千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

ギル・シャハムの「バーバー ヴァイオリン協奏曲」

2012-05-30 22:07:37 | Classic
よく訪問させていただいている「ETUDE」 のromaniさまが、何となく幸せな気分にしてくれる音楽とブログに書かれていたのが、バーバーのヴァイオリン協奏曲。演奏者は我が美音王子のギル・シャハムとアンドレ・プレヴィン指揮、ロンドン交響楽団。

気のせいか、近頃、良い演奏家の来日が減っているような気がする。お気に入りの王子ホールのスケジュールも空白がめだつような・・・。それはさておき、ギル・シャハムが私に会いに?やって来た時、サインをもらうつもりで未購入だったのが、このバーバー協奏曲だった。時のうつりかわりは早いもの、わずか数年で良い本もCDも市場から消えていく世の中、というわけであわてて購入した。

サミュエル・バーバーが1934年にフィラデルフィアのサミュエル・フェルズから委嘱されて作曲したこの曲は、米国人に愛されている20世紀の現代曲である。時代性を感じるものの、前衛音楽や無調音楽のような難解さはなく親しみやすいのもアメリカ産だからだろうか。しかし、爽やかな風が吹き渡る夢見るようなはじまりは、素晴らしくロマンチックで何回も繰り返して聴きたくなる。ベタな表現を借りると涙がでそうなくらいに美しい、のだ。それにも関わらず、実際に日本では演奏される機会が少ないのが残念。私も生で聴いたことがあるのはたったの1回だけ。

同じくアメリカ産でジュリアード音楽院で育ち、美しい音をもつギル・シャハムの艶やかな音色は、まさにこの曲のもつ浪漫性と相性がよいと感じられる。美音王子は、音の美しさで誰からも好かれて愛されるが、ともすれば、聴いて心地よい環境音楽的な満足で終わってしまう場合もある。美音王子が王子である限りは、私にとってもギル・シャハムはすなわち観賞用かもしれない。映画『無伴奏』のギドン・クレメールのバッハの演奏のように、いつか嵐のような魂の彷徨を感じさせてくれる演奏を待つちたいというのも、お門違いなのだろうか。そんな日を待ちながら、5月の今宵は、シャトー・モンペラはないがギル・シャハムのバーバーヴァイオリン協奏曲で気持ちよく酔ってみたい。

■アンコーーールゥ!
・ギル・シャハム ヴァイオリン・リサイタル
バッハ無伴奏ヴァイオリン・リサイタル
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音楽評論家・吉田秀和さんが逝く

2012-05-28 22:19:30 | Classic
音楽評論家の吉田秀和さんが今月22日に亡くなった。98歳の最近まで、お元気でご活躍だと感心していたのに、誠に残念だ。

手元にないので不確かなのだが、桐朋学園大学附属「子供のための音楽教室」から出版されている「子供のためのソルフェージュ」という本がある。何版も版を重ねて、今も尚、現役で活躍しているこの小さな本を初めて手に取った時、私はまえがきを読んで深く感銘した。音楽は家庭生活をあかるくするといったような文章に心が澄んであたたかくなる想いがした。実にシンプルで当たり前のように思えるが、齋藤秀雄氏、井口基成氏、吉田秀和さんといった錚々たるメンバーが教室がはじめたのは、敗戦まもない日本でのことだった。

町を歩くと、電車に乗ると、様々な楽しげな音楽が洪水のように流れている日本。しかし、敗戦の焼け野原で、物資も不足し、食べるものさえ手に入れるのが困難だった貧しい日本で、音楽、この小さな宇宙に情熱をもって生涯をかけた人たちがつくった教室がよびかける「音楽は家庭をあかるくする」という言葉は、どれほどの希望のあかりとなって日本人のこころをてらしたことだろうか。そんなことを想像した。

音楽理論を備えた美しく端整な文章は、幅広く親しまれると同時にピアニストの中村紘子さんによると「クラシック音楽が”権威”として存在した最後の偉大な批評家」でもあった。来日したホロヴィッツを「ひび割れた骨董品」と絶妙で厳しく評したことでも知られる。

ところで、もしかしたら人違いかもしれないが、「日本の作曲家2011」のコンサート会場で吉田さんをお見かけしたような気がする。だいぶご年配の方が、ブルーローズの最前列中央で演奏を聴いていらっしゃった。写真で見たことがある吉田さんに似ているなとは思ったが、おひとりだったようなので、吉田さんだったらどなたか編集者やご家族の方がつきそわれるだろうし、何しろ鎌倉在住のご年配の文化人にとってはサントリーホールは遠いから別の方だろうとそのまま忘れかけていた。改めて、近影をお見かけするとやはりよく似ていらっしゃる。

読売新聞の報道によると、昨年の作家の丸谷才一氏の文化勲章を祝うスピーチでは、ドイツの文豪ゲーテの言葉を引用されたそうだ。
「我々はみな集合体で、自分自身と呼べるものはわずか。私は先人や同時代人に学び、他人がまいた種を取り入れさえすればよかった」
芸術に敬意をはらった表現だが、吉田さんこそ音楽の畑に種をまく人だった。

