(国分山城 国府城 愛媛県今治市国分・古国分 市指定史跡)
昭和60年に今は亡き父とこの山を訪れた際の話を思い出す。「昔、城のお姫さんがカラカラと笑ったから「カラコ山」呼ばれるようになった」と。然し、一般的にはいかが山頂に生える松が、唐子の髷の形に似ていることから、こう呼ばれるようになったとされる。
標高105mの唐子山には、今治城が築かれるまで、城が存在した。
興国三年(1342)新田義貞の弟脇屋義助がこの城に入るが、間もなく病死。その後、村上武吉が城主となった。四国征伐の後の天正十三年(1585)からは十一万三千二百石で福島正則が入り、城郭及び城下町を整備、東麓に館を構え、頓田川を挟んで城下町(拝志町)を築いた。
文禄四年(1595)正則は尾張清洲に転じたため、池田景雄が入った。然し、慶長三年(1598)景雄は病死し、代わって小川祐忠が入った。祐忠も、関ヶ原では西軍に属して戦ったため、除封となり、宇和島から藤堂高虎が二十万石で移封した。
慶長七年(1602)高虎は、瀬戸内海に面した蒼社川と浅川の間に今治城を築城開始、国分山城の石垣など、今治城築城のために転用されたという。
付近の地名には、お屋敷、上屋敷、小姓町、吉兵衛屋敷、久右衛門屋敷、土手の内、中堀端、堀之内、元屋敷等が伝わる。
父と訪れたとき、山頂付近をフィルムカメラで撮影をしたが、二重撮影のようになってしまった。今回も、山頂付近の撮影ができず、デジタルカメラが正常に動作しなかった。唐子山の怪なのかもしれない。
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短い滞在期間ですが、色々と廻っていますね。。
お父様と、ご一緒に訪れた事が有るようですが、今回はお一人でしたので、ちょっと感無量の事だったと思います。。
地元に住んでいながら何も知りませんが、良くご存知ですね。。
カメラが、正常に作動しなかったのは、ちょっと不思議ですね。。???
父との思い出の場所でもあります。
お姫様がカラカラ笑ったというのが気になっています。
確か、攻められて亡くなったお姫様がカラカラ笑うと言ってたので、悲しい内容なんでしょうね。
なので、カメラのことは気になっています。