信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

『山神講』  再び

2010年04月25日 10時18分06秒 | Weblog
                                  4月24日(土)

お久しぶりです。
一昨日(木)、昨日(金)と寒い冷たい雨。今朝など0℃でした。
でも、りんごは若葉が出かかっているのに、剪定はまだ半分というあせりもあって、昨日は氷雨の中、りんご園に行って2本だけですが、剪定してきました。
今日は気温は低いものの、よく晴れて気持ちのいい天気です。寒さのためかサクラもまだ散らず、モモは満開に近く、前回『パステルカラー信州』と思いついた言葉を言いましたが、今日など外を車で走っていると「言い得て妙」と、自分自身感心しています。春真っ盛りの信州の観光キャンペーンとして『パステルカラー信州』は使えないかな、と思います。
                 
   
さて前回、『山神講』のたよりをしてから以降、もう少し詳しい内容を書けば良かったかな、と今だ心に引っかかっています。
というわけで、今日の便りは面白くないかもしれませんが、山の神講についてもう少し書かせてください。

山の神を祭る日は、明治以前の旧暦の時も、新暦になってからも4月17日です。信州は比較的旧暦を大切にしている土地柄で、例えば今でも「月遅れの桃の節句」「旧正月」という言葉をよく耳にしますが、わがS組山神講は、安政の頃も平成の今も4月17日となっています。旧暦、新暦には約1ヶ月のずれがあるのですが、このあたりの調整はしていないようです。

ところで、なぜ4月17日なのか?
山仕事が始まる前で田んぼや畑仕事に差し障りのない時期、ということでしょうか。あるいはなにかのいわれ、伝承があって、この日になったのでしょうか。興味深いことです。ただし、ここ10年程前から17日以降の次の日曜日となっていて、これは勤め人が多くなったので、致し方ないことでしょう。

このようなことは、私が今年当番になり古い記録を読める機会を得たのでわかった事でした。もちろんここで生まれ住んでいる人は、改めて意識することではないかもしれません。「よそ者」の私だからこそ興味を持ったことだと思います。そういう意味でも「よそ者」の視点は大切と自負しています。
写真は、わが家で虫干し中の『山神講』関係の古文書(こもんじょ)。おいおい読解して、面白いものは紹介していきます。
                   

これらの記録を読み返した折、ついでに最近の平成元年つまり22年前から今回までの当番と、講を出入りした人を整理して、その一覧表を作ってみました。
この一覧表から推察するに、平静になってからも元年から14年目でやっと当番が一巡しています。つまり14人が参加していた、ということです。

平成になったのは私にとって、あるいはこのお便りを読んでいる方々にとっても、つい最近のことと思う人も多いのではないでしょうか。この平成以降のわずか20年のうちに『講』の構成員が著しく減ってしまったのみならず、わがムラではS組を除いて他の4つの組では消滅してしまっているのですから、「消える」というスピードは思いのほか速いものと実感しました。
これは『講』についてですが、日本国中の中山間地にある多くのムラもいずれ「限界集落」から「消滅」へと向かっていくのが、案外想像以上に早いかもしれません。

次に当番の仕事について少し書いておきます。
『山神講』は日曜日の午後2時からなので、10時頃にS組公民館の掃除と食器類の用意、そして吹流しの掲出。たまたま公民館の近くにある実家に来ていたヒデヒコさんと出会って四方山話。その中で講への復活の話がでました。
12時すぎ、前々日に予約しておいたオードブルを町の食品店に受け取りに行き、あわせてウーロン茶やおつまみ、茶菓子、お酒を購入。
帰宅後すぐ、酒を持って『山神様』へお参り。
お参りの仕方は、御社(おやしろ)を清掃した後、酒の封を切ってサカキやイチイなどの常緑樹の小枝をビンに挿してお供えし、拝礼。となるのですが、私の失敗は、酒の封を切らずに1升ビンそのままをお供えしたこと。あとで教えてもらいました。

下の写真は、『山の神』と言われているもの。
上は不動明王さまに、中は阿修羅さまに似ています。下は棒状のようなもので、盗難にあってそのまま、と言う人もいれば、これがそう、と言う人もいるので、はっきりしたことは分りません。写真を公開していいのかどうか随分迷いましたが…。



いったん家に帰り、買っていたものと、オカンに作ってもらった「ツクシの卵とじ」「レタスとベーコンのサラダ」「野沢菜漬け」も持参して公民館へ。これが2時15分ほど前。少し遅く、他の人は数人すでに来ていました。
なお、あえてツクシを持って行ったのは、この近辺の人はツクシを食べないので珍しかろうと思ったからです。信州の人は『ゲテモノ食い』『山菜とキノコには目がない』と言われますが、ツクシは食べないと聞いて、不思議な気がしました。

皆が揃ったところで、お参りの報告と出欠の確認。この時、来年からヒデヒコさんが復帰することを披露すると、皆が「よかった、よかった。また賑やかになる」と大歓迎です。

次に来年の当番を決めます。
ヒデヒコさんが戻ってくると、平成元年からの順番からすればヒデヒコさんになるが、戻ってすぐに当番というのもおかしく、次の当番のマサカズさんと交代すればどうか、との意見も出て、結局彼の意向を聞いたうえで判断することに決め、私が意向を確認する、ということになりました。

続いて会計報告です。
オードブル 1,500円が2個。ウーロン茶や茶菓子などが1,492円。お酒が1,890円。
このお酒は本来、前回の『山神講』からの申し送りで2本買わねばなりませんが、2本だとかなり余ってもったいないので、家にある酒を1本寄付しました。案の定2本目は殆ど飲まず、です。皆さん、昔は随分飲んだそうですが。

これらの合計が6,382円。前年の繰越金が813円あったので、支出は5,569円。これを出席者8人で割ると一人当たり700円。残余の31円は来年の繰越とする、ということです。
計算も終わり、飲みだしてワイワイいっている最中に、ヤスヨシさんの分は?と某さんから疑問の声。この『山神講』は欠席しても当日の会費は支払う、という決まり=規則があるそうです。知りませんでした。
こういうことなので、ヤスヨシさんの会費分は繰越に回す、に決定。後日頂きに行くのですが、ちょっと苦手です。

以上が『山神講』のおおまかな流れです。
ながながと、皆さんにとって迷惑かもしれませんが、私の胸のつかえがなくなりました。読んでくださって、ありがとう。

話はとんで、今日4月24日(土)は、ムラのお寺「光明寺」の『大般若会』です。2年前S組の組長をしていた時や、休みには参加していましたが、今年は仕事で欠席です。この報告は光明寺というお寺の紹介と共に来年にいたしましょう。皆さんにご報告できる話がいくつかあります。
写真はS組の組長として参加した時のものです。今は小さな「お堂」のようになっていますが、ご本尊は釈迦如来さまだったか、お薬師さまだったか。左のお堂が、お寺です