そんななか、エリザベート王妃国際コンクールのバイオリン部門で20歳の成田達輝さんが2位に入賞するという吉報が舞い込んだ。彼の演奏は、コンクールに挑むというよりも気品があり、若いのにもかかわらずエレガントすら感じられる。彼ら新世代の音楽家は、抜群なテクニックだけでなく個性ももち、次々と世界的なコンクールで好成績を挙げている。吉田さんたちがまいた種が多く実り、大輪の花を咲かせる時代になった。そんな時代を迎える幸運をかみしめて、改めて吉田さんを追悼したい。
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読売日本交響楽団第515回定期演奏会

2012-05-15 23:03:59 | Classic
容姿端麗の千秋よりも野獣派好みの私としては、最近気になる若手の指揮者と言えば下野竜也さんだ。
彼はどう撮りようにもヴィジュアルにはならないあの風貌と体格を逆手にとって、知性をかくした親しみやすさとお茶目さで今や創立50周年を迎える読売日響の看板指揮者となりつつある。コンサートのプログラミングもなかなからるもんだ。

今宵の1曲目は、日本初演となる現代曲アリベルト・ライマンによる「管弦楽のための7つの断章 −ロベルト・シューマンを追悼して−」。ライマン(1936年〜)は、ドイツ語圏を代表する作曲家だそうで、人間の声の表現力を追求して評価を得たそうだ。演奏に先立ち、下野氏によるプレトークが開かれた。指揮者の生の声で簡単な解説をする”営業”は好ましいと思う。それに、なかなか下野さんの声は営業トーク向きだ。解説によるとシューマンの遺作<最後の楽想による幻覚の変奏曲 変ホ長調WoO.24>へのオマージュが盛り込まれているとのこと。そして、実際にピアノの音で主題を紹介してくれた。

曲は7つの断章で構成されているが、明確な区切りはなく、トロンボーンのシューマンVn協奏曲のモチーフがあらわれたかと思うまもなく、次々と多くの音、音色が重なり混沌とした不協和音の渦にまきこまれていく。いみじくもライン川に身を投じたシューマンの精神世界を、音符で色彩豊かに描いた音の洪水に自らも身を投げ出しているような心地になってくる。現代音楽を演奏するのも難しいだろうし、聴衆も心地よさや美しさを感じるわけでもなく、ノリがよいわけではない。しかし、ドイツ語圏の現代歌曲コンクールでは頻繁にライマンの作品がとりあげられていることからも、現代音楽を演奏すること、聴くことは大事なことだと考えている。意欲的なプログラムに奮闘する下野氏と読売日響の団員を応援したい。

次は待望の三浦文彰君の登場。
曲目は殆ど演奏される機会のないシューマンのVn協奏曲。しかし、2009年16歳でハノーファー国際コンクールで優勝した彼は、2010年11月ミュンヘンですでに初めて演奏した経験があるそうだ。三浦さんは当初この協奏曲がどうしても好きになれなかったそうだが、パヴェル・ヴェルニコフ氏のレッスンを通じて、時間をかけて取り組んで行くうちに少しずつ好きになっていったとのこと。これまでそれなりにコンサート通いをしていた私も、実際の演奏を聴くのは初めてだったのだが、とっつきにくさの中にも美しさや苦しみが現れては消え、ベートーベンのようなどっしりとした格がなく、ぶれながらも非常にチャーミングな素晴らしい作品だと感じた。三浦さんはこの曲をもう何度も演奏してきたかのように、楽々と楽しみながら美しく繊細に音色豊かに演奏している。気負いもなく、実に自然な音楽の流れをやすやすと生み出して美しく奏でていく。本当にうまいヴァイオリニストなのだ。

小柄でどちらかと言えば華奢な三浦さんが、真紅のポケットチーフをさしてヴァイオリンを演奏している姿は、ジャニーズ系の雰囲気があり絵になる。そんな彼には、シューマンのこの協奏曲の不思議な可愛らしい曲想がとても似合っている。下野氏も読売日響もよくこの作品を選定し、又、ヴァイオリニストに三浦君という最高のキャスティングをしたものだと感心する。もう、この曲は三浦君以外に、おじさんには弾かせたくない。。。
アンコールは、若者でなければ弾けないような超絶技オンパレードのパガニーニの「パイジェルロの水車屋の娘から 我が心もはやうつろになりて」。やっぱり10代の若さの勝利だよ。

最後の交響曲は、同じくシューマンの交響曲第二番。この曲は音楽ジャーナリストの渡辺和さんによるとプロの指揮者に偏愛されるツウ好みの楽譜だそうだ。ロマン派に位置しながら、決してわかりやすい曲ではない。シューマンの曲には精神が不安定のような不安と不思議さがのぞかれ、それでいて楽しくも美しくもある。傑作ミステリー小説「シューマンの指」を書いた作家の奥泉光さんは、かなりのシューマン好き。下野さんの指揮は、混沌の中にも希望のようなシューマンを聴かせてくれた。

演奏会が始まる前の場内アナウンスで様々ないつものご注意とお願いがあったが、最後に「拍手は、指揮者が指揮をふりおろしてからお願いします」との放送があった。これはツウでなくても大事なお願いだよ。

---------------------------- 5月15日 サントリーホール --------------------------------

指揮:下野竜也
ヴァイオリン:三浦文彰
ライマン:管弦楽のための7つの断章 −ロベルト・シューマンを追悼して−(日本初演)
シューマン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
シューマン:交響曲 第2番 ハ長調 作品61

