千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

独裁者に欠けている共感性

2006-06-29 23:48:56 | Nonsense
金英男(キム・ヨンナム)さんは29日の記者会見で、自身や横田めぐみさんの拉致の経緯、ヘギョンさんとの関係など、関心を集める点をほぼ網羅し、予想通り北朝鮮の主張に沿った内容に終始した。南北関係筋は会見について「肉親との再会を果たした本人の言葉は見る人をそれなりに引き込む。北朝鮮はそこまで計算したはずだ」と指摘する。(2006/6/29朝日新聞)

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 独裁者が統治する国の国民ほど、不幸な民はない。今夜の記者会見のニュースを観ていて、金英男さんの拉致ではなく、自然の流れで北朝鮮で生活をはじめ、勉強のために滞在して家庭をもったという会見内容に、嘘の仮面を見る。と言っても、金英男さんも仮面を被せられ踊れる被害者である。その仮面をつけたのは、誰か。

毎月1日に届く雑誌「選択」で、一番最初に開くページが精神科医の遠山高史氏の「不養生のすすめ」である。社会現象を精神科医としてメスをふるう技は、切れ味鋭く凡人の意表をつく。(文面からご年配の印象を受けていたが、1946年生まれ)
3月号では、”独裁者が失う共感能力”について、興味深いエッセイが載っていた。

東北大学の川島隆太教授による脳の活性度の実験によると、碁の相手が人間の場合とコンピューターとでは大きな違いがあったという。人間相手の場合、最も高次の脳機能とされる想像力、知性をつかさどる脳の前頭前野の部分が活動するのだが、相手がコンピューターだと脳の一部しか使わない。その原因として、コンピュータのもたらす情報は多彩に見えるが、所詮システムの枠の中での出来事なのでパターンの繰り返しだからだろう、という理由で説明される。人の脳は、相手とコミュニケーションをしながら、システムそのものを変えていく。お互いに、それを繰り返すことによって”共感”できる場にたどりついていく。前頭前野は、その機能を果たすボックスかもしれない。

学生時代、東北旅行をした時に、こけしに目や鼻を筆で描いたことがある。そのこけしを見た友人から、「樹衣子に似ている、こけしらしくない」と言われた。なるほど、彼女のこけしは、こけしらしく友人にそっくりだった。誰にもこのような経験があるだろう。人は、なにを描いても、なにを表現しても、そこに自画像という投影図を残す。それを遠山医師は、「作品は脳の中身を映す一種の鏡」と解説している。人がものづくりに励むのも、私がブログを更新するのも、脳が外部に自分を刻印として残そうとする性質があるからだ。

しかしながら、自分の作品を客観的に判断するのは難しい。人は人との関係性において、類推するしかないのである。そこにも真実や事実があるかと言えば、100%本音というのも難しい。ここで遠山氏は、自分自身を知るのは相手の中に自分と共感の響きを見つけたときと伝えている。私がGacktを好き、好きな映画や音楽、感動した本を語るとき、それはやはりそこに自分自身を映す鏡を見ているのかもしれない。

けれども、独裁者はどうなのだろうか。北朝鮮の金正日総書記は、無類の映画好きともれ伝わってくる。多くの美しい物語が、映画にはある。専用ホームシアターまでつくって鑑賞する映画を観ても、この方に感情に”共感”という文字はないのだろう。自分ひとりでは、自己を知ることはできない。にも関わらず、共感しようという努力が独裁者には欠けていく。ルーマニアのチャウチェスク政権の崩壊を考えると、いずれは北の独裁者も自分への復讐がはじまるものだ。民衆への共感への努力を怠った罰として。

金英男氏は北朝鮮に渡った後「労働党の懐に抱かれ、本当に幸せに暮らしている」と強調した。 

「のだめカンタービレ」♯15

2006-06-28 00:00:26 | Classic
やっぱり千秋さまとのだめは、ラブラブだったって~~?!!
どうラブラブだったかは、ルール違反の暴露になってしまうのでここで明文化できないのが残念。でも千秋さまがのだめを

「いつも一緒にいるようで、そうでもない。ひとりで旅していつのまにか帰ってきてる。それでいい。オレが見失わなければ-」

と心の中でつぶやいて、そっと彼女を引き寄せる場面は夏の夜の風が涼やかに渡るようなロマンチックな名場面だった。お城の室内の煌々とした灯りが届かない庭は、恋人たちが天使の距離まで接近する格好の場でもある。

ところで、少女漫画の多くは、男性が自分への関心と恋愛感情を抱くのを期待する”受身”のカタチに、女の子としての可愛らしさへの表現がある。自分への視線、関心、ちょっと乱暴だけど思いがけない(あくまでも自分への)優しさの発見、告白、そのひとつひとつに「きゅん」と乙女心が発動するシーンをつなげるところに特徴がある。そのいじらしさが、読者の好感と共感を呼ぶ。白馬の王子さまを待つシンデレラや白雪姫というのが、少女漫画の王道である。(最近の少女漫画は、多様性に富んでいるので一概に言えないかもしれないが)
ところが、のだめは千秋さまに惚れているが、決して受身ではない。ラブラブを公言しているほど、実際の行動は恋に積極的というのでもない。彼女には、とってもとっても大好きな千秋さまと同じくらい、本人はあまり意識していないがのめりこんでいる音楽というもうひとつの世界があるからだ。どんなに男性に夢中になっても、彼は彼女にとって人生のほんの一部。決して、彼こそすべてにはならない。この点が、天才ピアニストを主人公としたこの漫画の、大人の男性も評価する漫画というポイントではないだろうか。「のだめカンタビーレ」は、実は恋バナという測面は主軸ではない。あくまでも物語の中心は、ひとりの人間の成長物語である。天才医師、天才シェフという設定でもよかった。発表の場が、「Kiss」という乙女を読者層にもつ雑誌だから、女の子を主人公として、まだ鮮度の高いピニストの卵になったのである。(そういう意味では、『ガラスの仮面』に近い。ただ、あのようなスポ根風の根性ものは今時ハヤラナイ。)