奈良県桜井市の長谷寺(真言宗豊山派)の末寺です。その昔、割と大きなお寺だったそうで、「大般若経」全巻が揃って木の箱に入っています。私も、バラバラバラ(大般若経を読んだことになります)とやりました。

明日25日(日)は朝6時から町内のゴミ拾いです。出欠は任意(ここでいう町内とは、地区といった方がぴったりします。我がムラのようなものが16,7集まった地域で、かつては独立した村から町になりそして長野市に吸収合併されました)。
参加できるかどうか。参加したいし、すべきなんですが…。
小さなムラもなかなか忙しいです。


追伸
「ようよう246」さん、お便りありがとう。気がつくのが遅く申し訳ない。
古い御柱がどうなるのか、気になさっておられたようですね。
わがムラでは丸太になります。これを知って私も少なからずショックでした。だって「里に下りて神となる」とか「神の御柱 国柱」と木遣りで唄われているのに、役割を過ぎた、ということであってもあまりにもその落差が大きすぎて。
一方、諏訪の御柱は違うようですよ。下の写真は某会社の玄関フロアに飾ってあるものです。これは前々回の御柱(つまり12年前の御柱)で、前回に新しい御柱が建てられたのちこのような形で残されたものです。これがいいですよね。



参考になれば幸いです。またお便り待っています。

ほかの皆さんも、お便りお待ちしています。

ではまた。さようなら。

『山神講(やまのかみこう)』

2010年04月20日 23時47分34秒 | Weblog
                                4月20日(火) 記

『御柱祭』が終わってから、が違うし勤めがあるので普段はめったに会えない「先導」役を務めたノブオさんに、18日の日曜日、たまたま道で会うと、「あの期間中は仕事のミスが多くて、いまその後始末にバタバタしている」というほど、ま、皆さんハイな状態だったんでしょうね。その反動か私もいまちょっと気が抜けた状態です。

さて、今日は『山神講』のお便りです。
現在残っている文書(もんじょ)によると、この『山神講』は幕末の安政以前から続いているので、たとえお祭疲れがあったとしても、「今年は休み」という訳にはいきません。ましてや今回の当番は私ですので、絶対に。

今、信州の里は花盛り。ウメはほぼ終わりですが、サクラを初めとしてモモ、ナシ、アンズなどの果樹の花、レンギョウ、スイセン、菜の花、タンポポやイヌノフグリなど雑草の花々…。それに若葉のやわらかいグリーンも場所によっては彩を添えています。
待ちに待った季節です。信州が輝いている時季、といってもいいかもしれません。『パステルカラーSHINSYU』なんてキャッチフレーズを考えましたが、ぜひ旅にいらっしゃい。集落の中を歩くだけでも、信州を感じさせてくれます。
写真は善光寺平の南、東福寺という集落の今日の風景です。中央の車庫の裏が右写真のモモ畑です。



こんな時期に『S組 山神講』があります。
わが山里はまだ里のようにカラフルではありません。でも想像してみて下さい。
山道のかたわらにぽつんと建っている小さな小さな公民館の、玄関脇にはこの日のために掲げられた吹流しが時折の風にゆれ、枯木の林の背後には無限の青空が広がり、西に目を投じれば、白馬三山から鹿島槍ヶ岳までの北アルプスが真っ白い雪をかぶって聳えている…そしてホトトギスの声。

誇張でも、想像でもなく、まさにこんな中で毎年『山神講』が開かれます。今年もそうでした。『講』に入らないか、と誘われて6回目。移りやすい春の天気なのに、『講』の日だけはずっとこんな天候が続いています。「講がきたなぁ。春がきたなぁ。嬉しいなぁ。いいなぁ。」と毎年思います。

                  


上の写真に写っている崖の、中腹に祀っている『山の神』さまに、当番なので代参に行って「山仕事で事故が起きませんように。野良仕事で事故が起きませんように。どうか皆が無事、この1年野良仕事に励めますように」とお願いしてきました。

この崖はオーバーハング(ひさし状)になっていて、その奥まったところに三つの祠を安置しています。
                    


人が多く、農業も元気だった頃、この崖下まで水田が開かれており、『山の神』さまを仰ぎ見れるようだった、といいます。それに水田のアゼを伝わっていくと簡単にお参りでき、毎年曜日に関係なく「山の神さまは4月17日」だったため、小学生たちは学校が終わると飛んで行ってここに集まり、大人たちに混じってご馳走を食べて楽しんだ、と我がの仲間たちは懐かしがります。『山の神』さまの前で、大人たちは仕事の安全を祈念しつつも酒や煮しめを楽しみ、子どもたちもその前で遊びまわる姿を想像すると、山里の人々はなんと神々と近しい関係だったろう、と思います。

でも今は水田の姿はとどめているものの、ササや藪に覆われてしまって、おいそれとその場所へは近づけられません。その分、神々が遠くなってしまった。でも、我がムラには5つのがありますが、未だにこの『講』を続けているのはわれわれS組だけです。

今日はどういう訳か、随分と情緒的なお便りになってしまっています。ま、ご勘弁を。

普通『山の神』というと「おんな神」で、大阪在住時、私が見聞した限りでは男性器をかたどった像を作ってこれを拝する、ということでした。(奈良県吉野の某村の某所(盗難防止のためにあえて隠匿します)の山の神さまは、それはそれは立派な2m近い木造の男性器そのものでした。そこに注連縄─シメナワを掛け人々が拝む姿は、横で見るとこっけいといえばこっけいですが、でも立派で、それだけを見に吉野に行きたいくらいです)。

ここ信州のわがS組の『山の神』さまと言われているものは3体あって、ひとつは明らかに不動明王さまのお姿。二つ目は3面像で阿修羅さまのよう。残るは1本の棒みたいです。これはある人は「像が盗まれた」と言ってるが、盗まれるのなら3体とも、と考えるのが普通。この棒は男性器とも考えられなくはないが、カタチからして少し不自然。またまた宿題ができてしまいました。

『講』のメンバーは、S組10世帯中7世帯。加えてかつてS組に住んでいて今は近くに転居したけれど、まだメンバーにとどまっている人が2人で合わせて9人です。しかし、しかしです。来年から復活する人が出てきました。嬉しい限りです。