■アンコール
パガニーニ :「パイジェルロの水車屋の娘から 我が心もはやうつろになりて」による変奏曲op.38

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「第14回チャイコフスキー国際コンクール 優勝者ガラ・コンサート」

2012-04-26 22:36:53 | Classic
昨年の9月にジャパン・アーツ主催で開催された「第14回チャイコフスキー国際コンクークール 優勝者ガラ・コンサート」は大盛況だった。宣伝チラシにある「決定!新スターの誕生」という昭和の芸能界のノリのとおりに、まさしくキラ星のような若き演奏家たちだった。それに気をよくしたのか、追加決定されたのが今夜の優勝者ガラ・コンサート。演奏順はバランスよく、最初にヴァイオリン、チェロ、そして休憩をはさんで最後にピアノだ。

まずは、ヴァイオリン部門で2位(1位なし)で聴衆賞を受賞したセルゲイ・ドガージン君が登場する。
彼はロシア人にしては小柄だが、全身黒づくめの衣装とステージマナーは洗練された印象を与える。年齢から言えば、大学卒業した新人社員なのだが、まるで何年もステージ活動を続けてきたプロのような堂々とした物腰で、その分初々しさはに欠ける。選んだ曲は、モーツァルトが19歳の時にザルツブルグで作曲したヴァイオリン協奏曲第3番。昨年のチャイコフスキーVn協奏曲で自分の音楽観を披露した演奏スタイルとは異なり、モーツァルトの純粋な才能と音楽に心を自然にそわせて、繊細な音がきらめくように実に美しい。そして彼の音楽性はこの音楽のもつ初々しさを春から初夏へかわる新緑のように映している。思わずため息がでたのだが、演奏がおわってみれば、何の事もない、それが彼流の”説得力ある演奏”に説得されていたことに気がついた。

お次のナレク・アフナジャリャン君は、チェロの名曲中の名曲ドヴォルザークのコンチェルト。すべてにおいてバランスのよく、オールマイティな演奏家だと感じている彼の楽器は、ダヴィッド・テヒラー。勿論、貸与である。ドヴォルザークが1892年、アメリカ滞在中に作曲されたこの曲は、ボヘミア民族舞曲が反映されたナショナリズムと望郷があり、一方で黒人霊歌の影響も受けており、情熱のほとばしりの中にも溌剌とした新らしさも感じられる。彼の祖国、アルメリア共和国は複雑な歴史をもつが、彼自身はモスクワ音楽院に進みムスティスラフ・ロストロポーヴィチ財団から奨学金を授与されていて、実力をのばして栄冠を手にした。そんなこととは別に、のびやかに彼のチェロは歌う、ある時は情熱のほとばしるままに、そして悲しげに。高音が美しく、まるでヴァイオリンかと思った。演奏後の拍手を背に、舞台に設置されたチェリスト用の台から、チェロを片手に長い脚で軽やかにひょいと降りたナレフ君。大きな楽器が、彼の長身の中では可愛らしさすら感じる。大器の熟成が楽しみだ。

いよいよ、ダニール・トリフォノフ君の登場。何度も聴いて来て、いささか食傷気味のショパンのピアノ協奏曲第1番、、、だったはずだが、彼の演奏する音楽は全く違う。この曲って、こんなに素敵だったの。思わず集中して、一音も聴きのがしたくないと真剣になる。音の一粒一粒に、彼の考える、彼の感じるショパンが宿り輝いている。繊細で美しいのに、大きな音楽となっている。写真集でアイドル並みの売り出し方に疑問を感じるのだが、彼の音楽は本当に素晴らしいのだ。それにも関わらず、モクスワ交響楽団の演奏はさえなかったのが、とても残念。

最後にアンコール曲について。
セルゲイ・ドガージン君は端整なモーツァルトの協奏曲第3番を演奏したのだが、この曲は技術的には難しくない。小学生でも発表会で弾いているくらいだ。しかし、単に弾くことと演奏することは別の次元で、逆に、だから難しい部分があるのだが、それは兎も角、アンコールで選らんだのは超絶技巧のパガニーニ「ラ・モリアーナ」!抜群の技巧を披露しながら、決して荒れずに音が美しい。拍手喝采。観客の受けをよく計算した抜群な選曲だったと思う。
チェリストのセルゲイ・ドガージン君は、すべてピチカートで奏でる「ツィンツァーゼ:リョングリ」。粋で、あかるい音楽性が映える。なかなかやるもんだ。
・・・とくれば、ダニール・トリフォノフ君は何を演奏するか気になるところ。彼が弾き始めたのは定番中の定番、ショパンの「華麗なる大円舞曲」だった。まるで着メロのようなこの曲も、彼は自分の音楽観で個性的な誰も演奏したこともない、素晴らしい音楽をうむ。彼はピアニストではなく、作曲家の心をもった音楽家としてショパンを演奏しているのだった。

総じて3人とも、選ばれるべくして選ばれた覇者だということがよくわかった。覇者という言い方は好きではないが、これを踏み台にダニール君はウィーン・フィルとすでに初共演している。しかし、彼らは国際的なコンクールで優勝したのだが、免許皆伝で自らの音楽性を育てていくという旧来のタイプではなく、どのような師匠に指導されようと自らの音楽性と個性をすでにもっていて立っている。ピアニストの中村紘子さんが世界で活躍できる日本人音楽家を育てるには、若い頃から演奏経験を積む必要があると牛田智大君をバックアップしていることの真意がよくわかった演奏会でもあった。完璧な演奏ではなく、プロとしての音楽性が求められている。

