玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

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2008年06月28日 | 死刑制度


もう一度検索ボタンを押したらスポンサーリンクが消えた。
キャプチャしておいて正解だった。
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死刑は「四審制」

2008年06月27日 | 死刑制度
私はなぜ「死神騒動」にこだわっているのか。
ことさら世論に逆らいたいというひねくれた動機でも、死刑廃止論を訴えるためでもない。
とりあえず自分が考えていることをまとめてみる。

最初に言っておくと、私自身は死刑をなくしたほうがいいと思っている。
だが死刑廃止を論じたり運動するつもりはない。論争や運動によって死刑停止・廃止ができるとは信じていない。
世論の8割は死刑制度容認であり、熱心で戦闘的な支持者も少なくない。私などが死刑廃止を論じても焼け石に水だ。
日本で死刑制度への支持が低下するとしたら、何か大きな出来事によってパラダイムシフトが起きたときだろう。
かつて「土地神話」というものがあった。

土地神話:不動産用語集:不動産探しの決定版-Myhome@nifty
 90年代初頭のバブル崩壊後、いわゆる“土地神話”は消滅した。戦後の高度成長期を通じ、わが国の地価は一貫して上昇を続け、「土地を所有していればもうかる」という神話を生んだ。そのため銀行は企業などへの融資に際しては土地担保主義に傾倒。土地神話に基づいた過剰融資が不良債権発生の源となった。

現在の日本ではバブル経済のように実体のない「死刑神話」が膨らんでいる。「射殺煽り」や「死神騒動」を見てきて嫌というほど思い知らされた。バブル崩壊のような痛手を負うことなく、静かに死刑神話が消滅するようにと私は願っている。


死刑とは「一人の人間の命を合法的に確実に終わらせること」である。
人の死をつかさどるのは本来「死神の仕事」だ。
死刑の本質に「死神性」があることは疑いようがない。

「死神騒動」で死刑支持者たちのナイーブさ・現実逃避・ごまかしぶりが明らかになった。
死刑を容認して「死神性」を否定するのはあまりにも虫がよすぎる。
私は「水伝騒動」で「水伝の価値を認めよう」と言った人のことを思い出した。彼は「『科学くん』が縄張りを荒らされて怒っている」とからかい、「自分は科学の世話になっていない」とうそぶいたものである。
もちろん、現代の日本人は科学の恩恵なしに生きていけない。パソコンも携帯もエアコンもテレビも自動車も原子力発電も、科学なしにはありえない。日日の暮らしで科学の世話になりっぱなしだ。
現在の日本には死刑制度が存在し、全国民はその「恩恵」を受けている。それはつまり「死神代行の世話になっている」ということだ。
死刑制度を運用するのは誰かに「死神の仕事」をさせることに他ならない。


死刑について世間では「判決」を重く見すぎ「執行命令」を軽く見すぎているようだ。
裁判所は判決を下し死刑執行の実務は法務省に委託する。死刑執行の期限を定めたのが「六ヶ月規定」だ。だがこれは空文化しており、守らなくても法律違反にならないと裁判所が自ら認めている。

弁護士山口貴士大いに語る: 【死刑執行】「死刑執行、自動的に進むべき」 鳩山法相が提言【6ヶ月】
 参考までに東京地方裁判所平成10年3月20日事件の判決を紹介します。
 この事件は、死刑囚が死刑確定の日から6ヶ月以上経っているにもかかわらず、死刑を執行しないことが違法であると主張して、国を被告として、国家賠償請求を求めて提訴した事案について、東京地方裁判所は、「思うに、同項の趣旨は、同条1項の規定を受け、死刑という重大な刑罰の執行に慎重な上にも慎重を期すべき要請と、確定判決を適正かつ迅速に執行すべき要請とを調和する観点から、法務大臣に対し、死刑判決に対する十分な検討を行い、管下の執行関係機関に死刑執行の準備をさせるために必要な期間として、6か月という一応の期限を設定し、その期間内に死刑執行を命ずるべき職務上の義務を課したものと解される。したがって、同条2項は、それに反したからといって特に違法の問題の生じない規定、すなわち法的拘束力のない訓示規定であると解するのが相当である。」との判断を示して、死刑囚の請求を棄却しています。なお、この裁判において、国側も、刑事訴訟法472条2項は「訓示規定」であると主張していますし、この解釈について法律家の間ではあまり異論のないところだと思います。

私は法律については無知だ。「素人物怖じせず」で乱暴なことを書く。
死刑判決とは「被告人を死刑囚にする」レッテルの張替え作業である。法律の規定はともかく、実質的にそうなっている。
死刑執行は法務大臣の権限だ。法相の執行命令が出てはじめて死刑が現実のものになる。判決自体に死刑執行させる絶対的な強制力はない(例 帝銀事件 - Wikipedia
法相が署名する前に法務官僚が「間違いはないか、冤罪の可能性はゼロなのか」再調査する。普通の裁判は三審制だが、こと死刑については判決確定後にもう一度調べられる「四審制」と言っていい。この場合の「最終決定」が法務大臣による執行命令への署名である。

日本における死刑 - Wikipedia
日本の刑事裁判では一般的に三審制であるが、死刑に関しては最高裁の後の法務大臣の死刑執行の署名する前段階で、さらに法務省刑事局で検事による、さらに審査がおこなわれるため、事実上の四審制であると指摘する人もいる。


「法相は判決と法律に従っているだけなので責任を問うのはおかしい」という意見がある。
私はこういう考え方は危険なものだと思う。
法務大臣は、死刑執行を含めた日本の法務行政のトップだ。
何のためにトップがいるのか。決断し責任を負うためだ。決断も責任も不要ならそれこそ人形でも置いておけばいい。
「法律と判決に従い死刑を執行する」のも法務大臣の決断であり、そこには当然責任が生じる。
法務大臣をロボットにしてはいけない。「ベルトコンベア式」などもってのほかだ。

ひとつの思考実験をしてみる。
あってはならないことだが、死刑執行後に冤罪が明らかになったとする。
裁判官の責任はもちろんだが、執行命令に署名した法相に責任はないといえるのか。
「責任はない」と答える人もいるだろう。「判決に従っただけだ」と。
そう答えた人にたずねたい。
タイムマシンで「法相が執行命令に署名する1時間前」に行けたら、あなたは「法律」と「人命」のどちらを守りたいか。
ほとんどの人は懸命に法相を説得しようするはずだ。「この人は冤罪です、死刑にしてはいけない」と。
そのとき法相が「私は法律と判決に従うだけ」「死刑を先延ばしする権限はない」と聞く耳を持たなかったらどう感じるか。
「ああそうだな、法務大臣には決断する能力も責任を取る必要もないのだから」と納得できる人はどれくらいいるだろう。

参考記事(追記)
 眠る胡椒、走る茄子。 | 「死に神」です、「死に神」で上等です。
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死神の力

2008年06月26日 | 死刑制度
私が「よく阿部寛と間違われる」と言えばたいていの人は笑う。
どこからどう見ても勘違いであり、浅はかな思い上がりでみっともないからだ。
「死神」騒動で抗議した「被害者団体」もそれと同じくらい見苦しい。

「死に神」に被害者団体抗議=「侮辱的、感情逆なで」(時事通信) - Yahoo!ニュース
 13人の死刑を執行した鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した朝日新聞の記事について、「全国犯罪被害者の会(あすの会)」は25日、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、「死刑執行を望む犯罪被害者遺族も死に神ということになる。侮辱的で感情を逆なでされた」とする抗議文を、同日付で朝日新聞に送ったことを明らかにした。
 抗議文で同会は「法律に従って執行を命じたにすぎない法相を非難することは、法治国家を否定することになる」と批判。記事の意図などについて同社に回答を求めた。


死神とは人間に死を与える力を持つ存在だ。
その力は絶大だ。普通の人間には逆らう術がない。
死神の腕につかまれた人間は「ゴルゴ13のスコープで狙われた」とか「デスノートに名前を書かれた」のに等しい。デューク東郷は死神の化身、デスノートは死神の道具だからそれも当然だ。ターゲットには確実に死が訪れる。

逆に言えば、死を与える「力」を持たないものは死神ではない。
不能犯を実行犯と呼ばないのと同じである。誰かをどれほど熱心に呪い、相手が死んでしまったとしても、殺人罪に問われることはない。

朝日のコラムは13件の死刑執行命令を出した鳩山法務大臣を「死に神」と呼んだ。
死刑を執行するには執行命令書が必要であり、執行命令書には法相の署名がなければならない。鳩山法相の署名が死刑囚の死を決定したことは明らかだ。署名なしに死刑が行われることはない。現在の死刑制度とはそういうものだ。
死刑執行命令書の絶大な力、法相の「死神」性を否定することはできない。正義を愛する心優しい死刑制度支持者たちはどうしても否定したいようだが無理である。

