千の天使がバスケットボールする

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「わたしの名は 紅」オルハン・パムク著

2009-03-22 11:16:32 | Book
「1 わたしは屍」
「いまや死体だ、わたしは。屍だ、この井戸の底で。最後の息を吐いてからかなりになる。」
1591年の厳しい冬、円熟期のオスマン・トルコ帝国の都イスタンブルで、殺されたひとりの才能ある細密画師の死体の告白で物語がはじまる。いったい”優美”さんと名づけられた彼を殺したのは誰なのか。そしてその理由は。
やがて12年ぶりに故郷に帰ってきた同じく細密画師のカラが、街一番の美貌を誇る未亡人で幼なじみのシュキュレへの恋をえるための行動といやでも巻き込まれていく殺人事件の顛末までの9日間の出来事である。カラの帰郷には、当時、オスマン・トルコ帝国のスルタン、ムラト三世はイスラム暦千年を飾る「祝賀本」の作成をこころみ、シュキュレの父、そしてカラの叔父でもあるエニシテ(細密画師をたばめる頭領)は、その完成を命じたという事情から、かって指導された叔父によびよせられたという経緯があった。(以下、内容にふれております。)

「本書を読んでまず感じたのが、日本の作家・谷崎潤一郎の影響と日本人にも親密性を感じられる感性である。昨夏放映されたETV「東と西のはざまで書く」では、講演会のために来日していたパムク氏が神田の古本屋街の散策中に、谷崎の「細雪」を早速見つけて大事に抱えている映像があった。大江健三郎、三島由紀夫、川端康成、安部公房などの作品も英訳で読んでいるそうだが、西欧化を受けいれながらも後に背を向けて、ひたすら耽美的な古典に回帰した作風の谷崎の「春琴抄」を彷彿させるのが名人の行動である。年老いて失明する細密画師に対し、彼らは全生涯をその細密画にかけて最後のアラーの神から賜る最後の幸せと語るのである。アラーがご覧になる無比なる光景は、厳しい研鑚の末に到達できる盲目の暗黒の世界ではじめて完成する。しかし、個人の署名も個性も認められていない、神が見たままを描く細密画においても、肖像画や遠近法を取り入れた近代的なヨーロッパの文明がおしよせていく。西欧の画法は、彼らにとっては神への冒涜である。しかし、見たまま感じたまま描いてはいけないのだろうか。新しい細密画を弟子たちに描かせようとしたのが、エニシテである。それはすなわち人の顕示欲や嫉妬をもうみ、細密画師たちの混乱の中で発生したのが殺人事件だった。その一方でアラーの神への忠誠と最後の砦を守るため、名人オスマンは羽飾りの針で自らの目を突く。

さらに、次々と登場人物が入れ替わり告白や語ることによって、物語が進行していくのは三島由紀夫の「鏡子の家」を連想させる。しかも、本作の特徴でもある人物だけでなく、金貨、犬、馬、そしてタイトルにあるように色の”紅”が主語となって語る前衛的なスタイルが、トルコ国内でも大学生やインテリ層に圧倒的な人気を誇る理由がありそうだが、明治時代に一気に西欧化をとりこんだ我々日本人にも、個人のアイディンティティと国家への忠誠、芸術家たちの苦悩や欺瞞も、訳者の力量もあり美しく整然とした文章に、もっと幅広く日本人にも読まれるべき作品だと思う。それに、カラとシュキュレとの往復書簡に秘められた恋のやりとりと、その細い糸がかろうじて手繰り寄せるふたりの結びつきまで、久々に豊潤なエロチックの”官能”という美味を思い出した次第でもある。

98年に刊行された本書は、2002年に発表された「雪」とあわせて読むべきであろう。
主人公とも言うべき「カラ」という名前は、実際トルコにはない名前だそうだ。カフカを愛読する著者らしく「雪」の主人公の名前が「Ka」だったことと同様。シュキュレに自分の母の名前、彼女の息子たちにオルハンと兄の名前を使うことに意味があるように、「カラ」と「Ka」に実態のない名前をあてはめたことは、父不在の少年時代を過ごした著者の心情を探りたくなる。亡命先のドイツから12年ぶりに一時帰国したKaの職業が詩人というやはりカラと同じく芸術家で、学生時代から憧れていて美貌のイペッキにKaも激しく恋をする。しかも、帰国してみれば市長殺害事件や少女の自殺事件で街はゆれている。そして、雪に閉じ込められたほんの数日間で完結される展開は、本作と相似する。「わたしの名は 紅」がやがて滅びゆく芸術に重きをおき、「雪」は現代にうつした社会派小説であることの違いであろうか。本書は海外で多くの賞をとり、英国BBC放送は21世紀を代表する21人の世界文学者にオルハン・パムクを選んだ。権威ある賞の受賞歴や他人の評価は関係ない。自分の拙い文章力ではとうてい「わたしの名は 紅」の素晴らしさを伝えきれないもどかしさを感じる。本物の文学から香る高貴さに、ただただ圧倒されるばかりだ。

■アーカイブ
「雪」
ETV「東と西のはざまで書く~ノーベル賞作家オルハン・パムク」


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