--------------------------- 4月26日 サントリーホール --------------------------------------

・モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調
・ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調
・ショパン:ピアノ協奏曲第1番 

■アンコール
・パガニーニ:ラ・モリナーラ
・ツィンツァーゼ:リョングリ
・ショパン :華麗なる大円舞曲
・チャイコフスキー :田舎のエコー


指揮 :アンドレイ・ヤコヴレフ
出演 :セルゲイ・ドガージン(Vn)、ナレク・アフナジャリャ(Vc)、 ダニール・トリフォノフ(Pf)、
演奏 :モスクワ交響楽団

■もっとアンコール
昨年のガラコンサート
チャイコフスキー国際コンクールの幕がおりる
ファツィオーリという世界最高のピアノ
「第13回チャイコフスキー国際コンクール 入賞者ガラ・コンサートジャパンツアー」
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ポール・ルイス シューベルト・チクルス Vol.4

2012-04-12 22:24:14 | Classic
ミュンヘン出身の映画監督ミヒャエル・ハネケの作品に、イェリネクの著書を15年間熱望して撮った『ピアニスト』という映画がある。
主人公の中年女性エリカは、音楽院の有能なピアノ教師。権威ある地位についてはいるが、彼女は母親の執念のように期待されたコンサート・ピアニストになれなかった教師。しかし、そんなエリカだが、誰よりもシューベルトの世界を手にしている自信はあった。
「シューベルトはあなたのもの」
母のささやきを当然だと思っていた。
「シューベルトはわたしのもの」
誰よりも自信があったエリカを絶望の淵に落としたのは、シューベルトを素晴らしく演奏をする若く美しくすべてに恵まれた青年の登場だった。

シューベルトのピアノ曲とは特別なものなのか。
映画を観た時から、ずっと気になっていたシューベルト。王子ホールが主催したのは、英国リバプール出身のピアニスト、ポール・ルイスによるシューベルト・チクルスである。彼によるとシューベルトの音楽の”特別な”魅力とは次のようになる。

「シューベルトの音楽には憧れや絶望、親しみ、ノスタルジアといったものが率直かつ直截的にあらわれており、聴く人はその音楽に動かされ、引き込まれずにはいられません。」

ポールは、階級社会の英国で、リバプールの労働者階級に生まれたということだけでなく、サッカー狂の父親とクラシック音楽に全く興味のない母親の間に育ち、ピアノを学びはじめたのはなんと12歳の頃からだという珍しい経歴をもっている。それは演奏会が終わって知ったことだが、初めてポール・ルイスのピアノを聴き、裕福な家庭ですべて整えられた環境で学んだ音楽家とは違う雰囲気を感じた。一言で言うとラフな中の本物感というのだろうか。ポール・ルイスは20歳の時に出会ったアルフレッド・ブレンデルを師匠に、派手な宣伝とは無縁に地道に演奏活動を続けてきて、近年は、次世代の巨匠と期待されているピアニストだ。華やかに時流にのるスターもよいけれど、こうした地味だが息の長い固定客をつかめる演奏家を大事にしたいと思う。演奏家を育てるのも、観客の役割だからだ。華やかさに目をひかれる人は、あきるのも早い。

さて、シューベルトの音楽は、あかるさと楽しさの中にふと悲しみや絶望がのぞく時があり、私にとっては実はこどもの頃はこわくてもの悲しいシューベルトだった。しかし、彼の手にのると、シューベルトのこわさが人生への絶望と悲しみの表情であることが人間味として表れ、そこにシューベルトと音楽への愛情が感じられる。確かに、こどもには不思議な恐ろしさを感じた旋律が、何度もめまぐるしく変わる転調となって耳から、心から、離れることがない。

「シューベルトの音楽はあなたのもの」

ところで、ポール・ルイスを知ったのは、昨年の震災の後、海外の大物の音楽家のキャンセルが相次ぎ多くのコンサートが中止となる中、4月21日の彼のリサイタルが通常どおり開かれていたことを記事で読んだからだ。事前の打ち合わせでも、来日した時も、彼からは原発のことは何ひとつ質問がなかったそうだ。平然と来日して高い密度の演奏をして聴衆への感謝を述べて去ったそうだ。王子ホールの関係者が最後に彼に気になりませんかと尋ねたところ、「国は違っても私たちはこの世界の住人であり、どんな小さいことでも自分たちの役割を果たし、日々の営みをつないでいかねばならない。だから私は今月、日本でシューベルトを決意をした」という言葉が返ってきたそうだ。そんなポールらしい、大きな構成の音楽を存分に楽しめたことは喜びだった。