それでは殺人事件の被害者遺族に「死神の力」はあるのか。あるはずがない。
どれほど熱心に、あるいは切々と「死刑判決を望む」と訴えても、裁判官に強制することはできない。裁判官はあくまでも法と証拠と良心に基づいて判決を下す。
めでたく死刑判決が下ったとしても、被害者遺族が法務省に執行命令書を作らせたり、法務大臣に署名を強制することは不可能だ。仮に法相に命令できるものがいるとしたら総理大臣だけである。一般人にできることはせいぜい「お願い」することだけだ。要望が何千件、何万件と集まれば政治的圧力となり、それなりの力を発揮するだろう。だがそれは圧力どまりで強制力はない。
これほど無力な被害者遺族がどんなに望んでも死神になれるはずがない。彼らにできることは死神への嘆願だけだ。
死を与える力を持たなければ死神にはなれない。力のないものは死神の応援団になるか、死神の道具になるか、どちらかだ。

現在の日本では「悪人」の死を願うことが正義となっているらしい。秋葉原の事件で噴出した「射殺」煽り、光市事件裁判や「死神」騒動に見られる「吊るせ吊るせの大合唱」。どちらも権限も責任もない一般人がお気楽に(私にはそうとしか思えない)騒いでいる。彼らは死神の応援団だ。
その一方で、法を守り、国民に期待され、ストレスに耐えて命令に従い、死刑に関わる業務を遂行する人たちがいる。彼らは(こういう言い方はしたくないが)死神の道具だ。
私は命令に従い死刑に関わる業務を遂行している人たちを批判しない。むしろ気の毒に思っている。私なら(戦争でも起きればともかく平時に)「意図的に確実に人の命を絶つ」仕事はできない。社会のため、正義のためと信じて辛い仕事をしている人は立派である。
だが、死神の応援団には同情しない。彼らはあまりにもうるさすぎる。仮に死刑が日本にどうしても必要だとしても(私はそうは思わないが)、それはあくまで必要悪だ。「射殺しろ」とか「吊るせ」とか大声で騒ぐものではない。鳩山法相の言葉ではないが死刑は「粛々と」行うべきであり、可能なら死刑など無くしたほうがいいのは言うまでもない。

朝日のコラム自体について言えば、「死に神」として名指しされたのは鳩山法務大臣だけだ。被害者遺族については何も言っていない。私は「死神騒動」について書かれたブログをずいぶん読んだが、「抗議」以前に「それなら被害者遺族も死神になる」という読み方をしたものはほとんどなかった。それが普通の読解力だ。
「全国犯罪被害者の会(あすの会)」が主張する「死刑執行を望む犯罪被害者遺族も死に神ということになる。」という理解のしかたはよく言って誤解、はっきり言えば曲解であり言いがかりにすぎない。ヒステリックで「当たり屋」めいた下品なやりかたである。
私は朝日新聞に抗議した「あすの会」の主張にまったく同情しない。
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裸の死神

2008年06月25日 | 死刑制度
こんな寓話を思いついた。

とある王国に大昔から貴重な宝物が伝えられているという。
それは「馬鹿には見えない服」。
王様は年に一度「見えない服」を着てパレードするのが決まりだ。
今年も華々しくパレードが行われた。
歓呼する群集。
「王様ばんざい!」
「なんとすばらしい服だろう!」
王国の住人はみんな賢いのでちゃんと服が見える。
別に王様に媚びへつらっているのではなく、間違いなく「見えている」のだ。
ところが世の中には愚か者がいる。馬鹿な子供が「王様は裸だ!」と叫んだ。
もちろんこれは悪質な誹謗であり中傷に決まっている。
国民に支持される立派な王様が裸でパレードなどするはずがない。
「馬鹿には見えない服」が見えない奴は馬鹿である。
馬鹿は馬鹿にされて当然だ。いや、王様を中傷したのだから石をぶつけてやるべきだ。
馬鹿な子供は賢い人たちから石を投げられ、青アザだらけになって寝込む羽目になった。
こうして王国の平和は守られたのである。めでたし、めでたし。

…いや、ちっともめでたくない!こんな話は嫌いだ!
もちろんこれは出来の悪いパロディーであり、ネタ元は誰もが知っている有名なお話だ。

裸の王様 - Wikipedia

童話では「王様は裸だ!」という叫びを聞いた人々がハッと気付いて「やっぱり裸だよな」「どう見ても裸に違いない」と我に返る。私はこういうクールで即物的な話のほうが好きだ。
ところが、心やさしく正義を愛する人々がひしめきあって暮らすこの国、日本では、身も蓋もない「王様は裸だ!」という指摘より「馬鹿には見えない服という宝物」や「王様の権威」「自分たちは賢いという自負」のほうが大事にされる。
何のことかといえば、法務大臣と死刑制度をめぐる「死神」騒動である。

何度も書いてきたように()、死刑執行を命令する法務大臣の仕事が「死神の仕事」であるのは間違いない。

 ・ 「誰の命を、いつ終わらせるか」決めて実行するのは死神の仕事
 ・ 「どの死刑囚の命を、いつ終わらせるか」決めて実行させるのが法務大臣の仕事
 ・ 死刑囚にとっては法務大臣こそ死神そのもの

単純な三段論法である。
これは死刑制度の「正しさ」「適法性」とはまったく関係ない。
死刑判決があろうとなかろうと、法律に基づいていようといまいと、国民の支持があろうとなかろうと、「一人の人間の命を終わらせる最終決定」は本質的に死神の仕事そのものだ。「正しい死神」と「悪い死神」の区別を論じるならわかるが、「死神じゃない」と言い張るのは無理だ。

「肉食とは動物を殺してその肉を食べること」という説明と同じである。
食肉業者だろうと密猟者だろうと、牛肉だろうと豚肉だろうと、肉の品質が良かろうと悪かろうと、「殺して食べる」という本質に何の違いもない。
「肉食とは動物を殺して食べること」という本質を否定しようとして「牛さんは牧場で快適に暮らしている」とか「苦痛を与えない屠殺がされている」とか「食品衛生法を完璧に守っている」「肉は栄養があっておいしい」とかいった話を持ち出しても何の意味もない。
ところが、「死神」騒動ではそういう無意味な反論が山ほど行われている。いや、そればかりと言っていい。まったく訳がわからない。

もう一度「裸の王様」の改変寓話に戻る。
私が考えたもう一つの結末はこうだ。

「王様は裸だ!」頭の悪い子供が叫んだ。
群集は一瞬静まり返るが、すぐに前よりいっそう大きな歓声が沸き起こる。
「あれ、聞こえなかったのかな?」
子供はもう一度叫ぼうとするが、大きく柔らかな手で口を押さえられる。
そのまま数人の大人に抱きかかえられて静かな一室に運ばれる。
子供はたずねる。
「おじさんたちは誰?」
「君のような子供を守るために働いてるんだよ」やさしくにっこりと笑う。
「王様が裸だってことは大人はみんな知っている。わかった上で言わないんだ」
子供は納得できない。
「なんで裸なのに裸だと言っちゃいけないの?」
「それは、この国が王様のパレードなしでは食っていけないからさ。パレードを見物しに多くの外国人が来ることは知ってるね?観光収入がないと王国は破産してしまう」
「王様ももちろん自分が裸だと知っている。誇り高い王様は恥ずかしくてたまらないのだけれど、国民のためがんばって裸でパレードしてくれてるんだ。そういう王様のことを侮辱するのは悪いことだと思わないかな?」
大人の事情を聞かされた子供は混乱する。
「でも、やっぱり王様は裸じゃないか!王様に恥ずかしい思いをさせたり、本当のことを言わないようにしてまでパレードを続けるのはおかしいよ。パレードをしなくても観光客が来るような工夫をしたほうがいいよ!」
賢い大人は取り合わない。
「坊や、我々はずっとパレードとともに暮らしてきたんだ。国民の八割が支持している。守るべき文化なんだ。この国で生きていくつもりなら、空気を読むこと、黙っていることを覚えないといけないよ」

めでたし、めでたし。      …なのだろうか?
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死神からの伝言

2008年06月24日 | 死刑制度
リンゴは丸い。
横から見ればリンゴの形だが、上や下から見れば丸いのは間違いない。
それを否定するのに「リンゴは赤いんだ」とか「すごく甘いんだよ!」とか叫んでも意味がない。
だが、同じくらい奇妙なことを驚くほど多くの人が本気で言っている。彼らは絶対にリンゴを上から見ようとしない。
私はなんだか怖くなった。

「鳩山 死刑」や「朝日 死に神」といったキーワードで検索をすると多くのブログ記事が見つかる。
そのうちのほとんど、数えたわけではないが8割か9割は「死刑制度は当然であり、法相を死神呼ばわりするのはけしからん」という意見だ。死刑制度への賛否についてはこの際どうでもいい。だが、「死神呼ばわり」を批判した部分に意味がないのには驚かされる。多くは
 「死刑判決は裁判所が決めたこと」
 「法相は法律に従い職務を果たしているだけ」
 「死刑制度は日本に必要であり正義だ」
といったことを書いているが、これらは全く「死神」を否定する根拠にならない。リンゴの丸さを否定しようとして「赤さ」や「甘さ」を持ち出されても困る。


