千の天使がバスケットボールする

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メニュヒンとラニツキ

2012-09-11 22:26:43 | Classic
現代ドイツ文学の法王と呼ばれるマルセル・ライヒ=ラニツキの自伝「わがユダヤ・ドイツ・ポーランド」は、私の今年の読書の中ではダントツに1番になりそうだ。
ワルシャワ、ベルリン、ポーランド、ゲットー、再びポーランド、ハンブルク、フランクフルトと命がけの流転をくりかえしてきたラニツキの交流が、自伝の後半を構成している。多くの文学者に交じって私が最も印象に残ったのは、やはりヴァイオリニストという職業のイェフーディ・メニュインとのことだった。

ラニツキがはじめて彼の名前を知ったのはベルリンに暮らして間もない頃で、ベルリン・フィルと共演した13歳の少年メニュインの演奏を親戚の誰かがアルベルト・アインシュタインの評価を引用して「いまわかった、たしかに神は天上に存在する」と感想を話していたそうだ。こんな大仰なたとえで芸術をかたずけるのを無力感と皮肉を言うのもいかにもラニツキ少年らしいが、本当の意味で初めてメニュヒンを聴いたのはゲットーでのささやかなレコードコンサートの時だった。

まだ聴いたことのなかったモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第三番ト長調の第一楽章は、ラニツキ青年の心をとらえ揺さぶった。度肝がぬかれて口も利けないくらいに。彼は、現代になっても尚、この第一楽章「いまだかってメニュインより美しく演奏した者はいない」と断言している。
全く同感!私が愛聴しているのは全盛期を過ぎたと思われる1962年録音でバース・フェスティバル・オーケストラとの共演によるものだが、この曲をメニュインほど悲しくなるくらいに神々しく演奏した者はいないと思う。ラニツキが彼の本領は完璧さではなく、アインシュタインの語った”神々しさ”にあると記述しているとおり。

ラニツキが生のメニュインの演奏を聴いたのは、1956年のワルシャワでのことだった。ステージに立った長身のメニュインは、壁際や通路にたっている人々を呼んでステージの床に招いたそうだ。われもわれもとステージの床に腰をおろした若者たちのヴァイオリニストの姿がいまだに忘れられないという。

1960年に、ケルンからハンブルクへ戻る列車で思いがけず食堂車でメニュインと妹のヘフシバと相席になった時に、町から町へ毎晩ステージにたつ彼らに疲れたり退屈したりしないのかと質問をしたらほんの少し思案しだけで、すぐに単純きわまる返答がかえってきた。
「毎晩ほんとうに打ち込んでいれば、退屈なんかしませんね」
ラニツキにとってもこの言葉も忘れがたいものとなったそうだが、私にとっても生涯心に残る言葉になりそうだ。

そんな彼が、メニュヒンの70歳の祝賀会では頼まれて「音楽とモラル」というタイトルで挨拶をした。音楽は女神であると、しかし、音楽とモラルの因果関係はこうあったらいいなという美しい夢、無邪気な先入観に過ぎないと講演した。しかし、メニュインは1999年3月12日に没するまで、こどもの頃と変わらず、ベートーベンのヴァイオリン協奏曲やバッハのシャコンヌを聴いていれば、善人にはならなくても少なくともましな人間にはできると信じていたに違いないと、彼は感想をもらしている。

ゲットーでは、意外にも、になるのだろうか、収容されていたユダヤ人音楽家たちによってオーケストラが結成されて、時々演奏会も開かれていたそうだ。なかには頭角を表してきた著名は指揮者もいれば、優れた演奏家もゲットーに収容されていたからだ。やがて、貴重な演奏会も禁止され、彼らはみな死の部屋へと連れて行かれた。そしてラニツキが初めてモーツァルトのヴァイオリン協奏曲に出会ったような狭い室内でレコードを聴くホームコンサートも開かれていた。確かにシェークスピアの「音楽は愛の糧」だった。しかし、過酷な環境下でほんのわずかな時間に美しい音楽をともに過ごした若者たちは、その後、全員ガス室送りとなっていった。


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