
ミュンヘン出身の映画監督ミヒャエル・ハネケの作品に、イェリネクの著書を15年間熱望して撮った
『ピアニスト』という映画がある。
主人公の中年女性エリカは、音楽院の有能なピアノ教師。権威ある地位についてはいるが、彼女は母親の執念のように期待されたコンサート・ピアニストになれなかった教師。しかし、そんなエリカだが、誰よりもシューベルトの世界を手にしている自信はあった。
「シューベルトはあなたのもの」
母のささやきを当然だと思っていた。
「シューベルトはわたしのもの」
誰よりも自信があったエリカを絶望の淵に落としたのは、シューベルトを素晴らしく演奏をする若く美しくすべてに恵まれた青年の登場だった。
シューベルトのピアノ曲とは特別なものなのか。
映画を観た時から、ずっと気になっていたシューベルト。王子ホールが主催したのは、英国リバプール出身のピアニスト、ポール・ルイスによるシューベルト・チクルスである。彼によるとシューベルトの音楽の”特別な”魅力とは次のようになる。
「シューベルトの音楽には憧れや絶望、親しみ、ノスタルジアといったものが率直かつ直截的にあらわれており、聴く人はその音楽に動かされ、引き込まれずにはいられません。」
ポールは、階級社会の英国で、リバプールの労働者階級に生まれたということだけでなく、サッカー狂の父親とクラシック音楽に全く興味のない母親の間に育ち、ピアノを学びはじめたのはなんと12歳の頃からだという珍しい経歴をもっている。それは演奏会が終わって知ったことだが、初めてポール・ルイスのピアノを聴き、裕福な家庭ですべて整えられた環境で学んだ音楽家とは違う雰囲気を感じた。一言で言うとラフな中の本物感というのだろうか。ポール・ルイスは20歳の時に出会ったアルフレッド・ブレンデルを師匠に、派手な宣伝とは無縁に地道に演奏活動を続けてきて、近年は、次世代の巨匠と期待されているピアニストだ。華やかに時流にのるスターもよいけれど、こうした地味だが息の長い固定客をつかめる演奏家を大事にしたいと思う。演奏家を育てるのも、観客の役割だからだ。華やかさに目をひかれる人は、あきるのも早い。
さて、シューベルトの音楽は、あかるさと楽しさの中にふと悲しみや絶望がのぞく時があり、私にとっては実はこどもの頃はこわくてもの悲しいシューベルトだった。しかし、彼の手にのると、シューベルトのこわさが人生への絶望と悲しみの表情であることが人間味として表れ、そこにシューベルトと音楽への愛情が感じられる。確かに、こどもには不思議な恐ろしさを感じた旋律が、何度もめまぐるしく変わる転調となって耳から、心から、離れることがない。
「シューベルトの音楽はあなたのもの」
ところで、ポール・ルイスを知ったのは、昨年の震災の後、海外の大物の音楽家のキャンセルが相次ぎ多くのコンサートが中止となる中、4月21日の彼のリサイタルが通常どおり開かれていたことを記事で読んだからだ。事前の打ち合わせでも、来日した時も、彼からは原発のことは何ひとつ質問がなかったそうだ。平然と来日して高い密度の演奏をして聴衆への感謝を述べて去ったそうだ。王子ホールの関係者が最後に彼に気になりませんかと尋ねたところ、「国は違っても私たちはこの世界の住人であり、どんな小さいことでも自分たちの役割を果たし、日々の営みをつないでいかねばならない。だから私は今月、日本でシューベルトを決意をした」という言葉が返ってきたそうだ。そんなポールらしい、大きな構成の音楽を存分に楽しめたことは喜びだった。
さて、私は他の方の演奏会のマナーや聴く姿勢についてあまり気にしない方であるが、というよりも気にしないようにつとめているだけなのかもしれないが、近頃、いかがなものかと感じるのが拍手のタイミングである。音楽の余韻にひたる間もなく、あわただしく拍手が入るのは無粋ではないだろうか。(せっかく楽しまれている方に、たかが拍手のタイミングにいちいち眉尻をあげることこそ無粋だとも思うのだが。)確かに、弾き終わった瞬間にブラボーと喝采したい曲も雰囲気もあるので、すべてがその限りではないのだが、今夜のシューベルトの音楽は音が消えたつかの間の余韻を、深く心でそっと慈しみたい音楽ではないだろうか。ポール・ルイスのこの言葉には、私は思わず深く肯いてしまった。
「彼の音楽は静寂を求めているようなところが少なからずありますが、
ついに静寂が訪れたときには、それがいかに大事なものかをしみじみとわからせてくれます。」
今宵のシュベールトは、ポール、あなたのものだった。
そして、私のものでもあり、ホールをうめた人々のものだった。私たちは、どこへ住んでもやはり地球というひとつの船の住人には変わらないから。
--------------- 2012年4月12日 王子ホール -------------------------
16のドイツ舞曲と2つのエコセーズ Op.33, D783
ピアノ・ソナタ 第14番 イ短調 Op.143, D784
アレグレット ハ短調 D915
ピアノ・ソナタ 第16番 イ短調 Op.42, D845
■アンコール
シューベルト:ハンガリーのメロディ ロ短調 D817