この日吹流しを上げるため、古い木箱を開けてすこしガサガサすると、でてくるわ、でてくるわ古い文書(もんじょ)が。講員の了解を得て家に持ち帰りました。今日のこのお便りの冒頭に書いた「安政」も、その時代の文書があったからです。
昨年までの人は、こうしたものに興味がないのでそのまま埋もれていたのですが、私は興味津々。早速解読しようと試みたのですが、まずは虫干しの必要あり、です。木箱をひっくり返すと虫がぞろぞろ。一部文書も虫食い状態です。

同じような文書が多い(当然です。年は違っても同じことをやっているのですから)ですが、興味深いものはおいおい紹介していきたいと考えています。
私にとって刺激のある、「信州のちいさな山里」です。

この『山神講』の当番話。失敗もあったのですが省略。
じゃ、また。

ちなみに下の写真は、山の神様からみた我が家。こうしてみると山深い所のように見えますが、そうでもないんですよ。
                       
             

『御柱祭』 第10報 「里曳き」の3と「建御柱(たておんばしら)」

2010年04月18日 02時08分53秒 | Weblog
                               4月17日(土)  記

朝起きると相当な積雪。つい数日前、車を雪用タイヤから夏用タイヤに履き替えたばかり。今日は仕事なので、県道まで下れるかどうか心配でしたが、ままよ!
雪帽子をかぶったサクラを見ると、案外ピンク色が着いているのですね。白に近いと思っていたのですが比べると分ります。

この時分の雪は長野でも30数年ぶりとか。リンゴ、モモ、ナシが心配で、県やJAは農家に対し、防寒対策を講ずるよう広報に懸命です。ブドウはまだ芽が出る前なので大丈夫のようですが。

『御柱祭』についてお便りしたいことが山とありますが、もうそろそろ終わりにしなくてはなりません。写真を多めに貼って、今回で終了とします。明日は『山神講』があって、当番が私。これについてもお便りしたいですから。

さて休憩終了後、一気にお宮へと進みます(15:00ころ)。
石の鳥居をくぐるところです。この小さな女の子の方が御柱側で、綱方はずっと上まで続いています。何人いるのでしょうか。




上の写真は、お宮への石段への取っ掛かりのちょうど横に御柱を導いているところです。横に寝ている丸太は、摩擦抵抗をなくすため。つい1週間前までは、これが『御柱』でした。御柱の先でかがんでコロを入れているところから先は、幟旗の立っているところから水が滲み出ていて、足元がぬかるんでいます。
このお宮はムラの中でも比較的高いところにあるのですが、水が湧き出てくるのが不思議です。地下水脈はどうなっているのでしょう。
幟旗の文字は、ずっと昔農林大臣だった倉石忠雄氏の書。こうして写真を見ると、普段何気なく見ている鳥居や石柱がいかにも「権威」然と見えてくるのが面白い。

ここが最大の難所。勾配角度は何度かわかりませんが、人間も四つんばいにならないと登れないくらいです。ともかく皆で力をあわせて、御柱の先端を丸太に接近させようと力いっぱいです。私は写真を撮りたいばっかりに、持ち場から離れました。



次にワイヤロープをかけて御柱を浮かし、浮かした状態で綱方が引っ張りあげます。ワイヤロープをかけるのは安全確保が第一。そして人数不足ですが、安全確保は最優先です。



境内に引っ張り上げたあと、御柱を建てるために引き起こし用の綱と安全確保のためのワイヤロープ、そして調整用のロープを左右に掛けます(16:00ころ)。



同じ日、千曲市のある神社で『建御柱祭(たておんばしらさい)』の最中、ロープが切れて一人が死亡、3人が重症を負った事故が起こり、地元新聞やTVで大きく報道されました。後日オカンの知り合いにこのムラが実家で事故に直面した人がいて話を聞いたそうです。
我がムラでも何回か前、御柱を立てている最中、柱に乗っていた人が落ちて瀕死の重症を負い、その後働くこともできず大変だった、ということもあったそうです。
背後に見えるはしごから、その高さがうかがい知れることと思います。



御柱を少し持ち上げ、御幣を取り付けます。取り付けると綱方が綱を引き、御柱を立てていきます。

立てている最中に何が起こっていつ倒れるか分らないので、14,5mの範囲には人を入れず、左右のロープ捌きとともに細心の注意を払いながらメインの綱を引いて立てていきます。


柱を穴に落とし込み、立ち上がると、それが垂直になっているか確認し、古い大きなケヤキの枝に、御柱の上部をくくり付けます。これはもちろん倒れないようにするため。そして私たち「梃子」衆が、穴の中に土を入れ『胴突唄』を唄いながら土を固めていきます。

「やーあーれー やーあーれー 今日の御柱 めでたい柱― 枝も栄えりゃー 葉も茂るー …」

なかなかいいところです。このあたり私も一緒にやっていたので写真を撮るような余裕というか、冷静さというのか、そんなものはありません。唄は労働から生まれるとも言われますが、まさにそのとおりで、いい雰囲気の中で皆が一体となっていました。

とその時、あるお年寄りがわれわれの側に来て、突然大きな声で
「ハアー 深山(みやま)の奥の大木がー  ハアー 里に下りて神となるー」
と唄い出したのです。これは『木遣り』で今唄う所ではないんですよ。今は『胴突唄』ですよ、と、皆さん唖然。
でも誰も止めたりはしない。幾分苦笑はしていたものの、充分に唄ってもらいました。「梃子長」は笑いながら冗談とも本気とも取れるように「あとで酒1本でも持っていってお礼を言わなくっちゃ」と言う。

ムラの人は温かい。
それに、体が思うように動かなくなったけれど祭りに参加したい、というこのお年寄りの気持ちがわれわれに直に伝わってきて、誰も迷惑とは片鱗も思わなかったのではないだろうか。そういえばこの方、知り合いと話しているとき「今回が最後のお祭りになるから」と言うのが聞こえてきた。この方が力いっぱい、大声でうたう唄を聞きながら、私にはなぜかしら、小さなムラで生まれ、生き、そして一生を終えようとする幸せな「絵」が浮かんできました。
さあ、これで「建御柱竣工」。千秋楽となります。

「御幣」が「ハァー 千秋楽にて お目出度いー」と唄い、続いてお祓い神事です。


これで一般的には解散なのですが、このあと主だった関係者(先導、各組の氏子総代の6名)により神殿内で祭典が開催され(17:00ころ)、お神楽も奉納されます。
神主さんとこれらの方々を除き、残り全員は「直会(なおらい)」が始まる18:00まで、公民館で待機です。

