鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や    大阪の黒門市場を散歩

2013-12-28 18:56:21 | 日記
今年最後のブログは大阪の黒門市場を紹介しまひょ。

大阪のミナミを代表する市場だっせ。

卸売り市場じゃなくて素人でも買えるので商店街のような感じ。

(日本橋1丁目 道路標識)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

お江戸は日本橋(にほんばし)でっけど

大阪は日本橋(にっぽんばし)と呼びますんや。

大阪人は住所を縮めて日本橋1丁目を「日本一」(にっぽんいち)

わてらのような年配者だったら、これで通用しまんねんで。

天神橋筋6丁目が「天六」 谷町4丁目が「谷四」

上本町6丁目が「上六」 こんな感じでっけど。 

南北の堺筋と東西の千日前通りが交差するのが日本橋1丁目でおます。

ここから徒歩で3分ぐらい千日前通りの一つ南を東へ入るか
それとも堺筋の一つ東側の筋が黒門市場だっせ。

(黒門市場 堺筋側の入口)  (大阪市中央区日本橋1丁目&2丁目)


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ここ黒門市場は江戸時代の後半に「圓明寺」(えんみょうじ)というお寺の
山門の東側に青空市場が出来たのがルーツなんだって。

このお寺の名前を拝借して明治時代には「圓明寺市場」(えんみょうじいちば)
と呼ばれていたそうですわ。

1915年(明治45年)にミナミの大火でお寺も市場も焼失してしまったとか。

大正時代に市場が再建されて「圓明寺」の山門が黒く塗られていた由来から
何時の間にか人々が「黒門市場」と呼ぶようになったと言われてますんや。

お寺の方は東住吉区の矢田に同じ名前があるのでここへ移設されたのかも?

(黒門市場の風景)


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黒門市場は鮮魚店が50店舗以上あり全体でも四割近くになりまんねんで。

秋から冬にかけて大阪人は本物の「ふぐ」を食べる事にこだわるとか。

この季節なら黒門市場は「ふぐ」のオンパレードのような感じでっせ。

(黒門市場 ふぐ 太政)


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わてのお勧めはここ「ふぐ 太政(ふとまさ)」さんの持ち帰り専門店でおます。

山口県の下関から空輸して来た「とらふぐ」をその場で調理してくれますんや。

わてが昔、馴染みにしていた割烹さんなども、ふぐ調理の免許がないので
ここで調理したのを買ってきてお客に提供してましたんや。

この時期、大阪では「てっちり」や「てっさ」が無いと流行りまへんで。

ミナミの飲食店では「ふぐ中毒」を恐れて黒門市場で調理済みの
「ふぐ」を買うのが安心という信頼関係かもしれまへん。

最近は大きい声では言えまへんけど「ふぐもどき」を出すらしい安い店が
チエーン店まで作って「ずぼ●や」なんていう飲食店もおます。

それでも本物の「とらふぐ」が食べたいというのが庶民の願いですわな。

平日は黒門市場を訪れる客は1万人ぐらいでっけど、年末の大晦日などは
1日で15万人が押し寄せるという盛況がみられまっせ。

食い倒れ大阪の味を代表するのがここ黒門市場でおます。

(ふぐの刺身 てっさ) (1人前 1500円)


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最近は長崎県で「とらふぐ」の養殖も行われているそうで
「ふぐ」も年間を通して食べることができるようになったんだって。

(ふぐの鍋物 てっちり) (1人前3000円)


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骨の周りに、ぼってりと付く身は、てっちりにしたら
身ばなれが良く極上の白身で上品な味でっせ。

本物の「とらふぐ」を食べたら、最近の安もんの飲食店で出される
「ふぐもどき」とはひと味もふた味も違いがおますんや。

(ふぐ 太政 日本橋店)


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このお店は、わてが現役時代に本物の「ふぐ料理」を食べた事が無いと
いう方に会社の接待で、ちょこちょこ使わしてもらった専門店でおます。

コースで「てっさ」「唐揚げ」「てっちり」最後に「ふぐ雑炊」を食べたら
1人前が1万円~1万5千円ぐらいしましたかな。

「ふぐもどき」なら1人前のコース料理でも5千円でおつりが来ますやろ。

でも味の方は月とスッポンぐらいの違いがおますかな。

(黒門市場の風景)


