長宗我部で、長浜まちあるき・・・1 元親公銅像 (初陣の像)
9月2日(木)、午後1時半に若宮八幡宮の元親公銅像前に集合して、
約2.5キロメートルのコース8箇所を、地元のガイド武田末男さん他の説明を受けながら、約2時間半かけて一周しました。
万歩計で計っていたご婦人の二人とも、7,500歩でしたと教えてくださいました。
NHKテレビをはじめ、高知新聞社など報道関係者も駆けつけていただき、NHKテレビはその日の夜のニュースで報じてくれました。
今度、高知市の観光協会会長になられた、元高知市長の松尾・三翠園ホテル会長もご夫婦で参加され、ご挨拶されました。暑い中、最後まで一緒に歩かれていました。
隣が、今回まちあるきツアー企画の中心、地元のガイド武田末男さんです。
予想を上回る70人を越える参加者があり、皆さん猛暑の中、熱心に最後まで長浜の歴史に耳を傾けていました。
土佐の鎌倉長浜と長宗我部史跡を歩く 資料
(地元のガイド武田末男さん作成)
① 元親公銅像
長宗我部元親初陣の像は元親没後400年に当たる平成11年完成した。元親は岡豊城主国親の長男として天文8年(1539)生まれ少年時代は姫和子と呼ばれていた。初陣は永禄三年(1560)本山氏との戸ノ本合戦で,本山軍二千五百対し長宗我部軍一千をこの地に兵を集し戦っている。時に22歳、この年織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を破っている。
その後、15年かけ本山、安芸、一条氏を滅ぼし土佐を統一した後、四国平定に乗り出し10年を要し大部分を手に収めるが、豊臣秀吉軍八万人が伊予、讃岐、阿波の三方面より攻め込み、降伏し土佐国を安堵される。朱印状9万8千石,軍役3千人。
翌天正14年秀吉命を受け九洲豊後の国に遠征、薩摩島津軍と戸次川で戦う。この戦いで大敗し、長男信親と将兵七百余名が戦死。その後領国支配に努め、検地(二万四千八百町歩:土佐二十四万石のいわれ)や法令を制定した。
居城は大高坂城を経て浦戸城に移転しているが、秀吉の命で小田原征伐、再度に渡る朝鮮出兵をしている。その姫和子から土佐の出来人になった元親の土佐軍は、一領具足が主力の動員総兵力二万四千人であって、兵農分離が遅れていたといわれている。
鉄砲の音に驚き気を失い大いに恥じた子供の頃の元親であるが「家来が癇な馬はすぐに驚く物、恥じるには及ばず」「何事も最悪を考え行動するもの」に基づく元親の戦略は、外交調略を第一とし、武力は最後にあるとしている。
慶長四年(1599)伏見の邸で没61歳。墓は天甫寺山。
HN:サカチャン
11月23日長宗我部ツアー①若宮八幡宮・長宗我部元親公墓碑