信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

「『龍馬伝』を見て」、に変更です

2010年08月23日 06時08分26秒 | Weblog

2010.08.22(日) 記

NHKの大河ドラマ『龍馬伝』の今日の放送で、「まんじゅう屋」の近藤長次郎が死んだ。演じている大泉洋が上手なのか、僕にとってなぜか存在感が大きくて、長次郎の亡骸(なきがら)に泣く竜馬の想いが僕の想いでもあるように共感した。また、つぎつぎと仲間を失っていく寂しさも伝わった。

このドラマで龍馬を演じる福山雅治にずいぶんと人気があるようだが、僕はこのドラマを竜馬という一人の英雄物語としてよりもむしろ、「新しい世」を夢見、動いた若者たちの「青春群像ドラマ」として見ている。
武市半平太の仲間を組織しての決起も、追っ手におわれて京の町を逃げ回る岡田以蔵の恐怖感も、新撰組に切られて死ぬ間際「龍馬の言うようにすればよかった」という後悔も、海軍操練所仲間との友情も、ドラマの随所に描かれる諸々が、若者固有のそのもののように思うからだ。
そしてほんのわずかであるけれども、このドラマと若き日の自分自身と重なることもあるので余計にそう思うのかもしれない。

ドラマを離れて、この時代の若者は、『日本国』を外国の侵略から守るために私利私欲を離れて命を掛けたことは事実だった。それが勤皇であるか佐幕であるか、あるいは攘夷であるか開国であるか、の違いがあったにせよ。

ひるがえって今はどうだろう。あまりにも自分の利益のため、カネのために動きすぎているのではないか。これが中立を標榜するマスコミや、国家の進むべく方向を決める政治家であったりするとどうしようもない憤りを感じる。

働く者の、特に若者の人生を食いしゃぶる『人材派遣法』を、自分が政治家の時に改悪し、その法律で大きくなった人材派遣会社の会長になって高額の報酬を得る…自分が作った法律で自分の利益を図る。こんなことって許されるのか。たかだか500人や1,000人程度の世論調査であたかも国民の意見を装いながらある特定の人物を、これでもかこれでもかと攻撃したり、逆に全く報道しなかったり。これも許されるのか。
いや、許す・許される、という次元の話ではない。「自分自身が恥ずかしい」という羞恥心とか自尊心とか誇りとか潔癖さとか正義感といったものをほんの少しでも持ち合わせていないのだろうか。


NHKは実質国営放送なので、ニュースや政治番組でいえないことを、たまにドラマを通じて批判したり覚醒を促したりすることがある。この『龍馬伝』でもそのメッセージが随所に発せられているように僕には思える」_:br4。
一つは『日本国』を外国の手から守る。二つ目は『私利私欲』から離れる。三つ目は若者への叱咤激励。

深読みしているかもしれない。でも、
戦後65年、もう某国から隷属的な立場から自立(すなわち対等な関係)してもいいのではないか。郵貯や簡保の350兆円ともいわれる資金を提供する必要は無いのではないか。かつての日本人が有していた『節』を取り戻すために、カネ、カネ、カネの視点から一歩離れる必要があるのではないか。そしてマスコミの意見を無批判に取り入れてさも自分の意見であるかのような錯覚をせず、自分の意見で政治に参加しようではないか、若者たちよ立ち上がれ、
と、僕にはこのように読めるのですが、あなたはいかがですか?

さて、これだけ『龍馬伝』に入れ込んでいると、龍馬が暗殺され番組が終了したときの寂寥感というか虚脱感というか、今から目に見えますね。

何であれ古今東西、歴史上『革命』で生き残ったものはどんな英雄でもすべて俗物です。というか俗物にならざるをえない、のかもしれません。
『明治革命』後、俗物になることを拒否したのが西郷隆盛らだ、と僕は思っているのですが、次の大河ドラマは、明治革命のさなかに純粋に生きようとした人々を主人公にしたものを希望したいですね。
例えば西郷さんとか、勝海舟とか、あるいは島崎藤村の『夜明け前』とか。

ちなみに今日8月22日は島崎藤村の命日でした。若き頃教鞭をとっていた小諸で行事があったことをローカルニュースで流れていました。

それにしても藤村の生まれた馬籠(旧、木曽郡山口村)はなぜ岐阜県中津川市と(吸収)合併したのだろう。未だに残念で仕方ない。これも村と県のあいだを取り持つ『仲立ち龍馬』がいなかったからだろうか?

