千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「iPS細胞 ヒトはどこまで再生できるか?」②田中幹人著

2008-10-12 11:54:01 | Book
久々の日本人のノーベル賞受賞の朗報にわいているが、1987年、利根川進氏が日本人初のノーベル生理・医学賞を受賞した時、当時MITの教授だった彼には、「日本帰国」への破格の待遇をちらつかせてラブ・コールがかかった。何事も率直に語る天才科学者は、「ご冗談でしょっ」と一蹴した。(余談だが、この方の立花隆氏との共著『精神と物質-分子生物学はどこまで謎を解けるのか』は理系の学生にお勧め。)一部メディアが、科学者の当然の本音をものの言い方に日本的謙虚さに欠けていたせいか”傲慢”と報道したそうだが、あれから20年近い歳月がたっても、研究者の日米における環境の差はさして変化ないようである。

米国での3年間の研究生活をおえた山中氏は、大阪市立大学医学部の助手として研究室の片隅に机をおくようになった。ここで、彼曰く「ほとんど、うつになりかけました。」米国では、教授や同僚との緊張感のある議論、豊富な研究費、結果に対する一喜一憂といった厳しさもあるがその奥の深い研究の醍醐味を充分に味わってしまったため、日本の研究生活がものたりなくなってしまったのである。しかし、1999年奈良先端科学技術大学の助教授に採用された山中氏にもうひとつの転機が訪れる。友人の病院を訪問した彼は、ヒトES細胞樹立用の受精卵不足のため自分たち夫婦の受精卵を提供しようかとまで考えたが、そこで受精卵を顕微鏡で見て自分の娘に重なって、畏敬の念の気持ちがこみあげてきた。研究者という以前に父親としての感情が天啓を与え、また学生確保のためもあり、最も遠い夢物語の患者自身の細胞から「人工のES細胞」をつくることを研究課題に決める。

初めての自分の研究室。運営に欠かせないのが資金である。山中氏は、狭き門の「戦略的創造研究推進事業」の研究公募にチャレンジする。涙を流している受精卵と泣いているマウスの下手な絵で一生懸命プレゼンテーションをする彼は、「君の得意なもの」という質問に本来なら「遺伝子改変マウスの作成」ぐらいに答えるべきところ、「ハイ!体力には自信があります!」と言ってしまった。実際、学内駅伝大会では、力強い走りで学生をごぼう抜きにした”実績”もある体育会系研究者である。通常なら落選するところ、研究成果を挙げていたこともあり、彼の真摯な姿に感銘を受けた総括責任者の岸本忠三氏は、すぐに役にたつ目先の研究ではない彼の夢にかけることにした。

多くの研究活動における競争は熾烈である。たった1日でも発表が遅れても命取りになることがある。優秀なスタッフと努力にも恵まれ、数年で山中研究室はめざましい成果を次々とだしていく。2006年3月、山中氏は誰もが実現に遠いと思っていたiPS細胞をカナダのキーストーン・シンポジムを発表の場に選んだ。会場は熱気に包まれたが、すべてを明かせなかった彼らにデータ捏造、ペテン師という批判にもさらされたが、2007年11月20日、ヒトES細胞の作成に成功という研究論文が、米国のトムソンが「サイエンス」に、山中氏は「セル」にそれぞれオン・ライン上で発表された。ここで、「サイエンス」はわざわざ発行日を前倒しにしたのだが、それほどこの研究結果が再生医療の新時代の幕開けという画期的であることと、競争が厳しいことがわかる。しかし、トムソンたちの作成したiPS細胞は品が劣り、さらに10日後、山中研究室のがん遺伝子である「c-Mys細胞を除いたiPS細胞作成に成功」というニュースが世界中に駆け巡り、決定打になる。
しかし、これは再生医療”実現”に向かう国際競争のほんのはじまりである。
(続く)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