flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

長良女川

2005-10-31 00:44:15 | 水のほとり
 ほの山の伏流水を源とする、全長2km足らずの小さな川。
川の名は、江戸時代の書物に長良目川として見える。
由来知らずであるが、いわゆる好字名であるのか、藤原長良という人物に関係するのか、何れにせよ長良川を対比したに違いないと思われる。

小さな渓谷を思わせた下流域は、砂防措置によって変わってしまったが、上流域は田畑の裾を通る昔の姿を留めている…。
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鷲の渕の滝

2005-10-30 09:56:40 | 水のほとり

(2005年7月21日の日記から)
 凡そ十年に一度位の割合で訪れる奥三河花祭りの里。
些か以前より閑散とした印象を否めないが、温泉ができ、場所によっては進化を遂げていた。
バスは民営から町営へと変わり、町文化拠点は衰退をみせていたが、近隣町村と合併をせず独立の道を歩むところは、将来を見出すところがあるのだろうか。
 温泉に浸かった後、ナイアガラといわれる大千瀬川鷲の渕の滝で夕涼みをし、釣瓶落としの山間、東栄を後にした。

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娑婆 -SHABA-

2005-10-29 14:33:59 | 天祐語録
 梵語(サンスクリット語)の「サハー」を音写したもの。
浄土に対しての反対語であり、仏教で言う混濁した現世を指す。
関連語として、耐え忍ぶ世界、「忍土」「忍界」がある。
同意語として、「穢土」(えど)があり、日蓮の「報恩鈔」(ほうおんしょう)の中に、「極楽百年の修行は、穢土一日の功に及ばず」という記述がある。

私が居た世界も、一般社会を“シャバ”と称した。
混濁した世界がシャバなら、今の仏教社会もそれに当て嵌まるであろう。
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三河東郷

2005-10-29 04:01:44 | ご近所漫ろ歩き
 先日の設楽ヶ原に続き、天気の比較的良い今日、国道建設地を歩いてみることとした。
真っ二つに切り裂かれた丘陵地。
赤土土壌が訴えかけているようにも見えた。
丘を下り、五反田川という小川を下ると滝のある地点に差し掛かった。
然し私が知っていた滝以外にも更に大きな滝が下流に存在することが分かった。
この辺りに来るようになってから二十八年が経つが、初めて目にする風景である。
日没間近な水辺を後にし、崖を登るとそこには新鮮な田園風景が広がっていた。
(2005/06/09)
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東方に向かう車内で…

2005-10-28 20:59:59 | kourei-ki-日記-
…初老の人が話しかけてきた。
山陰のほうから来て、東京へ帰るらしい。
「豊橋の辺は静かそうでいいね。それと東海道線は便利だ、山陰や宮崎のほうは、五時間に一本で大変だった」という。
以前、サラリーマンをしていたが、体が丈夫ではないため、流れ者をしているとも言っていた。
両親も他界し、自身も離婚したため、身元保証の無い状態とのこと…この話しを聞いて、人事に感じなかった。
浜松で、元気で。と言って別れたが、人生を改めて考えさせるための出会いだったかもしれない。
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高野山へ

2005-10-28 01:45:13 | ほとけのいおり

(和歌山県伊都郡高野町 世界文化遺産 国指定史跡 国指定重要文化財 2004年10月3日参拝)
 商都を出発、南海電車天下茶屋からこうや号で河内平野を東進、紀伊山地へ。乗客は流石に平均年齢が高い。よって手洗いには行列が絶えなかった。橋本を過ぎると、近郊路線から山岳路線へと変わる。そして紀ノ川を渡り、軋み音を絶えず起てながら30km/hの低速で登り始める。立山線を思い出した。学文路と書いてカモロという駅を過ぎ、周りには緑と霧が押し迫る感じになってくる。隧道間の面持ちのある小さな駅を幾つか数えると民家の全くない猫の額のような場所につくられた極楽橋駅に着いた。
       