直会ではいつものように挨拶、乾杯、お酒をさしつさされつで盛り上がります。
そして終宴に近いころ、いつものように「北信流(ほくしんりゅう)」の開始です。初めてこれを見たときは感激しました。オカンも同様で、胸がこみ上げてきた、と言っていました。
「北信流」については、いつか詳しくお便りしますが今日は簡単に、「役を果たした人に感謝や慰労するためにお杯(「おさかずき」、または単に「ごはい」という人もいる)をさし上げることなのですが、このときに謡(うたい)を謡いながら儀式を進めることを「北信流」と言うそうです。県北部の習慣だそうです。

この謡には、ススムさんが指名されました。
ススムさんは、「返杯があるのか、ないのか」と確認すると、
「三吉野の。三吉野の。千本(ちもと)の花の種植えて。嵐山あらたなる神遊ぞめでたき。この神遊びぞめでたき」と謡い、参集者の中から選ばれた人がお杯を差し上げます。


謡が終わったあと、私はススムさんに今のは何ですか? と伺うと題名も一緒に丁寧に教えてくれました。(次の夜、「教えた題名が間違ってた。『嵐山』だった。」と丁寧に訂正の電話までいただきました。恐縮です)。

これで我がムラの『御柱祭』は無事終わりました。小さな名もない、なんの特産品もない、ごくごく普通の山に囲まれたムラで行われる祭り。
結局ワタアメは食べれなかったけれど、充実感に満たされ、ワクワクした数週間でした。
そしてこの祭りを通して、個人的には「Yムラは、あるいはS組は、より一層私の『第2の古里』」という思いを深化させるとともに、どんな経済理念や政治の論理を持ってこようとも、ムラは絶対につぶしてはいけないものであること、都会にはない固有の価値観がまだまだ生きており、それがいつかは再評価されるに違いないと一層確信できたこと…等々。言葉で表現するのは内山節(うちやまたかし)の哲学に任せておいて、私はこれからも孤立した「農ある生活」でなく、ムラ中で、ムラ人とともに、ムラ人として「農ある生活」を全うしたい。」その想いを深くしました。

『御柱祭』最後のお便りなので、割愛したのも随分ありながら長くなってしまいました。
この便りを読んでくれているあなた。好きなムラを見つけて、その中で気に入った木に名前をつけて、春夏秋冬ちょくちょく行って、より一層好きになってください。
ちなみに大阪にいる頃の私の好きな村は黒滝村でした。

じゃ、また近いうちに。
そうそう明日の日曜日は「山神講(やまのかみこう)」。山の神様をお祭りします。

『御柱祭』 第10報 「里曳き」の2

2010年04月15日 23時38分06秒 | Weblog
                                4月15日(木) 記

いやいや寒いですね。皆さん、体調は大丈夫ですか?
13日(火)の温かさが嘘のようです。
この日はわが家のヤマザクラ、午前中はまだ蕾だったのですが、午後、文字通り『見る間に』花開きました。長野市内(善光寺裏の城山公園)のソメイヨシノは満開になったそうです。

ところが、次の日は最高気温が11℃。今朝目が覚めた5時過ぎには積雪があり、午前中は雪で最高気温が5℃。寒い、寒い。「今は冬だ」という気構えを脱いでしまったので、寒さがこたえます。

さて、『御柱祭』のご報告、まだ途中でしたね。少々間が抜けると思われるかもしれませんが、諏訪ではまだやっていますので、ご勘弁を。
たしか前回はお寺を出発したところで終わりました。


画面では停止線の引かれた道が、そのまま緩やかな傾斜でまっすぐ長持の人まで下っているように見えますが、実際は画面右端までいき、左急カーブして樹木の間を縫う幅1ヒロの旧道に続きます。
写真に綱方がいるのは、民家の庭。長いために御柱を道に沿わせず、長持のいる方向にむかって小さな崖に落としました。ここからは作業をしながらの写真撮影は危険なので、これからは小休止や様子見の時にのみ撮ります。従って写真ではあまり動きが感じられないかもしれませんが、そういう事情ですので悪しからず。


上の写真は崖から降ろした御柱を、「梃子」が旧道(奥に行く道)に沿わせている時の写真です。

目的の場所まで引っ張り降ろしては、「梃子」が方向を変え、向きを変えた綱に綱方が取り付いて、また引く…この繰り返しです。

片側が家先、反対側が樹木に挟まれた旧道を慎重に進めながら降りてきて(実はほんの少し、2~3個、石垣の石を崩してしまいました)ホッとしたのも束の間、道肩にはまり込んでしまった時の写真です。
このあたりは『立道坂(たちみちざか)』といってそこそこの傾斜があり、梃子も綱もうまくいけば素直にまっすぐ降りていくのですが、速度がでる反面ちょっとのことで道肩にはまってしまいます。

それにしても、いまだ枯れている早春の山里の風景はいかがですか。

立道坂を降りきったところで直角に曲がります。御柱の前方はガードレールで、後方は写真のとおりです。「あと20センチ、あと5センチ。後ろを浮かせて!」の指示のもと、綱方は道路下の田んぼに降り、梃子はテコを操ってこの角を乗り切ります。こういうところも醍醐味です。他の人と一体感を感じる場所であり、作業でもあります。


公民館に到着して、しばし休憩。
休憩中にお酒、肴、菓子、茶、ジュース類が参集者全員に接待されます。私もここで酒を小さなカップで4、5杯頂いたでしょうか。何しろ酒が美味い。それにメザシやサンマの干物。
その間、長年祭りのたびに多大な寄付やお供えをしているこのムラ出身のUさんへ、感謝状を授与。このメザシやサンマの干物もUさんから。

感謝状や褒賞状もいろいろあるけれど、自分の生まれ育ったムラからの感謝状、自分の古里(ふるさと)からの感謝状ってすばらしいと思いませんか。ましてや、皆を集めてその前で授与というのでなく、写真にあるように、ごく自然に…っていったところが。
私はこの光景を見て、Uさんの古里を思う気持ちに涙が出てきました。このムラに来てまだ6年の新参者ですが、心からお礼をいいました。

「若者がムラから出て行くのは魅力がないからだ。若者が残りたいと思うような努力をしないからだ」とぬけぬけと言い放って地方を切り捨て、今は月100万円のホテル住まいと噂されている某元首相と、人材派遣の悪法を作って今は、その人材派遣会社最大手の会長になって高い報酬をむさぼっている某元大臣とは対極に位置するUさん。どちらが尊敬に値するのか、人間としてどちらが立派であるのか。
この便りを読んでいる若い君には、ちょっと心の隅においておいて欲しい。こんな生き方もあることを。

一方、分校の運動場(今は運動公園と言っています)では、婦人方による踊りです。
高齢化、高齢化といってもさすがご婦人、やっぱり華やかになります。踊りは『さくら』と『Y音頭』の2種類だけ。
この『Y音頭』。なかなか優雅な踊りで、なんとしても覚えたく、男子1人、踊りの中に入っていきました。