前の記事()でも書いたが、法務大臣が死刑執行命令に署名することは「死神の仕事」そのものだ。
裁判とか法律とか世論とか正義とか持ち出す以前に、死刑制度のメカニズムとしてそうなのである。

「死神」というのは現実に存在するものではないから、まじめな議論をするのは難しい。
とはいえ、この騒動を取り上げたブロガーの誰も「死神なんて存在しないから真面目に怒るほうがおかしい」とは言っていない。死神はサンタクロース(米軍が毎年追跡している)と同じくらいのリアリティが認められているようだ。私もなるべく真剣に考えてみよう。

死神とは何かといえば、「死神の仕事」を行う存在だ。
トートロジーのようだが仕事を抜きにした死神は考えられない。引退した死神は「もと死神」でしかない。
「死神の仕事」とは何か。確実な死を与えることである。
死神は誰かの前に現れて「おまえの命をもらう」と宣告する。「誰の命を、いつ終わらせるか」決めるのが死神だ。その仕事ぶりはゴルゴ13に匹敵する。…いや逆だ。デューク東郷が死神の化身なのだ。
どちらにしても、死神の手際は確かである。小説だと騙されて失敗することもあるが、フィクション特有の主人公補正なので信じてはいけない。

死を与える確実さにおいて法務大臣の「死刑執行命令」は死神にひけをとらない。
マンガでもオカルトでもない本物のデスノートだ。法務大臣が署名すれば死刑囚の運命が決まる。法務省のメンツにかけて間違いなく処刑が行われる。正確無比、まかせて安心、である。

死刑囚の立場になって考えてみよう。
被告から死刑囚へと名札を変えて拘置所に送り込んだのは裁判所だ。
だが、自分の首をロープの輪に通す強制力の源は「執行命令」以外にない。
「死刑判決」それ自体は必ずしも確実性がない。

 免田事件 - Wikipedia
 財田川事件 - Wikipedia
 島田事件 - Wikipedia
 松山事件 - Wikipedia

判決が確定した後で再審無罪になった例は4件ある。そのほか恩赦により15名が減刑された。
帝銀事件のように「犯人」とされ判決が確定した死刑囚が30年以上も執行されず天寿を全うした例もある。他にも病死したり自殺した死刑囚もいるという。
「死刑判決」と「死刑執行」の間には距離があり、まれに抜け穴がある。「死神の仕事」にしてはうかつだ。

死刑制度をひとつの機械、精巧な電気椅子だと想像してみる。
機械を建造し、電力を供給するのは「国民」だ。国民の支持がなければ死刑制度は成り立たない。
椅子に死刑囚を拘束し、安全装置を外すのは「裁判所」の仕事。
そして、最後に作動スイッチを入れるのが「法務大臣」(の署名した執行命令)である。
死神の仕事と呼ぶのにふさわしいのはどれかと聞かれたら、私は迷わず「作動スイッチを入れる役だ」と答える。すべてのエネルギーがスイッチを入れることによって解き放たれるのだから。

死刑囚がすべての希望を失う「ポイント・オブ・ノーリターン」は法務大臣が執行命令に署名した瞬間である。もはや逃れる術はない。仕事の手並みは絶対確実だ。死刑制度賛成派は「死神呼ばわり」に怒るよりも確実さが認められたことを喜んで拍手すべきである。
「裁判で決まった」「法律で定められている」「国民が支持している」のだから法務大臣を死神呼ばわりするな、というのは無理な話だ。死刑執行への最終的なゴーサインを出す「法務大臣の仕事」が「死神の仕事」に似てしまうのは必然である。死刑制度そのものが法務大臣に「死神の仕事」をさせるようにできている。
死刑制度に賛成するにしても反対するにしても、「死刑とは意図的に・確実に人の命を奪うもの」「誰かが最終的に死刑執行を決断する必要がある」という事実が前提となる。
どれほどきれいごとで飾り立てても本質までは変えられない。きれいごとを守ろうとして本質を見失うのはこっけいだ。

 「肉食とは動物を殺してその肉を食べることです」
 「肉はおいしくて栄養がある!殺すとか残酷な言葉はやめろ!!」

 「車社会とは便利さと引き換えに年間数千人の事故死を受け入れることです」
 「お前だって車に乗るだろ!事故とか不吉なことを言うな!!」

 「セックスとはちんこをまんこに入れることです」
 「セックスは愛の行為であり、神聖な子作りだ!ちんことか下品な言葉を使うな!!」

死刑制度を容認しながら「死神」という言葉にいきり立つ人は上の例を笑えないはずだ。
「産む機械」騒動と同じく、「死神」騒動も日本人の言葉へのこだわりを教えてくれる。
井沢元彦の言う「言霊信仰」だ。なるほど、「水からの伝言」などという与太話が受け入れられるわけだ。
言葉を大事にすること自体は悪くないが、現実の問題(「代理出産」・死刑制度)をないがしろにして言葉ばかりにこだわるのは本末転倒というほかない。






まだ納得できない人もいるだろうからもう少し続けよう。

■「法律で判決確定後6ヶ月以内の執行が規定されている」
その前に「特別な理由のない限り」というただし書きがある。
なにが特別な理由にあたるのか知らないが、実際のところ6ヶ月以内に死刑執行されることはなく、規定は空文化している。

死刑囚 - Wikipedia
この6ヶ月以内に死刑が執行される規定があるにもかかわらず、実際には確定から執行まで平均で7年7ヶ月を要しており、1961年以降は確定後6ヶ月以内に執行された例はないようである。

■「死刑執行命令を出すのは法務大臣の義務だ」
任期中一度も執行命令に署名しない法務大臣は何人もいた(歴代法務大臣の死刑執行命令数)。彼らが国会や党内で「サボタージュ」の責任を厳しく問われたとか、あるいは「日本の美風である死刑制度を守る市民団体」(あるのかな?)に訴えられて負けたという話を聞いたことがない。
仮に義務があるとしても、破ったときの罰はない。「6ヶ月規定」と同じく、現状では空文化した努力目標にすぎない。

■「刑務官は死神なのか」
刑務官は命令を受けて従う側であり、自らの意思で命令を出す法務大臣とは責任の重さがまったく違う。
命令をサボタージュすれば罰せられるだろう。一人が命令拒否しても同僚が滞りなく役目を果たす。
言ってみれば刑務官は「死神の道具」だ。

■「国民が死刑を支持している。死神呼ばわりするなら法務大臣ではなく国民だ」
国民は「誰を、いつ」処刑するかについて決定権を持たない(これは裁判所も同じ)。
もちろん刑務官に命令することもできない。「死神の仕事」としては間接的で確実さに欠ける。
死神の雇い主とかサポーターと呼ぶほうがふさわしい。

■「大臣に対して死神呼ばわりは無礼だ」
タイコモチじゃあるまいし、事実をごまかして「えらい人」のご機嫌伺いするのは卑屈だ。そもそも考える順番が間違っている。
「『死神は言いすぎ』だと感じるなら『死刑がやりすぎ』なのだ。」

■「アサヒ… マスゴミ… 左翼… 死刑廃止論者…」
ああ、はいはい。好きなだけやってください。
誰を罵倒しても「死刑制度を運用するには誰かが死神の仕事をやる必要がある」という事実は変えられない。
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死神の仕事(2)

2008年06月23日 | 死刑制度
前の記事を読み返したら冗長すぎて嫌になった。本当に文章が下手だ。
整理して書き直してみる。

一見すると死刑囚とそれ以外(私やあなた)の立場はまったく違うように思えるが、「生と死」の問題だけ考えると実はあまり変わらない。

一般人
 ・ 自分と周囲の人々は「いつか必ず死ぬ」運命だと知っている
 ・ だが「死が訪れる順番」「自分はいつ死ぬのか」は知らない
 ・ 誰が、いつ死ぬかを決める想像上の存在は「死神」

死刑囚
 ・ 自分と周囲の死刑囚は「いつか必ず首を吊られる」運命だと知っている
 ・ だが「死が訪れる順番」「自分はいつ死ぬのか」は知らない
 ・ 誰が、いつ死ぬかを決める現実の存在は「法務大臣」

死刑制度がある限り法務大臣は死刑執行命令への署名(死刑メカニズムの安全装置解除・作動スイッチオン)を求められる。自らの判断において「スイッチを入れるか、入れないか」選択しなければならない。辛い選択だが、辛いのはそれが「死神の仕事」だからだ。
死神の仕事をする者はどうしても死神のように見える。「13件の執行命令を出した法務大臣を死神呼ばわりしてはいけない」と言うほうが無理である。
「死刑執行命令に署名する仕事」と「死神の仕事」はマジンガーZテコンVよりも似ている。

