何かひとつのことに夢中になって極めることに壮大な憧れをもっています。
ここのところ怒涛のように押し寄せるサトシゴト&アラシゴトに必死でついていくのも、だからとても楽しかったのですが、40数年かけて形成された私の性格は、実は偏りが苦手。
いつもバランスをとってニュートラルでいたがります。
一昨日、大野くんのお誕生日をお祝いしたあと、軽く抑鬱気分でした。
「私、何やってるんだろう」状態。
仕事も家事も中途半端で、ひたすら嵐…。
ここ暫く映画も読書もしていない…。
部屋も何となく薄汚れ
疲れも手伝って、ちょっと落ち込み
そんな状態の私に飛び込んできた新聞の新刊紹介欄。
玄侑宗久 「阿修羅」 (講談社)
「記憶と意識、情念と無意識の深い闇に挑んだ畢生の傑作」
◎幾つもの人格が乖離し、同居する心。
解離性同一性障害」という心の病に、文学は救いの手を差し伸べられるのか◎
すぐに読みたくなりました。
昔から人間の心に興味があります。
「解離性同一性障害」、いわゆる多重人格は、人間の心理の不思議を思い知らされるので、特に興味のある分野。
今回はその上更に、三面六臂の異形の神・阿修羅がタイトル。
3つの顔と多重人格の相似性を考えるとなんて興味深いタイトルでしょうか。
読み始めたら、やはり面白くてあっという間に読了。
ストーリーは人格の交代には無自覚でありながら、時々起きる健忘や頭痛に不安を覚えて、治療を受ける女性と、その交叉する人格に対峙する、夫と医師、それぞれの人生や心理が、ハワイの神話や歴史、ランボーやボードレールの詩をモチーフに、阿修羅の面影とともに語られています。
幼少期の虐待に重点を置き、重苦しく、悲惨な状況が多く書かれているこれまでの乖離性同一性障害の治療の物語と比べると、この小説の世界はやわらかく優しい。
そしてとても文学的。
治療の経過があまりに上手く行き過ぎている感はありますが、阿修羅と人の心の捕らえ方はいろいろ考えさせられました。
作者の玄侑宗久さんは慶応大学を卒業、臨済宗の住職さんで芥川賞作家。
人間を見つめる目が哲学的でありながら、受容的で優しいです。
通常人間は幾つもの異なった性格の自分を内側に抱えつつ、統一した自己として社会に適応しつつ生きている。
その統一はどうやってなされているのか。
状況や環境がその自己の統一性にどのように影響を与えるのか。
記憶は常に自己の存在に都合よく書き換えられていく。
その記憶と人間の意識・無意識はどう関連しているのか。
普通の人でも状況によって、乖離とも思える方法、別の自分を提供することでその場を乗り切っているなど、いろいろ示唆的で興味深い作品でした。
よく言われることですが、乖離性人格障害は、自己を分離しなければ、その状況に対応できないほどのショックが引き金になります。
そうやって生まれてきた異なった人格、この小説では3つの別人格と統合された本来の自己のどれにも、周りの人間が優しい暖かい気持ちを持って対処します。
派手好きで困った性格にも思える人格にも、存在の意味を見出し、その人格の消失を寂しく感じるというのが、とても新しい小説でした。
実際の病気はおそらくそんな奇麗事では片付けられないほど、大変だとは思いますが…。
また、阿修羅に対しては、「太陽神→仏教に反逆する悪鬼→仏教に帰依した守護神」の結末から3つの顔を持つまでに乖離しなければならなかったのではないかと語られる場面があって、うなずいてしまいました。
通常、正面の穏やかな憂い顔を仏教に帰依したがための穏やかな美しさとみる傾向が強いですが、私もどうしても、その顔の憂いに含まれた内面の葛藤を見てしまいます。
その葛藤は神に限らず、人間の心の普遍の葛藤のようにも感じるのです。
先日奈良に行ったときにも感じたばかりですが、阿修羅はやっぱり人間が人間を覗き込み、宇宙の真理と向き合う装置だなぁなんて、思ってしまいました。
私は好きなことをいろいろ他方向に追いかけるとバランスが取れるようです。
それとも単に小説に飢えていたのかな。
複雑で深遠な人間の物語を読み、バランスを取り戻し、自分らしさが戻ってきた感じです。