千秋が、のだめの初リサイタルをモーツァルト、リスト、ラベル、シューベルトと聴きながら「オレはいろいろなことを覚悟しておいたほうがいい」と胸に刻むのは、この漫画の要になると思われる。
音楽家どうしの恋愛、結婚はなかなか難しい。お互いの才能への嫉妬、コンプレックス、音楽観の違いによる衝突、そもそも常識の欠落している部分が表現上の武器になるという職業のふたりがうまくやっていけるのかっ。
確かに、のだめの自由奔放さはromaniさまのご指摘どおりマルタ・アルゲリッチに似ている。こんな怪物のような女性と恋をするには、男も器が大きくなければとても勤まるものではない。はたまた完璧に主夫として裏方の人生を生きるか。また千秋は、シャルル・デュトワほど浮気症ではないが、指揮者らしく気難しいところもある。千秋のこの”覚悟”を考えると、このクラシック音楽漫画としての最大の魅力にふれたような気がする。

モーツァルトを弾く時に、千秋がオレもこどもの頃言われた、
「簡潔に、有限の美に 無限の美を刻むように 美しく」
と。小林秀雄のようなこの言葉には、モーツァルトが凝縮されている。

おいつめられた少年

2006-06-25 23:36:49 | Nonsense
映画「13歳の夏に僕は生まれた」には、裕福な家庭のひとり息子サンドロとルーマニアから移民してきた少女アリーナの境遇を象徴する場面がある。
イタリア人のお坊ちゃま君のサンドロは、豪華なキャビンで父から舵の取り方を教わる。その単純だが明るい父の姿には、息子への愛情と同時に母親には介入できない男の世界に導くための”男らしさ”というものを伝授する父親としての喜びが感じられる。その一方、アリーナもぼろぼろの船で野卑な不法移民者をくいものにする船乗りに舵取りを教えられる。彼女の背後に自分のカラダをぴったりとつける船乗りの、卑しいスケベ心が伝わる不快な場面だ。アリーナは、サンドロの抗議のまなざしに気づくまで、男のしぐさに気がつかないふりをして耐えている。彼女は、たった一杯の水が欲しかったからだ。そしてラドゥやサンドロにも水をわけてあげたかった。だから男の危険なふるまいを我慢していたのだ。男は、水が欲しいと操縦席に来た彼女の喉の耐え難い乾きにつけこんだのだ。すべてにおいて、同じ年頃の少年と少女のあまりの格差を示す哀しい場面であり、また最後のアリーナの姿をつなげる重要な伏線としても印象に残るエピソードでもある。

サンドロは、間違いなく幸福な少年である。プールつきのモデルハウスのような整然としたインテリアで整えられた大きな家、快活な父とスイミングスクールの送迎を車でしてくれるうっとうしいくらいの愛情をそそいでくる母。
映画で説明されるまでもなくこの世界には、同じ年齢のこどもでも育つ環境と生きる困難さには残酷なほどのひらきがある。おしゃれな家やヨットは兎も角として、サンドロ少年の裕福な暮らしぶりと所有しているグッズは、日本の都会の平均的サラリーマンの家庭の子女とあまりかわらない。着ている服装に関しては、日本のこどもたちの方がむしろ高価で衣装もち。
映画を観た同じ日に、目にとまったのがサンドロやラドゥと世代のあまり変わらない日本の16歳少年の放火殺人事件だった。

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(奈良県田原本(たわらもと)町の医師(47)方が全焼し、妻子3人が死亡した放火殺人事件で、逮捕された私立高校1年の長男(16)が、県警田原本署の捜査本部の調べに対し、放火した理由について、「自分の身の回りのものをすべてなくしたかった」などという趣旨の供述を始めていることがわかった。
県警は、両親と同じ医師になることを過度に期待され、プレッシャーを感じていたという長男が、家庭内で孤立感を募らせた結果、異常な破壊衝動に至ったとみている。
小学校時代から成績優秀だった長男は、性格も明るい人気者だったが、奈良市の中高一貫の進学校に入学後は、成績が振るわず、教育熱心な父親からたびたびしかられていた。次第に口数が減り、友人らに「父がうるさい」と不満を漏らしたこともあったという。 (2006/6/23読売新聞)


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このような凶行に至った長男の心境を、新聞報道を読み比べると考えさせられることがある。
「中学受験のころから成績が伸びないと、しっ責され、毎晩のように自宅1階にある長男の部屋とは別の部屋で、マンツーマン指導を受けていたという(読売新聞)」
叱責はしなくとも、中学受験をのりこえるためには、塾に行かせながら、母か多くの場合は父らしいがマンツーマンでこどもの勉強を見て指導する家庭が殆どではないだろうか。また医師、特に開業医の場合は、こどもに後継ぎを期待するのも自然な流れかもしれない。それにも関わらず、この少年がおいつめられ父親殺害を思いついたのは、エディプス・コンプレックスなんかではなく、教育熱心な父親の体罰や叱責の伴う指導だったように思われる。そして本来なら逃げ場になり、息子をかばう立場の継母が、ゲームをしていた、テレビを観ていた、と息子の行動を夫に報告していたという。彼にとって、家庭はやすらぎの場ではなかった。そして英語の成績が良かったと嘘をついたのが発覚する保護者面談の日に、すべてから逃れるために短絡的に火を放ったのだ。

