またもや山のクラブの後輩が亡くなり、昨日悲しい別れをしてきた。余裕を見て家を出たつもりだったが、乗換等で意外に時間がかかり、式場最寄駅に着いた時すでに式は30分以上も経過、タクシーを飛ばして閉式寸前かろうじて間に合い、焼香の後、最後の対面をすることができた。昨年の秋、同じ会員G君の追悼で八ヶ岳にも登ってきて、前夜「青年小屋」で雑談したのが最後であった。おそらくあれがN君の最後の山だっただろう。
N君というより昔からCの愛称で皆から慕われ、大学卒業して間もない1960年代後半、新人OBとして、会の創立10周年記念行事の冬山に率先して参加し頑張ってくれた後輩の一人である。計画段階で一時行事が潰れかけたことがあったが、その時は一緒に八ヶ岳に行きましょうと勇気づけてくれたことがあり、今思うと八ヶ岳が彼との奇しき縁だった気がする。本番の冬山で猛烈な地吹雪で停滞を余儀なくされた白馬乗鞍のテントの中で、当時流行っていた裕次郎の歌を歌っていた彼の姿が、一風変わった長細い独特のワッパと共に今もその時の記憶が残っている。
その後、N君は業界トップの印刷会社の営業マンとして多忙な生活を送り、一緒に山へ行く機会はなかったが、そんな中で時間を割いて会創立20周年の記念誌編集に尽してくれ、歴史が浅かった当時の我々の会としては、画期的な素晴らしい記念誌の発行に導いてくれた。今も後輩たちに引き継がれているこの記念誌が、、末永く会員たちの書架に並べられ、多大の犠牲を払ってくれた尽力と共に彼の名がいつまでも思い出されることを祈っている。会社を退職した後も彼の会を思う心は消えず、わざわざ遠方の他支部の会にも参加してくれるなど最後まで積極的で、とてもこんなに早くガンで亡くなるとは思えないほど元気だった。今は静かに彼の冥福を祈るのみである。
丁度1年前の2012.10.20 八ヶ岳「青年小屋」にて
N君というより昔からCの愛称で皆から慕われ、大学卒業して間もない1960年代後半、新人OBとして、会の創立10周年記念行事の冬山に率先して参加し頑張ってくれた後輩の一人である。計画段階で一時行事が潰れかけたことがあったが、その時は一緒に八ヶ岳に行きましょうと勇気づけてくれたことがあり、今思うと八ヶ岳が彼との奇しき縁だった気がする。本番の冬山で猛烈な地吹雪で停滞を余儀なくされた白馬乗鞍のテントの中で、当時流行っていた裕次郎の歌を歌っていた彼の姿が、一風変わった長細い独特のワッパと共に今もその時の記憶が残っている。
その後、N君は業界トップの印刷会社の営業マンとして多忙な生活を送り、一緒に山へ行く機会はなかったが、そんな中で時間を割いて会創立20周年の記念誌編集に尽してくれ、歴史が浅かった当時の我々の会としては、画期的な素晴らしい記念誌の発行に導いてくれた。今も後輩たちに引き継がれているこの記念誌が、、末永く会員たちの書架に並べられ、多大の犠牲を払ってくれた尽力と共に彼の名がいつまでも思い出されることを祈っている。会社を退職した後も彼の会を思う心は消えず、わざわざ遠方の他支部の会にも参加してくれるなど最後まで積極的で、とてもこんなに早くガンで亡くなるとは思えないほど元気だった。今は静かに彼の冥福を祈るのみである。
丁度1年前の2012.10.20 八ヶ岳「青年小屋」にて