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もしも~ 大阪へ冬場に来られる機会があれば地下鉄「日本橋駅」から
10番出口を出て、徒歩で3分の黒門市場へお立ち寄りください。

ふぐ販売のお店が1階の奥の方や2階で「ふぐ料理」を提供する店も増えてま。

1人前が1万円ぐらいしまっけど、騙されたと思って
一度だけ賞味しておくれやす。

本年はわての拙いプログにお付き合い頂きありがとうさんでした。

皆さま方には、良い新年をお迎えされますように、お祈りしております。

ほんなら、これで、さいなら~
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鉄ちゃん爺や  岡山・倉敷の美観地区を訪ねて

2013-12-21 13:24:57 | 旅行
今回は岡山県の倉敷市を紹介しまひょ。

倉敷市は江戸時代には幕府の天領で代官所が置かれてましたんや。

備前の岡山が池田家31万5千石の城下町に対して
倉敷は備中の国の農産物の集積地として栄えたんだって。

人口約48万人を数え岡山県では岡山市に次ぐ大きな町でっせ。

(倉敷市 マンホールの蓋)


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町の花が藤だそうでマンホールのデザインにも使われてまんな。

倉敷と言ったら、白壁の建物が残る「美観地区」が有名でっしゃろ。

大半の観光客は国の重要伝統的建造物群保存地区である
倉敷川沿いの旧街しか、ご存知ないでっしゃろな。

案外、知られてないのが倉敷市は西日本では大阪市に次ぐ
製造品出荷額が4兆円を誇る一大工業都市でもおますんや。

なんと北九州市や広島市や神戸市を上回ってるんだって。

岡山県全体で7兆2900億円の過半数を占めてるんやそうな。

水島コンビナートが出来て戦後に大きく発展した町でっしゃろ。

それにジーンズの発祥の地である児島地区も倉敷市でっせ。

学生服やユニホームなど国内では大半がここで製造されてま。

(水島コンビナートの夜景)


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倉敷市の生み出す製造品出荷額約4兆円の大半になる
3兆6千億円がここ水島コンビナートで製造されているんだって。

一寸、横道に逸れてしまいましたんで本題へ戻りまひょ。

(倉敷市 美観地区入口の標識)


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倉敷市の美観地区は関西からだったら日帰りバスツアーなどで賑わう
土日などは銀座や心斎橋を歩くような混雑になりまんねんで。

わてが訪れたのは平日だったんで写真もそれなりに撮れましたわ。

(倉敷川沿いの 美観地区)


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川沿いに人がゾロゾロ歩いていたら美観地区の魅力も半減しまっせ。

これぐらいが、風景写真には丁度いいんと違いまつしゃろか?

(今橋から 大原美術館を撮影)


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この辺りが倉敷の美観地区では一番の人気スポツトでっしゃろな。

大原美術館は1930年(昭和5年)に倉敷紡績二代目社長
大原孫三郎が造った日本初の西洋美術館なんだって。

入口の所だけ覗いてみまひょかな。

(大原美術館 正面玄関)


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玄関の横に見えてる彫刻はロダン作「カレーの市民」だっせ。

館内にはエルグレコ作「受胎告知」や
ゴーギャン作「かぐわしき大地」などの名画が展示されてますんや。

今でこそ、紡績会社は斜陽産業でっけど明治から昭和も戦後まで
「ガチャ万」と言われるぐらいに儲かったんでっせ。

「ガチャン」と織機が音を立てるたびに1万円になったとか。

(倉敷川沿いの 大原邸)


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大原孫三郎は親の代から倉敷では名門の家系でしたんや。

現在のクラボウ・クラレ・中国銀行・中国電力などを
育てて中国地方の大会社にしたのが大原孫三郎だったとか。

岡山ではミニ財閥と言われるほどの大原家だったそうだっせ。

どうせ~ 館内は撮影禁止でっしゃろから次へ行きまひょ。

(旧倉敷町 村役場)


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1917年(大正6年)に出来た洋風木造建築のようですわ。

現在は美観地区の観光案内所と無料休憩所になってるようでんな。

中を覗いてみまひょ。

(旧倉敷町 村役場 内部)


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もう少しだけ美観地区を歩いてみまひょ。

わてが~ 初めて倉敷のこの辺りを歩いたのは中学生時代だったはず。

当時はまだ美観地区なんて名前は当然付いてまへんでした。

でも本当に江戸時代から明治時代頃の風情を感じる趣がおましたで。

当時は古びた建物がそれとなく残っているような感じでしたわ。

現在は「なまこ壁」や漆喰が新しく塗替えらてれしまいましたがな。

派手に観光化してしまったのが残念でおます。

(倉敷川沿いの 美観地区)