この休憩が終われば、お宮まで引き上げねばなりません。これからも大変です。
じゃ、また。

『御柱祭』 第9報 「里曳き」の1

2010年04月13日 01時49分43秒 | Weblog
                                4月12日(月) 記

12時少し前に、お寺(第2公民館)に到着しました。雨も小休止、といった感じですが、空はどんよりと厚い雲がかかっています。

到着するなり、お神酒のふるまい(ふるまい、といっていいのか)。
お神酒を美味い、というのはおかしいけれど、うまいんだなぁこれが。大阪では全く飲みたいとも思わなかったし、飲めなかったんだけれど、ここに来て酒飲みになってしまった。酒飲みの私、もちろんお替りしました。

カップ片手にお互いが「本日はおめでとうございます」と挨拶しあって、集まりの輪がだんだんと大きくなっていきます。腰が痛い、と普段めったに外出されないお隣(と言っても2~300mは離れている)のカズヨシさんもお祭り半纏を着て来られた。クルマの運転はできないし、歩くのも大変そうだし、ここに来る前に声を掛けてあげればよかったと反省です。

「胴突唄、唄ってらしたんですね。一度聞かせて欲しいです」「いや、情けない話だが、体が動きにくくなったんだが、こう言っちゃなんだが、さえずるほうはなんだが」と、独特の話し方で盛り上がる。誰もが徐々に徐々にハイになっていく。
一方、オカンは「ウチの息子と、お嫁さんです」と知り合いに紹介している。2人はぺこんと頭を下げたりしています。「ああ、いいお嫁さんや」。なんかホントにふるさとに帰ってきたみたいな気分です。

子どものころ、おふくろの実家に行ったとき「わたい(私=河内弁です)の子ですねん」「ユッケ(ゆきえ)ちゃんの子かいな、しっかりしてるなぁ」といろんなおばさんに声を掛けられた半世紀以上も前のことを、思い出しました。
大阪と長野と場所は違っても、また50数年の隔たりはあっても変わらない、祭り半纏を着せられた小さなこどもを取り囲んであちらこちらで見られる、実家がある田舎での風景。親のふるさとの温かい風景です。
この子どもたちが幾十年経ったあとの『御柱祭』があるたびに、あるいはお神楽の太鼓のテケテケテケという音とともに、このことを思い出すでしょう。子どもたちにとってもこういう場所があるということは、本当に本当に幸せなことです。

さて、息子たちに曳行のコースを説明したり、知り合いと話しているうちに、花火が上がりました。そして
「ハァー 皆様ひとえに お願いだー
 ハァー 勢揃い 勢揃い 勢揃いー
と「御幣」が唄いだすと、オカンも息子夫婦も目がテン。だって初めて見たんだから衝撃だったろうと思います。青い半纏に赤い襷(たすき)という色彩の中に、「御幣」長のヒトシさんの特別な黒い半纏のコントラストがなんとも美しい。それに御幣の動きが加わって、木遣りの声が響き渡る。



集まってきた大勢の人も、「山出し」などで経験している私でさえ、釘付けです。
まさにこの一声は、『お祭りの始まり!』って感じです。

その隙間を狙って記念写真。



はじまりました。
まずは先導の長(区長)さんによる挨拶。
次に当番総代のノブオさんによる、諸注意。この人は独特の発想でものを言うヒトです。聞いていて時に「へぇー」と思ったり、「え、こんなこと言っていいの」と思ったり。でもムラ人は寛大というか鷹揚というか、聞き過ごしてる、というか。

今回の挨拶は「へぇー」でした。この御柱の重さについて語ったからです。「これは、私が計算して、私の想像なんですが、この御柱は1,200kあります。ですから100人で引っ張っても動きません。みなさんの協力をよろしくお願いします」。 
実は重さのところがはっきり聞こえなかった。1,200tとも聞こえた。これは違うだろう。でも実際のところ重さはいくらあるのだろう。正確な重さを知りたい。

次に神主さんによるお祓いです。



初お祓いだから『始祓(しばつ)』と言うんだそうです。後ろにいたススムさんに教えてもらいました。この方は何でも実によく知っている。この頃から風が強く吹き始めました。「風が吹いてきた。天気がよくなるよ」と、どこからか声。

それなりに厳かな儀式が進行して、最後に神楽(かぐら)の奉納です。
神輿(みこし)があって、獅子舞があります。
最初ここに来た時、『神楽』と聞いて島根の神楽や剣舞を連想していたのですが違ってたので、私の興味の虫が蠢(うごめ)いて、前々から調べたいと思っています。勿論まだなんですが。

でも、小太鼓と笛の音(ね)がリズミカルで、本当に心地いいです。
ここでは、獅子のコミカルな動きや、赤ちゃんや子どもの頭をがぶりと噛んで、健やかな成長を願う、というのは見たことないけれど、見ていて飽きないです。獅子をかぶっていたマサカズさんやナオカズさん、ご苦労様。

神楽が終われば、さあ『御柱』の里曳きの始まりです。
先導が発ち、次に神楽が発ち、続いて長持も出発です。
「梃子」方の各人ができるだけ細いテコを選んで手に持ちます。御柱に結び付けられていた太い綱が、進む方向に長く伸ばされます。
息子もつれあいのサオリちゃんも、そしてオカンも綱を掴みます。すぐそこが急カーブで坂道。以前ここで御柱が落下したところ。



「御幣」が
「ハァー 皆様ひとえに お願いだー
 ハァー 綱に取り付き お願いだー
 ハァー 梃子方様やれ お願いだー
 ハアー 綱方様やれ お願いだー   」

「よいさっ」で「梃子」方が御柱を前に送り出します。
綱方が引きます。
御柱が「ず―っ」と動き出します。

さあ、待ちに待った『里曳き』が始まりました。

続きは次回に。じゃまた。

『御柱祭』 第8報 前日の直前準備とお祭り当日

2010年04月11日 10時11分29秒 | Weblog
                                 4月11日(日)記

朝起きると細かい雨。うーん。
ヤギのナナちゃんに朝の挨拶にでると、家の前の大きなヤマザクラの蕾がピンク色に膨らんでいます。昨日の暑いくらいの気温と、今日の暖かな雨で一気に進んだのでしょう。
いよいよお祭本番の今日を迎えました。

その前に昨日、4月10日(土)の「直前準備」について、少しだけ報告しておきます。
ここに参加するのはほんのごく一部の役員さんや、受付、接待、救護、来賓接待係の人のみで、私は行きません。何をするのかというと、御柱を立てるために掘ってある穴が崩れていないか、滑車やワイヤロープを忘れていないか、見学者路肩駐車場所の確認などです。