聖域突入 

 極楽橋駅は鋼索線に乗り換えるためだけの駅といってよい。鋼索線は標高差330m、864mを5分で登る。そして頂駅に到着。ここもバスに乗り換えのためだけの駅。一番手前の伽藍、女人堂まではバス専用道となっており、徒歩で向かうことはできない。否応無くバスに乗る。終点奥の院で下車。木立の参道を進んで行くと、霊界の風を浴びるかの様に冷たい霧に包まれ、無数の墓標が立ち並んでいる。濃緑と黒灰色の視界。そこに柿色の袈裟をつけた僧侶が参拝していた。どうやら高野山の僧ではないようだ。
     

三拝 

 禅宗僧侶であることがわかった。各伽藍を順番に参拝する禅僧の後をつき、同様に仏前で低頭した。辺りには団体向けガイドが多数生業にしていたが、どれも上からものを言う、いわゆる説教口調で案内している。仏教関係の高飛車さがここにも露呈していた。時間がないので、掻い摘んで総本山金剛峯寺へ。そして女人堂から徒歩で鋼索線乗り場へ向かおうとしたが、やはりバス専用道であり、同じ道を進むことはできなかった。然し途中、乗り場への看板が立っている道があったので、行ってみることにした…。
      

勘違い 

 その道の入口に500m先工事につき通行不能という看板が立っていた。然しすぐに人が登ってきた。「女人堂まで何mですか?」と聞かれ、「300m位ですよ」と答えた。今度はこちらが「極楽橋から来られたんですよねぇ」と聞き「ハイそうです」と返答がきた。…ということは、取り敢えず通行できるということだ。舗装されてはいるが、急な坂道を下ること暫し、周りの人気の無さでフッと気づいた。極楽橋は鋼索線の頂駅ではないことを…。今更戻ることを躊躇い、このまま下ることとした。然し道のりは遠かった…。
              極楽橋駅

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浜北 貴布祢

2005-10-27 23:35:14 | 街道・宿場町

(秋葉街道 静岡県浜北市貴布祢 2005年6月8日)
 今月限りで消滅する浜北市。三方ヶ原北側に位置し、天竜川の恩恵を受けた地は、歴史も豊富である。「浜北人」の人骨出土地を始め、今月11日に現地説明会が行われる市内所在中通遺跡では、1万年前の煙道付炉穴を持つ旧石器遺跡や、江戸時代には遠州大念仏という踊り念仏から生まれた民俗芸能も盛んである。
 旧平野家長屋門 江戸末期
 図書館・ホール・生涯学習センター及び商業施設の入る、なゆた浜北

 政令都市になるこの地も、歴史を忘れないよう進んでほしいと思う。

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掛川城

2005-10-27 23:24:50 | 城郭・城下町
(2005年6月7日の日記から)
五年前に或る資格取得のために一度訪れたが、市内散策は二十三年振り。
街は発展変化というよりも以前の面影が著しく無くなった…という感じか。
新幹線駅ができたことにより駅前が整備され、舗装がされていなかった歩道も街路舗装となった。
何よりもの変化は城跡に天守ができたこと。
嘉永七年(1854)の東海地震により被害を受け、取り壊されて以来、無天守であったが、当時の資料、御天守台石垣芝土手崩所絵図・遠江国掛川城地震之節損所覚図を基に、平成5年に木造で復興された。
また、御殿は以前と変わらずにあったが、天守と合わせ観覧ができるようになっていた。
御殿のある二の丸の下にあった市役所は無くなり、図書館に建て変わっていた。
あれから移転したと聞いていた教育委員会へ行くため街外れへと向かうと、また移転してここには無いという。
急激な平成大合併で収拾がつかないのか、部署が他方に散らばり過ぎて大変不便を感じた。
 
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東区白壁

2005-10-27 01:58:29 | 漂い紀行

…には法の裁きを行った建物がある。
都心にありながら、広大な敷地に自然と戦前の面影が残る。

(地域関連記事:Nagoya Court2005 Nagoya Court 2009 橦木町 主税町 富士浅間神社 徳川園の牡丹 東区の寺院 旧名古屋陶磁器貿易商工同業組合事務所 カトリック主税町教会聖堂