そして気になるのは、少年の実の母は少年の妹と暮らしているが、離婚調停の条件で少年と会うことが許されなかったという。少年は両親の離婚によって、母と妹を失ったのだ。
「13歳の夏に僕は生まれた」で、サンドロが真夜中の海に転落した時、遠ざかる船に向かって必死に叫んだのは「パパ」だった。自分が海に落ちたことを知らせようと恐怖心と闘いながら叫んだ。やがて船が見えなくなり、すべてが暗闇におおわれると弱々しい声で幾度もつぶやいていたのが、「ママ・・・ママ・・・」だ。教育的配慮による結果なのかはわからないが、離婚調停は大人どうしの意志によってすすめられる。その席で、こどもの希望や感情はどのように考慮されるのだろうか。少年にあったと想像する「母親に会いたい」という当然の感情は、どのようにくみとらるのだろうか。

戦争もない、経済的にも裕福、餓えることもなく、多くのものが手に入る日本の今のこどもたち。たった一足の運動靴を大切に胸に握り締めるアリーナのような少女が存在することすらも想像もつかないこどもたち。このひとつの事件から見えるのは、小学生から医師になる夢を叶えるために夜遅くまで塾に通う戦士の姿、そして少年にとっては不幸だった家庭環境だ。それはそれで、なんて寂しい姿なのだろうか。

『13歳の夏に僕は生まれた』

2006-06-24 23:47:33 | Movie
あれは、3月末のことだった。初期雇用契約(CPE)に反対する300万人のデモ隊が、仏の都市に溢れた。日本のように新卒を定期雇用する慣習のない欧州において、正規社員が手厚く保護されて解雇しにくい社会では、新規採用の門戸はかなり狭い。仏の場合、30歳以上の失業率は7%程度であるが、15~29歳の無期限雇用契約(CDI)の比率は60%。若者の4割はいつ失業するかわからない不安を抱えている。しかし、こうした”硬直した労働市場”だけでなく、若者に雇用不安を与えているのが、EU拡大により東欧諸国からの内なる移民と、中東やアジア、アフリカからの外からの移民に流入による雇用機会の喪失懸念だ。彼らは西欧の若者が嫌う3Kの仕事に、低賃金の有期契約で”額に汗して”働く。そのせいであろうか、移民はCPE反対デモには冷静だったという。有期だろうが、簡単にお払い箱になろうが、雇用の流動化が実現すれば、彼らには食べるための仕事にありつけるチャンスなのだ。

13歳の夏。北イタリアの小都市ブレシャで育ったサンドロ少年(マッテオ・ガドラ)は、今大人に入口にたっている。母親の溺愛をうっとうしく感じ始め、小さな工場を経営する成功者の父(アレッシオ・ボーニ)も、食堂で従業員相手に購入を考えている新車の速さを得意げに大声で話している姿(声の大きい男は、単純だが)を微笑ましく思うのだが、世の中の現実や裏側も少しずつ見え始めている。
そんなサンドロは、父と父の友人のポーピと地中海のクルージングにでる。チーズも厳選して、飲食物を豊富に積んで、寝ながらのゲームを許された船旅は、太陽の光のようにすべてが輝いていた。しかし、サンドロは、ちょっとした不注意から真夜中の海に転落してしまう。必死にパパと叫ぶが、気づかないままヨットは遠ざかってしまう。長時間の漂流のすえ、意識が遠のいたサンドロは奇跡的に救助される。しかし、引き揚げられたその場所は、様々な国籍の不法移民者を多く載せた廃船同然の密航船の上だった。不要な人間は捨てたい悪徳業者から、機転をきかせてサンドロを救ったのは、彼を海から救助したルーマニアの少年ラトゥだった。ラドゥと運動靴を大事に握り締める妹のアリーナと肩を寄せ合い、これまでの生活とは全く異質の世界で、彼は生き延びるための試練にさらされる。

やがて海上巡視船に発見された密航船は、移民センターのある港へとたどり着く。そこで、サンドロはラドゥとアリーナとともに移民受け入れセンターに留まることを主張する。わずか数日間とはいえ、揺れる今にも沈みそうな船の上で生死をともに生きてきたこの兄妹と離れることができなくなった。それは単なる情を超えた、新しい価値観の転換による。あんなに欲しがっていた高価なバイクを生還のお祝いに、ポーピがプレゼントしてくれたのに、心が弾まない。彼を迎えに来た両親も、彼の必死の願いを聞き入れなんとかこの兄妹を救いたいと働くのだが、イタリアの法律の壁にはばまれる。ラドゥは、ルーマニアへの強制送還が決まった。

「俺が18歳だからというだけで妹から引き裂く。祖国に帰されたら食っていけない。こんなのがまともといえるのか。」
作家・大崎善生氏の『ドナウよ、静かに流れよ』で、ルーマニアのチャウチェスク・チルドレンの凄まじいほどの荒廃した姿が書かれていた。必死で小金を貯めて、船に乗りこんだ彼にとって祖国への送還は、これ以上の絶望はない。

かってマフィアが米国に進出した時代と異なり、イタリアは1980年代から移民が流入するようになり、移民の労働力が不可欠なのが現状だ。映画の中の父の工場でも、不法移民者が雇用されたり、回教徒の従業員たちの祈りの場面や、クラスメートの移民の少年との交流場面とあり、移民問題の現実性をうきぼりにしている。マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督は移民への差別は、外国人というよりも貧しさによる差別だと言う。こうした差別が、社会の階級格差を広げているとも。そして本作品は純然たるイタリア映画ではあるが、移民問題は西欧全体をおおう頭痛の種である。仏でも「受身の移民政策から選ぶ移民政策へ」の移行を基本とする移民法案の審議が、5月2日から下院で始まった。労働移民の選別、学生の選別、入国の厳格化、不法滞在者に対する扱いなど厳しくなるように、イタリアでも昨年から18歳以上で犯罪歴(たとえちょっとした盗みでも)が発覚すれば、受入除外対象者のリストに挙がる。ラドゥの悲痛な叫びに、誰も応えることができない。そして、それ以上に最後のあまりにも過酷で残酷な現実に、呆然とする。ラストシーンのアリーナの部屋は、餓えていたこどもがむさぼるように食べ物にかじりつく姿を彷彿させる。