小旅行

2010年08月20日 23時27分49秒 | Weblog
2010.08.20(金) 記

信州の半分以上の小・中学校で、昨日から2学期が始まりました。
例年なら今じぶんは夏の名残があるにせよ、時折秋の風が頬を撫でるのですが、今年はまだないですね、やはり暑いです。
といってもわが山里の夜は涼しく、明け方なんぞ気がつけば薄い蒲団を抱いて寝ています。

わが家にはエアコンはありませんし、扇風機は結局この夏も出しませんでした。扇風機の出番は晩秋です。その目的は暖房の熱を攪拌するため。

ウチの嫁はんはいたって寒がり。何年か前の冬、外気温はマイナス12~13℃の時、家の中が30℃。それでも寒い、といってストーブに薪をどんどん入れる。僕はピリッとした寒さが大好き。で、結局医者に行くほどでもなかったのですが、風邪をひくはめになりました。
ま、この件で2つ賢くなりました。

1つ目は40年間吸っていたタバコを止めれたこと(タバコのあの匂いが好きなんですな、今でも)。
2つ目は足元と顔の高さの温度差が思った以上に大きかったこと。とにかく昔の家の天井が低いので、顔は火照るほど暑くても足元は寒い(私はそんなに寒くは感じない)」。で扇風機が必要という訳です。

さて猛暑の今、ムラはず~っと昼休み、という感じでしょうか。300mほど離れたお隣の「芝の家」(屋号)が、畑をうねった、ということ位です。多分、野沢菜かダイコン用だと思います。


そんな訳で今日は、私たちが遊びに行ったときのことをお便りします。

そもそもの発端は、長男夫婦がお盆休み中の12日に来たことから始まります。
実に嬉しいことに、このお嫁さんは「食」に強い興味と深い造詣を持っているので、今や全国展開している飯綱町の『サンクゼール』の本店とワイナリーを案内しました(大阪では『なんばCITY』にも店があります)。

この『サンクゼール』はもともと斑尾高原でペンションを経営していた久世夫婦が、宿泊客の朝食に出していた奥様手作りのジャムが評判になったのがそもそもの発祥だそうです。それがいまや、ワインまで醸造するようになりました。

立地は小高い丘の上。その斜面を垣根作りのブドウ畑が広がっています。
大のイタリアファンの2人は「『イタリア』、それも南より北イタリアの風景に似ている」との言。2人はイタリアに行っているので、経験のない我々は「そうか」との返事のみ。



上の写真、手前がブドウ畑(白ワイン用のえーっと何だったかな)。右、屋根の上に屋根がある建物がワイナリー。左、黄色い建物が本店のお店。
下の写真はこの建物群の中庭。従って左がワイナリーで、右がお店。建物にしつらえてあるデッキで食事ができます。ここには何も買わなくても、出入り自由。



そして買物をしている最中にブドウ畑やワイナリーをめぐるツアーが今から始まる、というアナウンスにたまたま接して、急遽これに参加することとしました。
ツアーも有料と無料があり(これは後で知ったこと)、無料の場合は、時間は15~20分程度です。で、ガイド(ここの社員)さんからブドウやそのほか諸々の話を聞き、最後にワイナリーに入場です。

ここのワインは、世界の「なんとか賞」をとるほどのワイナリーに成長していて、世界的ブランドの『信州ワイン』の一角を占めるようになっています。
このようなワイナリーの中に入ってビックリしたのは、その「シンプル」さ。
簡単に言えば、1.ブドウを絞る機械 2.タンクと樽 3.瓶詰め機械  のみ。
ホントに拍子抜け、という感じです。

もちろんフランスもイタリアもドイツも含めて、世界の著名なワインがこんなシンプルな設備や装置から産まれてくるのだ、という驚き。それに比してワインの世界の深さとの段差。

