信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

小さな集落の道祖神さまは190年!

2008年01月13日 11時18分27秒 | Weblog
さて今日は『道祖神まつり』の際に引き継いだ文書について。
外は雪が降っていて何も出来ませんので、じっくりと書きますから少々硬くなりますがご辛抱の程を。
そうそう、まずはムラについて少し説明しなければ。

ここは長野市○○町△△1234番地
で、△△は『区』として自治(時には行政)組織の単位となっています。都会で言えば町内会に当たるでしょうか。江戸時代末期から明治にかけては村でした。
この下に小字(こあざ)があって、江戸末期以前の村に当たります。これは一般的な住所表記では消えてしまっていますが、実はこれが日常生活の単位となり、私のような移住者があいさつ回りしたり、道祖神まつりや講(戸隠講など)の構成、山の神さまのお祭り、区への諸役員の派遣、道普請(道の補修や草刈)、ご婦人のおしゃべり会、農協の農家組合の単位などなどとなります。そうですね、町内会の中の『班』に近いかな? この『班』がふつう『ムラ』と呼ばれていて、例えば「同じムラの者は身内と同じ」といった具合。現在、区に6つか7つの組があります。
この『信州山里だより』ではたびたび出てくると思いますので、今後、区は『Y区』、ムラを『S組』と呼んでいきますので、覚えておいてください。

さて、元に戻ります。

引き継いだ文書は2帖。
一帖の表書きは
『大正弐 癸丑 年 
  道祖神御日待講員名簿
 一月 吉辰    S組』
もう一帖は『昭和七 壬申 年』のもの。これが現在使われているものです。

大正2年のものの表書きをめくると
『     定  
  一 御神酒 毎回 二舛 宛
    右講員一同ニ割合ノ事
     但シ七五三飾リヲセザルモノハ除ク事
  一 毎年一月七日左義長
    後当番講員宅ニ集合スル事
       以上      』
酒は変化があって3舛になったり、2舛に戻ったり、2升になったり。
七五三うんぬんについては今のところ不明。
道祖神さまの前のどんど(とんど)焼きはやはり左義長と言っていたのですね。1月7日の実施は現在も変わっていません。里は10日、もしくは15日に行うのですが、山は早いようです。さて、どんど焼きが終われば当番宅に行って飲み会が始まる。現在はS組の公民館で。

さらに本文を見ていくと、
『創立 文化拾四 丑 年
 第六回目終了
 第七回目開始記念トシテ
 大正弐 癸丑 年
 一月七日本簿新調ス』
という文。
これは、文化14年から道祖神まつりを行ってきたが、講員が当番として6巡したので、7巡目の今年から帖を新調した、という意味。15世帯あれば6巡目、つまり90年たってから新調なんですね。これはすごい。
道祖神まつりが始まった文化14年を調べてみると、西暦1817年となり、『蘭学事始』(杉田玄白ら)完成の2年後、イギリス船が浦賀に来航した年。ペリーが来るのがこの36年後。
幕末動乱期の少し前からこの行事が連綿と今に至るまで続いています。

そのほか『松巻き』(どんどの組み立て)は誰がして、誰が火を付けるのか、道祖神さまの移転とその費用など、追加した定め事がその年どしの項に書かかれています。

一番興味あるのは講員の名簿。昭和6年が18名で一番多い年。このS組にも最低18世帯あったということです。まだまだ私の知っている名前はありません。
昭和20年代になってやっと知った名前がぽつぽつと出てきます。
そして昭和60年代は13軒。現在は3軒減って10世帯。名簿には現在ご存命の人は3人。そのうちお年寄りの一人住まいが3軒。なくなった方の名前には抹消線を引いて引き継いだ人の名前が書かれています。そして190年の歴史からつながっている今ここに、私の名前が新たに加えられたのでした。

この「名前が加えられる」ということ。つまり「歴史に加えられる」ことは、都会の中での転居とは違う『田舎への移住』の重さです。
いや違うかな。
なかなか『ムラ』の仲間には入れてくれない、という話も聞くし、入りたくない、という話も聞く。その土地土地の考えや、移住した人の考えによるのでしょうね。
(2008.01.12 記)



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