この映画のもうひとつのテーマーに、日本人としても身近な少子化問題がある。
一時は海で遭難死したと思っていたサンドロの両親が息子の生還をしみじみと喜びながら、彼ひとりを失っても自分たちの人生が崩壊することを知らされたことを語り合う。
「何故、もうひとりこどもを作ることを考えなかったのだろう」
その夫の問いに、ひとりでも大変だと思ったのよ、と妻は答える。そして友人の弁護士のポーピの家庭には、こどもがいない。
「妻も働いていたし、別荘が欲しい、高級な車が欲しい、ヨットが欲しいと言っているうちに、こどもができなかった。」この会話は、なんともいえない苦い感慨を残す。

物語は謎を含めた余韻のうちに幕を閉じる。ラドゥとアリーナは本当に兄妹だったのか。夜の暗闇がせまる路上でサンドロとアリーナのたよりなく、小さな寄る辺のない姿はどこへ向かうのか。
マルコ・トゥリオ・ジョルダーノ監督は、完結して閉じた作品は監督のものになってしまうので、観客に余韻を残して終わらせたと語っている。この姿勢に、単なる傍観者ではなく、現実の移民問題から目をそむけるなというメッセージが伝わる。20代に政治活動に身を投じた監督らしく『ベッピーノの100歩』は、政治を描いた地味ながら素晴らしい作品だったが、社会派といっても作風の異なる本作も一食抜いても観る価値あり。

原題:"Quando sei nato non puoi più nasconderti(生まれたからには、もう逃げも隠れもできない)"

もうひとつの「ドナウよ、静かに流れよ」

2006-06-22 23:48:30 | Book
「ドナウよ、静かに流れよ」を手にとった理由は、やはり舞台がウィーン、そしてドナウに身を投げたのが、33歳指揮者というプロフィールにひかれた。
本書のページをめくるうちに、33歳指揮者というのが、予想どおり”自称”だったということに胸がふさがれるような思いがした。

千葉は、中学生ぐらいまではあまりめだたなかったが、バブル景気とともに不動産業を営む親が裕福になると、驚くような高価なものをねだるようになった。そして家庭内暴力をはじめるにいたり、精神科に通院して性格障害と診断される。その点で、父親が広告のプロデューサーでやはりバブル景気の波にのったカミと境遇は近い。
大崎善生氏は、千葉自身が書いた「身上書」を音楽評論家の中野雄氏に見てもらう。(中野氏は、東京大学法学部卒業。日本開発銀行からケンウッドに転身して、代表取締役になり、ケンウッドU・S・A会長などを歴任。大学講師としてクラシック音楽の歴史などを講義している。)その「身上書」は、A4レポート4枚にわたり、学歴や活動歴、指揮のレパートリー45曲がびっしり書き込まれていたという。そのレパートリーをありえない、不可能と中野氏は断言した。ここから音楽評論家として著書も多い中野氏の、音楽界の厳しい現実の説明が続く。

千葉の履歴が本当だとしても、これくらいの音楽家は国内で3000人いる。音楽の世界は凄まじい競争社会だ。
以下、中野氏による日本の音楽大学の現状が続く。それは、私のような門外漢でも、誇張ではなく、現実だということがわかるだけにここでつまびらかに語るには忍びない。東京藝術大学か桐朋に入学できなかった時点で、音楽家への道のりは相当厳しい。何故なら、その2校を通過した学生がさらに上をめざして熾烈な競争を繰り広げているのが現実だからだ。千葉の通っていた音楽学校は、3流以下。

中野は言葉を選びながら慎重に語っているが、その内容は次のように厳しい。
日本の音大進学者の半数は、学力不足で一般の大学への進学が難しくて音大に流れた者だ。
しかし、音楽ほど知識と教養が必要なものはない。もちろん完璧な語学も要求される。指揮者となれば、楽器奏者の10倍の勉強が必要。欧州の文化の根底に流れるものの理解力、正しい歴史認識や解釈が必要不可欠。そのうえで初めて表現力が要求される。

「音楽を把握するのには、明晰な頭脳と総合的な知識が絶対不可欠」

中野氏のこの厳しい解説のうらに、大崎さんは彼のクラシック音楽の世界への深い愛情を感じる。
そしてルーマニアを拠点に、指揮者として活動するかって千葉の面倒を見た尾崎晋也に会う。
「千葉が好きだったシューマンは精神病院に入ります。彼は大作曲家たちに自分の人生を重ねあわせようと考えたのではないでしょうか。」

ここで私は、少々精神を病んでいるかのように見える自称指揮者を、感傷的に作者の感想と重ねて抽象化しようとは思わない。ただすでに亡くなっている方を、一冊の本からの情報でしかつめらしくものを言いたくないのだ。カミも恋人の嘘には気がついていただろう。それでも、チバを最後まで見守り愛情をそそいだ19歳の心に宿ったものがなんだったのか、それが自分のなかにもありそうな恐ろしさと、すでに捨て去ったような安堵感と、喪失感。
「二十歳の原点」を友人たちと読みふけった高校時代を遠く思い出す。

「ドナウよ、静かに流れよ」大崎善生著

2006-06-21 00:34:41 | Book
「私は19歳で死ぬから」
両親と、付き合い始めたばかりの10歳年上のBFを交えての会食の席で、健康的であどけない愛らしい顔だちの女子高校生がこう言い出しても、誰も本気にしないだろう。そんな発言すらも、周囲の大人は少女らしいたわいなさと笑い飛ばした。彼女は経済的にも恵まれて、BFからデザインの指導を受けながら芸術系の大学受験をめざしていた。
しかしその2年後、彼女は予言どおりに、忠実に実行したのだ。