いただいているペーパーによると、係ごとでは
建方(建方2名全員 梃子5名 綱方2名)…お宮にて御柱建機材の取り付けなど
お宮祭典(氏子)…祭典用供物の準備と幟(のぼり)建て
受付係(担当者全員 人数不明)…机、奉加帳、受付札などの準備
接待係(9名全員)…樽酒、その他接待用品の準備、里曳き出発時の確認、準備(詳細不明)
救護係(2名全員)…机、救急用品等の準備
来賓接待係(4名全員)…公民館内に机、清酒、つまみ等の確認、準備
本部接待係(2名全員)、来賓接待係、救護係…奉納された魚を焼く担当となるのでバーベキューセット、炭、皿、箸等の準備。
などです。


さて『お祭り』当日の今日、朝8時30分、お宮が開錠されたはずです。

離れて住む息子・娘夫婦が子どもたちを連れて帰ってきます。ムラから出て行った人も帰ってきます。普段は離れているムラ人の親戚、身内も来るでしょう。また近隣から見物人もきます。前回は500人もの見物人が来たそうです。普段は静かなこのムラの「数え7年に1度」のハレの日です。久しぶりに人で賑わいます。かつては小さなムラのこの祭りには露店もでたそうですが、今日はどうでしょう。もしお店がでていたらワタアメを買いたい。

穏やかで、なごやかな山里。そこに住む名もなきひとびとが営々と土を耕し、子どもを育て、そして守り続けてきた『お祭り』。

12時ちょうどに4発の花火が上がって、私たちの『Y神社 御柱大祭』の開始です。
私たち家族4人も「お祭り半纏」を着てタスキを掛けて、「梃子」の私は地下足袋を履いて、軽トラの荷台に3人を乗せて、さあ出発です。

『御柱祭』  第7報 総練習日

2010年04月11日 10時07分57秒 | Weblog
                               4月10日」(土) 記

『御柱祭』もいよいよ明日となりました。
今まで御柱について、ずいぶんお便りしてきましたが、いよいよ佳境です。

旧御柱の撤去や各役割の練習風景などは、おもてからではなかなか見えません。やはり当事者でないと分らないものですので、ある意味、貴重な報告ができたんじゃないかと思います。またこうしたことをお便りすることが私自身に観察力を与えていただいています。それに加えムラの人々に質問することによって、ムラ人自身が自分たちの「文化」への見直しにつながるのではないか、とも思います。
私が質問すると、記憶を呼び起こそうとしたり、分らないことは他の人やお年寄りにも聞いています。
あるとき私の質問そっちのけで、仲間とムラの活性化について話しこむということもありました。

さて、4月4日以降の動きも簡単にご報告しておきます。

4月8日(木) 19:30からは、「御幣」「長持」「梃子」「拍子木」「綱方」「踊り」「神楽」のすべての役割で最後の練習がありました。

たまたま私は仕事が休みで、リンゴ畑から帰ってすぐ駆けつけたので、珍しく最初から参加できました。
といっても私のこと。第2公民館というのを間違えて(第1)公民館に行ったのですが、そこでは並べられた座卓の上にご馳走がずらり。どうも男ばかりの練習場とは雰囲気が違う。
とそのとき準備していたあるご婦人が「ここは女性ばかりですよ。ま、入るのならいらっしゃい」。
この年になっても恥ずかしくって、ほうほうの体で退散。第2に向かいました。

途中、分校の体育館でご婦人方が踊りの練習をし始めているのが見えました。

この踊りは祭りの日、里曳きが公民館前まで来た時に一旦休憩があるそうですが、そのとき酒肴のふるまいとともに「長持」や「踊り」が接待のために踊るようです。
オカンに聞くとムラのオリジナル「Y音頭」(優雅ないい踊りです。盆踊りでも踊ります)と「さくら」。息子のお嫁さんも茨城から参加してくれるので、嬉しいですね。

ということで、各役割とも最後の練習。練習の総仕上げも終え、慰労会となりました
慰労会には今まで見たことの無い人も大勢います。隣に座ったマサカズさんに聞いても「初めて見る人もいる。誰かの娘の婿だったり、帰ってきた息子なんだろ」、ということでした。

こうして祭り3日前の総仕上げが終わりました。

じゃ、また。

『御柱祭』 第6報 旧御柱の撤去と里曳きコースの整備

2010年04月10日 06時29分51秒 | Weblog
4月9日(金) 記

いよいよこの便りも、1週間前の4月4日に行われた旧御柱の撤去…まできました。猛追です。

さて、公民館前での集合は、いつものとおり午前8時。
参加者は氏子全戸から。となってはいるものの、そんなに強制的、というわけではありません。

例年ならこの日は『道普請』の日となっていて、冬に痛んだ道の整備や清掃、道に覆いかぶさった竹木の伐採などを全戸から人を出して行うのですが、今年は延期。
ここでいう『道』は市道のことで、ま、都会の人にとっては「市道」の整備は市の責任でやるべきじゃないのか、と考えるのが常識。しかしムラでは自分たちがやるのが当たり前なのです。
この『道普請』を休むと、『出不足金』(半日 男性2,000円だったかな? 4,000円だったかな? 忘れました)を取られます。
 
『御柱』に戻します。
まずは総代の挨拶。続いて本日の作業内容についての説明がありました。
目的は、4月11日の祭りに向けての最終準備です。

女性は、第一公民館の掃除とタスキやハチマキ、手甲作り、です。
例えば「御幣」は赤、「長持」はピンク、「梃子」は黄、「神楽」・「拍子木」・「綱方」世話役は紫、と色分けするので、それらを作ります。
「御幣」は公民館から県道「Y入口」までの道路整備。
「氏子」役持ちはお宮の掃除や、拝殿、灯篭などの注連縄(シメナワ)の張替え。
「神楽」はお神楽の整備。
「長持」は当日かつぐ長持作り、と言った具合です。

実はこれらはどちらかと言うとサブ的な作業です。
メインは、「梃子」方による前回の(現在立っている)御柱の処理と、今回御柱を立てるための穴掘り。そして「綱方」・「拍子木」による里曳きルートの整備、でした。

前回の御柱の処理は次のように実施しました。
まず、御柱の根元に塩をまいて清め、

次に御柱の転倒防止のために頂部を太いケヤキの枝にくくりつけているロープを解く作業に入るのですが、これはわがS組のマサカズさんがやりました。



下から見ても高いのに、そらそうだ、13m近くはあるはずだ。上からではなおさら高く感じたと思う。下から見ている者も「安全ベルトを付けろ」というほどに、危険な作業です。
それが終わるとチエンソーで根元に切り込みをいれ、ロープで引っ張って倒します。倒した後、土に埋まっている部分の掘り起こし。これがまた大変。なかなか掘り起こせない。