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幡豆 寺部城

2005-10-26 18:00:29 | 城郭・城下町
(愛知県幡豆町寺部 2005年5月31日)
 先回訪れてから14年の歳月が流れ、三河湾に面する城跡も整備が進んだ。
本丸、二の丸、三の丸、堀、土塁といった案内標示等が設けられ、整備範囲は狭いながらも、分かりやすくなっていた。
 寺部城は、永正十一年(1514)それまでの早川三郎に代わって今川氏臣小笠原定政が居城し、定正、広政、重広、信元と続いた。
永禄年間、徳川勢が寺部城を攻め込み、小笠原氏は家康の家臣となった。そして天正十八年(1590)小笠原信元のとき、家康の関東移封に伴って上総富津に移り、二千五百石の旗本となっている。

(関連記事:西幡豆
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西幡豆

2005-10-26 12:22:07 | 海道・みなと

(愛知県幡豆郡幡豆町 2005年5月31日)
 三河湾に面する幡豆(はず)の地に訪れるのは四度目。静かな漁村的雰囲気を持つ地である。南に面した地形から、温暖で原始からの人の居住には適していた。各時代の人々の痕跡は均等に見られるが、古墳が比較的多い。それは起伏の激しい地形によるものと思われるが、この地が人を祀ることに相応しいと選ばれた訳でもある。
 今回は前回と重なるが、歴史民俗資料館、町立図書館、小笠原氏の寺部城跡及び寺部廃寺跡と、寺部太山寺薬師如来の威光がかかり、石工らが削り取ることができなかったという、隣接する小野ヶ谷川床からそそり立つ「立岩」、そして須佐之男社等を巡った。

(幡豆町記事:寺部城 東幡豆 とうてい山古墳 証文岩と水路 愛宕山 三州園ホテル 三ヶ根山 三ヶ根茶屋 比島観音 東幡豆駅 彦田神社 かんぽの宿三ヶ根

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師勝西春

2005-10-26 01:02:47 | 漂い紀行

(愛知県西春日井郡師勝町・西春町)
 犬山線西春駅を降りる。駅の西口は西春町、東口は師勝町と鉄道線を境に分かれている。古くから駅前を中心地としていた西春は今、再開発のため建物の建替えが進み、情緒が失われつつあった。師勝は中心地が東方少し離れたところにあるため、未整備であった師勝側の駅前は整備が進められていた。共に十五年振りに訪れた。そして師勝町歴史民俗資料館に訪れ、以前の町の資料館から、“昭和の生活”資料館に変化を遂げていた。 

(関連記事:西春中之郷 高塚古墳

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食料

2005-10-25 21:41:58 | kourei-ki-日記-
 今年中に米輸入牛肉が再開されようとしている。
未だ検査基準の低い米当局。
売り物の中に混入していたヒラタケによく似た毒茸のツキヨタケ。
中国産キムチの中から見つかった寄生虫の卵。
世界各国様々な食料事件。
抗体の少ない、豊かな人類の人体には特に危険である。

そんな私は、薬や麻酔に鈍感なのにもかかわらず、生卵や牛乳、野菜などデリケート食品には過剰に反応し、生産日や生産場所に胃腸が敏感に反応する。
値段が高くても、質の良いものを買い求める結果となっている…。
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イタリア村

2005-10-25 00:47:40 | 漂い紀行

(名古屋市港区 2005年7月28日)
…商法といったところか。
入場券ならぬ、お買物券を購入して入る…。
食事には使えず、物品購入のみ交換でき、お釣りは出ない…。
 村内はショッピングモールの外装を南欧風にしたといった感じか。
港に隣接しているため「水上ゴンドラ」があり雰囲気はあるが、規模が小さく、要するに、単なる商業施設のコトバに尽きる…。

その名称の趣旨を活かしたイベント、非営利な部分の施設等を盛り込まなければ、来客は緩やかな右肩下がりになっていくであろう。

(関連記事:イタリア村その後 イタリア村閉村 ワイルドフラワーガーデン 金城ふ頭 南方貨物線 荒子川公園

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みのかも

2005-10-25 00:34:32 | 漂い紀行
 過去に太田宿、昭和村を訪れたことのあるこの地は、今回文化の森付近を散策することとした。
駅南側の宿場の町並み対して、北側は新商業地帯である。
そこを抜けると、丘陵地となり、太郎洞池という池が現れる。
その池に隣接して文化の森があり、ミュージアム、体験施設等がある。
この地も古代人が暮らしていたところであり、森整備の際に調査が行われた。
また、地名の由来ともなった加茂神社も鎮座する。 2005/07/24
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