さて、私は他の方の演奏会のマナーや聴く姿勢についてあまり気にしない方であるが、というよりも気にしないようにつとめているだけなのかもしれないが、近頃、いかがなものかと感じるのが拍手のタイミングである。音楽の余韻にひたる間もなく、あわただしく拍手が入るのは無粋ではないだろうか。(せっかく楽しまれている方に、たかが拍手のタイミングにいちいち眉尻をあげることこそ無粋だとも思うのだが。)確かに、弾き終わった瞬間にブラボーと喝采したい曲も雰囲気もあるので、すべてがその限りではないのだが、今夜のシューベルトの音楽は音が消えたつかの間の余韻を、深く心でそっと慈しみたい音楽ではないだろうか。ポール・ルイスのこの言葉には、私は思わず深く肯いてしまった。

「彼の音楽は静寂を求めているようなところが少なからずありますが、ついに静寂が訪れたときには、それがいかに大事なものかをしみじみとわからせてくれます。」

今宵のシュベールトは、ポール、あなたのものだった。
そして、私のものでもあり、ホールをうめた人々のものだった。私たちは、どこへ住んでもやはり地球というひとつの船の住人には変わらないから。

---------------  2012年4月12日 王子ホール ------------------------- 

16のドイツ舞曲と2つのエコセーズ Op.33, D783
ピアノ・ソナタ 第14番 イ短調 Op.143, D784
アレグレット ハ短調 D915
ピアノ・ソナタ 第16番 イ短調 Op.42, D845

■アンコール
シューベルト:ハンガリーのメロディ ロ短調 D817

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北朝鮮の銀河水管弦楽団がパリへ

2012-03-30 23:23:44 | Classic
先日の3月14日、パリは若き音楽家たちの演奏で燃えていた。

パリのコンサートホール、サル・プレイエルで、北朝鮮の銀河水(ウンハス)管弦楽団と、韓国人指揮者の鄭明勲氏が音楽監督を務めるフランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団の合同演奏会があった。そもそも写真で若くやせている(当たり前か・・・)青年たちが楽器を持つ蝶ネクタイ姿に驚きがあった。あの北朝鮮に西欧音楽を演奏する管弦楽団があったとは。それもそのはず、同楽団は発足されてからわずか3年の新しい楽団である。しかし、「2006年に自分が赴任する前のソウル市交響楽団と同じレベル」と鄭明勲氏は高く評価している。

少ない報道を寄せ集めたところ、コンサートはこんな雰囲気だったようだ。
プログラムの前半は、約90人で編成された銀河水だけで伝統楽器を使用した北朝鮮の音楽「ブランコに乗る乙女」「ビナロン三千里」「魅惑」とサン=サーンスの「ロンド・カプリチオーソ」の計4曲。拍手にわくが、20代の楽団員たちは笑顔もなく舞台の上で一緒に拍手をする場面もあり、顔を見合わせる観客も多かったそうだ。

しかし、後半、鄭氏が登場してフランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団と演奏したのがブラームスの交響曲1番。ブラームスが20年の歳月をかけて作曲した名曲である。銀河水にとっては初挑戦の大曲。全員が一丸となって必死の形相で楽譜にかぶりついていたという記事を読んだ。独裁者のための音楽とは根本的に異なり、重厚ですべての音符に意味のあるブラームスを演奏する彼らは、この音楽をどう受けとめたのだろうか。「若い人に外の世界を見せたい」と語っていた鄭氏の感情は、同じ東洋人の日本人にも想像がつく。そして最後の曲は「アリラン」。全員が感動に包まれたが、カーテンコールに応えて北朝鮮の指揮者を伴って登場した鄭明勲氏の挨拶は次の言葉だった。

「南北朝鮮は政治的に分断されていますが、人間は一つ、家族です。音楽には国境を越える力があります。」

このような2時間45分にも及ぶ演奏会が実現した背景は、EU主要国の中で唯一北朝鮮と外交がなかったフランスが、昨年10月に、平壌に「文化交流」の常設事務所を開設し、事務所設置に尽力した仏大統領特使のラング元文化相が、南北楽団の共演を果たせなかった鄭明勲氏に手をさしのべて、北朝鮮当局を仲介して、今回、交流の一環として公演が実現した。フランス政府としても北朝鮮との交流にメリットがあるからだろうが。

その昔、大正の詩人で知識人だった金子光晴の名言を思い出す。
「西洋人たちが、猿が人のまねをするときは、喝采をしてほめるかわりに、その猿が人と対等にふるまうようになることをぜったいに許さないことなどは、日本人は気がついたこともない」
現代でも本質的にはそう変わらないと感じているところもあるが、芸術の分野では猿真似を超える多くの優れた東洋人が活躍している。アンコール曲は、「私を育ててくれたフランスに捧げる」と前置きし、観客が総立ちとなったのはフランスの作曲家ビゼーによる「カルメン前奏曲」だった。
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MAROワールド Vol.17 ”モーツァルト Part.III” by MAROカンパニー

2012-03-27 22:53:12 | Classic
ETUDEのromaniさまは、ベートーベンの「田園」の最初の出だしを思い浮かべただけで、なんとなく幸せな気分になるらしい。
この感じはとても良くわかる。私はさしずめモーツァルトの音楽だろうか。単純なことに、モーツァルトを聴いている時の私はほんわかと上機嫌な女王様。ましてやディベルティメントの音楽なんぞに包まれたら、この世の中が美しくも生き生きと心に映ってくる。ディベルティメント。和名では、素敵にも”喜遊曲”(嬉遊曲)なんて訳されている。

さて、今宵は18世紀後半に、貴族のために祝賀行事用、はたまたパーティのためのBGMとしてモーツァルトが作曲したディベルティメントを集めた演奏会である。演奏者はまろさんと親分が「ヤッホー。元気? ねぇ、まろと遊ばない?」などとナンパの電話をかけて集結させたらしい男達。

そう、このMAROカンパニーの特徴は、若手、いずれも国内の主要オーケストラのコンサートマスターや首席奏者、そしてジョシ隆盛の世間とは背を向けたオール”メンズ”であるところに特徴がある。しかし、まろさまのイタリアン・マフィアのようなあの迫力で”遊ばない”と優しく誘われたら・・・断れる勇気はないかも?