<邦人男女、ドナウで心中
 33歳指揮者と19歳女子大生 ウィーン>

2001年8月15日付けの朝刊で、その小さな記事と出会った著者の大崎善生は、背中から細い針を突き刺されたような感覚の伴う違和感におそわれた。何故ドナウで、何故ウィーンで、何故33歳の指揮者と、何故19歳の女子大生が、何故入水自殺を。調査の結果、その小さな記事の主人公たちが、それぞれが固有名詞をもった存在になった瞬間、ノンフィクション作家の大崎善生は、「書いてみたい-」という暗闇の中ではじける火花のような衝動にとらわれる。それは、作家としての責任も同時におうことも意味する。

亡くなった女子大生カミは、かって将棋の女流強豪アマとして話題を提供したルーマニア女性のマリアの娘だった。カミは、マリアが日本男性と結婚して恵まれたひとり娘だったのだ。かって『将棋世界』という雑誌の編集長だった大崎にとって、この偶然は血がひいていくような感覚とともに、背筋がぞくぞくするような感銘を覚えた。鳥肌がたち、いくら探しても言葉が見つからないような衝撃をもたらしたのだ。やがて少女の両親に会い、友人に取材し、手紙、メール、友人との会話を通して、カミの19年の歳月の造形を丹念に、慈しむかのようになぞっていく。

両親の激しい喧嘩、チャウチェスク政権崩壊後の荒廃し暗い留学先のルーマニアでの孤独な生活、父の浮気や別れた前妻との子供の存在からくる男性への不信、母の都合による度重なる生活拠点の移動、高校時代の親しかった友人の暴力による突然の死・・・・。繊細な少女の心は、いくつもの傷をおって、たったひとりでルーマニアのアパートで生活をはじめた。いくら物価が安いとはいえ、現地の大学生が一生かけても買えることがかなわないかもしれないアパート。カミは、大学まで徒歩5分のこの部屋で、経済的にはなに不自由なく生活をはじめる。その小さなクレージュ・ナポカの街の日本人社会で、自称指揮者を名のるチバに出会う。やせこけたチバは、端整な顔だが眼光だけが鋭く、全身黒づくめの服装で、なんともいえない不気味な雰囲気を漂わせている。2000年クリスマス、カミ18歳、チバ32歳は運命ともいえる出会いを果たした。

自分のことをオレといい、「愛人は裏切らないけれど、結婚したら男は妻を裏切るから」とはじめて付き合った短い期間のB・Fとは、最後まで性的な関係にすすめなかったが、このクレージュの街で、カミはチバとはたちまち愛を育むことになる。それは、心身ともに捧げた強い愛だった。幼いけれど、精一杯の愛だった。両親の猛反対をおしきり、やがてふたりは結婚する。

大崎は、ルーマニア、カミの両親が事件後移住したフランスの田舎、ウィーン、そして彼らが最後にやすんだ宿泊所や教会、ドナウ河、とカミとチバの軌跡を追う。まるで、彼らの生きた証、彼らの人生を重ねるかのように。彼らを知る者の誰もが、その命を救えなかったことに心を痛める。中でも、カミの両親の悲しみは果てることがない。
「娘はパラノイアの男性に出会って、その犠牲になった」とはっきり書いて欲しい、ひとり娘を失った親の、苦しみぬいたすえになんとか受け入れるためのせつない結論を、しかし大崎は正式な診断書という確固たる証拠がないために、きっぱり断る。
本書を読みながら、私はかってないくらい著者の視線とこころに同化していった。それは、またカミに自分を共存させる感情でもある。ここに、決して巧みな文章家ではないが、ノンフィクション作家としての大崎善生氏の荒々しい力を感じる。「将棋の子」「聖の青春」感傷的な美しさでおおわれそうな底に、人間存在の圧倒的な重さがある。最近、父親となった大崎氏が妻と妻と交流があった少年のことを綴った日経新聞の「君のためにできること」は、この作家がどこへ向かっているのかを考えさせられた。

真相は、いったいどこにあるのだろうか。
「事実なんかない。私から見える事実があり、あなたから見える事実があり、また誰かから見える事実がある。人それぞれの事実があるだけで、本当の意味での事実なんかどこにもない。」
マリアの苦痛に満ちたこの言葉は、ずっと忘れないだろう。
しかしカミは、決して犠牲になったのではないと私は感じる。病院の廊下を手をつないで仲むつまじく、歩くふたりの姿は、心に焼きつくような美しい光景だったという。

『トンケの蒼い空』

2006-06-20 23:18:36 | Movie
トンケ(韓国語で野良犬のこと)と呼ばれる若者がいる。小さな農村に、幼い頃に母親を病気でなくしたから、男やもめの警察の捜査課長を勤める父親とふたりで暮らしている。トンケは、高校中退、学歴なし、定職なし、だからお金もない、おしゃれのセンスもない、当然ながら彼女もいたことがない(実は童貞という噂あり)。つまり、夢もなければ希望もない。他界した母のかわりの家事をするために買物かごをさげて、髪はぼさぼさ、だらしない歩き方で野良犬を連れて歩く。たしかに、トンケは背は高いが、まぬけな顔している。高校に進学しても、サッカー部の万年補欠で、まわりから馬鹿にされる始末。こんな、日本でいえば典型的な負け組(この表現は好きではないが)の役を、『デイジー』でGacktひとすじの私のこころの隙間に入り込んだ、あの!チョン・ウソンが演じているのだ。