「死神の仕事」の心理的負担を減らすためにベルトコンベア式とか死刑執行員制度といったアイデアは出ているが根本的な解決にはならない。

 ・ 死刑メカニズムを機能させるには誰かが「どの死刑囚を、いつ吊るか」決める必要がある
 ・ 決定を誰に(裁判官・政治家・官僚・一般人)委ねるとしても、決定者は「死神の仕事」を果たすことになる
 ・ 言論の自由がある限り執行命令を下した者への死神呼ばわりを禁止するのは無理
 ・ 無理を通せば道理が引っ込む

今回の「死神」騒ぎは死刑制度の実体から目をそむけた言葉狩りでしかない。「Voice of Stone」hidewさんの言葉を引用する。

  「『死神は言いすぎ』だと感じるなら『死刑がやりすぎ』なのだ。」

まったく同感である。


急に話はオカルト方面に向かう。
仮に死神が実在していたら「人間が死神の仕事を代行すること」を怒るだろうか、それとも喜ぶだろうか。
戦争・虐殺・天災・疫病の歴史を見ると死神はとても仕事熱心だ。「俺の仕事を横取りするな」と怒りそうな気がする。
いや、「忙しすぎて手が回らない、手伝ってくれてありがとう」と感謝されるかも。
そもそも人間は死神のご機嫌取りをしたほうがいいのか、それとも反抗すべきなのか。いろいろと謎だ。

「アジャラカモクレン キューライソ テケレッツノパ」 パン、パンッ
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死神の仕事

2008年06月22日 | 死刑制度
鳩山法務大臣が朝日新聞のコラムで「死に神」呼ばわりされて激怒したそうだ。

朝日「死に神」報道に法相激怒 「死刑執行された方に対する侮辱」 - MSN産経ニュース
 今月17日に宮崎勤死刑囚(45)ら3人の死刑執行を指示した鳩山邦夫法相を、朝日新聞が18日付夕刊で「死に神」と報道したことについて、鳩山法相は20日の閣議後会見で、「(死刑囚は)犯した犯罪、法の規定によって執行された。死に神に連れていかれたというのは違うと思う。(記事は)執行された方に対する侮辱だと思う」と強く抗議した。

 「死に神」と鳩山法相を表現したのは、18日付朝日新聞夕刊のコラム「素粒子」。約3年の中断を経て死刑執行が再開された平成5年以降の法相の中で、鳩山法相が最も多い13人の死刑執行を行ったことに触れ、「2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」とした。

 会見で、鳩山法相は「私を死に神と表現することがどれだけ悪影響を与えるか。そういう軽率な文章を平気で載せる態度自身が世の中を悪くしていると思う」と朝日新聞の報道姿勢を批判した。

世間の反応はこうだ。

抗議:朝日コラムの「死に神」に1800件 - 毎日jp(毎日新聞)
 死刑執行の件数をめぐり、朝日新聞夕刊1面のコラム「素粒子」(18日)が、鳩山法相を「死に神」と表現した問題で、朝日新聞社に約1800件の抗議や意見が寄せられていたことが分かった。

世の中にはナイーブな「善人」が多いことが分かる。
ネット世論も「死刑は当たり前、法相を死神よばわりするのはひどい」というのが一般的らしい。

痛いニュース(ノ∀`):朝日新聞「死に神」報道に法相激怒 「死刑執行された方に対する侮辱」
  はてなブックマーク
鳩山法相は、「死に神」なのだろうか - 弁護士川原俊明のブログ
あのー、すいません、普通に「死に神」だと思うんですが... - 女教師ブログ
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なぜこれほど腹を立てる人が多いのか私には分からない。
鳩山法相が怒るのはまだわかる。誰だって死神と呼ばれるのはうれしくない。鳩山氏の支持者が怒るのももっともだ。
だが、見たところ怒ったり抗議したりしている人のほとんどは鳩山氏ではなく死刑制度の名誉(?)を守りたがっている死刑維持派のようである。
刑務官を「死神」呼ばわりしたら私も怒る。彼らは命令を受け義務として死刑を執行するのであり、責任を負わせるのは酷だ。自己責任論を持ち出せば「刑務官という職業を選んだ本人の意思」を持ち出して批判することができるかもしれないが、そういうやりかたは行き過ぎていて下品だ。
だが、法務大臣は違う。
たしかに法律では「死刑判決確定ののち六ヶ月以内に執行する」と定められているが、実際の執行命令はベルトコンベア式ではなく大臣の裁量に任されている。

死刑囚 - Wikipedia
この6ヶ月以内に死刑が執行される規定があるにもかかわらず、実際には確定から執行まで平均で7年7ヶ月を要しており、1961年以降は確定後6ヶ月以内に執行された例はないようである。主な理由としては法務大臣が死刑執行の承認を出したがらないことと、執行に至っていない確定死刑囚が多数に及んでいることが挙げられる。法務大臣が死刑の執行に積極的にならない理由としては、個人の信条、死刑廃止を訴える人権団体・国会議員等からの抗議などの圧力があるとの指摘がある。

法務大臣は「いつ、だれの命を終わらせるか」決める仕事をするのだから、死刑囚にとっては死神と同じだ。
私は法務大臣が死神呼ばわりされることを「ひどい」とか「許せない」「侮辱だ」「中傷だ」とはまったく思わない。新聞コラムで皮肉られただけで激怒する鳩山氏と死刑制度支持者たちのナイーブさが不思議であり、怖ささえ感じる。


もうすこし詳しく説明する。
「バナナ型神話」という言葉がある。人間の死の運命を説明する神話だ。

バナナ型神話 - Wikipedia
「バナナ型神話」とは、だいたい以下のような説話である。神が人間に対して石とバナナを示し、どちらかを一つを選ぶように命ずる。人間は食べられない石よりも、食べることのできるバナナを選ぶ。変質しない石は不老不死の象徴であり、ここで石を選んでいれば人間は不死(または長命)になることができたが、バナナを選んでしまったために人間は死ぬようになった(または短命になった)のである。

人間はすべて死ぬ。死なない人間はいない。誰もが「自分はいつか死ぬ」ことを知っている。
そして、究極の運命が「死」であることは神と人間自身によって定められたことだ。「人間であること」と「究極の運命としての死」は切り離せない。このあたりはアニメ映画「銀河鉄道999」(傑作)を見ればわかる。

これを死刑囚に当てはめて考えてみる。
「究極の運命としての死」を定めたのは、本人の犯罪と裁判所の判決だ。被告(凶悪犯)は犯行によって「石ではなくバナナ」を選び、絶対者に「死すべき運命」を刻印された。奇跡が起きて再審無罪にでもならない限り、生きて拘置所から出ることはできない。
だが、彼に対して「いつ死ぬか」を決めるのは法務大臣の仕事である。
再審請求、政治的信条や社会状況、その他さまざまな事情を考慮して総合的に判断し、執行命令書に赤鉛筆で署名する。

具体的に「誰が、いつ」死ぬかを定めるのはまさに死神の仕事である。
「究極の運命としての死」は本人の行いと絶対者の裁きによって定められたが、大鎌で生命を刈り取るのは死神だ。
多くの物語で死神は主人公の元に現れて「お前を連れて行く」と宣告する。そして主人公は哀願したり取引を持ちかけて死から逃れようとする。死神の仕事とは「究極の運命」を具体的な決定「誰が、いつ死ぬか」に落とし込むことだ。死神には決定権がある。
「究極の運命」は見えているけれどいつまでもたどり着かない地平線であり、「死神の仕事」はすぐ近くの場所を指定することだ。この区別を理解すれば、ただ一人法務大臣だけが死刑囚にとって死神そのものであることがわかる。
「法律で定められている」とか「判決が確定している」とか「犯罪を起こしたのが悪い」といった反論で執行命令署名者(法相)の「死神」性を否定することはできない。


死神という言葉に反発する「善意の人たち」が私には怖い。
彼らのほとんどは死刑制度維持を望んでいるのだろう。それが社会的正義にかなうと信じているのだろう。だが、法務大臣の仕事、つまり「誰にいつ死を与えるか決定する」のが死神の仕事そのままであることを知らない、あるいはそれを否定して死神という「言葉」に怒る姿が私にはグロテスクに見える。厳しい現実から目をそむけて「言葉」にアレルギーを起こすのは偽善的だ。

たとえば臓器移植の問題。
特に脳死状態のドナーから臓器を摘出することは心理的にたいへん辛いことだ。心臓が鼓動し温かい肉体を切り裂く。腎臓や肝臓、さらには心臓を取り出す。脳死を人の死と認めない人にとっては生体解剖そのものだ。もっと露悪的な言い方をすれば、「人間の肉を利用する」本質はカニバリズム(人肉食)と変わらない、とさえいえる。
移植治療を肯定するには、「移植はカニバリズムだ」という批判にたじろいではいけない。見方によってはそうなることを認めつつ、「移植は善であり人間を幸福にする」ことを確信を持って主張しなければいけない。
ちなみに私自身は脳死移植を含めて臓器移植を認めている。もちろんドナーカードも持っている。