こういうのを見ると、悪い癖です。なぜか血が騒いでくるのです。
「私も…」という気が起こるからでしょうか。

13日の深夜、息子夫婦が帰っても何か心が落ち着きません。
そうです。こうなっては翌日の14日、前から行きたかった『ヴィラデスト・ワイナリー』に行くしかない。上信越道の東部湯の丸だ、家から2時間はかかるまい。思い立ったがその時、と。

私が随分若い頃から、つまり玉村豊男さんが東京から軽井沢に居を移す前からの愛読者でした(移り住んで1年か、もう少し経った頃か、軽井沢での生活を紹介した『朝日新聞』の日曜版を、今でもはっきり覚えています)。
その彼がワインを作りたいばかりに軽井沢から東部町(現、東御市)に移ってブドウを栽培していく生活ぶりをレポートのように書き続けた随筆を、『草刈る人』をはじめとして彼の生活を追体験するように読んでいたほどです。

さらに、私がまだ大阪にいて家を探している頃、この東部町に誘われたことがありました。
巨峰を作っている農家が年を得たのでその後を作ってみないか、と町役場から勧誘され、場所も信大近くの『叶(かのう)』という所。二男と2人で見に来たこともあります。まさに今、玉村さんが作っている場所と同じ地区。なにか不思議な縁を感じて、ぜひ行ってみたい。
そして、どのような展開をしているのか、『サンクゼール』とはどんな違いがあるのか、その違いも、確かめてみたかった。

いよいよ翌日の14日。当日の昼すぎ。長野ICに入ってすぐ、更埴JCTで上信越道を佐久方面へ走らねばならないのに、どうした訳か長野道岡谷方面へと走ってしまった。なぜ?

それは、きっと『八ヶ岳倶楽部』の柳生博さんが私を呼んだのでしょう。
岡谷JCTから中央道を、オカンの軽乗用車が左右のタイヤを交互に浮かせながら、八ヶ岳を目指してひた走りに走ります…。(この続きは次回)

『Y区 納涼盆踊り大会』中止

2010年08月16日 23時09分07秒 | Weblog
2010.08.16(月) 記

今日は『送り盆』。これでお盆の行事は終了です。
都会から帰ってきた人たちも、みんな帰って行きました。明日からはまた静かなムラに戻ります。
帰ってくる人たちは本当に大変ですが、この『帰省』というもの、実にいいものだと思います。
私も若い頃、盆暮れの大渋滞の高速や鉄道の大混雑にもまれてもいいから「田舎」に帰りたい、と思ったものでした。「田舎」を持たなかった者の「無いものねだり」かも知れませんが、羨ましいと思ったものでした。

スタジオジブリのアニメ「おもひでぽろぽろ」の冒頭近くにこんな場面がありました。
小学校も1学期の最終日となり、通知表をもらったあと「この夏休み、どこに行くの」「おばあちゃんとこ!」「長野!」と友達同士が話し合っている。でも主人公には、帰る田舎がない、おばあちゃんは同居。つまらない夏休みだなあ、と思う。
私の小学生の時の気持ちそのものでした。
(ここで「長野!」とでてくるのが嬉しいですね…ゴメン、余計なことでした)

若いもんも孫も帰ったあと、田舎に残ったジジ、ババたちは、もう指折り数えて4ヶ月半後の年末年始を楽しみに野良仕事に精を出します。

さて、今日の本題。
14日の土曜は、ムラ(区)の「納涼盆踊り大会」でした。場所は運動公園(分校跡の校庭)です。
ところが残念なことに、開始時間(19時30分)の1時間ほど前から急な強い雨。
中止かもしれないが、雨天の場合は体育館(分校の体育館兼講堂)でする、と案内ビラに書いてあったので、「とりあえず行こう」と2人で行きました。

やはり踊りは中止。ムラの『Y音頭』、なかなか優雅な踊りでなんとか覚えようとしていたのですが、誠に残念でした。
体育館の中ではスーパーボールすくい、おでん、焼き鳥、おもちゃ、フランクフルトの屋台(といっても長テーブルで代用)が並んでいる中でのビンゴ大会の最中。
で、中にいる人たちは私が殆ど知らない若いお父さんやその子どもたちばかりで、文字通りごった返していました。
写りは悪いですが、体育館の中の雑踏の雰囲気がわかるでしょうか。

            

