flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

清洲城

2008-03-08 00:00:10 | 城郭・城下町
(清須城 愛知県西春日井郡清洲町 1990年3月6日の日記から)
 新清洲駅より五条川沿いに歩き、五条川改修工事に伴う清洲城下町遺跡発掘調査地を通って清洲城跡に達した。
(美濃路五条橋たもとに立つ、清洲古城趾是ヨリ弐丁碑)

 清洲町制百周年を記念して清洲文化広場内に昨年完成した、SRC造、三層四階の模擬天守に上がったが、内装はなるべく当時の雰囲気を出すように造られているものの、展示品は殆ど無く寂しい限りであった。これから展示資料は増えるのであろうか。因みに城下町遺跡の出土品は、愛知県埋蔵文化財センターで保管しているということであった。
  (模擬天守から、本丸を望む)
 清洲城は、応永十二年(1405)斯波義重によって築かれた。
文明十年(1478)からは、近隣の下津城から尾張守護所が移り、守護代織田氏が居城した。弘治元年(1555)信友のとき、信長の叔父信光によって信友は殺され、代わって那古野城から信長が移り、城郭を改修した。
 天正十年(1582)本能寺の変による信長の死後、「清洲会議」が行われ、二男の信雄が継ぐこととなり、天守を設けるなど城郭を拡大した。また、このとき父信長の霊を弔うため、伊勢桑名より安国寺を城下に移転、総見寺として建立している。然し、天正十八年(1590)羽柴秀吉によって信雄は改易にされ、一時羽柴秀次が入るが、秀次の死後、文禄四年(1595)からは、福島正則が伊予今治から二十四万石で入城した。
 「関ヶ原」後は、安芸広島に正則は転封し、家康の四男、松平忠吉が武蔵忍より五十二万石で入城するも、間もなく病死し、家康九男、義直が甲斐府中より四十七万石で入った。
 慶長十五年(1610)いわゆる「清須越し」によって、城及び城下町を名古屋へ移し、清洲城は廃城となった。その際、旧清洲城天守の材料を使い、名古屋城御深井丸西北櫓(清須櫓)が造られた。(現存)

 「天守」を後にし、朱塗りの大手橋を渡り、本来の本丸跡である「清洲古城跡公園」を訪れた。そこには、清洲宿本陣林國次郎が文久二年(1862)に建立した「清洲城墟」碑と、弘化四年或いは五年(1847,8)に竹田晨業が建立した「右大臣織田信長公古城跡」碑がある。
  
  この後は、貝殻山貝塚資料館のある、朝日遺跡へ向かった。

(関連記事: 犬山城 津島神社 寂光院 須ヶ口 小田井城 末森城

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東海道 由比から興津へ | トップ | 東海道 中道 興津東町 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
清洲城 (BALTAN(バルタン))
2008-03-08 06:05:30
ここだったらいけそうかな?

近いよね?
返信する
鬼ころし (kourei)
2008-03-08 18:25:26
名古屋より手前ですしね。
こっそりと、それ以外の目的でも…(謎)
返信する

コメントを投稿