それは冗談として、もうひとつMAROカンパニーの大事な特徴は、お客さんも充分楽しんではいるだが、実は演奏者の方たちの方がもっと楽しんでいる!ことだ。ヴィオラの鈴木康浩さんなどは、実に楽しそうに演奏している。

おっと忘れてはいけない、それからまだまだあったのが、曲の途中でまろさんの司会(しきり)があり、突然ご指名を受けた方による曲の解説など、トークが間に入ることだ。これがなかなかお茶目な演出で笑える。今回は、初出品の水谷晃さんと依田真宣さんによる回文の音楽版モーツァルトの「シュピーゲル・カノン」までが演奏された。鏡を表す意味のシュピーゲルのカノンは、一枚の楽譜を相対で演奏していくしかけになっている。よく知られているモーツァルトの天才性を証明したような曲だが、実際に演奏されるのを聴いたのは初めてだった。

こんなところにも、高い音楽性を追求する緊張感とは別の次元の素朴に音楽を楽しむ創意工夫がうかがえる。ちなみに以前のクリスマス・コンサートでは開場時間が通常よりも早く1時間前でワインが呑み放題だった記憶があるのだが、今回は休憩時間にヨックモック提供、パティシエ特製ザッハトルテがふるまわれた。美味で満足!まさかお酒やケーキで釣られているわけではないが、本当にMAROカンパニーはチケット入手困難である。

先日、デパートの紳士服売り場で店員さんが華やかな柄を裏生地に仕立てているジャケットを中年の男性にお薦めしている光景を見かけたのだが、その男性がすすめてくれた店員さんに「あっ、まろだっ!」とジャケットを指差していた。私も声こそ出さなかったが、近くで「あっ、まろだっ」と思わず目を見開いていた。この意味がわからない方は、つたない弊ブログ>をご一読いただければ・・・。

---------------------------- 3月22日 王子ホール -------------------------------------

篠崎史紀、伊藤亮太郎、白井 篤、伝田正秀、長原幸太
西江辰郎、水谷 晃、依田真宣(ヴァイオリン)
佐々木 亮、鈴木康浩(ヴィオラ)
桑田 歩、上森祥平(チェロ)
西山真二(コントラバス)
阿部 麿、日高 剛(ホルン)
モーツァルト:ディヴェルティメント ニ長調 K.136,137,138
       :ディヴェルティメント 第17番 ニ長調 K334

■サプライズ・ピース
モーツァルト:シュピーゲル・カノン

■アンコール
ランナー:モーツァルト党 Op.196 より MAROスペシャル・バージョン

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「N響アワー」が終了へ

2012-03-13 22:22:12 | Classic
いやな予感はしていた。
ちょうど1年前に、演劇、バレエ、コンサートなどが週代わりで放映されていた「芸術劇場」が消えてしまった。この番組で、海外のオペラの斬新な演出に衝撃を受け、フランスのバレエの洗練さと粋に目をみはり、シックで上質な室内楽にひきこまれた私だったから、「芸術劇場」の終了には、どえらいショックを受けたのだった。それが、今度はN響アワーまでなくなるのかっ!

しかも納得がいかないのは「N響アワー」終了の背景に、「芸術劇場」の終了があるのだとか。つまり、オーケストラ以外の公演もとりあげていた同番組がなくなったために、「N響限定の番組ではクラシックファンの多様なニーズに」対応できない(NHK広報部)くなったため、4月からは「ららら♪クラシック」をスタートさせて吹奏楽や合唱など幅広いジャンルをとりあげることになったそうだ。

???よくわからないっ!確かに、オケばかりではなく、室内楽やリサイタル、バレエ、オペラだった聴きたい観たい。だからそんなわがままで多様なニーズにこたえてきた「芸術劇場」は価値ある番組だったのではないか。だったら「芸術劇場」を復活させればよいではないか。「ららら♪クラシック」は、作家の石田衣良さんと作曲家の加羽沢美濃さんのトークで「初心者に配慮して、食べ物など音楽以外の要素も盛り込みたい」と言っているが、これまでのN響アワーだって、錚々たる日本の音楽の専門家が、池辺晋一郎さんなどおやじギャグを飛ばしながら、私のように専門家ではない初心者にもわかりやすく本格的な解説がついているのが本分だったはず。音楽以外の要素もとりいれて、後任の西村朗さんも健闘していた。充分楽しかった。

N響公演の放送は、BSプレミアムの日曜日、朝6時から放映されるそうだが、何故、誰もが観られる地上波でなくBSへ。早朝、クラシック音楽を聴くのは私も好きだが、それは映像ではなくCDじゃん。朝の6時という洗濯、朝食の準備、と多忙な家事諸々が待っている時間帯に、テレビの前に陣取ってじっくりと「運命」や「ブラ3」を聴けるわけない。