20年以上も前のことだけれど、子どもたちも小学校を休ませて家族全員と仲間で訪問した山形県高畠町の、嬉々として有機農業に打ち込んでいる大勢の若者たちとか、この盆踊りに来る直前までいた山梨県八ヶ岳にある柳生博さんの『八ヶ岳倶楽部』で生き生きと働いている若いスタッフたちとか、そんなことを思い出しながら、体育館を後にしました。

追伸
田舎の盆踊りについてのお便りは来年になりますね。
お便りに触れた『八ヶ岳倶楽部』のこと、また詳しくお便りします。あ、そうそう、昨日の15日は川向かいの町『○○○○ 納涼花火大会』がありました。私たちが見るのは7回目になりますが、今年初めて河原で、打ち上げ場のすぐ側で見ました。これについても後日とします。

書くことがいっぱいあって、なかなか大変。
じゃ、また。


お盆

2010年08月15日 09時16分47秒 | Weblog
2010.08.14 (土) 記

お盆休み、いかがお過ごしですか。

この時期の休暇は「夏休み」とか「夏期休暇」という言い方もありますが、亡くなった方やご先祖さまやあの世のこと、今の自分の生き方などを想い偲ぶ時期とすれば、やはり「お盆休み」という言い方がいいですね。この呼び方は失いたくないものです。

わが山里ではこの13日にご先祖さまをお迎えします。旧暦で行事を行うことも多い信州ですが、お盆についてはこの時期です。
どのようにお迎えするかというと、まずお墓にお参りします。
で、家に帰ってから門口で迎え火を焚いてご先祖さまをお迎えします。このとき、子どもたちは大抵一緒にいます。おじいちゃんや、お父さん、お母さんとともに(おばあちゃんは料理に忙しい)。そしてその子どもが親になった時、このときに知らず知らず覚えたこと見聞きしたことを同じように自分の子どもに教えます。

さて、この「迎え火」について。

12日に、京都からここ信州の山里に帰ってきた息子夫婦と、翌日の13日、飯綱、飯山、小布施へと回った際に、飯山でも、小布施でもロウソクをともした小さな提灯を持っている人を見かけました。
で、小布施の竹風堂で食事をした際にお店の方にその提灯について尋ねると「お墓にお参りして、そのときの火を提灯に移して持って帰り、その火で迎え火を焚きます。ロウソクの火や煙で連れて帰ってくる、とも聞いています」とのことでした。
ちなみに我がムラのみならず、近辺のムラでも私はまだ提灯を見たことがありません。
我がムラには『墓地』という、お墓が集まっている場所がなく、それぞれの家がそれぞれの場所に墓石を建ててまつっているので、見逃しているのかもわかりませんが。

で、迎え火は、コメを作っている農家ではイナワラで、イナワラがないところはカンバの木の皮を使います。
カンバになにか意味があるのかと思って「なぜカンバを使うの?」と聞いたところ、「よく燃えるから」という拍子抜けの回答でした。でも、聞いた人が知らないだけかもわかりませんので、後日幾人かに聞いて再度確かめるつもりでいます。
とにかく地元のスーパーやホームセンターには、「カンバの皮」を入り口に近い目立つところに大量に置いてあります。

迎え火と共に忘れてはならないものが、割りばしを足に見立てた「キュウリの馬」。これは、馬は足が速いのでご先祖さまに「早く帰ってきてください」という願いが込められています(15日の送り火には「ナスの牛」が供えられます。これは名残惜しくて「ゆっくりお帰り下さい」という意味)。
このキュウリやナスは、以前は川に流していたそうですが、今は「ゴミ」として扱われています。
(ところで皆さんこんな話を聞いたことがありませんか。このキュウリやナスをタダで集めてぬか漬けにし、それを売って儲けた昔のエライ人の話を。誰だったかな。もしご存知でしたら教えてください)

私は大阪出身で浄土真宗本願寺派(西本願寺。お西さん)ですが、この迎え火、送り火をしたことがありません。母親が熱心だったので「個人の意思でやらなかった」ではないと思います。で、ムラの人に「宗派は?」と聞くと、(一部を除いて)宗派に関係なくみんなやっている、ということでした。
門徒もやっている。同じ宗派でも地域によって違いがあるのは承知していますが…。

