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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

『尖閣諸島・竹島が日本領土である理由がわかる本』(1)

2012年10月25日 | 読書

出かけた先で空き時間が出来、しばらく時間つぶしをしなくてはという事になり、近くのファミリーマートの雑誌コーナーで本を探していると、『尖閣諸島・竹島が日本領土である理由がわかる本』という本が目にとまりました。尖閣諸島、竹島の大まかな位置しか知らない私なので、この本を買って読んでみることにしました。

ペーパーバックの軽装本で、出版社は宝島社、執筆者は小西健、加藤直樹となっています。

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本文の構成は第一章と第二章、第三章、第四章からなり、第一章は尖閣諸島が日本の領土である理由、第二章は竹島が日本の領土である理由、第三章は尖閣諸島をめぐる国境問題、第四章は竹島をめぐる国境問題というタイトルで、書か
れています。

① 第一章の最初に尖閣諸島がいつ日本の領土になったかが書いてあり、それによると、近代になってからの尖閣の歴史は福岡出身の実業家、古賀辰四郎が島の開発を計画し調査をした1885年(明治18年)に始まるのだそうです。

② 尖閣諸島の存在は知られていたが、ほとんど利用価値はなく、石垣島から170キロの遠隔地ということもあり、江戸時代にはまったくその価値が認められておらず、無人のまま放置されていた。

③ それまでは漁民が嵐の時に避難する程度の利用価値しかなかった尖閣諸島だが、古賀辰四郎はかつお製造と海鳥の羽毛採取で採算が取れると考え、調査を開始するとともに日本政府に利用許可を申し入れた。

④ その後、日本政府は10年もの期間、慎重に島について調査を行い、尖閣諸島はいかなる国も領有権を持たない無主の地である事を確認。1895年1月14日の閣議で尖閣諸島の領有を決定した。これが尖閣諸島が日本国の領土となった瞬間ある。

⑤ 国際法ではいずれの国にも属していない無主の土地は、最初にその地を支配した国家の領土とする「先占の法理」と呼ばれる慣例がある。日本はこの「先占の法理}に従い尖閣諸島を自国の領土としたのである。

⑥ 第二次世界大戦後、日本はサンフランシスコ平和条約により主権を回復した。この時、日本は台湾や朝鮮などの領土を放棄しているが、尖閣諸島は放棄した領土にには含まれていなかった。

⑦ 1971年に沖縄が日本に返還されたが、尖閣諸島もこの時点で日本に返還されている。1895年以来尖閣諸島は一度も他国の領土となったことはなく、
現在もこれからも確固たる日本の領土であり続ける。

⑧ 一方中国は尖閣諸島の存在だけは、明代に地図などに記載されているので、
明らかに認識はしていた。しかしその土地を領土として扱っていた形跡はなく、尖閣諸島は国際法でいうところの無主地として扱われていた。

⑨ 石垣市の八重山博物館には、中国の漁民が遭難し、これを尖閣の漁民が助けた事に対する中華民国からの感謝状が存在し、それにはしっかりと「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と書かれている。中国と台湾が尖閣諸島の領有権を主張する時、尖閣諸島は台湾に属する島であるとの論理を持ち出すが、とうの中国が尖閣を沖縄と認めているのだ。この感謝状は尖閣諸島が日本領である事を証明する、決定的な歴史的史料である。下の写真の本文3行目に「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」の文字が見えます。

Photo_2 <感謝状>

⑩ 閣諸島を含む沖縄の施政権が日本に返還されたのは1972年だが、その直前ともいえる1969年5月10日に琉球政府下の石垣市は、尖閣諸島が琉球政府の管轄下にあることをはっきりさせる為、久場島と魚釣島に地籍表示の標柱を建てた。これはアメリカ政府が尖閣諸島を沖縄とともに日本に返還するという意向を受けての動きである。