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(結婚式の 写真撮影中)


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ごめんなさいね~  後ろ姿だけ写さしてもらいましたで。

そもそも倉敷という地名は高梁川を経由して米や特産物がここ倉敷川沿いに
送られて保管された蔵屋敷が転じて倉敷村となったんだって。

江戸時代にはこの倉敷川から児島湾や下津井港を経由して
大坂へ送られた、ちゅうことでっしゃろな。

(土産物店  猫屋敷)


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猫好きな方には、たまらないお店かもしれまへんな。

いろんな猫関係のグッツが並んでますわ。

(倉敷の美観地区の 土産物店街)


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この日は鈍行で大阪へ帰る日でしたので昼食を済ましたら
在来線の倉敷駅の方へ戻ることにしましたんや。

(倉敷市 中央通り)


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(JR倉敷駅舎)


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この駅は在来線のみで新幹線は二駅ほど広島側に寄った
新倉敷駅になりまんねんで。

今日はこれでお仕舞いにさせてもらいまひょ。

ほな、さいなら~♪
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鉄ちゃん爺や    岡山・後楽園を訪ねて

2013-12-14 16:46:17 | 旅行
「後楽園」と言うたら何を思い出しはりまっか?

東京都内の遊戯施設でっか、それとも後楽園ホール、

オールドフアンには懐かしい巨人軍の本拠地だった野球場でっか

正解は江戸時代の水戸徳川家の上屋敷に在った庭園の名前ですわ。

現在は東京都の公園になっている「小石川・後楽園」がルーツでんな。

この「後楽園」の名付け親は水戸黄門さんと呼ばれる徳川光圀公だっせ。

中国式の庭園で儒教の師匠であった朱舜水(しゅしゅんすい)が
古い中国の教えを説き水戸黄門さんが庭の名前に採用したそうですわ。

「士はまさに天下の憂いに先立って憂い

  天下の楽しみに遅れて楽しむ」


(岡山・後楽園の正門)


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日本三名園の一つ「後楽園」が何故か同じ名前を名乗っているのを
皆さんは不思議に思いまへんか?

これには明治維新後の水戸・徳川家の苦渋の選択から
お話をしないといけまへのや。

岡山の「後楽園」は明治4年までは「御後園」(ごこうえん)とか
「後園」(こうえん)とか呼ばれてたんでっせ。

岡山城の後ろ(北側)に造られた庭園という意味のようでんな。


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明治維新が始まる直前の岡山藩・池田家のお殿様は
池田茂政(しげまさ)公ですが、この方は
水戸・徳川家から池田家へ養子として入られた徳川斉昭公の9男でおます。

二つ上の兄が徳川幕府第15代将軍の徳川慶喜さんに成りまんねんで。

そもそも勤王・佐幕で揺れ動く岡山・池田家を勤王に向けるために
迎い入れられたのが池田茂政公だったそうです。

歴史は皮肉なもので大政奉還の後に明治新政府は池田茂政公に
徳川慶喜を征伐せよとの命令を下した訳でんな。

まさか~ 実の兄を攻めることが出来ないので茂政公は隠居を申し出て
分家の池田章政(あきまさ)公に岡山藩の家督を引き継がせたそうですわ。

明治維新になり水戸藩では長兄の徳川慶篤(よしあつ)公が急死され
14男で末弟である徳川昭武公が最後の水戸藩主として就任。

明治新政府に後楽園の庭を含む上屋敷を返上したんやそうな。

明治新政府はこの上屋敷跡を陸軍省に払い下げてしまいますので
小石川・後楽園は取り壊される運命にあったようでっせ。

そこで隠居はされても岡山藩の支配者である、池田茂政(しげまさ)公は
末弟の徳川昭武公の了解を得て「後楽園」の名前を譲り受けたそうですわ。

このご兄弟は江戸の上屋敷で育った関係で「後楽園」の庭が
無くなる事を非常に残念に思われての方策であったんでしょうな。

明治4年に岡山の藩知事に就任していた池田章政(あきまさ)公の名前で
「御後園」(ごこうえん)を「後楽園」と変更されたんだって。

この時点では小石川・後楽園は名称が消滅してた訳ですわ。

前置きが長くなりましたが「岡山・後楽園」を観てもらいまひょ。

(岡山・後楽園 シニア入場券)  (65歳以上140円)