次に料理です。昔はハレ食だったようです。
本来この時期の料理は「帰ってきたご先祖さま」とともに食事をする、という大きな意味があったのですが、今は、忘れたということではないでしょうが、集まった親戚縁者、都会から帰省してきた息子や娘、孫たちにご馳走する、というふうになってきた。これはこれでもちろん非難することではありません。
仏壇やご先祖さまの前で、親類縁者一同があつまって仲良く食事をするということは、ご先祖さまにとってこれほど嬉しいことはないでしょう。
私だって死んだ時、私の前で3人の息子とその嫁、孫たちが楽しく語り合って飲み食いしているのを見るのは、嬉しいことです(『ともに食事をする』ということは宗教的、民俗学的に大きな意味をもつのですが、このことについてはいつか詳しくお便りしたいです)。

で、わがムラでは具体的に何を食べているのか? もちろん調べました。

オードブル、つまり酒のつまみやお造り等々の普通にいう「ご馳走」は省略するとして、この地域で必ず供するものが「天ぷら」。
ナス、大葉、ピーマン、シシトウ、カボチャ、イモ、タケノコなどの野菜がメイン。最近ではズッキーニも加わっているようです。それにエビ、イカ、ちくわなど。このちくわは欠かせません。これらの天ぷらを山ほど作る。これが13日。

そして14日は、おやき。
おやきはつい最近まで、お盆を迎えるにあたって自分の家(主におばあちゃんとお母さん)で大量に作った、ということです。今は食べものもいろいろあって、そんなに多くは作らないどころか、最近はお店で買ってくる、というケースも多いようです。

このおやきの中身である『あん』で絶対に欠かせないのが「丸ナス」。
家庭によって、サイコロ状に切って油味噌で味付けしたものや、厚さ5mm程度の輪切りにしたもの(味付けはもちろん味噌)を挟んだものなどの違いはあるものの、丸ナスは定番です。長ナス、水ナスではダメ。
その他の『あん』では、つぶあん、こしあん、カボチャあんなど幾種類も。信州のどこだったかサンマをあんにするところがある、と聞いてビックリしたこともあります。

まだまだありますが、そろそろこのあたりで。


さて私のところといえば、お盆のこの時期、毎年3人の息子の誰かとその連れ合いが帰ってきてくれて、食事に出たり、温泉に行ったり、観光地を巡ったり、です。
私としては宗教行事が苦にならないというより、言い方は変ですが「むしろ好き」というか、この時期にはお盆らしいことをしたいと思いつつ、仏壇もお墓も大阪にあるので、ここではしていません。

本来お仏壇というのは『ご本尊』さまをおまつりするものなので、「亡くなった人」の有無にかかわらず家にあって然るべきなのですが、ふんぎりがつかない状態が続いています。
たんすの上や、机の上にのるような小さなものでもいいので、本当は欲しいのですが。

長くなりました。じゃ、また。

夏まつりの中止

2010年08月12日 06時20分59秒 | Weblog

2010.08.11(水) 記

8月に入って、7日(土)からあちこちで夏まつりが盛んです。
信州で「夏」といえば、8月15日のお盆くらいまででしょうか。お盆を過ぎるとなんとなく秋が漂い、農家では漬物用のダイコンや野沢菜の種まきの準備が始まります。
大阪から来た私にとって、夏といえば9月の上旬くらいまでの感覚なので、その感覚が抜け切れず、毎年、種まきが遅れます。従って、野沢菜なんぞ100cmを越える大きさになってご近所が収穫する時期でも、わが畑では30cmになるかならないか、です。
それを見た村人は「お菜(野沢菜のことを、みなさんこう呼びます)は、春のつぼみもぬめりが有ってうまいからなぁ」と、慰めてくれる?…のですが。
ま、漬物にしたいから欲しいといえば、「畑にまだ残ってるから、いくらでも持って行き」とは言ってくれるのだけれど、それはやはり私にも小さな『プライド』というか『見栄』もありますから。