もうひとつ、「代理出産」の例を挙げておく。
私はいわゆる代理出産について常に「 」付きで書くことにしている。「代理出産」の本質は女性を産む機械として使い捨てることであり、寄生出産と呼ぶほうが正しいと思っているからだ。肯定派が本気で「代理出産」を良いことだと信じていれば、「産む機械」「寄生出産」という言葉をぶつけられてもひるまないはずだ。
だが、実際のところそこまで覚悟の座った肯定派を見たことはほとんどない。世論調査で「代理出産を認めていい」と答える人たちの大部分は「産めない女性がかわいそう」という情緒だけで賛成しているに違いない。


Voice of Stone #1670 朝日コラム「死に神」と鳩山法相の奇妙な抗議
自信と責任をもって死刑執行命令にサインしたはずの鳩山邦夫法相が、100字足らずの「言葉遊び」に対して、狼狽し、支離滅裂なことを言い返してしまう現状が死刑制度の危うさを示している。

私に対する侮辱は一向に構わないならば「死刑執行責任者を死に神と称するなら、それで結構。私には死刑囚を死に導く責任がある」と言っておけば良かったのだ。

まったくその通りである。


参考記事
 「死に神」に怒る鳩山大臣はなぜ激するのか - 保坂展人のどこどこ日記
 法務大臣は死神か? そうです死神です - planet カラダン
 死神の名づけ親 - 過ぎ去ろうとしない過去
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「射殺」・SWAT・ネゴシエイター・スナイパー

2008年06月21日 | 死刑制度
警官の発砲・「犯人射殺」問題の三回目。とりあえずこれでおしまい。
例によって30年近く前のGun誌からの引用が主になる。なぜ古いGun誌なのかというと、

1 「体感治安」が悪化した現在の日本でも70年代末~80年代初めのアメリカよりよほどマシ
2 最近(といっても10年以上)Gun誌を買ってない
3 子供の頃に読んで強い印象が残っている

といったことが理由だ(2番はちょっとなさけない)。
威勢よく「凶悪犯は射殺せよ」と煽る人たちは、銃器愛好家の雑誌において「アメリカでは犯人をバンバン射殺している」「日本もそうすべきだ」という考え方が「フィクションの世界の話」として否定されていることを知ってほしい。


79年10月号 「ダラス市警特殊武装戦術チーム ダラス・スワットの装備」 ターク・タカノ

 今やダラス・シティは(中略)周辺衛星都市を含めると人口200万を軽く越し、かつ増加の一途をたどっている。
 (中略)
 ダラス・シティ・ポリス・オフィサーの総数は約2.000名、その中に今レポートで紹介するSWATが含まれる。
 (中略)
 SPECIAL WEAPON AND TACTICSを日本語に訳せば、特殊武装戦術とでもなるのだろうか?
 普通の警察力では対抗出来ない特殊犯罪、例を上げるなら重武装組織化されたもの、これには当然、銀行ギャング、テロ行為、武装暴動、誘拐などが含まれるが、これらに対抗するために組織されたのがSWATチームということになる。
 武器で対抗するのは最終手段であり、犯人に対する説得力、忍耐力を必要とされる。映画のようにバンバン射ちまくるのとは話が違う。
 退院は希望者から選抜するのであるが、2年以上のポリス・オフィサー(警察官)歴、抜群の勤務成績、射撃もPPCコースで95%以上射てなければならない。
 同時に、すぐカッと頭に血がのぼる人には向いていないし、この点、人選には大変に気をつかうと聞いている。いわば肉体的、精神的に健全でなければ隊員にはなれない。エリートということから米陸軍のグリーン・ベレーに似てないこともない。
 (中略)
 読者が気になる訓練だが、SWAT隊員となるための養成コースはもうけられておらず、毎日時間を決めて体力の維持、例えばマラソン、体操などに汗を流しているということだった。隊員のほとんどが軍隊経験者なら別に養成コースはなくても良いのかも知れない。
 射撃は休日を利用、自分自身で射場に行き練習しているとか……。ようするに市警の予算に限りがあり、弾の配給が十分でないから、うでを維持するのに必要な射撃練習が出来ないということらしい。
 射撃は身を守るための手段、しっかり練習していないと万が一の時に困るのは本人自身、近々ダラス・ポリス・オフィサー専用の射撃場が完成し、射撃練習にもっと力を入れるということである。
 さて装備武器について触れよう。M16フル/セミ付きを筆頭にウージーSMG、スナイパー・ライフルとしてレミントンM700、口径6mmレミントン、レミントン・ポンプ(12番)、ガス銃。M16、レミントンM700.ウージー、ガス銃は各分隊に各一丁ずつ装備されている。
 ハンドガンはリボルバーが主であるが、コルト45ガバ、ブローニングHPも見られる。
 (中略)
 以上の装備を見ると、凄い銃撃戦を予想しがちだが、実際は平和そのもの。資料によれば1892年以後市警での殉職ポリス・オフィサーは今までで39人、この12年間を見ても12名、最近の2年間に殉職したポリス・オフィサーはいない。
 恐らく読者には信じられないと思うのだが、1968年にスワットを創設したというから今日で11年目をむかえるが、今だかつてM16をはじめ、ウージーSMG、スナイパー・ライフルを射場以外で撃ったことがないという輝かしい記録を持っている。非常に結構な話である。
 銃撃戦はできるだけ避けて通り、犯人の説得に多くの時間をかけ、それが10時間にも及ぶことがあるという。しかし、いざ必要とあればM16、ウージーSMGが火を吹くことはいうまでもない。いかなる状況の変化にも十分対処出来るのがこのスワットなのだ。
 (中略)
 スワット・アクションとしての出動回数は、月1~2回程度それも小事件ばかりだということである。
 (中略)
 米国という国は事が起こった場合どうするか?という点を非常に重要視している。ドロナワ式ではないわけだ。
 (中略)
 いかなることにも対抗出来うる装備、能力を身に付けておくことが必要だ。何もなければ無駄かもしれない。この種の無駄は必要無駄だと筆者は思うのだが……。

人口200万というと、日本でいえば名古屋(約220万)や札幌(約190万)に相当する。
仮に名古屋市で12年で12人の警察官が殉職するような状況になれば大問題(03年~06年の全国の警察官殉職者数は24人)だが、アメリカでは「平和そのもの」。さすがアメリカ(悪い意味で)というか何というか。
そんな治安状況でもSWATが簡単に犯人を射殺したりしないことに注目してほしい。


80年2月号 「SELF-DIFENCE GUN」 ヒロシ・アベ

LAPDの発表によれば、79年1月だけでも犯罪件数は2万件を超え、殺人事件は65件起き、その検挙数は46人となっている。犯罪の増加は著しく、78年1月と比較して、強盗36.2%、強姦28.2%、暴行20.8%、こそ泥20.1%、窃盗15,4%と増えている。
 ポリス・オフィサー(約7.000人)の発砲件数は1月中に12件あり、4人の死者が出ている。ちなみにLA市内のオフィサーの発砲による死者は、77年中は32名、78年中は20名であった。

平成18年における警視庁の殺人認知件数は135件。2006年の一年間で東京で起きた殺人は1979年のロサンゼルスにおける二か月分に相当する。警官の発砲による犯人死亡をロサンゼルス(30名)の6分の1にすると「年間5件」となり、さらに日本とアメリカの銃器普及率(アメリカ=二億三千万丁 日本=30万丁)の違いを考慮すれば、「日本で(東京で)犯人射殺の事例がほとんどない」のが当たり前である。