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「岡山・後楽園」は江戸時代の1667年(貞亨4年)に
岡山藩・第4代藩主の池田綱政公が
郡代官(家老並み)の津田永忠に命じて工事が始まり
1700年(元禄13年)に一応は完成したと記録が残ってま。

(岡山・後楽園の 唯心山から園内を一望する)


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岡山の後楽園は横を流れる旭川(あさひがわ)の氾濫原に造られた
大名庭園でっさかいにほとんどが平面で
この唯心山(ゆいしんざん)が約6mほどの築山になってますんや。

だから後楽園の中心である沢の池や釣り殿や中の島を眺めるにはここが一番でっせ。

江戸時代の後楽園(当時は御後園)は歴代藩主の趣味や考え方で色々な形に
変化していたようで、この唯心山も第5代藩主・池田継政公によって造られたとか。

(岡山・後楽園  曲水の流れ & 石灯篭)


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岡山・後楽園は他所の大名庭園と違い芝生が多く植え込まれているようでんな。

これも1771年(明和8年)に岡山藩・第7代藩主池田治政(はるまさ)公が
庭園の管理費用を節減するために芝生を一面に敷き詰めたとされてますんや。

(岡山・後楽園  延養亭=えんようてい)


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この建物は庭園を造った池田綱政公がこよなく愛したそうで、参勤交代から
戻ったら何度も訪れて沢の池や中の島を眺めて終日時間を過ごしたとか。

池田綱政公は後楽園を造ったことで歴史上に名前を残していますが
地元民や郷土史の仲間からは愚昧で女色に狂った殿様だとされてまっせ。

70歳を過ぎやっと12歳の実子・継政に家督を譲ることが出来たんやとか。

記録上は14人の子供に恵まれながら殆どが早死し苦労をした殿様でもおますんや。

一節によれば池田綱政公には30人以上の子供が生まれているんだって。

この池田綱政公の父親は名君の誉れ高い池田光政公で
母親は千姫と本多忠刻との間に生まれた勝子姫でおます。

徳川幕府でも一目置くほどの血筋ながら
千姫を祖母に持つことから豊臣家の祟りがとの伝説までおますんや。

(岡山・後楽園 沢の池越しに 唯心山と岡山城天守閣)


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岡山城の天守閣は1945年(昭和20年)6月のアメリカ軍の空襲で
焼失してしまい後楽園も大きな被害を受けましたんや。

現在の建物は1966年(昭和41年)に再建されたもんでっせ。

シニア入場券はこの辺りから撮影した画像が使われてまんねんで。

(岡山・後楽園  沢の池と  御野島=みのしま & 釣り殿)


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(沢の池の 説明板)


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(岡山・後楽園  沢の池と 中の島)


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現在の岡山・後楽園は岡山市が保有してますんやけど1883年(明治16年)に
旧藩主の池田家がお金に困って買い取りを岡山市にお願いしたんだって。

当時の岡山市議会で猛反対まであった後に、結局12500円で買い取ったそうで
翌年1884年(明治17年)から一般に公開されるようになったんだそうな。

後楽園の敷地は約4万坪おますから坪当たり3円13銭で買い取られたちゅうことで
それでも当時は岡山市民にさえ反対意見が多かったとか。

(岡山・後楽園  沢の池西側)


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先程に紹介しました後楽園の芝生は約4万坪の敷地の内で延養亭から見渡せる
約5千坪が芝生に覆われているようでっせ。

東京ドームの約3倍もある後楽園は本園だけの比較をしたら下記の様になりま。

岡山・後楽園  敷地 133、000㎡

水戸・偕楽園  敷地 130、000㎡

金沢・兼六園  敷地 100、000㎡

最近は水戸の偕楽園が側の仙波湖を含めて敷地が一番だと宣伝はしてまっけど。

本当は先日に紹介した高松の栗林公園が162、000㎡もあって
日本では一番大きな回遊式・大名庭園なんでっせ。

(岡山・後楽園  園内で自分撮り)
  

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(岡山・後楽園  南門)


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(岡山城と 後楽園を結ぶ 月見橋)


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南門を出て月見橋を渡ると岡山城がすぐ側におますんで
一寸だけ岡山城へ足を延ばしてみまひょ。