以上 ① から ⑩が、尖閣諸島が日本の領土である理由として、この本が挙げている事柄です。

一方、中国側の事も述べてあります。

① 1968年秋、日本、台湾、韓国の専門家が中心となって、国連アジア極東経済委員会の協力を得て行った学術調査の結果、東シナ海に石油埋蔵の可能性ありとの指摘がなされた。その後の1970年の中華民国外交部の声明で、尖閣諸島は台湾省に付属し、中華民国の領土であるとの主張をはじめた。

② それ以前はどうであったかを見ると、1953年の『人民日報』1月8日の記事では、尖閣諸島は琉球群島に含まれるという内容になっている。なので中国が教科書や地図の中で尖閣諸島を自国領土と主張しはじめるのは、石油埋蔵が示唆された1970年に入ってからである。

上の① から ②が尖閣諸島を中国が自国の領土だと主張しはじめた時期に関する、この本の見解です。

又、中国が尖閣諸島を自国領だと主張するその理由が下の①~③である。

① 尖閣諸島は1895年の時点で無主の地ではなく、既に中国(清朝)が領有していた。

② 尖閣諸島は琉球に属するのではなく、台湾に属するので中国の領土である。

③ 尖閣諸島を日本が領有した時は、清朝は日清戦争で日本に敗北する直前であり、日本はその軍事力を背景に領土を侵略した。

この中国主張の①~③に対して、この本では「検証・中国の主張と正しい歴史」をという項目を設けて、その主張の正当性を下の様に丁寧に否定しています。
 

① については日本は尖閣諸島の領有を宣言する以前10年もの間、無主であるかの確認を慎重に行っている。この10年もの間、清朝は一人の役人を派遣する事もなく、さらに日本が領有を宣言した後も1970年代まで何らの抗議も行っていない。継続して50年を実効支配した土地は、その国の領土となるのが国際法の慣例であり、日本の実効支配が50年を越えている以上、尖閣諸島に対して中国が領有を主張してもそこに意味はない。

② については八重山博物館所蔵の感謝状にもあるように、中国は尖閣諸島を沖縄県八重山郡尖閣列島と認識していた事実がある。

③ については日本が尖閣諸島を領土に編入したのは日清戦争の賠償としてではない。これに異論があれば清朝の時代に日本に抗議しているはずであるが、抗議した事実はない。

以上がこの本が尖閣諸島問題で述べている事を、私なりに要約したものです。尖閣諸島と竹島はどちらも日本の大切な領土です。これらの島を守ろうと思う時、その島が本当に日本のものとして正当な存在であるのかを知る必要があると思います。それを知りたい時に読む本として、本書は偏りがなく公平な見方で綴られている様に思われ、役に立つ本の一冊ではという気がします。

尖閣諸島についてが、あまりに長い記事になってしまったので、竹島については次回にと思います。

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蟹工船

2012年10月23日 | お出かけ

福岡市民劇場10月例会で東京芸術座公演『蟹工船』を観劇しました。

この劇は小林多喜二の小説『蟹工船』を舞台化したもので、私はこの小説を読んだことはありませんが、労働者搾取をテーマにしたプロレタリア文学だと、習った記憶があります。

Photo_3 <『蟹工船』リーフレット>

小林多喜二が『蟹工船』を発表したのは約80年前だそうで、この小説が今、又ブームを呼んでいるのは、『蟹工船』の時代が今の日本の社会に似ているからだといわれています。

表面的には当時とは比べものにならない程、豊かな今の社会のどこが、多喜二が生きた時代と似ているのか不思議ですが、ワーキングプア、格差社会等の言葉が身近で語られ、「派遣村」が設けられる現代にあって、もしかしたら『蟹工船』の時代と今は、どこかで深くつながっているのかもしれないと、観劇しながら思いました。

カムチャッカ沖の荒海での4ヶ月に及ぶ過酷な労働。カニを引き上げ缶詰にする作業を一日16時間してへとへとに。休日も与えられず少しでも手を休めるとひどいリンチ。舞台上ではこの過酷な労働のシーンに多くに時間がさかれていました。