トンケは、諸々の事情により結局高校を中退してしまう。その後、父の財布から時々小遣いをかすめとり、主婦業をこなすことで無為徒食を決めているニートに近い。そんなトンケだが、本人は自覚していないが喧嘩はめっぽう強い。やがてそんな呑気なトンケにも、小さな転機となる事件が次々と起こる。まず父親が、非行少女ジョンエを更正のためにと家にひきとる。なんとなく意識するようになり、ふたりの間にほのかな恋心が芽生える。そして、高校を中退した仲間との友情が芽生え、父親に内緒で就職して働き始める。ゆるやかに変化していくとも思える生活に、小さな地方都市をゆるがす大事件がもちあがる。高速道路開通にからんだ利権事業にからみ、友人のテットクの父の田畑が騙し取られ、おまけにテットクも、高校時代トンケに非情な悪事を働いたジンムクたちによって闇討ちにあい重傷を負う。
トンケは立ち上がる。冷静な父の捜査を待てず、仲間と、無知がゆえに騙された農民たちのために。

チョン・ウソンは長身、端整なマスク。イケ面、マッチョな魅力的な肉体美を誇る韓国俳優の中でも、そのスタイリッシュさは群をぬく。恋人にしたい、夫にしたい男のトップを独走。だからだろうか、従来のかっこいい系を打ち破り、ばかだが無垢で純な男を直球で演じている。完全にいってしまっている。
・・・しかし、でもしかしである。留置所でジンムクとタイマンで死闘を繰り広げるチョン・ウソンのブリーフ姿は見たくなかった。汗と血にしめり、格闘で汚れたブリーフは見たくないっ。。。

韓国映画は、このような単純な喧嘩のシーンが多いと感じる。権力(力)をもつ者ともたざる弱者、暴力という行為が誰もが見てもすぐにわかる階級を示す。裕福か貧しいか、地位が高いか低いかというよりも、暴力によるヒエラルキーの構成。頂点にたつものと、それに追随する者。主人公や彼の友人は、常にいずれかのヒエラルキーの頂点にたっているという図式が物語りのポイントだ。それが韓国というお国柄なのか、中流、もしくは中流以下の生活圏で生息せざるをえない共通の若者像なのか。
また巧みに農民をだまして、悪事を働く町の有力者という類型的な人物像はまだしも、高校時代からトンケに乱暴を働く先輩たちがチンピラになっていたこと、そして彼らがトンケを見つけるとあいかわらず嫌がらせをするというパターンは、あまりにもばかばかしい。日本でいえば、昭和の時代の娯楽青春映画に近いかもしれない。
そうは言っても、父親の息子への愛情、トンケの妖しげな”あんま”でのハダカと、泣き所、乙女を画面にくぎづけにさせる絵を忘れないのは、さすがに「友へ チング」のクァク・キョンテク監督である。あっぱれ。

野良犬は、ひとりだから野良犬だ。こどもの頃からずっとひとりだったトンケは、もうひとりではない。

「ルフトパウゼ」篠崎史紀著

2006-06-18 23:20:02 | Book
長らく私にとって、N響のカオは徳永二男さんだった。ヘルメットが似合う現場監督のような面相のガテン系のあの方は、私にとっては最も色気を感じる男だった。
(Gacktさんは、別格)
ところが新しいコンサート・マスターが就任し、9年の歳月が経ってみるとN響の音が変わってきたような気もする。かって、徳永さんが座っていた席で今ヴァイオリンを奏で、その濃ゆ~~い存在感を元コンマスより更にパワーアップしたのが”まろ”である。
お公家さんのような風貌から”まろ”という愛称がつけられている篠崎史紀氏が、初めてのエッセイ集を刊行したので、早速試聴してみる。

8年間のウィーン留学時代の後に、1988年群馬交響楽団、91年読売日本交響楽団、そして弱冠34歳で97年にN響の第一コンサート・マスターに就任した篠崎氏にとって、理想のコンマスはウィーン・フィルのゲルハルト・ヘッツェル。コンマスを歴史的にみて、親分肌の大物タイプ、頭脳がきれるクレバータイプ、そして好きなのがなんだかよくわからないがすごいタイプと、3パターンに分析する篠崎氏にとって、ゲルハルト・ヘッツェルは誰よりも尊敬し、敬愛したコンマスだった。ウィーン・フィルに入団した時、ユーゴスラビア人出身ということで、この楽団にさもありがちなさまざま差別を受けたが、実力と人柄で克服したという。(そういえばこの方が亡くなった時、銀座の山の楽器のCD売り場に「ありがとう、ヘッツェル先生」という手書きのポップ広告とともにCDが並んでいたことを思い出した。)彼の姿、愛情のこもった言葉を今でも忘れないという。本書はそんな素人にはよくわからないコンマスというお仕事の格好の手引き書にもなっている。

たった一度だけの、ゲスト・コンサート・マスターを引き受けてから、今に至るこの仕事の魅力を、作曲家たちの仕事の到達点がシンフォニーとオペラにあるからだというイントロには、思わずうなづいてしまう。そして意外にも、コンマスの仕事を総務的と称し、オーケストラの主治医、指揮者と奏者をつなぐパイプ役、はたまた作曲家の設計図に従って音楽的な構築物をつくる現場監督という説に、他のオケのコンマスやコンミスとは異なる篠崎風の音色を私は感じる。コンマスという華やかなポジションの、奥の深さをも感じるといってもよい。このコンマスの仕事を語る部分は、なかなか集中して読ませる。

そしてマロの観たN響指揮者論、モーツァルト、ベートーベン、バッハ論、わが街ウィーンと続く。決して描写が巧みでもなく、文章表現がヴァイオリンほど多彩ではないのだが、かえってその言葉にはまろ氏の年々増えているような体重と同じくらいの重みと説得力がある。大いに盛り上がり、アンコール曲を弾いていたら時間になったからと突然電気が消された地方での演奏会、終了後のパーティで飲食する予算はあるのに、ヴィヴァルディの「四季」を演奏するチェンバロ奏者を予算の都合で省略されてしまった「音楽祭」。主催者と侃侃諤諤の抗議の結果、こうした二度と呼ばれないホールや音楽祭を増やしている篠崎氏のこだわりを、私はしごくもっともなことだと思う。彼は、体育館でもよい、予算の制限があってもよい、楽器が足りなくてもかまわない、創意工夫で主催者側も演奏者もお客さんに楽しんでもらう演奏会を開くことに、音楽家としての使命を感じているのだ。