ところで、「N響アワー」の視聴率はなんと1%もあったそうだ。クラシックファンの人口比からすると、これは驚異的な視聴率だと思う。終了が告知されてから600件以上の意見が寄せられていて、N響ファンからの批判も多いという。そもそもNHKは公共放送だ。私たちの受信料で充分潤っているのだから、視聴率にふりまわされずに良質な番組をお客様である視聴者に届ける義務がある。くだらない娯楽番組を垂れ流す民放には殆ど観る番組がない時代、NHKも娯楽色を強めるようだが、フリーハンドで教養番組を創れるのが公共放送のメリットだったはず。せっかくN響という好きか嫌いかは別として一流のオーケストラを擁しているのならば、演奏会を放映して視聴者に還元する義務がある。そもそも”楽しい”という言葉の本質をNHKの人はわかっていないのではないのか。大笑いすることだけが楽しいことばかりではない。難しくとも本物、本質にふれることがどんなに楽しくて人生を豊かにしてくれることか。生の芸術にふれるのが本来の鑑賞方法だが、それには様々な制約と限りがある。茶の間で、お年寄りの方にも中学生にも芸術の真髄をかいまだけでも感じてもらうことが、テレビの意義ではないか。

NHKの広報担当者が「視聴者のニーズがますます多様化し、より多くの方にクラシックの素晴らしさを伝えることが公共放送として急務となっている」と言っているのも、何度読んでも私には全くわからないのだが・・・。

■こんな番組だってあった(一部だけ紹介)
「3月11日のマーラ」
似島の怒り
ああ宅配便戦争
「魔笛」カナダ・ロイヤル・ウィニペグバレエ団
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『3月11日のマーラ』NHK

2012-03-11 15:41:15 | Classic
あの日、あの時間、都内で働いていた私は、かって経験したことのない大きなゆれに、もしかしたら自分の人生はこのまま終わるのかもしれないと感じ、それが運命だったら受け容れるしかないとあきらめかけた。
その後、ネットで震源地が関東ではなく遠方の東北であることに地震の甚大ではない規模を想像して驚き、津波で流される家屋の映像に職場の人たちと衝撃を受けた。

東日本大震災から一年目の節目を迎えるにあたり、各局で次々と特集番組が組まれている。あの日を様々な視点で検証し考える番組の中で、私が観たかったのは3月10日に放映されるドキュメンタリーNHKによる『3.11のマーラ』だった。あの日、あの夜、錦糸町駅近くのすみだトリフォニーホールでは、予定どおり午後7時15分からクラシックの演奏会が開かれていた。指揮者は、新鋭のダニエル・ハーディング。しかも、当日は世界的な指揮者が同楽団で"Music Partner of NJP"に就任した記念すべきコンサートだった。1800席のシートはたちまちソールドアウト。電話も通じず、交通はストップして余震も続き大混乱の中で、演奏会を開くことへの議論、そしてロンドン生まれのハーディングがこんな大地震に遭遇して果たして指揮ができるのかという危惧、さまざまな出来事を再現した異色のドキュメンタリーだった。

ゲネプロの開始時刻は3時。地震が発生した2時46分には殆どの楽団員とスタッフは、すでに会場内で練習や打ち合わせに入っていた。その時、ハーディングはタクシーに乗車して錦糸町に向かう最中、日本橋を通り過ぎるところだった。あるホルン奏者は新橋駅で電車がとまって下車。そこからホルンを背中にかついで、歩きはじめる。途中で間に合わなくなることがわかり、ボーイスカウトで習った40歩歩き、40歩走る、という走法で飲まず喰わずでぎりぎり開演40分前にたどりついたそうだ。彼には大槌市の海側に住んでいる親戚もいるそうで、どんなにかつらかっただろう。

開演するためには、同楽団では2つの条件をクリアーすることが必要だった。
ホールを点検して安全を確認できることと、ひとりでも観客がくることだった。ハーディングからは、どちらの決断にも従うからと申し出もあり、全ホールを点検して震災の被害はなく安全を確認できたことから、4時に開演を決めた。何時間もかけて会場にかけつようとする観客もいた。一方、電話での問い合わせに予定どおりに開演を告げると「こんな時にコンサートか」とどなる人もいたそうだ。楽団員の中には、防災用のヘルメットを一瞬かぶる方もいたそうだ。
こんな時にコンサートか。
当然の抗議であろう。私もそう思う。しかし、サントリーホールでも、この日、コンサートは開かれていた。音楽はパンのかわりにもならないし、溺れている人を救助することもできない。生きるかどうかの瀬戸際にいる人にとっては、何の役にも立たない。しかし、だからこそ、それでも音楽は必要なのだと、大切なのだと私は考えるタイプだ。下野竜也さんもおっしゃっていたようにこれには正解はないだろう。

7時15分、行儀よく購入していた指定席に着席した観客は105人。ハーディングはみんなもっと真ん中に集まればよいのに、と笑いながら語っていたが、逆に分散されていたことで広い会場を満たしていると感じたそうだ。演奏されたのは、マーラーの交響曲第5番。トランペットのソロではじまるこの曲が、なんとこの日の鎮魂にふさわしいか。番組を観ていて、マーラーの音楽が心にしみるようだった。そして、まだこの段階で、大津波による被害の大きさと原発事故も知らなかった帰宅困難者となった観客たちとハーディングが写った最後に紹介された写真の中の笑顔を見て、確かにあの日を境に、私たち日本人は変わったとしみじみと感じた。