そうそう夏まつりの話。
とくに大きいのは「長野びんずる」と「松本ぼんぼん」。これらは同じ7日でした。
この長野と松本以外にも、かなりの地域で7日に夏まつりが開かれました。「かなり」というより殆んどがこの日だったのではないかな。
これはたぶん、つぎの週になると『お盆』になるし、お盆が終わってから、では夏まつりでなく『早い秋まつり』になってしまいます。なかなかスケジュールも混んでいるのです。

さて、わがムラ(区)が属する『S地区』(注)。
このS地区にも『夏まつり』が7日に予定されていました。
ところが8月の4日だったか5日だったか、写真のようなペーパーが全戸配布されました。

7月16日(金)終日、S地区に集中豪雨がありました。
帰宅途中の9時過ぎ、家への道は崩れた土砂でふさがれていました。軽トラで通勤していたのでその場をなんとか通ったのですが、その土砂はセメントを水で溶いたような液状状態。量的にはそんなに多くないのですが、その状態を見ると「怖い」という感覚が走りました。足を少し入れたのですが、全く自由が利かない。
「これはあちこちで土砂崩れがあるな」と夕食をとっていると、けたたましいサイレンがムラの中心部から聞こえてきました。
バイクでその場に行くと消防自動車がいました。署員は「県道はずたずた。何箇所も崩落している。自転車も通れない。今も篠ノ井から大きく迂回して国道19号線から来た」と言う。

翌日、関東甲信は梅雨明け。全く文字通りの梅雨明けで昨日の雨は嘘のよう。空は夏そのもの。
その日は「クボタ サマーフェア」で買い物をしたかったので篠ノ井に向かったのですが、県道は文字通りずたずた。ムラから違う集落を経由する道もダメ。
写真は、その一部です。写真ではこんなものですが、現場はすごい。県道は飲み込まれ、したの田んぼも完全にペケ。


11日の今日、すでに1ヶ月近くになるのに県道はまだ開通していません。
市役所支所、郵便局、農協のあるS地区の中心部に中学校があるので、ぐるっと迂回です。バスも迂回。交通手段を確保するためにタクシーバスを運行している地域もあります。
田畑も被害を受けました。のり面(この地域では「はば」といいます)がえぐられたものもかなりあります。えぐられている多くは耕すのをやめた休耕地、放棄地です。
これらを修復するのに、田畑は個人の所有ということなので個人負担が求められます。年老いて休耕、放棄した田畑に、従って収入が減っている状態で2割だか3割だかの個人負担はしんどい。加えて、再び耕すアテもないのに修復は…ということもよくわかる。で、そのまま放置。これがまたつぎの崩落の原因になりかねない。
こうして中山間地はますます荒れていきます。中山間地が荒れていくと、下流の町も危険にさらされます。

食糧問題や災害防止、環境についても田舎の問題のように見えるかもしれませんが、実はすべて都会や都市住民の問題でもあるのです。
例えば、食料の輸入が止まったって私たちは困らない。なにしろ、キュウリもナスもズッキーニもシシトウもピーマンも、トマトだってあり余るほど作っているのだから。困るのは都会だけ(でも、ご安心を。食糧危機になれば、法律で田舎から食料を奪うでしょうから。都会は、田舎からヒトもモノも奪って生きている、といえば言い過ぎになるかな。ゴメン、ゴメン)。

まつりの話が、変な方向に行きました。申し訳ございません。じゃ、また。


(注)
この『地区』というのは長野市に合併する前の『村または町』の単位です。例えば最近合併した『旧戸隠村』や『旧鬼無里村』『旧信州新町』などはそれぞれ『戸隠地区』『鬼無里地区』『信州新町地区』と呼ばれます。この『地区』は、それぞれ「○○住民自治協議会」を結成して自治活動をしています。

長野県知事選挙報告、のはずが…

2010年08月10日 10時15分49秒 | Weblog
2010.08.09(月) 記


いま8月9日月曜日の、時間は夜9時。ですが、眠い。ホント眠いです。

しらじらと空が明るくなり始まるとともに、ネコのクーが「朝飯をくれー」と鳴き始めるので目が覚めます。もっとも、この時間に起きて庭に出るのは心地よいことなので、苦にはなりません。むしろ起してもらって感謝です。
夏の早朝の空気の冷たさ、薄明から徐々に明るくなってくる景色、すこし湿った大気がなんとも言いようのないものです。