83年6月号 「USAドキュメント ポリス・ストーリー8”SFPDホステジ・ネゴシエーター”」 ミエコ・ワトキンス

犯人説得のテクニック
 サンフランシスコでは、1974年から現在まで、70件のホステジ・シチュエーション(犯人が人質をとった状態)が起こっている。そして、そのうちのどれもが無事にネゴシエーション(交渉)が成功し、死傷者を出していない。これは、こうした事件が起きたときに働く、ホステジ・ネゴシエーターの努力の賜物なのだ。
 サージャントのバレンタインも、有能なネゴシエーターの一人だ。時には、ネゴシエーションが長時間、いや何日にもわたることも珍しくない。ネゴシエーターはまず、犯人が何者であるかを知らなければならない。そして、犯人が何を望んでいるか、どんな条件を要求しているかを見きわめる。その上で、こちら側がどこまでその要求をのむことができるかを決め、ネゴシエーションを進めるのである。
 人質にとられている人達はもちろん、犯人の生命の安全も、慎重に考慮しなければならない。ネゴシエーターの肩には重い責任がかかり、ストレスと緊張がつきまとう。
 (中略)
 では、ネゴシエーター側で利用できるテクニックには、どんなものがあるのだろうか。
 まず、その場の状況をよく見きわめることが大事だ。例えば、夏の暑い日に、犯人のたてこもっているビルディングの冷房を止める。犯人は暑さでのどが渇き、耐えられなくなって、ネゴシエーターの申し出た冷たいビールを得ることを条件に、人質を自由にする可能性がある。
 また、食物を利用することもできる。空腹になるにつれて、犯人はイライラとしてくる。そのとき、ハンバーガーと人質の一人を交換するのに成功した例もある。
 食物は、犯人に人間らしさを呼び起こさせる。たとえば、ハンバーガーひとつにしても、マクドナルドのハンバーガーが好きかとか、よく焼けたのがよいか、ピクルスもつけようか、と話しかけるネゴシエーターの心づかいは、犯人の気持を柔らげ、ほぐすのだ。
 あるポリス・デパートメントでは、非常用の大型車に台所が備えつけてあり、いつでも食事の用意ができるようになっているという。
 場合によっては、ベーコンを料理し、送風機でその匂いを犯人のほうに送る。アメリカでは、ベーコンを料理する匂いは、最も食欲をそそる匂いなのだ。とにかく、最悪の状態を避け、人命を尊重するためには、このような手段も必要なのだ。ネゴシエーションが長時間にわたっても、最善をつくして、犯人を説き伏せるのである。
 ホステジ・ネゴシエーションが、どんなにうまく運ばれているときでも、SWAT(SFPDではタクティカル・ユニット)は、いつでも現場のすぐ近くにいて、攻撃の態勢にある。最悪の場合には、現場に踏み込み、人質を救出しなければならないからだ。

あくまでも、人命の安全が、第一だ!
 1979年、サンフランシスコ市役所の近くで事件が起こった。勤めの終わる午後5時頃である。22歳の男が、女性秘書を人質にしてオフィスにたてこもった。男は2丁のライフルと、200発の弾、手榴弾で武装していた。
 (中略)
 ネゴシエーションは25時間にわたって続けられ、ついに犯人は捕らえられた。人質だった秘書は無事救出された。犯人が捕らえられる前の6時間の間、犯人を説き続けたのは、女性のホステジ・ネゴシエーターだった。
 女性ネゴシエーターの柔らかく、やさしい呼びかけは、犯人の気持をほぐし、眠りまでさそってしまったのだ。救出の人々が室内に踏み込んだとき、犯人はうとうとと眠りに入っていたという。
 この事件の際、オフィサーのフルトンは、スナイパーとして働いた。25時間、休みなしのぶっ通しである。すべてが終わったとき、心身ともにくたくたになっていた。
 スナイパーには、ネゴシエーションの過程は知らされない。すべての行動は、上司の指示でのみ行われる。もちろん、危急の場合、自分の判断で行動しなければならにこともありうる。
 現場から目を離さす指令を待つその長い時間、「どんなことがオフィサーの心の中をよぎったか、何を心配したか?」と聞いてみた。
 オフィサーは、「とにかく、だれにも怪我がなく、無事にすむようにとだけ思っていた」と答えた。
 「犯人の命もですか?」と言うと、オフィサーは、「犯人の命も人命に変わりないから」と言い、ニコッと笑う。
 このときの犯人は、捕らえられた夜に、拘置所で自殺をした。オフィサーによると、人質をとる犯人の約80%は精神異常者だそうだ。
 物語や、映画では、犯人が人質をとった場面になると、重々しく武装したSWATチームがすぐに踏み込み、人質を救出し、犯人は手を上げるか射殺されるという結果になるのが多い。いざというときのために、もちろんSWATチームの任務は重大だ。
 だが、実際においては、まず犯人を説得するという大事なことを忘れてはならないのである。よく訓練されたホステジ・ネゴシエーターが、精神に異常をきたした危険な犯人をなっとくさせ、犯人に武器を捨てさせ、人質を無事に救出するケースは、数知れないのである。
 今、このとき、アメリカのどこかで、誰かが人質にとられ、ネゴシエーターが現場に駆けつけているかもしれない。現場に向かうネゴシエーターの両肩には、あくまでも人命を救うという重い責任が、どっしりとかかっているのだ。

アメリカでも人質事件解決の基本は「説得」であり「射殺」は最後の手段である。



81年7月号 「FBIスナイパー! レミントンM700ライフル」 イチロー・ナガタ

スタックホーム・シンドローム
 あるビルの一室に犯人がたてこもったとする。例によってスワットは出動し、スナイパーはなるべく近くに忍び寄って、スコープごしに犯人の一挙一動を観察する。FBIからは熟練したネゴシエイターがやって来て懸命に説得し、やがて、犯人のお母さんまで呼ばれてきて長々と悲しいやり取りが始まる。人殺しとはいえ、根っからの悪人ではないものだ。この文明社会のひずみ、貧富の差、政治の貧困などが原因となって、アリジゴクに落ちた虫のようにズルズルと悪の道に落ち込み、ちょっとしたハズミに運命のツメに引っかけられて、気が付いたら人を殺していた……。そんな例が一番多く、そんなドラマの終結を目のあたりに見せつけられたら、「死ぬべき奴はこの男ではなく、私腹を肥やしてばかりいるある大臣か誰かじゃないのだろうか? この男は社会から疎外された被害者なのだ……」と、感じるのが思考力のある人というものだ。
 スコープを通して犯人の顔を見ながら待機するスナイパーにも、6時間、8時間と経つうちに犯人の貧しい生いたちや家族の悲しみなどがヒシヒシと伝わってくる。現場に到着した時は、「ヨーシ、俺が撃つ!」と自信を持っていたスナイパーでも、そういったストーリーを全部知ってしまうと、さすがに犯人に対する同情を禁じ得なくなる。そうこうしているうちに、錯乱した犯人は説得に応ずるどころか、ますます狂暴化し、あきらめたネゴシエイターはスワット隊長にそれを告げる。
 隊長は、突撃隊かスナイパーか、どちらを使うべきかと考え、場合によってはスナイパーに“GO”サインを送る。その瞬間、スナイパーの心は動揺し、どうしてもトリガーを引けなくなることがある。この心理的状態をスタックホーム・シンドロームと呼ぶわけだ。
 「スナイパーはスイッチをONにされたマシーンのように動かなければならない……」と、先に書いた。これはカッコ良く聞こえるだろうが、それがどんなにスサまじいことかを、たまには劇画の世界から抜け出して考えてみようではないか。

犯人も人間、スナイパーも人間である。
気軽に「撃て!」「殺せ!」と煽るのはフィクションを見ているときだけにしてほしい。
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Shoot or don' shoot

2008年06月17日 | 死刑制度
秋葉原事件のあとで噴出した銃と射撃について何も知らない人々の「発砲しろ」「凶悪犯を射殺しろ」という煽りには本当に呆れる。
いや、腹の底から怒りが湧き上がる。銃弾の危険性を、人の命をいったい何だと思ってるのか。
はてなブックマークで注目していただいたこともあり、「警察官が発砲すること」について何回か書いてみたい。
またしてもネタ元は大昔のGUN誌である。古い話でごめんなさい。たしかに古いが、27年前の記事だからといって時代遅れではない。アメリカでも日本でも、警察官が発砲において備えるべき能力、心構えを明らかにした良記事である。

以下はGUN誌1981年2月号に掲載されたイチロー・ナガタ氏の記事からの引用。
スミス&ウェッソン(S&W)社はアメリカを代表する銃器の名門だ。


「スミス&ウェッソン・アカデミー」

 S&Wアカデミーといえば、ポリス・インストラクターを育てる学校として世界一流だといわれ、私の周囲のインストラクターたちの中にも、このアカデミーを卒業するのが夢だという連中が多い。また、そこのディレクターであるチャールス・スミスという人は、FBIのチーフ・インストラクターとして活躍した人で、東のチャールス・スミス、西のジーン・ジョーンズとして有名な存在だった。