船のへさきの向こう側で波に見立てた布を上下させる事により、時化で船が上下左右に揺れる姿を表現していましたが、なかなか臨場感のある舞台装置で、観客である私も、揺れる船に乗っているような錯覚を覚えるほどでした。

舞台上では常に30人以上の役者さんが演技をされ、群像劇(?)というか主人公がいない劇で、セリフとセリフの間にその30人が一斉に、船の揺れに合わせて前のめりになったり、また後ろにひっくり返りそうになったりの演技をされ、見ている私も何だか船酔いを感じるほどのリアルさがありました。そして多くの登場人物のキャラクターもはっきり描き分けられていて、メリハリの利いた舞台に仕上がっていました。

後半では厳しい環境の中で酷使される蟹工船の労働者や乗組員達が、一つにまとまる事の重要性に気付き、みんなで協力して待遇改善を求める要求書を監督に突きつけます。最後の場面では、蟹工船の労働者達が、自分たちを守ってくれていると信じていた帝国海軍の駆逐艦乗組員が蟹工船に乗り込んできて、無法者の監督らを拘束するのではなく、労働者たちに銃を突きつけて終わりました。

後味の悪い幕切れでしたが、小林多喜二の時代の象徴的な小説であり、当時を表している内容になっていると思う事で納得しました。

      

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筆蘭(ふでらん)が咲きました!

2012年10月17日 | つれづれ

朝、雨戸を開けると鉢植えの筆蘭(ふでらん)が咲いているのに気が付きました。

Photo <筆蘭>

何年か前に親戚の方に頂き、その年に花が一輪咲いただけで、その後しばらく咲かないので、少し大きめの鉢に植え替えて2、3年した今年に、やっと2輪咲きました。けさ咲いているのに気が付いた時は嬉しかったですね~。

初めて一輪咲いた時は、ホントに筆の様な形だな~と感動しました。今までにこの様な花を見たことがなかったものですから。

花のわりに軸は結構太くて大人の小指位の太さがあり、軸の長さは10センチ位です。この軸の太さも筆蘭という名前にぴったり合ってる様に思います。その軸の先に筆の様な、刷毛の様な形の花を咲かせています。筆蘭という名前は形から来た名前でしょうが、蘭の仲間ではない様です。

Photo_2 <筆蘭>

別名「眉羽毛万年青」ともいうらしく、眉を引く羽毛に似た花、葉が万年青に似ている事から名づけられたのだと思います。

育てているお花が咲いた時って、何だか嬉しいものですネ。

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くじゅう花公園

2012年10月15日 | お出かけ

秋らしいカラッとしたお天気が続いている福岡市です。新聞に「くじゅう花公園」のサルビアが見頃との記事が出ていたので、ふらっと行ってみました。

くじゅう花公園は大分県竹田市久住町にあり、福岡市からは九州自動車道、大分自動車道経由で約2時間半位で行けます。

久住町は久住高原で知られた町で、「くじゅう花公園」は、この雄大な久住高原の一角に広がっています(花公園がある場所で標高850m)。

入園ゲートはこんな感じです。

Photo <くじゅう花公園入園ゲート>

「花いっぱいの可愛らしい村」をコンセプトに、入園ゲートは駅舎のイメージで作られていて、中に入ると全体を7つのゾーンに分けてあります。

入ってすぐの場所で、こんな可愛いカントリーガーデンが迎えてくれました。

Photo_2 <カントリーガーデン>

みはらしの丘は気持ちのよい花壇でした。お天気はよかったけど気温が少し高く、ずっと向こうの九重の山々は霞がかかってボンヤリとしか見えませんでした。

Photo_3 <みはらしの丘>

赤いサルビア、白いサルビア、ブルーサルビア。元気が出る満開のサルビア、三色!写真を撮ろうと花に近づくと、何だかいい香りが...。子供の頃、赤いサルビアの花弁をむしって根元の蜜を吸ったりして遊んだなぁ~。今の子供はこんな遊びをするのかな?

