flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

宮古島を後に

2013-04-30 00:00:00 | 漂い紀行

 他の沖縄とは少し雰囲気の違った宮古島であった。閉鎖性がやや高く、その影響もあってか、観光に対する力も弱いと感じた。また、公共交通に乏しい宮古島は、レンタカー等の手段を使わないと散策は厳しいとも感じた。然しながら、琉球先島の情緒を感じ、加えて自然が放つエネルギーを与えられたと感じている。
 

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山寺街道

2013-04-29 00:00:00 | 街道・宿場町

 羽州街道天童宿から立石寺を結ぶ二里(8km)の街道を山寺街道と呼ぶ。

  立谷川 
 街道と立谷川の間にある対面石。貞観二年(860)円仁が山寺を開山する際、この地に住む猟師磐三郎とこの石の上で仏道を広める根拠地を求めたと伝わる。そして、猟師磐三郎は仏道に帰依し殺生をやめたという。

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高山寺

2013-04-28 00:00:00 | ほとけのいおり

(真言宗栂尾山高山寺 京都市右京区梅ヶ谷栂尾町 世界文化遺産 国宝 重要文化財)
 宝亀五年(774)光仁天皇の勅願によって栂尾の地(とがのお)に、神護寺の別院として開創したとされる高山寺は、建永元年(1206)平重国の子、僧明恵によって再興され、後鳥羽上皇による「日出先照高山之寺」の額が下賜されている。往時は阿弥陀堂、金堂、十三重塔、羅漢堂等多くの伽藍があったが兵火で焼失し、往時の伽藍は鎌倉時代建造の石水院(国宝)のみである。その石水院は、江戸時代に春日・住吉社を祀り、拝殿・経蔵として使用され、明治22年(1889)現在地に移された。また、境内には日本最古の茶園と伝わる一角がある。
  
    
 後鳥羽上皇宸翰(しんかん:直筆)勅額 建永元年
        鳥獣人物戯画
 国宝 明恵上人樹上坐禅像 鎌倉時代
    開山堂 江戸時代
 重文 明恵上人御廟
 石水院旧地
  
 金堂 旧仁和寺真光院古御堂(桃山時代) 寛永年間(1624-44)移築

  
 金堂道

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岡崎城の春 平成二十五年

2013-04-27 00:00:00 | 城郭・城下町

(愛知県岡崎市康生町)
         

(関連記事:岡崎城 岡崎城大林寺郭堀 東ノ丸菅生郭堀 東ノ丸隅櫓経過 完成 石垣 坂谷門 五万石ふじ 川西手永 岡崎公園十二月 東照公胞衣塚 東照公産湯井 伊賀川 立春の龍城 岡崎城石垣 岡崎公園園路 浄瑠璃姫供養塔 岡崎城平成二十一年春 五月 岡崎夜桜 御用土場

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弘前城西堀 樋ノ口川

2013-04-26 00:00:00 | 城郭・城下町

(青森県弘前市)
 弘前城西側に位置するこの堀は、岩木川の支流である樋ノ口川を利用したものであり、他所の堀より幅が広くなっている。
   
 

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一色時家墓所

2013-04-25 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県豊川市牛久保町岸組 1983年)
 永享十一年(1439)に足利氏族である一色時家が築いた一色城の一角、やはり一色氏が建立した牛頭山大聖寺に時家の墓碑(五輪塔)がある。時家は応仁の乱で活躍したが、文明九年(1477)一色氏臣である波多野全慶によって時家は殺されている。

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磐梯町

2013-04-24 00:00:00 | 街道・宿場町

(福島県耶麻郡磐梯町)
 磐梯山の麓、日橋川に沿った稲作が盛んな町である。
   

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宮古 平良

2013-04-23 00:00:00 | 海道・みなと

(沖縄県宮古島市平良)
 宮古島の中心地にやって来た。平成17年までは平良市であったが、島内の3町村と合併し宮古島市となった。平良町時代は「たいら」であったが、市制施行の際に「ひらら」と改めている。そのため二つの呼び方があり、表示等では「ひらら」が多いが、呼び名としては「たいら」が多くなっている。訪れたこのとき本州は一桁の気温であったが、宮古島は25℃であり、カキ氷が売られ、海辺では水泳を楽しむ人たちがみられた。
 まてぃだ通り
 パイ・パイ・パーク(下里緑地)
 パイナガマビ-チ(南長間浜)
 仲間御嶽

