃんの言葉は理不尽である。わらぐつではスキーはできない。せめて,スキーぐつをできるだけ乾かしてやろうとするのが肉親の情であろう。
おばあちゃんが自分自身の昔のことを話しているにしては,自分についての描写が,第三者的さもなくば自画自賛的であることも不可思議である。
また,大工さんの言う,不恰好なわらぐつを「いい仕事」という理屈も変である。なぜなら,「使う人の身になって,心をこめて作ったもの」が,「いい仕事」であるためには,不恰好であってはならないからである。もしも,技術的に未熟で,不恰好なものしかできないのであれば,「使う人の身」になれば,売るべきではない。
当然,おみつさんのわらぐつは「わらまんじゅう」なのであって,「いい仕事」ではあり得ないのである。それを「いい仕事」と評価するのは,「もの」の価値以外の価値付けがなされたということなのである。若い半人前の職人が若い娘のつくった不恰好なものに「いい仕事」というからには,娘に同情かもしくは好意を寄せているゆえの理屈としか解釈できない。
ともあれ,この物語に出てくる母親もマサエもおばあちゃんも三者三様に自己中心的である。マサエは,自分が濡らしたスキー靴をほったらかしにして,母親にそのケアを求めているし,母親は母親で,明日の学校のスキーに困るだろうから,娘のスキー靴を明日までに何とか手を尽くして乾かしてやろうとする配慮は見えない。果ては,おばあちゃんは,わらぐつをはいていけなどという理不尽なことを言って,自分のノロケ話である。しかも,このおばあちゃんは夫がせっかく買ってくれた高価な雪げたを履きもしないのである。「かざり物じゃないんだぞ」と言ったおじいちゃんの気持ちには思い及ばないのであろう。
さて,ノロケ話であるがゆえに,マサエは機嫌よくその話を聞き終わり,マサエは,雪げたを手に取るのである。おばあちゃんが言うべきだったのは,せめて,「わらぐつはいていきない」ではなく,「その雪げたはいていきない」なのである(もちろん雪げたでもスキーはできないが)。
教科書に載っている作品は優れた作品であるという前提で指導案を立案するのは,とても危ういことなのではないかと最近思っている。教師は,作品の価値をきちんと吟味すべきである。少なくとも,国語教育の研究者や教師は教科書作品を批判的に吟味して,教科書から不適切教材を除く努力をしなければならないのではないか。以前,「ちいちゃんのかげおくり」の教材としての不適切さを指摘したことがあるが,この作品もまた,扱いの難しい作品であるし,文学作品としての価値も疑問である。教えにくい作品は,教え方に問題があるのではなく,その作品に問題がある場合もある。教科書に載っている作品は,玉石混交である。教科書に載っているから教えなければならないという考えは,そろそろ捨てたほうがよさそうである。
今までこの話は、単なる家族の会話で、
いわば思春期に入りかけた少女に対して、
女同士の会話を楽しんでいる三世代の
「ちょっと深い」風の話を、
小学生向けに書いている作品、
その程度にしか思っていなかったので、
今日の「突っ込み」にはびっくりしました。
余りにも「現実的な突っ込み」だったので。
現実的な対応を求める、
社会生活訓練のコミュニケーション教材では
ないとわかっていながら、
どうしてここまで書かれているのか、
少々気になってしまった一PTAの私です。
この教材は娘も勉強しましたが、確かに、おっしゃるとおりですね。何かこじんまりした教材だと思います。上の子が5年生のとき、「きつねの窓」という作品を学んだのですが、その作品には人生の悲哀や豊かさが味わえるような、奥深さがあったように思います。娘の教科書に載っていなかったのが残念でした。
教材というのはそこから何を学ばせるか、子どもに学び取ってほしいものが明確である必要があると思います。学校以外では教育の機会のない家庭もあるのですから、それぐらいの意気込みで教材を選んでほしいですね。
上の子たちの中学校の国語の教科書には、「夏の葬列」や「火柱」という教材が取り上げられていましたが、今はどうなのでしょうか。
この二つの作品なども、思春期の青少年にふさわしいものかどうか疑問に感じたことがあります。
とにかくどんな基準で選んでいるのか?なところがあります。
私も小学校の教師で、わらぐつの中の神様を教えたこともあります。あんまり深く考えずに教えていました。
「教科書に載っている作品は優れた作品であるという前提で指導案を立案するのは,とても危ういことなのではないか」という意見、賛成です。
しかし私は「わらぐつの中の神様」よりも「大造じいさんとガン」の方に腹が立っています。
だいたいガンはタニシを食べないのですから。一番大切なところがうそだなんて、おかしすぎませんか? いくら文学といっても、です。
madographosさんはいかがお考えですか?
ブログを見させていただいて、自分と異なるこの物語の見方に大変勉強になりました。
しかし、
批判的すぎるのではないでしょうか。
そもそも、この物語には物語の面白さ・奥深さを児童に学ばせたいという反面、物語の構成の技法に触れてほしい、というねらいがあります。この物語は、現在・過去・現在という話の流れになっていて、通常の時間の流れではありません。それというのも、後半の山場「おミツさん=おばあちゃん」というマサエの発見部分をより効果的なものにするためです。そして、私たち読者も最初に読むときにマサエと同様に、気づき驚くのです。
物語は話の内容に注意がおかれることが多くありますが、作者がなぜこのような構成にしたのか、なぜこのような言葉にしたのかを考えると、よりこの物語の奥深さに気づくことができると思います。
これは私の見方なのですが、教科書会社がこの物語を取り上げたのは、構成という部分で時間の流れや変化がわかりやすいので、教材として学習しやすいと考えたためではないでしょうか。
長々と失礼しました。
昔は わらぐつをスキーに縛って滑っていて 登場するおばあちゃんの世代です。
勿論主人公の女の子の世代では 現代のスキー靴とは全く異なるものの、そんなのは履いて学校へ行ったらホントに笑われます。
この物語は 恐らく作者の新潟県上越市が舞台で エアコンも布団乾燥機なる物も一般家庭には無く、スキー靴を乾かすにも一苦労だった時代だと思われます。
私も毎日日が暮れるまで家の周りでスキーを履いて遊んでいた覚えがあります。現代のスキー靴と違い 中に雪が入りやすく 新聞紙を詰めて 囲炉裏の前や練炭こたつの中に置きましたがなかなか乾かないのです。小1でも雪で濡らしたスキー靴を家族が乾かしてくれるなんてことはありませんでした。翌日学校での授業を忘れていても 親に怒られるのが嫌で 濡れたまま履いたものです。
教訓になる話だと思います。
助け船を出さない親に対し 優しいおばあちゃんは おばあちゃんなりの知恵で孫とやりとりする。3世代同居の在り方ではないでしょうか?
皆さんの中にも 同居の年寄りに「代わりにこれ持っていけ」と言われた時代錯誤な物に困惑した事ありませんか? 私は五つ珠のそろばんを持って行けと言われましたよ。
結末はのろけ話かも知れませんが 童話や低学年の読み物としては わかりやすい仕掛けで子供にはとても気持ちがいいと思います。