人を代え、また交代し、歯がぐらついているのになかなか抜けない、といった状況と全く同じ。
ロープを掛けて多数で引っ張ってもダメ。まさに『木遣り』の「ハァー 白根生えたか 動かないー」だ。



やっと掘り起こすと、今回の御柱を建てる穴掘りに取りかかる。あ、そうそう土の中には91cm埋まっていました。したがって新しい穴掘りも、少なくともその程度は掘らねばならない。
「あまり、深く掘るなよ。7年先、みんな年寄りになって掘りあげるの、大変だぞ」なんぞ軽口をたたきながら作業を終了。ついでに社殿回りに積み上げられていた落ち葉や枯れ枝類も焼却処分。ま、これは寒かったから暖を取る目的が大きかったけれど。
そうそう、穴も単純な穴じゃないんですよ、溝を付けなければならない。これは、御柱がうまく穴の中に入るように、ということはもちろんなんですが、柱がおのずから穴の中で立ち上がるようにするための溝なんだそうだ。うーん、たいしたものです。

そして、倒した御柱はどうするのか?

前々から疑問に思っていたのですが、作業を見ていて驚きました。3m.ほどの長さに切った後、皮をはいで、ごく普通の丸太として使うのです。
これには驚きました。この木にはすでに「神聖」というか「神性」がない、ただの丸太扱いなのでした。

役目を終えた『御柱』には、なにがしかの「神性」や「ご利益(ごりやく)」があるものと思っていた私は、先導の1人に親しいノブオさんがいるので、彼に前々から「御柱を輪切りにして、家内安全、とか本願成就とかを墨で書いて、それを祭りの当日に売るか、寄付を出してくれた人に贈るかして、もっと活用したらどうか」と、提案していたのですが、大きなギャップを感じました。
でも、再度提案していくつもりです。

「綱方」・「拍子木」による里曳きルートの整備。これも他人事ながら大変な作業のようでした。神社のきつい階段横を引っ張り揚げるための草刈りや木馬のような階段作り。
それもこれも、数tもする御柱を神社まで引き上げるためなのです。



いずれの作業も予定の時刻よりかなり早く終えました。

作業終了後の慰労会。昼食として出てきたのはパン(1個です。念のため)。あとは酒、ウーロン茶に少しのツマミ。
私としてはパンの代わりに「おやき」を食べたかった。

じゃ、また。

『御柱祭』 第5報 唄の練習

2010年04月09日 11時48分43秒 | Weblog
                          4月9日(金)      記

今日、2回目のアップ。急ピッチでお便りしています。
前回の予告では『里曳きコースの整備…」について、ということでしたが、このお便りを書いているうちに「唄の練習」になってしまいました。いいですよ、ね。

4月3日(土) 19:30から、第2公民館で「御幣」、「梃子」、「長持」の3組の練習日でした。
「御幣」は3月25日から4月8日までに6回、「長持」は5回、「梃子」は4回、それぞれの唄を練習します。
「御幣」は『木遣り唄』を、「長持」は『長持唄』を、「梃子」は『胴突唄』を唄うことになっています。

私たちが唄う『胴突唄』を紹介します。
「やーあーれー やーあーれー(※)
 今日の御柱 めでたい柱ー
 枝もー栄えりゃー 葉も茂るー
 よいさんのーさんよいー
 よいさんのーさんよいー

 しめたりしょいの 
 柱にゃ鶴亀舞い遊ぶー
 宮は小判でこけら葺き
 よいさんのーさんよいー
 よいさんのーさんよいー  」

「しめたりしょいの」とは「梁や桁を背負っている」という意味だそうです。※印は「梃子長」のソロ。続いてわれわれが唄います。
どんな時に唄うのかというと、穴に柱を立てて土をいれ、テコ棒でその土を突き固めながら唄います。中間くらいに1回、更に土を加えて最後に2回唄うのだそうです。
本来この唄は、家を建てている大工さんが柱を立てるときに唄っていたということで、「梃子」長が持っているテープには、我がS組の大工さんだったカズヨシさんが吹き込んでいるそうです(まだ聞いていません)。

『長持唄』は次ぎの通りです。これは聞かれた方もいるんじゃないでしょうか。
「ハァー 今日はナァー 日も良し
 ハァー 天気も良いし
 結びナー 合わせてョー
 ハァー 縁となるナェー

ハァー さあさナァー お立だョー
 ハァー お名残おしや
 後のナー 親様ョー
 ハァー 頼みますぞェー

ハァー 蝶よナァー 花よとョ
 ハァー 育てた娘ー
 今日はナー 晴れてのョー
 ハァー お嫁入りだェー    」

「長持」が練習しているのを覗いて聞いたとたん、たった今まで練習していた「胴突唄」を忘れてしまいました(これは内緒)。
私には娘はいないけれど、この唄を聞いてグッときました。祝い唄なのですが、親の寂しさと哀愁が漂っているようで、感激です。それにしても娘、欲しかったなぁ。

「長持」長のチュウコウさん(タダタカさんを私はこう呼んでいます)が、「持って帰るか」とテープレコーダーを貸してくれました。家で何度も聞いたのですが、やっぱりいいですね。
私は、マイケル・ジャックソンやマドンナなどのポップが好きなのですが、これもいいですねえ。

次は「御幣」の『木遣り唄』。全文紹介します。
「ハアー 皆様ひとえに お願いだー
 ハアー 勢揃い 勢揃い 勢揃いー
 ハアー 綱に取り付き お願いだー
 ハアー 梃子方様やれー お願いだー
 ハアー 綱方様やれー お願いだー
ハアー お子様衆やれー お願いだー
ハアー お客様方ー お願いだー
ハアー 深山(みやま)の奥の大木がー
ハアー 里に下りて神となるー
ハアー 神の御柱 国柱ー
ハアー 十八娘に とめられたー
ハアー 無事に到着 お目出度いー
ハアー 白根が生えたか 動かないー
ハアー よいさ よいさで お願いだー
ハアー 千秋楽にて お目出度いー    」

これを全部一度に唄うのではなく、お宮に着いたら「無事に到着 お目出度いー」と唄うわけです。
この中で「お客様方ー お願いだー」とあるように、見物している人も自由に加わることができます。
いえ、ぜひ力を貸して欲しいです。なにしろムラには人が少なくなってきているし、急な坂が待っているので。

