インドは、歴史の国ではない。本当は、インドにも、三国志や戦国時代に勝るとも劣らない群雄割拠の歴史がある。でも、当のインド人が歴史に関心なかったのと、暑い国では昔の記録が残りにくいのもあって、ほとんどの出来事が忘れられてしまった。もしも記録が豊富に残されていたら、さぞかし歴史小説のネタに困らなかっただろう。
インド人に限らず、もともと昔の人にとって「時間」というのは、過去から未来に向かって一直線に流れていくものではなかった。太陽が、朝は昇って、夕方には沈む。次の朝には、また昇る。春が過ぎれば夏が来て、冬が過ぎれば、また春が来る。文明の進歩はゆっくりしていて、たいした変化はなかった。そうやって、グルグルと円環のように回っていくのが時間だったのだ。現代人なら、それは地球の自転と公転が、われわれ人間に見せている視覚効果だと知っている。でも、昔の人はそんな舞台装置の仕掛けのことなど知る由もない。
古代ギリシャ人にとっても、時間はグルグル回るものだった。ギリシャ哲学を深く研究したフリードリヒ・ニーチェは、「同じものの永遠なる回帰」という説を打ち出した。それは、近代ヨーロッパ人に大きなショックをもたらした。キリスト教徒であるヨーロッパ人にとって、時間とは、天地創造から最後の審判に向かって一直線に流れるものだったのだ。
そんなこんなで、古代人にとって、時間とか歴史には、あんまり意味がなかった。歴史教の信者なのは、中国人くらいのものだった。もっとも、中国人でも、「歴史は繰り返す」という思想は徹底していた。
インドは、歴史の国ではない。では、何の国なのかというと、なんといっても哲学と宗教の国で、これこそは、まさしく本場。欧米でも、精神世界関係者はみんなインドに憧れる。「ガンガジ」も、元はといえばアメリカ人だけど、インドに行って聖者の仲間入りした。ガンガジというのは、もちろんインドでついた名前で、本名ではない。
でも、インドの思想を語るには、やっぱり一応、インド思想の歴史をさらっと知っておいたほうが良いと思われる。チマタにはびこる新興宗教を見るにつけ、そう思う。・・・というのも新興宗教では、教祖の教えが、「神から降りてきた思想」として語られることが多い (まあ、宗教なんだから当たり前か)。でも、筆者のように「思想の歴史」に妙にくわしい人から見れば、どれもこれも、話の出ドコロが割れているものがほとんど。
釈迦やキリストの教えでさえも、「突然、天界から降ってきた」というのは、ちょっと誤解がある。それ以前のインド哲学の流れを知っていれば、お釈迦様の教えもその流れの中にあるのが明らかで、そりゃ天界からのインスピレーションもあっただろうけど、たいていの話は、それ以前のインド哲学者たちも言ってたことが多い。もちろん、そんな古代インド思想家の中でもお釈迦様が突出して有名なのは、それだけの理由があり、それまでのインド思想を集大成して大きく飛躍させ、最終結論を出したからなんだけど。
お釈迦さまの教えは、やがて「シャンカラ」に受け継がれた。シャンカラは、日本ではマニアしか知らないけど、インドではビッグネーム。クリシュナムルティの講話にも、「釈迦とかシャンカラの本をいくら読んでも、それだけじゃ意識の覚醒はできません」という具合に、しょっちゅう並んで登場する。
それはラマナ・マハルシや、ニサルガダッタ・マハラジといった現代の偉大な聖者たちも同じで、彼らの説く教えは、シャンカラから脈々と受け継がれてきたインドの伝統思想。
そして、ラマナ・マハルシの弟子のプンジャジの、そのまた弟子のガンガジが、エックハルト・トールに大きな影響をもたらした。エックハルト・トールといえば、「現代のスピリチュアル・リーダー」。こうして、欧米の精神世界にも、この教えが大きく深く浸透している。
というわけで、筆者は、釈迦とかシャンカラはよく読んだし、エックハルト・トールやクリシュナムルティもよく読んだけど、「ラマナ・マハルシ」とかは名前と「私は誰?」くらいしか知らなかった。読むべき本のすべてを満遍なく押さえるなんてことは、いくらヒマ人でもかなり困難だったのだ。でも、これから読んでも遅すぎるなんてことはない。
そもそも、代表的な聖者の一人である「プンジャジ」だって、31歳でラマナ・マハルシの弟子になるまでは、いたって普通の人だった。弟子になったといっても、一緒に南インドのアルナーチャラ山にいたのは短い期間で、残りの人生の大半を遠く離れたパキスタンで過ごした。しかも、独立してプロの聖者になったのは、55歳のとき。それでも出家はせず、在家を通した。
「覚醒の巨人」ことニサルガダッタ・マハラジも、34歳で高名な聖者の弟子になるまでは、ごく普通の人生を送ってた。しかも、聖者の話を聞いただけで、修行はとくにしなかったという。有名になったのは、54歳のとき。マハラジも、出家せず在家を通した。
インドには、古代からそういう伝統がある。つまり、若いときは働いて社会貢献し、年をとって隠居してから、教えの道のプロになる。そういう考え方が大昔からしっかりと社会に根付いてた。
この世で精神世界を探求するのに、遅すぎるなんてことはない。さすがに、死んでからじゃ遅すぎるかもしれないが、その前にどこかの時点でやればいいのだ。
日本人も、そんな生き方を学ぶときかもしれない。高齢化社会なんだし、これからは精神世界の探求で余生を送るのが主流になる可能性が高い・・・。
(つづく)
「私は以前、様々な神秘体験をしていた。光の存在達と交わり、話をしたりしていた。
しかし私は世界を食べてしまったのだ。今や私は何も体験しない」
ダンテス・ダイジ
「以前は俺の瞑想中に幽霊が現れ、ぴょんぴょん周りと飛び跳ねて、瞑想の邪魔をしたりしていた。
今、俺はもはや何も経験しない。経験する俺は消えてしまったんだ」
うろ覚えですが、共通点が面白いです
瞑想を極めた人たちには、どこか共通するものがある・・・。
今日は 5月5日
こどもの日でした
先月あたりにやったかと勘違いをしていた。
自然崇拝、太陽崇拝、一神教、無神教、循環を失くした思考に満足できるだろうか。
自然に起きていることに、何を感じるのだろう。
なりすまし、言葉尻、揚げ足取り、曲解おばちゃん♪
久しぶりだけど、相変わらずだね。
教祖の命令下
破廉恥寄生日記おじちゃんと協力して、
こっくりさん破壊運動に勤しんでいるんだ。
なりすまし曲解おばちゃんも
なりすまし破廉恥日記おじちゃんも、
超執念深毒、回ってるね
お気の毒だ
それにしても、あの、他の話題にはほとんど反応しないのに、「アセンション」という言葉が出てきたときだけ脊髄反射的に怒りだす人、まだいるんだな!?
何年、ここに住み着いているんだろう。まあ、ブログも開設して十年近くにもなると、自分ひとりのものじゃなくなってきますなあ・・・(笑)
みんな同じだからねえ
ニサルガダッタ・マハラジ
「私は以前、様々な神秘体験をしていた。光の存在達と交わり、話をしたりしていた。
しかし私は世界を食べてしまったのだ。今や私は何も体験しない」
ダンテス・ダイジ
「以前は俺の瞑想中に幽霊が現れ、ぴょんぴょん周りと飛び跳ねて、瞑想の邪魔をしたりしていた。
今、俺はもはや何も経験しない。経験する俺は消えてしまったんだ」