45年ほど前、高校の修学旅行で湯布院(当時は何もなく、ただの田舎温泉地でした)に泊まった時、かなり早起きして近所をふらっと散歩して、途中に小学校によって校庭で小学生と遊んだ時の空気感、あるいは40年ほど前、友人と二人で夜行列車に乗って北陸本線経由でひんやりした朝もやの中の白馬村の無人駅、大糸線南神城駅に降り立った時の空気感が思い浮かんでくるだけでなく、これらと同じ空気感が40年の歳月の隔たりなんぞ消えて、それがそのまんま早朝の庭に立つ今の私を取り囲んでいるような、そんな気がするのです。こんな時、共に旅した友人と話したくなります(いや、やめたほうがいいかな)。

同じ人物である少年や青年の私と老年の私という2つの人格が、私の意識の中に混在していることを自覚(錯覚、いや幻覚かもしれないが)した時の、切なさや感慨深さ。こんなことは、年を重ねたものにしか分らないだろうな、きっと。
私が「年を取るっていうことは、いいもんやで」と周囲の人に常々言っていることの一つが、このことなんです。
(眠いから変なことを書きました。おかしくなってきたかな)。

実は今回は長野県知事選挙のことについてお便りしようと予定してたのですが、もうダメです。

ブログは
「8月9日(日) 記
今日、知事選挙に行ってきました。投票所はムラの公民館で…。
候補者は
① 阿部守一(49才。民主、社民、国民新党推薦。田中康夫知事時代の副知事)
② 腰原愛正(63才。自民、公明応援。大町市長時、現長野市長と共に田中県政批判の急先鋒。現知事の村井氏当選で副知事となる)
③ 松本猛(5?才。日本共産党、市民団体応援。いわさきちひろの子息 同美術館の館長) 
今、このお便りを書いている○時○分現在、開票率○%で云々」
と、日曜日の夜にアップすればタイムリーでよかったんですが…。

すいません、寝ます。

そうそう、投票率が50数%。近来稀な低投票率。
当選は33万余票の阿部さん、といっても次点の腰原さんとは5千票の差。差がない、と言ってもいいくらいです。
長野県民は随分迷いました。

選挙ポスターの写真でも貼ればよかったですね。反省です。

広島原爆記念日

2010年08月07日 00時57分50秒 | Weblog
2010.08.06(金) 記

今日、8月6日は広島原爆記念日。
この日から8月15日までの約10日間、記事のレベルが落ちるところまで落ち、読むに耐えられなくなったとはいえ、新聞には「平和」の文字が躍り、TVには「二度と戦争を起してはならない」「平和は守らなければならない」との映像が流れる。そして日本は戦後65年間、平和を守ってきた、と。

しかし誠に残念なことに、私の愛するこの日本国が、戦後65年間にたった一度、『直接的に戦争に参加』している事実がある。それも国民をだましたかたちで。

「どうしてそんなことがいえるのか」「国が戦争に参加するのなら、しているのなら、私は反対している」という人が、多分ほとんどだろう。
しかし、先の戦争でもそうだった。国民が気がついたときは遅い、のだ。

「後方支援だから戦闘行為ではない」「どこが戦闘地域であるか無いか、この私にわかる訳がないじゃないか」「自衛隊が行くところは戦闘地域ではない(戦闘地域であっても自衛隊が行けば、そこは戦闘地域という定義づけから外れる、という意味)」。
ラジオの国会中継から聞こえてきた、当時民主党代表の岡田議員の質問に対する小泉首相の詭弁的答弁が、いまだに私の耳から離れない。このとき私はハウスで農機具を整備していた。

こうして、戦争をしないと誓った私の国は、「大量破壊兵器を持つフセイン」を倒すためにイラクに自衛隊を派遣した。ブッシュの戦争に加担したのだ。アメリカのイラク戦争に「参戦」したのだ。戦後海外派兵を決してやらなかった私の国を、私の子どもや孫たちの日本を、私につながる人々の国日本を戦争に引きずり込んだ小泉純一郎という名を、私は忘れない。