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陸奥 白石城

2013-04-22 00:00:00 | 城郭・城下町

(益岡城 宮城県白石市)
 城来道を歩くと、やがて夕刻の白石城に辿り着く。寛治年間(1087-94)刈田氏によってこの地に城が築かれたの始まりであり、刈田氏は土地の名を取り白石氏となって伊達氏に属するようになった。天正十八年(1590)蒲生氏郷が会津若松城主となると、家老の蒲生郷成は白石城の城代となった。慶長三年(1598)上杉景勝臣甘糟景継が入城するも、白石城の戦いにより伊達氏の持城として復活した。以降、伊達氏臣片倉氏十二代の居城として廃藩まで続いた。建物は文政二年(1819)火災で焼失し、十一代宗景のとき再建され、廃藩時に破却された。平成9年、天守と一ノ門、二ノ門が再現されたが、東日本大震災により億単位の被害を受けた。指定文化財ではなかったため補助金が無く、寄付等によって賄われた。また、慶応四年(1868)戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟(陸奥・出羽・越後三十二藩が新政府に対抗するため、輪王寺宮、北白川宮を盟主とした同盟)がこの白石城で結成されている。
     

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梅ヶ谷栂尾

2013-04-21 00:00:00 | 水のほとり

(とがのお 京都市右京区梅ヶ谷栂尾町)
 清滝川上流の谷合の地を訪れた。栂はマツ科針葉樹のツガであり、尾は一般的に山の尾根や山裾の意味であって、辺りの自然の光景を表している。
 

(関連記事:高山寺

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稲荷公園の桜 平成二十五年

2013-04-20 00:00:00 | ふるさとの木々

(愛知県豊川市)
 佐奈川から、かつての桜の馬場に続く桜並木を歩き、豊川稲荷外苑の稲荷公園へやって来た。
      

(関連記事:稲荷公園の桜 二十三年 平成二十四年

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藤田記念庭園

2013-04-19 00:00:00 | ふるさとの木々

(青森県弘前市上白銀町 国登録有形文化財)
 藤田記念庭園は、実業家であり日本商工会議所会頭も務めた藤田謙一が、大正8年(1918)郷里である弘前に別邸を建てる際に造園したものである。園内総面積は21800㎡(6600坪)であり、高さ13mの崖を挟んで高所が居宅と洋風庭園で、低所が池泉回遊式の日本庭園となっている。敷地内には別邸の居宅であった洋館と、岩木山麓の農牧場開拓のために建てられた開発事業事務所の煉瓦倉庫、昭和36年(1961)に藤田本宅を移築した昭和12年(1937)築の和館がある。昭和21年(1946)の藤田の死後、弘前相互銀行倶楽部として使用され、昭和62年(1987)には市制施行百周年記念事業の一環として弘前市が買収して藤田記念庭園として開園した。
     和館
  岩木山の借景
       

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今川義元胴塚

2013-04-18 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県豊川市牛久保町岸組 1983年)
 一色城跡の一部である大聖寺の境内に墓標がある。今川義元は永禄三年(1560)桶狭間の戦いで織田勢に討ち取られた後、首級は織田勢に持ち去られたが、それ以外は家臣によって駿河に向けて運ばれた。然し、その途中腐敗が激しくなったため、同氏族一色時家の墓のある大聖寺に埋葬し、墓標を建てるまでの間、石の手水鉢を目印として置いた。後に子の氏真は父義元の宝筐印塔を建てたが、その際に目印であった手水鉢を塔に組む込み、今に至っている。

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磐越西線

2013-04-17 00:00:00 | RODEN-哀愁のRailway-

 磐越西線は、磐城地域と越後地域を結ぶ路線の一部(東北線より西部)を表す。総延長175.6kmの内、郡山-喜多方間81.2kmが電化区間であり、喜多方-新津間94.4kmは非電化である。元々は岩越線として開業したものであり、郡山-平を結ぶ平郡線が磐越東線として全通したのを機に磐越西線と改称された。東北線郡山と、会津、下越地方を結ぶ幹線であり、中越地震や東日本大震災の際には重要な役割を担った。
 快速あいづライナー
      磐梯山
    会津盆地に入る
 485系3000番台 会津若松
  新津行110系 喜多方
 E120系×110系2連
 キハ47形
  719系あかべえ塗色
 猪苗代駅
 
  
  

(関連記事:会津若松 喜多方 猪苗代 磐梯町 郡山

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与那覇前浜

2013-04-16 00:00:00 | 海道・みなと

(沖縄県宮古島市下地字与那覇)
 下地の低地を歩き、海を目指して歩くとやがて与那覇の浜辺へ辿り着く。ここは来間島(くりまじま)に面した砂浜と岩礁である。訪れたときは、時折激しい雨と晴天が繰り返す南国の天候であった。

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