末広町から函館山斜面に差し掛かると八幡坂となる。かつて坂上に函館八幡宮があったが、明治13年(1880)の大火により南の谷地頭に移転している。
(京都市中京区油小路)
油小路は、南北に伸びる平安京時代からの道路である。幕末には油小路事件(新選組と御陵衛士の抗争)が起きている。また付近には、元治元年(1864)の大火後に再建された、呉服商の野口家住宅等がある。
(京都府木津川市加茂町)
天王寺から関西線に乗ると、「大和路快速」の終点はこの地である。
かつては木津川の舟運の湊でも栄えたが、正徳五年(1715)洪水により機能を失い、以後は伊賀街道と信楽街道の要衝として栄えた。

(東京都品川区荏原)
武蔵小山のアーケードを南に抜けると、中原街道となる。中原街道は虎ノ門から平塚に至る街道で、東海道より古い歴史を持つ。かつての光景を残すところはないが、風情は今も感じ取ることができる。
(愛媛県喜多郡内子町 国指定重要伝統的建造物群保存地区)
本町通りの一つ裏には、往時の面影を今に伝える通りがある。江戸時代、大洲藩の奨励により和紙と木蝋生産が盛んとなり、繁栄した町並みである。

(滋賀県長浜市平方町)
びわこ大仏から北上すると、道が弧を描き街道の雰囲気が漂ってくる。その街道沿いには、犬塚の伝説がある平方天満宮が鎮座する。元々は犬神明神といい、加賀前田利家によって天満宮に改められたという。
昔、この付近には人身御供の習慣があった。村人は若き娘を神に捧げていると信じていたが、ある男がそれに疑いを抱き、娘を奪う者を確かめようとした。そして、夜中に黒い物体が「めっきに言うなよ」と言いながら現れ、娘を奪っていった。後に、「めっき」とは近くに住む長者の飼う犬「目検枷:めたてかい」であることが分かり、翌年の人身御供の際にその目検枷を連れていくことにした。翌年、目検枷はその黒い物体に飛びかかり退治したが、目検枷も命を落としてしまった。その目検枷を供養するために築いたのが平方天満宮境内にある犬塚であるという。
(わたなべのつ 窪津 大阪市中央区)
熊野街道の起点はこの地である。かつて旧淀川の河口であったこの地には港があり、水運と陸運の拠点であった。平安時代後期に源綱がこの地に移り住み、渡船を支配したことから苗字を渡辺としたとされる。現在は京阪電車が東西に走り、人の流れが変わった。
(天神橋方面)
(大阪市中央区神崎町)
谷町筋の西側には、かつて霊場熊野と淀川渡辺津(窪津)を結んだ熊野街道が存在した。その途中に設けられた九十九王子(沿道の神社)の一つ、坂口王子がこの地にあった。
(榎木大明神・坂口王子跡)
(坂口王子伝承地)
(狸坂大明神)
東京、横浜に挟まれ、政令指定都市の中で最も財政が良いとされる京浜工業地帯川崎を訪れた。かつては東海道二番目の宿として栄えたが、往時の面影は殆ど残っていない。近年は、駅周辺に各種施設、ショッピングモール等ができ、かつての工業都市のイメージから変貌を遂げている。正月には初詣客で賑わう川崎大師があり、また、我が家の遠い縁戚が居住する地でもある。
(京急高架下)
(東芝跡地のラゾーナ川崎)
(ラ・チッタデッラ)
(被災したミューザ川崎シンフォニーホール)
(大阪市中央区谷町)
天満橋から阿倍野筋に至る谷町筋は、大阪の南北の幹線道路である。谷町は上町台地の縁にあり、西側の急斜面を谷と見立て、谷町という地名が生まれたという。かつてはこの谷町筋と並行する形で、淀川渡辺津から始まる熊野街道(熊野古道)が往来していた。








(旧内子警察署 昭和11年)


(慶雲館)





(九州新幹線橋脚)
(三角線と九州新幹線)
(曲尺手(かねんて)状の道)


