しかし、このとき日本の国内はどうだったろう。
戦争反対を言う国民の多くも、そして殆んどのマスコミも「純ちゃーん」「小泉さぁーん」だった。このとき、日本がイラク戦争の『参戦国』であるという事実を自覚していただろうか。
「気がついたときは遅い」は歴史学では定理だけれど、同じ空気を吸っているとき、「自己責任だ」といって社会保障を削減しても「純ちゃーん」「小泉さぁーん」。「人生いろいろ、会社もいろいろ」と茶化されても「純ちゃーん」「小泉さぁーん」。「格差が生まれても仕方ない」でも「純ちゃーん」「小泉さぁーん」。
これらのことが私にとって忘れることができない。歴史学上の定理を実体験しているときは
えも知れぬ絶望と恐ろしさだった。
こういう人々が後の時代になって「私は、知らなかった」というのだろうか。


追伸
すんだことは、仕方ない。では、これからどうしたらいいのか?
昨日だったか一昨日だったか、国会で菅首相も岡田外務大臣も、小泉政権のイラク開戦支持について「将来、検証する」といった。「将来」ではなく「早急」にすべきだ。
自民党・公明党政権では決してこういうことはしないだろう。政権交代とは、こういうことなのだ(ちなみに民主党政権が長期にわたれば、私は自民党を応援することになる)。

イラク戦争についてはあのイギリスでさえ独立調査委員会で検証し、その時の首相ブレアを証人喚問して、「間違いだった」との結論を出している。  
日本もできるだけ早く検証した上で、海外派兵をしない国として再出発し、世界平和に貢献していくことが我が国の進むべき道であろう。それが原爆犠牲者、戦争犠牲者から引き継ぐべき私たちの義務だと思う。



運動公園の手入れ日

2010年08月02日 09時47分40秒 | Weblog
2010年8月1日(日) 記

今日は区の行事の1つ、朝6時からの『運動公園の手入れ』日。
「手入れ」といってもその殆んどは草刈りです。

我がY区には5つの『組』があります。それを東西に分けて東組、西組としています(すなわち○○組と△△組をあわせて東組、私のS組と□□組、☆☆組をあわせて西組とぶ。ここに来た当初、これが全く理解できず、S組などと同じくこんな組があるとばかり思っていました。今となってはなんて言うことはないのですが)。

『運動公園の手入れ』は夏の間に2回あり、今日は西組の担当というわけです。東組はすでに終わっています。
今回は2週間後の『盆踊り大会』のための手入れ、ということです。

運動公園というとなかなか響きがよく、立派なもののように聞こえますが、実は分校跡の運動場です。ここは区すなわちムラの中心部にあって、盆踊り大会、区民運動会などが開かれます。
入り口部には『心のふるさと わがY分校跡』(だったかな?)という金属製の小さなレリーフがはめ込まれている石の門柱があり、敷地内には古い木造の講堂(兼体育館)が残されています。この風景がなんともいえない山村そのもの…と私には感じて、大好きな場所の一つです。

これは私だけの印象ではなく、どこでどう知ったのか一昨年、日大の映画学部がここを気に入って、ロケに使いました。1週間か2週間の滞在で、もちろん村人はボランティアや炊き出しをしたそうで、残念なことに私は仕事で見ることもできなかったし協力もできなかった。後日、何かでムラの寄り合いがあったときにその試写会を希望したものの実現できませんでした。

さて朝の6時からということなので、遅れないようにしなくてはなりません。なにしろ皆さん朝は早い。普通の平均起床時間は5時でしょう、きっと。なにしろこの時間からムラは動きはじめます。電話もOK。農作業は勿論OK。

私も5時起床。
表に出るとすごい霧。150mほど離れた向かいの家もはっきりと見えません。これがまた、真夏の早朝そのものといった感じで、実にいい気分。我が区は北アルプスを源流とする犀川に接しているので、川霧の発生が実に多い。
少し高いところから我がY区を見下ろせば、まるで大分の湯布院のごとくすっぽりと霧の中に入っていることでしょう。数年前、農協で野菜の集荷のアルバイトをしている時、高く走っている県道からこの風景を見た時の感動。これを思い出しました。



上の写真、赤い屋根が講堂兼体育館。背の低い植生はかつての校庭の植生で、そのまま残されています。
下の写真は作業が終わって家路に着く途中です。時刻は6時55分。霧も随分晴れてきました。