Photo_4 <サルビア園>

コスモスは満開までにはまだ少し。

Photo_5 <コスモス園>

園内にはドライフラワーと雑貨の可愛いお店「Rose De Mai」がありました。ぬいぐるみの熊がお出迎え(^-^)

Photo_7 <Rose De Mai>

Photo_8 <マリーゴールド>

Photo_9 <カッコウアザミ>

地元の名産品ショップ「花の駅」では、アルコールコーナーも。

Photo_10 <地元産のアルコール>

花公園を満喫した後、「荒城の月」で知られた岡(竹田)城址に行ってみました。

岡城址は「くじゅう花公園」から442号線経由で4、50分の距離でした。城跡には山を利用した石垣が同時のまま残っていて、その規模が予想以上に大きいのに驚きました。

Photo_11 <岡城址入り口>

苔むした石垣が当時のまま残っています。

Photo_12 <石垣>

Photo_13 <大手門跡>

Photo_20 <高石垣(三の丸跡から)>

Photo_21 <九重連山(三の丸跡から)>

二の丸跡には「荒城の月」の作曲者の滝廉太郎の銅像がありました。この像を見るまで羽織袴姿の銅像を想像していましたが、実際はなかなかダンディでカッコイイ洋装の明治紳士の銅像でした。側に立っている案内板によると、滝廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表したのだそうです。

<滝廉太郎銅像>

本丸跡には今は何も無く、後世に作られた岡城天満神社や土井晩翠の「荒城の月」の歌碑が立っているだけでした。まさに「つわものどもが夢の跡」ですね。

Photo_17 <本丸跡>

Photo_18 <土井晩翠歌碑>

岡城址入り口の入場券売り場で、下の様な立派な掛け軸型のお城の案内図を頂きました。下の写真が表で、裏にはお城の歴史や配置図などが書いてあります。頂いた時は掛け軸の様に巻物になっていました。

Photo_23 <掛け軸型案内図(表)>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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パソコン用メガネ

2012年10月09日 | つれづれ

皆様はパソコン をされている時、目の疲れを感じることはありませんか?

最近、私は歳のせいか少し長い時間パソコンをしていると、目がショボショボしたり、目の奥に痛みの様なものを感じる事が時々あります。

先日、友人にこの事を話すと、パソコン作業などの疲れ目用のメガネがあると教えてくれました。早速近くのメガネやさんに走り、そのメガネをゲットしました。

Photo_2 <PC用メガネ>

メガネに付いている説明書を読むと、パソコンやスマートフォン、液晶テレビからは「ブルー光線」と呼ばれる光線が出ているらしく、この「ブルー光線」は可視光線の中で最もエネルギーが強く、目の奥の網膜にまで届いてしまう光線だそうです。この光線が眩しさや疲れ目の原因になるといわれているのだそうです。

それだけではなく、この光線は眼病の原因ともいわれ、目の疲れから来る、頭痛、肩こりなど、体への悪影響も懸念されているのだとか。そして、このパソコン用メガネをかけると「ブルー光線」を40パーセントくらいカット出来るとの説明がしてあります。

お店には色々なデザインのものがありました。今までメガネをかけた事がないので、フレーム有りのデザインにすると、視界にフレームが入って来るのが気になり、フレーム無しのデザインを選びました。

レンズは透明でオシャレなものもあったのですが、うっすらとブラウンがはいった方がより効果的とのお店の人の説明でしたので、そちらを選びました。

このメガネを使ってみての効果ですが、メガネを外してパソコン画面を見ると、特に夜などとても眩しい刺激を感じるので、それなりの効果はある様な気がします。

私が買ったのは既製品で度は入っていませんが、オーダーすれば、日数はかかるものの、度入りも出来るらしいです。

値段はソフトケースが付いて、3990円でした。パソコン作業中に目の疲れを感じる方は、一度試されたらいいかもしれませんネ。

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