(月見橋の上から 岡山城の天守閣を望む)


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(旭川=あさひがわ  岡山市内を流れる一級河川)


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旭川(あさひがわ)の対岸に見える森は後楽園で江戸時代には
藩主はお城から船で渡って後楽園(当時は御後園)へ向かわれたそうでんな。

この旭川(あさひがわ)は岡山城を築城する際に大きく流れを北側から東側へ
人工的に移し替えて、お城の北側と東側のお濠の代わりにしたようでっせ。

だから、現在でもこの地点から川の流れが大きく曲げられてますんや。

そのために江戸時代から何度も洪水に悩まされたとの話も残ってますな。

山陽新幹線はこの画像の奥の方に見えるんですが画像では写ってまへん。

(岡山城の 月見櫓 & 天守閣)


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手前に見える屋根が月見櫓で1945年(昭和20年)6月のアメリカ軍の空襲にも
焼けずに残った江戸時代の1600年代初期(元和年間)築城の
国の重要文化財に指定されてますんや。

奥の金の鯱が見える建物が1966年(昭和41年)に再建された天守閣でおます。

(岡山城 廊下門)


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こちらは昔の搦手門(裏門)になりますんやけど、白壁の部分は左手の本丸から
右手の表書院へ藩主のみが通行できる廊下なので「廊下門」と呼ばれたんだって。

この門を潜ると表書院跡でっけど発掘調査されプレートが埋め込まれてるのみ。


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(岡山城 月見櫓) (国の重要文化財に指定)


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外から観たら2階建てで城内から見たら3階建という面白い構造になってますな。

昔は天守閣の「烏城」と共に国宝だったようでっせ。

(岡山城 不明門=あかずのもん)


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表書院から本丸へ登る階段の手前に在る門で江戸時代には開かずの門でした。

重臣などが藩主に拝謁する際も横にある通用門から出入りしたんだって。

(岡山城天守閣と 鉄ちゃん爺や)


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岡山城の天守閣は下見板張が黒く塗られていたので「烏城」(うじょう)と呼ばれました
金の鯱が載っているので「金烏城」(きんうじょう)とも呼びましたそうな。

残念ながら1945年(昭和20年)6月の岡山大空襲で焼失してしまいましたんや。

それでも昭和の20年まで残っていた天守閣なので写真や図面が多く存在し
昔の姿に近い形で1966年(昭和41年)の再建できたんだって。

再建されたお城でっさかいに内部まで見るのは辞めて次へ向かいまひょ。

(烏城みち 石碑)


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この道は江戸時代には表門に当たる大手門へ続く道だったようでんな。

途中でこんなモニュメントを発見。


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昔はこんな方法で重たい岩や大木を運搬したんだって。

烏城(うじょう)みちを歩いていいたら名君・池田光政公の隠居所跡を発見。

(池田光政公 隠居所跡の立札)


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学校のグランドになっていて、石垣の他は何も残ってませんでしたわ。

池田光政公は父親の池田利隆が岡山藩の池田忠継が幼いために後見役として
岡山城西の丸に住んでいたので、池田光政は生まれもここではとの説もあるとか。

池田忠継は徳川家康の外孫にあたり早く死んだために同腹の池田忠雄が
淡路島の洲本城主から跡を継がれたんですが
この方も若くして亡くなり嫡子光仲が5歳と若年のため鳥取藩へ転封

逆に鳥取藩・池田家を継いでいた池田光政公が岡山藩へ入れ替わりに
入ったという複雑な動きがおますんや。

伝説の名君と持ち上げられている池田光政公はワンマンで厳しい藩主だったとか。

日蓮宗を弾圧し岡山では日蓮宗は壊滅してしまったとの話もありますな。

嫡子の池田綱政が幕府よりの政策を取り晩年は親子の関係も悪かったようでっせ。

後楽園の造園も池田光政公が亡くなった後に始まったのは当然のことですかな。

長くなりましたので、今日はこれでお仕舞いにしまひょ。

さいなら~♪





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鉄ちゃん爺や  四国・讃岐の旅を終えて   岡山・吉備路の旅へ

2013-12-07 15:42:36 | 旅行
もう師走やちゅうのに10月の旅行のブログに逆戻りしてすんまへん。

前回は屋島のお話で終わってましたな。

(四国のお土産)