入学したナガタ氏は実戦的で高度なコンバット・シューティングを叩き込まれる。実技の後はディスカッションだ。

■ シュート・オア・ドン・シュート
 チャーリーは屋外で生徒をしごくのをハンクとボブにまかせ、自分はインドアでのディスカッションに専念する。問題はどれも現実的なものだけに、一言でこれと言い切れるものはなく、たとえば、犯人が君の目の前で人質をとったらどうする、撃つか撃たないか……。また、君は君の生徒であるオフィサーたちにそんな時のことをどう教えるか……。といった問題提起をチャーリーがして、各インストラクターの体験や意見の交換が活発に行われる。
(中略)
 チャーリーは言った、「シューティングのテクニックは機械的作業だ。犯人にGUNを向けた時、うまく当たるかどうかなんて心配するようではだめだ、それは当然あたる必要があるわけで、それより君にとって一番大切なことは、撃つか、撃たないかを決める、その一瞬の決断だ。“シュート・オア・ドン・シュート”。これを正しく決断できないといけない」。 
 「では、これから映画を映すから、一人ずつスクリーンの前に立って、撃つべきときに撃て、もちろんGUNにはタマを入れる必要はない……」
 私はS&WのM10を両手に持って、銃口を45度下に向けてスクリーンを見つめた。
 それは夜の街だった。静まり返った舗道にオフィサーの足音がコツコツとひびく。カメラは、オフィサーの目のアングルでパトロールする。やがてオフィサーの目はコイン・ランドリーに入って中をチェックする。誰もいない。いや、ヒョット横を向くと、一人の男が若い女を床に組み敷いているではないか! 私はハッと、男をGUNポイントする。
 しかし、このまま撃ったらタマは男を貫通して女のほうも傷つけるし、それに男が武器を持っているかどうかさえ疑問だ。私は待った。男はヒョイと振り向くと、立ちあがりざまに右手をサッとあげた。ナイフだ!だが、男の動きからしてそのナイフを投げる体勢には見えないのでトリガーは引かない。案の定、男はポロリとナイフを落として両手を上げた。だが、次のシーンで、私はフッ飛ばされることになる。
 同じく、カメラは夜の街をパトロールし、やがて小さなスーパー・マーケットをヒョイとのぞく。そこには一人の黒人がピカピカに光る大型リボルバーをキャッシャーの男に突きつけた、典型的なホールドアップ・シーンがあった。

[写真](キャプション)
スーパー・マーケットでのホールドアップ・シーン。ここで撃ってはいけない。


 向こうのほうにも一人いるようだが、あれは客らしい。これはいただきとばかり私はGUNポイントする。動くな! パッとこっちを見た男はいきなりGUNをスイングした。チャキッ! 私のトリガーは一瞬早かった。

[写真](キャプション)
犯人がGUNをこっちに向けようとした時点で、はじめてこちらも発砲して良い。
アメリカン・ポリスがやたらと犯人を撃つと思っていたら大間違いだ。


 だが、次の瞬間、奥に居た客らしい男がショットガンをこちらに向けてドッバーンとブッ放したではないか!
 ―― 私はしばらく声も出ない。「いいか、常に犯人が一人とは限らないぞ! 特にスーパー・マーケットのホールドアップなどは、複数だと思っていて間違いないのだから、決して一人の男だけに神経を集中してはいけない…」と、ボブは言いながら、フィルムを戻して初めからやり直してくれる。
 画面は最初に戻り、マーケットの内部をカメラがのぞく。ピカピカのGUNをかまえた男がまず目に入る。そしてよく見ると、その奥の方に居る男はちゃんとショットガンを持っているではないか。なぜさっきは見えなかったんだろう。私はGUNをかまえる。手前の男がスイングする。私はトリガーを引く。とたんに奥の男が振り向きざまに撃とうとする。一瞬前に私は2度目のトリガーを引く。それは1秒間に3発くらいのスピードを要するが、落ち着いてやれば誰にでも出来ることだった。
 以来、私は何度もそれを思い出し、「コンバット・シューティングの極意とは、平静な心構えである」というチャーリーの教えを心に刻み込んでいる。

[写真]オープンカーに乗った美女
(キャプション)
スピード違反でスポーツカーを捕らえたら、グラマーな美女が乗っていて、
ニコニコ笑いながらハンドバッグからGUNを取り出して、いきなりドギュン!

[写真]人の多い歩道を逃走しながらこちらに銃を向ける犯人
(キャプション)
このように犯人の後ろに人が居る時は非常に難しい。
君のGUNがM59のような9mmパラだったら、貫通する可能性が高いので
撃つべきでないし、大体走っている男を一発で仕留めるにはよほどの腕が必要だ。

長く厳しいトレーニングの後、ナガタ氏はS&Wアカデミー校長チャールス・スミスの哲学を理解する。

■ プロフェッショナル・キラー
 「私たちがこのアカデミーで育てるのは、より高度に訓練されたプロフェッショナルな殺し屋である……」と、チャーリーは言う。
 「その殺し屋のテクニックがより高度な程、パブリックというものを悪の手から守ることが出来るし、その自信ゆえ、不必要に犯人を射殺することなく、かつ犯人を一人の人間と見て、その命を救うことも可能なのだ。アカデミーではキラーを育てるが、その目的は人殺しではなく、パブリックとオフィサーを守り、なおかつ相手を守ることにある。
 凶悪犯人とはいえ、一人の人間であることには変わりないからだ。われわれが正義と信じることにポリス・オフィサーを使うなら、彼等にはより優れたテクニックと心構え、そして自信を持ってもらいたい。
 また正当な理由から犯人を射殺したオフィサーをヘルプするのも我々の仕事だと思う。オフィサーも一般の人々と同じように感情というものを持っている。やむを得なかったとはいえ、一人の人間を殺してしまったことからくるショックは大きく、罪の意識を感じて深く傷つくオフィサーが多い。そういった場合、やはり我々は彼等と会って、なんらかの方法で助けるわけだ。
 私はこのパブリックを守るという仕事を愛している。私はもっともっと多くの、世界中の人々と知り合いたい。そして、いかにしてパブリックを守るかを話し合いたいと思う……」 こんなような意味のチャーリーの哲学をシューティングの合間に毎日断片的に聞いてゆくと、2週間目に入る頃からなんとなく目が覚めたようになり、日頃ただ楽しんでいるだけのコンバット・シューティングが、なに故にあり、どれ程重要であるかということの確信が、ある重量感をともなって心の中に強く定着してくるのを感じた。

用語説明
  M10    = S&W社の代表的リボルバー「ミリタリー&ポリス」
  M59    = S&W社の大型自動拳銃
  トリガー   = 銃の引金
  9mmパラ = 9mm×19「パラベラム」弾。軍用・警察用自動拳銃の標準的弾薬。

悲惨な事件に興奮して「犯人を射殺しろ!殺せ!」と叫ぶトリガーハッピー(撃ちたがり)どもはチャールス・スミス氏の爪の垢を煎じて飲め、と言いたい。スミス氏は日本人が「警官の銃は殺人のための道具」と見ていることを知ればきっと悲しむに違いない。

スミス氏は「犯人に銃を向けたとき当たるかどうか心配するようではだめだ、それは当然あたる必要がある」と言うが、日本の警官にそれを望むのは残念ながら無理なことだ。

平成19年9月13日 国家公安委員会定例会議
佐藤委員より、「予算や時間の制約もあるだろうが、必要な時には常に冷静にけん銃を使用できるように、日頃から訓練しておくことが大切である」旨、発言し、官房長から、「けん銃使用規範を改正した際、射撃訓練についてもより徹底して行うこととし、以前より相当増えた。訓練のための弾数に不足はないが、訓練時間はなかなか取れない」旨の説明があった。葛西委員より、「1年間で警察官一人当たり何発くらい撃っているのか」旨、質問し、官房長から、「一概には申し上げられないが、平均すれば年間で数十発程度を使用して訓練を実施している」旨の説明があった。

射撃訓練を「より徹底して」行うようになった現在も「年間で数十発程度」の練習量だという。アメリカなら軽く一日で消費するタマ数だ。これではスミス氏が望むような「うまく当たるかどうか心配しないですむ」腕前を養成するのは不可能である。車でいえばサンデードライバーより運転経験が少ないのだから。
石川県警の射撃訓練要綱(pdfhtml)を見ても、実戦的コンバットシューティングとは程遠い標的射撃(据物撃ち)でしかない。

となると、せめて「撃つか、撃たないかを決める、その一瞬の決断」のため判断力・精神力を鍛えるのが射撃能力向上の道ということになる。幸いなことに、想定される発砲の状況を体験できるシミュレータが全国で57台配備されているそうだ。コンバット・シューティングの必要性を認める警察官は実弾射撃が足りない分をイメージトレーニングやエアソフトガンで補っているのかもしれない。


チャールス・スミス氏の語るポリス・コンバット・シューティングの極意は「平常心」と「人を生かすための射撃テクニック」だという。まるで「五輪書」「活人剣」「不殺の剣」の世界である。正直なところアメリカの警察官すべてがこれほど立派だとは思えないが、スミス氏のような人が尊敬され「警察射撃教官の先生」を任されていることはやはり大したものである。
ほとんどの日本人は剣の世界に精神性を見出すはずだ。刀は「武士の魂」であり、気軽に抜いたり人を切り捨てるため差しているのではない。外国人が「日本刀は殺人の道具」と言えば「わかってないな」と思う。
警官の銃も同じだ。腕を磨かず腰の飾りにしてはいけないが、かといってやたらに振りまわしたり安易に引き金を引くものではない。
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「凶悪犯を射殺しろ!」

2008年06月15日 | 死刑制度
「据物撃ちなら誰でもできる」の続き。

gooやYahoo!で「秋葉原 射殺」をキーワードにブログ検索すると何十件もヒットする。
(例 [コメント欄に批判あり])
どれも判で押したように同じ主張だ。

「秋葉原事件のような凶悪犯は射殺せよ!」
「犯人射殺はアメリカでは当たり前のことだ!」

ああ、バカバカしい!!!
何も知らず考えない人ほど威勢のいいことを言う。本人は正論のつもりだろうが恥をさらしているだけである。
前の記事で取り上げた「発砲を期待する」意見のほうがよほどマシだ。あちらは「気持は分かるが認識が甘い」と指摘すればすむが、「射殺煽り」は悪質なトンデモである。