「演奏会は楽しむもの」

観客も、オケの奏者と指揮者、ソリスト、事務所、すべてハッピイでなければコンサートが楽しめないと、コンマスとして日々配慮する篠崎氏に、この音楽家としての行動は一致する。そうだった、篠崎氏は九州男児だったのだ。
篠崎史紀氏は、北九州出身のヴァイオリニストだったら知らない者はいない教育者である篠崎永育(しのざき・えいすけ)氏の長男として生まれる。1歳11ヶ月にして初めて1/16のヴァイオリンを構える。これに気をよくして、ぞうきん、スリッパ、スイカでも手当たり次第にあごにはさんで喜んでいたそうだ。レッスンを始めたのは3歳からで、両親の拍手がないと練習がはじまらなかった。けれども一度も練習が苦にならなかったというから、やはり小さな頃から才能があったのだろう。大きくなったら地球防衛軍のウルトラ警備隊になるのが夢だったまろ少年は、21歳の誕生日をウィーンで迎え、一生付き合っていけるものとしてクラシック音楽を意識し、街頭パフォーマンスをした時の演奏を心から受け入れられた体験から、その姿が今日まで続いている。
以前N響アワーで披露していたのだが、燕尾服に隠されたYシャツの袖が、エミリオ・プッチのようにど派手だった。(このYシャツの反響は大きかったらしい。)岩城氏が亡くなった後、最もダンディな音楽家かもしれない。最後に、演奏会に観客として来ていらした篠崎氏のお姿は、イタリアン・マフィアそのものの”迫力”があったことをつけ加えたい。

*「ルフトパウゼ」とは、ドイツ語で「空気の休符」。
このタイトルの意味が、本書のすべてを語っているかもしれない。

著者来店
  

マエストロ岩城宏之氏が逝く

2006-06-17 23:13:18 | Classic
NHK交響楽団正指揮者を務め世界的な指揮者の岩城宏之(いわき・ひろゆき)さんが13日午前0時20分、心不全のため都内の病院で死去した。73歳。岩城さんは5月24日、東京・紀尾井ホールで東京混声合唱団の指揮後、重度の貧血のために入院した。入院中も「衰えないようにしなくちゃ」と指揮棒を振り続けていた。
6月1日に岩城さんが指揮を務めていたオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)のゼネラルマネジャー山田正幸氏が見舞いに訪れると、点滴を打ちながら「大丈夫、大丈夫」と笑顔で話していた。当初は10日にも復帰の予定だったが、体調が戻ることなく息を引き取った。葬儀・告別式は近親者のみで営まれ後日、お別れの会を開く。
ベートーベンなど後期古典派から、打楽器をふんだんに使った現代音楽まで意欲的に取り組む一方で、病気とも戦い続けた。87年、重労働がたたり、首のじん帯にできた骨が脊椎(せきつい)の神経を圧迫する「後縦靱帯骨化症」を患い、首の骨を切断する手術を受けた。89年胃がん、01年に咽頭(いんとう)がん、昨年は肺がんを手術した。
8月に復帰後の年末、ベートーベン交響曲第1番から第9番まで10時間続けて演奏した。「ベートーベンで命を失うのは仕方ない。それぐらいベートーベンを尊敬している」と語り、隠れて酸素吸入をしながら、指揮棒を振り続けた。音楽に生涯をささげた。(6/14日刊スポーツより)

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岩城さんといえば、指揮棒をふるだけでなく、エッセイストととして軽妙洒脱にペンをふることでも、その才能を遺憾なく発揮させた。しかし、高校時代野球に熱中した岩城少年が、文字通り生涯を捧げたのは音楽だった。追悼文を読んでいると、この方らしいエピソードが並んでいる。

以前連載されていた日経新聞の「私の履歴書」でもおおいに笑わせられ、また経験から培われた含蓄のある文章は、実業界以上に読み応えがあった。本来「私の履歴書」は、名をなしりっぱな肩書きのついた今日の姿まで続いて終わるのだが、岩城氏の連載はなんと指揮者デビューで終わった。その後の指揮者としての世界的な活躍ぶり、現代音楽へのとりくみや地方都市の音楽活動の支援と続くはずなどだが、それを書いたら自慢話めいてスマートじゃないというのが、終止符をうった理由だった。そんな岩城氏の美意識を日経新聞では”本当のダインディズムを体現した芸術家”、読売新聞では”最後まで活火山であり続けた人のダンディー”と追悼していた。

後縦靱帯骨化症という難しい職業病に患い首の骨を切断する手術を受けた岩城氏は、後年その手術の跡がめだたないシャツを着ていると告白していた記憶がある。岩城氏のダンディズムのなせるお洒落とも言いたいが、健康面に不安を与えることからのマイナス・イメージを指揮者として排除する工夫と、視覚的に最もひとめをひく位置への観客への配慮だと思っている。そんなダンディな方であるが、同じ指揮者の若杉弘氏の追悼文からはまた違った一面ものぞかれる。

若杉氏が大学一年の時、ブリテン作曲オペラ「ねじの回転」のプロムプターを務めていた。公演初日を控えて白熱する稽古場に、指揮者の岩城氏が来ない。なんと岩城氏は、稽古場に向かう途中乗っていたタクシーが花屋さんに突っ込むという交通事故に遭っていたのだ。気がつくとまわり中白や黄色の菊の花に囲まれて、「人間、死ぬ時に自分の葬式を観ることがあるんだなと思った」そうだ。それは兎も角、入院していた岩城氏の代わりに指揮をふったのが若杉氏だった。それを病院から観にきた岩城氏は、初対面の彼に指揮者に向いている、応援するからチャレンジしてみろと奨めた。微笑ましいのは、大学3年のときに、若杉氏が「フィガロの結婚」をふるコンサートに、岩城氏はプロムプターをかってでて、「舞台の上は俺がさばくから、オケだけしっかり見はっていろ」と自分の車のバックミラーをはずして、プロムプターボックスに持ち込んだというエピソードだ。