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やはり讃岐うどんは買わんとあきまへんでっしゃろ~♪

JR高松駅のホームにこんなパネルがおましたで。

(アンパンマン列車  写真撮影用パネル)


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JR四国さんは高知生まれの、やなせたかしさんにあやかって
列車にアンパンマンのキャラクターをラッピング塗装してますんや。

岡山駅から高知へ向かう2000系の気動車や、同じく松山へ向かう
しおかぜや・いしづち JR四国さんの名物列車だっせ。

(2000系 アンパンマン列車) (松山行き いしづち)


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(2000系 アンパンマン列車)  (高知行 南風)


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最近は子供さんにも大人気で特別指定席まで設けて座席や天井や壁面にも
アンパンマンのキャラを描いた新型車両まで走らせているんだって。

それいけ~ アンパンマン  

私が高松に宿泊した日に残念ながら、やなせたかしさんは亡くなられたとか。

(JR四国 高松駅)


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(快速 マリンライナー 岡山行き)


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この電車に乗れば高松駅から、ほぼ1時間で岡山駅に到着でんな。

瀬戸大橋では時速130kmで走行しますんで特急電車顔負けの
スピードでっせ、高松よりの1両だけはグリーン車と指定席車でっけど
岡山よりの4両は普通乗車券だけで乗れますんや。

ほな~ 出発進行!

(坂出駅に停車中の 車窓から撮影)


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讃岐富士ともお別れですよ~♪

快速マリンライナーは瀬戸大橋に入りましたで。


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(快速 マリンライナーから 西側の備讃瀬戸を撮影)


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(高松行き 快速マリンライナーとすれ違い)


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一寸だけシャッターを押すのが早すぎた失敗作でっけど。

この辺りが岡山駅と高松駅の中間点になるんかもしれまへんで。

(与島を通過中)


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ここは一般の車両やトラックが瀬戸大橋から降りれる唯一の場所だっせ。

この島は香川県の坂出市与島ちゅうことになりま。

(反対側の車窓には 大槌島)


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屋島のブログで紹介した大槌島(おおづちじま)が見えてまっせ。

その右側はおそらく、男木島(おぎじま)で霞んでいるのは
小豆島でっしゃろな。

そろそろ瀬戸大橋も岡山県に近づいてきましたで。

(岡山県の下津井港でしょうな)


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(JR西日本 児島駅)


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岡山県に入りましたで、最初に停車した駅は児島駅ですわ
ここは倉敷市になりまんねん。

ここで乗務員さんはJR四国さんとJR西日本さんに交代でっせ。

(JR岡山駅 東口の駅舎)


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岡山市は中国地方では広島市に次ぐ人口43万人の大都市でっせ。

ここJR岡山駅は伯備線経由で山陰の米子や松江へ、通ってきた
瀬戸大橋線を経由して四国の4県へと重要な連絡駅になりますんや。

(JR岡山駅前  桃太郎の銅像)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

四国の香川県にも桃太郎伝説はおましたけど
桃太郎と言えばやはり岡山でっしゃろ。

岡山のお土産も「きび団子」が一番有名とちがいまっか?

(岡山の銘菓 吉備団子) (1箱 680円)


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ホテルへ荷物を預けて夕方までローカル線で一寸だけ足を延ばしたんですわ。

備前の一之宮になる吉備津彦神社を訪ねてみまひょかな。

(JR吉備線 キハ47  気動車)


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高松駅から乗ってきた快速マリンライナーと比べたら可愛そうな気もしますな。

のんびりと吉備路の田園地帯を走る姿は鉄ちゃん爺やにはお似合いかも。

(JR吉備線 備前一宮駅)


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ご存知かもしれまへんが、日本全国には
一宮という市や町が多く見られまっしゃろ。

これは平安時代に成立した「くにつかみ系」の神社で諸国に設けられた
地元に一番の崇敬を施している神社を
一宮もしくは一の宮とか一之宮と呼びましたんや。

平安時代中期までは国司が都から赴任したら、まずは一番に
一宮と呼ばれる神社に参詣することが義務つけられてたそうです。

だから現在でも一宮の地名が有れば近くに一宮の神社があるはずですわ。

(備前の国  一宮  吉備津彦神社)  (岡山市北区一宮)


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鳥居の奥に見える山は吉備の中山(標高175m)と呼ばれ吉備津彦神社の
ご神体と成っています、この山の手前側は備前の国で反対に向こう側は
昔の備中の国とされてますんや。