あらかじめ断っておくが、おそらく射殺論者が目の敵にしているだろう左翼人権論(犯人にも生きる権利が~)による批判をするつもりはない。人権を持ち出す以前の認識からして射殺煽りはどうしようもないのだ。


■ 「アメリカでは普通に射殺している」という説
「日本とアメリカはぜんぜん違う」で終わり。
…なのだが、それでは分からない人がいるかもしれない。
凶悪犯罪における日本とアメリカの大きな違いは何か。いまさら言うまでもなく「銃」の存在だ。アメリカはまぎれもない銃社会であり、多くの犯罪に銃器が使われる。

アメリカ情報局: アメリカの殺人事件 前年度を上回る
アメリカ連邦捜査局(FBI)が9月24日に発表した
犯罪発生状況によると、アメリカで2006年の
1年間に発生した殺人事件は17,034件で、
前年度に比べ1.8%増加した。

殺人事件の約90%が都市部で発生。
また約70%が銃が凶器で使用されたという。

アメリカでは「犯人は必ず銃を持っている」という前提で対処しないと警官の命がいくつあっても足りない。銃の威力に対抗できるのは銃だけだ。撃たれたら撃ち返すのが当然で、場合によっては撃たれる前に撃たなければならない。
結果として犯人が射殺される事例は多くなる。だが警官に犯人を殺処分する権利が認められているわけではなく、まして好き好んで射殺しているのではない。銃社会の悲しい現実として犯人射殺が多発「してしまう」のだ。


■ 法律問題
日本は法治国家である(ということになっている)。警察官が銃器を使用するときは、以下の法律・規則に従わなければならない。

警察官等けん銃使用及び取扱い規範
第八条  警察官は、法第七条 ただし書に規定する場合には、相手に向けてけん銃を撃つことができる。
2  前項の規定によりけん銃を撃つときは、相手以外の者に危害を及ぼし、又は損害を与えないよう、事態の急迫の程度、周囲の状況その他の事情に応じ、必要な注意を払わなければならない。

上記条文の「法第七条 ただし書に規定」されているのは以下の通り。

警察官職務執行法(昭和二十三年七月十二日法律第百三十六号) 「第七条」
(武器の使用)
第七条  警察官は、犯人の逮捕若しくは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる。但し、刑法(明治四十年法律第四十五号)第三十六条(正当防衛)若しくは同法第三十七条(緊急避難)に該当する場合又は左の各号の一に該当する場合を除いては、人に危害を与えてはならない。
一  死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁こにあたる兇悪な罪を現に犯し、若しくは既に犯したと疑うに足りる充分な理由のある者がその者に対する警察官の職務の執行に対して抵抗し、若しくは逃亡しようとするとき又は第三者がその者を逃がそうとして警察官に抵抗するとき、これを防ぎ、又は逮捕するために他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当な理由のある場合。
二  逮捕状により逮捕する際又は勾引状若しくは勾留状を執行する際その本人がその者に対する警察官の職務の執行に対して抵抗し、若しくは逃亡しようとするとき又は第三者がその者を逃がそうとして警察官に抵抗するとき、これを防ぎ、又は逮捕するために他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当な理由のある場合。

警官が発砲する目的は

・ 犯人の逮捕若しくは逃走の防止
・ 自己若しくは他人に対する防護
・ 公務執行に対する抵抗の抑止

の三つに限られている。もちろん「射殺」を目的とする発砲を認めた法律・規則はない。
警官は「他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当な理由のある場合」に発砲し、犯人を生きて逮捕できなければ完全な成功とは言えない。
だが実際のところ「警官が容疑者を射殺」という事例は年に何度か起きている。それは上記の目的を達成しようと発砲した結果、残念ながら被疑者が死亡したということだ。目的ではなく結果として死亡事例が発生「してしまう」のである。

参考記事
 “警察官が相手に銃を向けてもいい条件”を調べてみたよ。 - 想像力はベッドルームと路上から


■ 警察という組織
「射殺論者」の愚かさは、興奮した世論が警察に「犯人(容疑者)を射殺しろ」と要求しても、警察が「はい射殺します」とは言えないことを分かってないことにも表れている。上で書いたように法律的に警官が「射殺目的で発砲する」ことは認められていない。いや、法律以前に憲法の規定がある。

日本国憲法第31条 - Wikipedia
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

日本国憲法第32条 - Wikipedia
何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。

日本国憲法第37条 - Wikipedia
1 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。

「犯人の人権論」に近付いてきたがそちらに踏み込むつもりはない(その必要もない)。
重要なのは、治安を預かり国民に法律を遵守させる役割の警察が「世論のご希望通り射殺します、法律や憲法なんか知らないよ」というふざけた態度は示せないということだ。そんなことをすれば警察への信頼が根底から傷ついてしまう。警察官僚・警察官にとってはひとつの事件で失態を見せるよりずっと恐いことである。
世論が「必要なときは発砲していい、結果的に犯人が死んでも仕方ない」と認めるのは警察への応援になるが、「警察は犯人を(意図的に)射殺しろ」という煽りは警察のイメージを損ない足を引っ張るだけだ。有難迷惑というよりひたすら迷惑である。


■ 警察官の士気
私は警察官の教育が実際のところどのように行われているか知らない。
知らないが、確信を持って言えることが一つある。それは、個人の正義感を暴走させることは厳に戒められているに違いない、ということだ。
これまで書いてきたように、日本において「警官は凶悪犯をその場の判断で射殺せよ」という命令は社会的・法律的・組織的に不可能である。日本の警官は犯罪捜査と容疑者の逮捕を教育されているのであり、人殺し(射殺)せよとは教えられていない。
だとすれば、「射殺」を期待する者は警官個人の暴走に期待するほかない。
民間人が「凶悪犯はその場で射殺」を期待し、声高に煽りたてるのは「個人的正義感で暴走するな」という警官の基本的な道徳をないがしろにし破壊することである。まじめな警官ほど「射殺煽り」にとまどい、地道な捜査・逮捕より派手な銃撃を喜ぶ風潮に呆れ、かえって士気を下げることになるだろう。

ダーティハリー症候群 - Wikipedia
ダーティハリー症候群(Dirty Harry syndrome)は、警察官が陥るとされる精神状態の俗称である。別名ワイアット・アープ症候群(Wyatt Earp syndrome)。

現実社会において、正義の執行者を自任、“悪党に生きている資格はない”という歪んだ正義感によって、目の前の現行犯人をたとえ微罪でも射殺し、「逮捕に抵抗するからだ」と正当化してしまう。ダーティハリーはアメリカ映画のタイトルであり、「主人公ハリー・キャラハンが正義の名のもとに犯罪者を自ら次々と『処刑』」してゆく」という映画の印象にちなんで、この名で呼ばれるようになった。この映画の2作目においても、この症候群に侵された登場人物が存在する。

拳銃を抜く事について比較的寛容なアメリカの警察で罹患する例が多く見受けられ(実際には発砲が適正であったかについての調査が日本同様に為される)、日本の警察ではほとんどない。

お気楽な正義感による「射殺煽り」はダーティーハリー症候群のウィルスを撒き散らしているようなものだ。法と秩序をないがしろにする反社会的言説と呼ぶほかない。


■ 犯人の心理
仮に「凶悪犯は警官がその場の判断で射殺してよい」という世の中になったとする。
そのとき凶悪犯はどうするだろう。おとなしく射殺されるはずがない。なんとかして生き延びようとするに決まってる。
犯人をその場で射殺するのが正義とされる世の中では、凶悪犯が警察を信じて投降することはない。死人に口なし、事件後に「抵抗したので射殺した」と発表されても言い訳できない。「どうせ死ぬなら」最後まで必死で抵抗し、流される血の量は増えるだろう。
自分だけで抵抗するだけならまだいい。問題なのは第三者を巻き込んで悪あがきすることだ。
いくら世論が「凶悪犯を射殺せよ」で固まっていても、人質もろとも撃ち殺すことまでは許容しない。犯人は自分だけなら撃ち殺され、人質を盾にすれば何日か生き延びられる。追い詰められたときどちらを選ぶかは言うまでもない。
「その場で射殺」メソッドは犯人の警察への信頼(投降しても命はとらないだろう、拷問しないだろう)を失わせ、普通の暴力犯を最悪の凶悪犯にする愚策だ。


■ 結論
「警察は治安維持のために銃を適切に使え」と主張するのは問題ない。
だが、派手な事件に興奮して「凶悪犯はその場で射殺しろ!」と煽るのはまったく馬鹿げている。
この違いがわからない者は馬鹿に違いないと断言する。
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