ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

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ノベリスト ~ 物語を登るひと

2011年11月06日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

小説というコトバがよくないのかもしれない。
小さな論説、みたいな謙虚さが時として、ちまちまして小賢しいイメージになる。

世界が物理と物語で成り立っていて、私たちが新しい物語を必要としているのであれば、
それを探しにいくスピリットのようなものを持ったほうがよい、と思う。
Novel、ノベリスト、というと、なんだか登山家のようで勇ましいイメージになるではないか。
世界は「物理」と「物語」で成り立っている
wordingは、ゴルフに限らず、大切だ。

ディアローグ
平野 啓一郎
講談社

「思考の究極としての小説」、おもしろい言説だ。

平野啓一郎氏と日野啓三氏の対談が示唆に富んでいた。

小説をあまり読んでこなかった私が、なぜに今さらになって、そこにキラめく何かを感じるのか、
うまく説明してくれたような気がして、胸のつかえがとれたようで、すっとした。

「小説というのは酒と女だ」「女を描けなければ小説じゃない」とか、イヤになるほど言われたけど、そんなだったら楽ですよ。
確かに一つ一つの領域と一定のレベルに限って、
しかもそれ以上のことを予感しないで書くと、書きやすいし、りっぱな結論が出ます。
そういう結論はわかりやすい。
けれども少し横のものと一緒に考えたら、すぐに矛盾が出てくるんです。
論文やエッセイは結論らしきものをつけないと格好悪いでしょう。
小説というのは、人類の発明した最も新しい、とても柔軟で豊かで便利な思考の方法だと思います。
いろんなことを重層的に書ける。
実はわれわれは小説というすごいものにまだ慣れていなくて、使いこなせていないんです。
世界の全体を見て、さらに意識のメタ次元でも見て、
意識のメタレベルのロジックを考えて、メタレベルの知覚を創り出して、
欲しいということです。

「新しいところから古くなっていく」。

ぼくらは戦後ずっと、勇ましいスローガン的評論、スローガン的小説をあれこれ読まされてきたけど、そのときはカッコよく、一元的に正しい、とされてきたものが、どんどん時間の中で相対化されていった。
逆に濃いリアリティを持った、割り切れないもののほうが残っているんです。
新しそうなものほど古くなる。新しいところから古くなっていく。
そのときそのときの時代現象に添い寝するだけのものは、すぐに古くなってしまいます。
もちろん、小説は詩とは違うから、具体的な個物、日常の現象に即さなくては書けないけれど、言葉を持って以後のわれわれ、ホモ・サピエンスの最も根源的で簡単には解決されない矛盾の悲しみを描かなければならない。
たとえ個人的な経験から発していても、普遍的なレベルまできちんと象徴化されているからトーマス・マンが好きなんです。
少しも普遍化されないまま、個人的な問題を文字として提示されても、ぼくならそんなものは見せたくない。

日常的個人的経験を直接題材にしなくても「私」を表現できる作品をつくることですよ。
私小説を擁護する人達は私小説でないものには「作者の血のにじむ自己がない」と言いますが、結局それは自我がないことへのコンプレックスの裏返しじゃないですか。
強烈な自我を持った人は、かえってそういうものを露にしない方向を目指したくなるように思います。
現代アートなどには、奔放な表現がたくさんありますけれど、
フォルムに対する感覚をかなぐり捨てて、自分の中のものを垂れ流すと、逆に薄まってしまいますね。
意識の上で枠がないと、表現が弱くなると思います。
キレた状態で瞬間的に暴発しただけで全的な解放になるほど人間存在は単純ではないですよ。
自分を本当に生かしたい、自分自身を本当に感じたい、というのは、
手続きや自己訓練や時間をかけなければとてもできないことです。

意識を深めてより高いレベルを目指していくわれわれの生きる意味を
小説によって考え、シミュレーションしなければならないと思います。
小説でしかうまく表現できない問題を抱え込んでしまった作家は孤独であっても、ある種の人々にはわかるんです。
どこかの誰かが「なんだ同じようなことを考えていたのか」と、いつか言ってくれるであろうものを書けばいいわけです

職業としての小説家でなくても、矛盾や哀しみを感じ、解決するための物語を探して、物語る人になりたいと思う。
老いてゆくにせよ、がんばらないといけない。
時々のあいだみつおはいいけれど、がんばらなくてもいいんだよ、がいつも正解ではないはずだ。
そのようなひとを目指していれば、老いてもなかなかに愉しそうな気がする。

~詩人とは必ずしも詩を書く人とは限らない。別に何をやっていてもかまわない。詩を書かなくてもよい。
「詩人」という生き方

「何のために書くのですか、ということの答え」

僕はこれだけ生きてきて、おそらく何万回と夕陽を見ているはずです。
ところが小説で夕陽を書くとき、そのうちの三回か四回、本当に夕陽そのものに出会ったと思った、その魂の経験としての夕陽しか書いていない。女性を書くときもそうでしょう。
そういう体験は自分で探してもできるものではない「恩寵」のようなもの。
読む者の心を深く打つのは、そういう経験なんです。
書く前に考えていなかったことが、書いている途中で一種の霊的体験(インスピレーション)として出てきたらそれはいいものになるのであって、「この小説で何を書いたのか」って質問は無意味ですよ。
書く前に思っていたことしか書いていないものなんて読む必要もない。
エリアーデは「妖精たちの夜」を書き終わったあとに、その小説に含まれている意味を理解して愕然とした、というようなことを書いています。
何のために書くのですか、ということの答えがそれです。世のため人のやめだったら、もっと役に立つことがたくさんあるもの。
書き終わっても気がつかなくて、人から言われてはじめてわかることもあるでしょう。
作者自身でさえも気がつかないことを読み手のほうが作品そのものから読み取ってくれるということがある。

小説や物語には、どこか「つくりもの」のニュアンスがあって、そこを軽んじて、ファンタジーだと片づけてしまいがちだ。
  しかし、現実世界で「恩寵」のような体験を、わたしが一体いくつ持てますか。
そのようなアテにできない貧困な材料を元手にして、どのようにしたら豊かな精神を持てるのか、
に思いを至すと、大事なことは現実ばかりではないようにも思えてくる。 
物語を軽んじてはいけないわけである。

バッハのマタイ受難曲。カメラワークが凄い。
憑依に取りつかれたかのように、目に見えない何かを必死につかもうとしている人々がいる。
人類の宝のように崇められている作品に思えるが、バッハの死後100年経ってから、
あのメンデルスゾーンが復活上演して再評価されるまで忘れ去られていたものらしい。復活上演時の評判も芳しくはなかったという。
目にみえないレベルのもの、意識のメタレベルのものは、なかなかに評価することは難しいのだと思うが、分かること、感じることならできそうだ。 
さらに、メタレベルのロジックを考えて、逆に知覚をつくりだして欲しいと言われても、むずかしい。
目には見えないが、登ろうとしなければきっと登れないところなのだと思う。

Bach: Erbarme dich, mein Gott (Matth醇Buspassion) - Galou (Roth)


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