山の右手2kmぐらいの山麓に備中の一宮・吉備津神社が鎮座してはりまっせ。

一字違いの吉備津神社ですが祭神は大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)で
同じですが神社の造りは随分と違いがあるように感じま。

今回は立ち寄れなかったけど、吉備津神社は「鳴釜の神事」などが残り
「温羅」(うら)と呼ぶ退治された鬼も祟りを鎮めるために合わせて
お祀りしてあるような気も、わてはしますんやけど。


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吉備の国は大化の改新(645年)の後に備前・備中・備後と
三つに別れて、それぞれに吉備津神社が一宮とされてますんや。

本来は備中にある吉備津神社が本庁で、それぞれ分祀されたんでしょうな。

特に備前の国は平安時代初期までは「安仁神社」(あにじんじゃ)が
一宮でしたんやけど、藤原純友の乱が起こり安仁神社が逆賊とされた
藤原純友を支持したので一宮を剥奪されたとの記載がおますんや。

そんな訳で吉備津彦神社が平安時代中期以降は一宮とされたようでんな。

だからこの吉備津彦神社は朝廷の意向に従ったような
社殿の造りに成ったんだと思いまんねん。

(吉備津彦神社  奥から 本殿・渡殿・祭文殿)


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(吉備津彦神社  本殿)


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吉備津彦神社は桃太郎伝説にも例えられる「温羅」(うら)という鬼を
ここから北西へ約10kmほど行った「鬼の城」で退治したという伝説。

大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)とその弟である
吉備津彦命(きびつひこのみこと)をお祀りしてあるそうです。

伝説では、吉備地方を平定したヤマト朝廷の将軍とされてますんや。

本殿は江戸時代の1697年(元禄10年)に岡山藩主・池田綱政によって
再建された建物で現在も当時の姿を残している貴重なお社だそうですわ。

その他の拝殿から祭文殿や渡殿は昭和5年の火災で焼失しているそうで
本殿を除く三つの社殿は昭和11年に新しく出来たようでんな。

備中高松城の水攻めをした羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は
ここ吉備津彦神社に戦勝を祈願したそうでっせ。

備中高松城跡はこの神社から北西へ約5kmぐらいになりますかな。

(吉備津彦神社境内  安政の大石灯篭の説明書き)


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石造りの灯篭では日本で一番大きいと書かれてますな?

わては、大阪市・住吉大社の石灯篭の方が大きいように思いまんねんけど。

(安政の大石灯篭)


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(吉備津彦神社 随身門 & 安政の大石灯篭)


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門の奥に見えるのは吉備津彦神社の社殿を囲む回廊ですな。

たしかに大きい石灯篭ではおますけど、日本一と言うのには?

(吉備津彦神社の ご神木 平安杉)


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この平安杉は樹齢が千年以上で昔から龍が宿ると言われ地元では
ご神木として大切にされてきましたんや。

処が、昭和5年に社殿の大火災に際し焼け焦げて立ち枯れの危機に陥り
関係者の努力でなんとか生き返ったという経緯がおますんや。

やはり生命力が強いのに感心して写してきましたわ。

現在は岡山市が保存樹として指定しているようでんな。


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(桃太郎伝説の 看板と自分撮り)


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お隣の総社市に「鬼の城」と呼ばれる朝鮮式の山城の跡が残ってるそうですわ。

「温羅」(うら)という鬼の名前も何となく朝鮮式の名前のように
感じるのは、わてだけでっしゃろか?

吉備津彦という人物はヤマト朝廷から派遣された将軍じゃなくて
吉備地方を平定した地元の豪族だったかもしれまへんな。

朝鮮半島と何らかの関係が有った「温羅」(うら)を征伐したのが
桃太郎伝説として残り、吉備一族はその後ヤマト朝廷に従属して
奈良時代までその名前が歴史上にも出てくるようでんな。

大阪府下に残る巨大古墳に次いで全国で四番目に大きな古墳が
総社市に「造山古墳」として今も残ってますんや。

おそらく4世紀頃にはヤマト朝廷に匹敵する有力な豪族が
ここ吉備地方に勢力を伸ばしていたんでしょうな。

今日はこれでお仕舞いにさせてもらいまっさ。

次回は岡山の後楽園と岡山城を紹介させてもらいまひょ。

それじゃ、さいなら~♪
コメント (22)
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