蛇足ですが、最初「お願いだー」と聞いたとき、ちょっと違和感を覚えたものでした。でも慣れてくるとこれはこれでいいですよ。

「長持」「御幣」「梃子」は同じ建物の別の部屋でそれぞれ練習です。
写真は「梃子」の練習風景。裸電球1つのところでやってます。電気の容量が小さいためなのですが、暖房も無くこの寒い暗いところで、酒を飲みながら大声を出して練習するのも、これまた一興。

じゃ、また。

『御柱祭』 第4報 「山出し」

2010年04月09日 08時01分51秒 | Weblog
                               4月8日(木)  記

4月11日(日)の『御柱大祭』まであと3日。昨日のお便りはまだ3月14日のことを書いていました。少し端折りますが、ともかく時系列でお便りします。

3月25日(木)の練習日は欠席しました。

3月28日(日)は『御柱山出し』の日。
午前8時、お寺(第2公民館と同一敷地内にあります)に集合です。
本来、『御柱 斧入れ 切り出し』をして『山出し』になるのですが、ワンクッションを置いて仮置きしていた、ということです。

『山出し』は文字通り、山から『御柱屋敷』(お寺)まで運ぶことです。したがって衣装も「祭り半纏」を着用し、「御幣(おんべ)」による『木遣り唄』が入り、「拍子木(ひょうしぎ)」によって拍子木をチョンチョンと打ち鳴らして調子をとっていき、「梃子(てこ)」方によって御柱をコントロールしながら、「綱方(つなかた)」が引っ張っていきます。

お寺から歩いて15分ほどの仮置き場所に到着しました。そして全員がスタンバイしたところで「御幣」による第一声が発せられました。
写真がこの場面です

(山出し、ということでまだまだ服装も、足元もばらばらですし、人も少ないですが)。
「ハァー 皆様ひとえにお願いだー
 ハァー 勢ぞろい 勢ぞろい 勢ぞろいー
 ハァー 綱に取り付き お願いだー
 ハァー 梃子方様やれー お願いだー」

この『木遣り唄』にあわせて、御柱をゆっくりと時には勢いづいて激しく曳行して行きます。文字通り『木遣り』の唄なんですね。

ここで諏訪大社上社の『木遣り唄』を紹介しましょう。
曳き出しの『木遣り唄』
「御小屋の山のモミの木は 里へ下りて神となる
 山の神様御乗り立て 双方御手打ち綱渡り
 男綱女綱の綱渡り 双方様ご無事で お願いだ
 綱渡り綱渡りだで お願いだ」
皆さんご承知の、木落としでの『木遣り唄』は
「ここは木落とし お願いだ
 綱ひきしめて お願いだ
 諏訪の曳き子の勇ましさ 心そろえてお願いだ」

わがムラでは「深山の奥の大木が 里に下りて神となる」とあり、似たところや同じところもあるのですが、同じ諏訪大社なのに違うんですねぇ。

13mもある丸太を動かすのは、なかなか大変のみならず危険です。思い通りに動かない、思わぬところではねる、急に片方に暴走する。ムラの道は細くて急カーブで傾斜がきつい。ましてや舗装された道はあくまでもクルマを通すための道であって、本来の道、すなわち旧道、人がすれ違うのがやっとという細い道を通らなくてはならないので、なおさら大変です。

「拍子木」が危険と判断すれば笛を吹いて止まらせる。「綱方」に頑張ってもらわなければならない所では「ハァー 綱方様やれー お願いだー」と「御幣」が『木遣り』で鼓舞する。そしてカーブでの方向転換は「梃子」方の腕の見せ所。

お寺が『御柱屋敷』になっていて、4月11日の『御柱大祭』までここに安置します。

このお寺の近くまでは根元を先に、樹冠の方を後ろにして引っ張ってきたのですが、『御柱屋敷』には頭(樹冠のほう)から搬入しなければなりません。ということは狭い道で13mを180度回転させなければならないということ。

お寺のすぐ上の三叉路で実行です。
「梃子」は必死。「綱方」は民家の庭に入らなければ引っ張れない。「御幣」も顔を真っ赤にして出せる限りの高い声を張り上げる。ズズッと御柱が動く。ガードレールに引っかかる。そこの電柱が邪魔。「おい、あと15センチ右!」「コロは使うな、危ない!」多くの人が、見物人さえも『船頭』になる。
「おい若いの、声を出そうぜ。オイッセ、オイッセ」と私も『小船頭』になる。

こうして無事にお寺に運び込めました。
ちなみに『木遣り唄』でカン高い声を出すのは、騒音の中でも皆によく聞こえるように、という意味があるのです。

4月11日の里曳きで綱をくくりつけるため根元の穴にはフジ蔓を通し(安全のためワイヤロープも通します)、御柱の周囲に縄張りをして紙垂をつけ、「奉献 Y神社御柱 祭日四月十一日」と墨書きした札木(?)を根元側に打ち付け、「梃子」方が使ったテコもひとまとめにして、これにも縄を張って紙垂をつけて神主を待ちます。

11時。神主の祝詞(のりと)から、儀式が始まりました。

残念なことに祝詞の内容はよく分りません。「ムラ中(なか)安全、五穀豊穣」とか聞こえたような気がしましたが…。
終盤で、神主が紙ふぶきとお米を混ぜたものを『御柱』に散らし、最後に全員で「2礼2拍1礼」をして儀式は終わりました。

これらの時間中、ご婦人方は分校跡の運動場で踊りの練習。オカンももちろん参加しています。


右上方に神社が見えます。
写真では低く見えるのですが、階段を登るだけで息が切れます。この階段の横を引っ張り上げるのです。
諏訪の御柱は木落としですが、我がムラでは「木揚げ」かもしれません。

このあとは、少し休憩を取って、ムラの通常総会と続きました。そして総会が終われば各役割それぞれが練習です。

ムラの通常総会について、この『山里だより』では欠かせないのですが、今回は割愛、ということでよろしいですね。
そういえば役員の交代にはつきものの『北信流』がなかったなぁ。やっぱりみんな、頭の中は「御柱、御柱」なんでしょうね、きっと。

あ、そうそう「御幣」について説明します。
写真で手に持っているものが「おんべ」。転じて役割も「御幣(おんべ)」と言います。一番手前に札木(?)のついているものが分りますか。里曳きでは10本使います。「おんべ」のひらひらしたものはヒノキを薄く紙状に削いだものを束ねています。
赤と青の色が付けられていますが、その意味を私の周りの人に聞いたのですが「分らない」ということでした。またどなたかに聞いておきます。

次回は4月4日(日)に行われた『里曳きコースの整備と旧御柱の撤去』についてお便りする予定です(4月11日の本番までに間に合うやろか?)。
じゃ、また。