サイモン・ラトルが気に入ったとても若い指揮者という印象だったハーディングだが、番組を通して、実に音楽に真摯で装いだけでなく本物の英国紳士に成長していると感心した。地震、原発事故を理由にキャンセルをした音楽家ばかりではなかったのだった。演奏後、彼は「この日を境にして、音楽に対する考え方が変わりました。これからそれを永遠に深めていくことになるでしょう。私の中ではマーラーの交響曲第5番イコール3月11日として刻まれています」と語ったそうだ。そんな彼の肩書き、耳慣れない""Music Partner of NJP"とは、2010年9月に新日本フィルの指揮者に仲間入りした際に、「一緒に最高の音楽を作っていこう」という思いを込めて両者相談の上決めたという。

■こんなアンコールも
「読売交響楽団第503会定期演奏会」
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#490 定期演奏会 ヨーロッパの風雲児、フランスのファンタジスタ、スピノジ『新世界』!

2012-03-03 16:06:12 | Classic
今月から、格安航空会社(LCC)のピーチ・アビエーション、通称ピーチ航空が空を羽ばたきはじめた。
ネーミングどおりにプチ可愛さ満載の飛行機の運賃は、本当に安くて、だから魅力的だ。おかげで遠方への旅行も、より手軽に、より安く、より速い時代に突入していくことを実感する。

さて、そんな時代を反映したかのようにトリフォニー・ホールの舞台に颯爽と登場したのが、ヨーロッパの風雲児、フランスのファンタジスタと絶賛されているらしいジャン=クリストフ・スピノジ 。フォーマルな蝶ネクタイのかわりにシンプルなネクタイをさりげなくしめたフランスのいい男は、笑顔をふりまき、さわやかでスマート、と、とにかくかっこいいのだ。容姿もチャーミングな指揮者はなかなかいないぞ。

最初はモーツァルトの「魔笛」序曲。彼のキャリアの中ではモーツァルトは”鉄板”だそうだが、モーツァルトの音楽そのものよりもこの曲におけるスピノジのウィットにとんだお茶目なストーリーを聴いたような印象が残る。こうした印象にともすれば押し付けがましくなってしまいがちな”俺のモーツァルト”が彼のタクトにかかると、なんだか微笑ましくなってしまうのが彼のマジックなのか。こんなところに「スピノザ・ワールド」という言葉が巷間に流通する理由もよくわかる。

そして同じくモーツァルトの「ハフナー」。序曲こそさじ加減は控えめだった料理も、遠慮なく?創作料理を披露する腕前に、心地よい緊張感と新鮮さを味わう。えっっ、これってありか、と思わず身を乗りだす曲想。しかし、まだまだ、スピノザが彼の流儀で自由にタクトを振った「新世界」は、まさに新世界の息吹を聴くように斬新な切り口と個性で、青年のように若々しい。彼は年齢的にはすでにアラーフォーに近づいているらしいし、又、指揮者の世界ではほんの若造といってもよい年齢だが、実年齢とは関係なく彼には少年がそのまま青年になったような感じがする。私は、今では発掘できない「万年青年」を見たのだった。そして、その音楽はのびやかで軽やかで、あくまでもあかるい。勿論、楽しいし。全く驚きだ。今まで聴いてきたドヴォルザークの「新世界より」と、別の音楽に聴こえてくる。今回は、指揮者ではなく、たまたま雛祭りという日取りと「新世界より」というプログラムで選んだコンサートだったのだが、大正解。ラッキーだったと思う。

しかし、その一方でピーチ航空の愛らしい機体を見て、アントニーン・ドヴォルジャークが渡米した時代を想像する。彼はニューヨークのナショナル音楽院の院長に招かれて1892年秋から95年4月までアメリカに滞在していた。飛行機などない時代だ。どんなにか、新世界は遠かっただろうか。蒸気機関車やアメリカ先住民の民族音楽や黒人霊歌を楽しみながら、時には故国のチェコを思う日々もあっただろう。それは決してスマートでもなく、かろやかでもなく、しみじみと故郷を思う悠久の時間だったはず。現代は、ドヴォルジャークの時代から随分遠くまで旅をしてきたのだったと、スピノジの音楽を聴いて改めて感じる。彼のマジックのような軽快なテンポ感とは異なるふるさとではないだろうか。

演奏終了後に楽譜にキスをするスピノジ。

観客を喜ばせてくれるそのステージマナーに、高い音楽性を追求する一方で、「すべての舞台は“ショー”であるべき」という彼の哲学を思い出した。壮大な交響曲が静かに消えていくと、まるで夢を見ていたような感慨すらわいてきた。賛否両論に考え込む私だが、ともあれやるもんだスピノジ、ぶらぼぉっ!

------------------------ 3月3日 トリフォニーホール -----------------------------------
【出演】
指揮:ジャン=クリストフ・スピノジ
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団

【曲目】
モーツァルト:歌劇「魔笛」序曲
モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」
ドヴォルジャーク:交響曲第9番「新世界より」
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