音楽に生涯を捧げた岩城氏だが、あまりにも多忙である日音楽を憎んでいる自分に気がついた。それからは、毎年1ヶ月音楽から離れた休暇をとるようにしたと言う。
私は、最後の最後まで病にみまわれながらも、現役で指揮台にたってこられた原動力の秘密を見た気がする。

http://www.t-bunka.jp/jisyujigyou/hibiki19/hibiki19_interview.htm

アフリカを巧みに繰る非鉄メジャー「アングロ・アメリカン」

2006-06-16 23:10:28 | Nonsense
イギリス映画『ナイロビの蜂』がすこぶる評判が良い。この完成度の高い作品を、私も一度は観たいと願っている。ただどうも外交官ジャスティン役のレイフ・ファインズの顔を観ていると、イギリスのブレア首相に重なっていく。
昨年7月G7でのアフリカ諸国に対する債務全廃を呼びかけたブレア首相苦渋に満ちた表情には、多少老いたとはいえ”若き英国紳士の良心”さえ感じた。追従した日本の今後5年間での政府開発援助の100億ドル増額などという”英断”なんぞ、すっかりかすんでしまった名優ぶりである。けれども、私は聞きたい。それでは、これまでのアフリカの貧困の原因に果たした紳士の国の役割は、いったいなんだったのだろうか、と。

現在、世界の非鉄メジャーの頂点にたつ企業のひとつに英国企業のアングロ・アメリカン社がある。グループ全体の年間売上高は、1000億ドルに達するという大企業だ。
1867年南アフリカでダイヤが発掘されると、英国やフランスから一攫千金を求めて男たちがこの地にやってきた。なかでもセシル・ローズの果たした”業績”は、英国に巨大な富をもたらした。彼はダイヤ鉱区の買占めに成功、南アフリカからエジプトまでを大英帝国の実質支配下におくことをほぼ実現し、英国王の謁見をゆるされ、勲章も授与された。そのローズの後を引き継いだのは、ユダヤ系投資家オッペンハイマー一族であり、1917年にアングロ・アメリカンを築いた。現在のアングロ・アメリカン社は、三代目のニコラス・オッペンハイマーがその持ち株比率の高さで、大きな影響力を温存している。

情報誌「選択」で、アフリカを舞台にしたこのアングロ・アメリカン社の巧みな技を3点挙げている。
①英国型の政権へのパイプづくり
アフリカーナ政権の台頭にあわせ、彼らとのパイプづくりを巧みに行ったのが、60年代の傘下企業の安価な価格でアフリカーナ企業家への売却。そして90年後半、アングロ・アメリカン社は黒人主体とする鉱山労組の元議長でマンデラ政権に顔の利く政治家を企業家にしたてあげ、資源開発分野への参入をてだすけした。そのおかげで、南アの人種隔離をそくし、膨大な搾取をしたことで「真実和解委員会」にアングロの社長らも呼ばれたが、単なる禊として舞台は幕がおりた。

②反政府との接触
コンゴ民主共和国内戦では、政権を奪うであろうと予測されたゲリラに接触し、多額の仮契約金を支払って布石を打つ。ゲリラが政権を握った時、ヨハネスブルグからのチャーター便から最初にこの地に降りたのは、アングロ・アメリカン社の幹部だったという。

③徹底したコスト削減
これは、勿論人件費を徹底的に落とすことである。アングロ・アメリカン社系列の南ア鉱山の労賃はもともと安かったが、アパルトヘイト時代のモザンビークやレソトなどの周辺国の出稼ぎ労働者を使うことによって、社会保障費削減をはかった。現在南アで蔓延するエイズは、当初鉱山労働者の感染率が高かった。医師たちが予防を訴え、プロジェクトをすすめる中で抵抗が大きかったのが、余計な出費を避けたいとするアングロ社の姿勢だったという。
本来南アでの金鉱山の発掘作業は、地形的にも金鉱石の純度からいってもそれほど採算があうレベルではない。それでも、アングロの中枢を担うアングロ・ゴールド・アシャンティ社が今年5月、純利益が前年比倍増と発表できたのは、劣悪なる環境で働き安く使われてきた鉱夫の文字どおり汗の結晶である。こうした経緯を知らなくとも、1998年金鉱山で発生したストライキの写真には、観る者をゆさぶる迫力がある。

2000年より世界の資源メジャーに勝つために、アフリカだけでなく中南米にも手を広げている同社を、「アフリカを支配した国」から「多国籍の有望企業」へと変貌をとげることによって、南アフリカに密着してきたというイメージを払拭する狙いと糾弾する「選択」の記者の視線は厳しいが、まさに正論である。
アングロ・アメリカン社は、あくまでも英国人が営む私企業である。しかし、過去殖民活動や英国に利益をもたらした企業家を称えたのは政府であり、在アフリカ英国人に投資して、巨額な利益をえたのもシティである。
過去130年余り、さんざんアフリカ大陸から天然資源を掘り起こしてを搾取し続けて、そして現在も搾取しながら、人権派の歌手ボノとともにメディアに登場してアフリカ救済を訴える英国の救世主ブレア首相を観ていると、この首相を好ましく感じているが複雑な気持ちになる。衆知の事実であるアフリカの悲劇を題材に、映画として商業的にも成功してアカデミー賞の助演女優賞を獲得したという『ナイロビの蜂』の華々しさに、同じように複雑な印象をもってしまうのは、素直ではないのかもしれないが。