足先の爪へのタルセバの副作用攻撃。
このような先の硬い安全靴を買い求めて重宝していますが、通勤程度ならまだしも、長時間歩くのはこたえます。
ハイカットブーツみたいで足首で履けるから、爪先への負担がないようにも思えるのですが、靴の重さが爪にはジャブのように効いてきて、長時間歩いたり、夕方になると辛くなります。
もう少し、通勤に似つかわしいものはないかと、次を探していたら、ドクターアッシーに行き着きました。
試着してみたら、これまで敬遠しがちだった幅広シューズの快適さと、紐靴なのにジッパーつきという履きやすさ、
足先もゆったりしていて締め付け感もなく、軽い。
先日の出張で、さらに痛みが増した足にやさしい。
安物の杖まで揃えたら、ウルトラマンレオの頃のモロボシ・ダンになったような気分になりました。
そういえば、レオの歌はよかったなぁ。
何かが終わりを告げる時
誰もが勇気を忘れちゃいけない 優しい心を忘れちゃいけない
内田樹先生が、村上春樹氏の「走ることについて語るときに僕の語ること」についてこんな風なことを言ってます。
この本が面白かったのは、一生懸命にトレーニングすればするほど、マラソンのタイムが悪くなってゆくという話だからなんです。
ふつう、逆じゃないですか。努力して、鍛えて、走法を改善して、タイムが良くなりましたというのがふつうの成功譚(たん)です。
そうじゃないんですよ。
究極の結論を言えば、僕らが生きているということは、身体を少しずつ痛めているということなんです。
生きていること自体が身体に悪い。どうせ身体に悪いことをしている。(笑)
身体は不可逆に、どんどん劣化していきます。そういうものなんですから。
老いも病いもすみやかに取り除くべきものになってきてるけど、よけいに苦しくなるばかりだと思います。
文句を言わずに、恨まずに、機嫌よく、共に生きる。
成功譚には、一種類のパターンしかないと思いがちなのだと思います。
機嫌よく生きるということが出来れば、何よりの成功譚になるのではないのでしょうか。
ワンパターンの成功譚があふれているよりはいいと思います。
かつての私は、人の幸、不幸を、見た目で判断していましたが、
自分が今のような状態になってみてはじめてそれが誤りで、本人が自らの置かれた現実を受け入れ肯定していればそれでいいのだと知りました。
私は今、自分の置かれた世界のすべてを受け止めることが出来て、とても幸せです。
( ↓ ) スウェデンボルグ然り。心的現実をどこまで拡げることができるかでパースペクティブは変わる。
科学的、現実的な目線は大切だが、摂理や霊性を示すには別の視点や捉え方が必要であることが語られる。
桜から新緑へ、季節のパースペクティブ。
春風にそよぐチャンチン ( 香椿 )。
本ブログを始めたばかりの頃にアップしたことがありますが、桜が終わった僅かな時季だけしか見られないピンクの新葉が美しい高木です。
(美樹のアップ写真です♪)
しだれ桜はまもなく御終いですが、
花の遅い八重桜はまだまだ花を残しています。
ほんのりした桃花と、一葉という名前の白い里桜がこぼれるように咲いていました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます