宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

すべてのことを、輪廻転生を前提として考える  その1

2015年05月28日 | 精神世界を語る
秋月龍泯師がかつて、このようなことを書いていた。

>もうだいぶ昔のこと、山田無文老師が朝日講堂で講演されたある夕ベの話である。法話の後で舞台裏の控え室に老師を訪ねた。かねて老師の熱心な信者だった老婆が先に来ていて、ふと老師に問いかけた。

「老師さん、私ら死んだらどうなりますのじゃ。」

老師は無造作に答えられた。「死んだらおしまいじゃ。身も心も何にも亡くなる。」

一瞬、老婆は淋しそうな顔をした。「何にもないんですか。魂もないのですか。」

老婆の様子を見て老師は言われた。

「そうじゃな。自分のためなら、霊魂も何もないがな。菩薩はなあ、後に残って苦しんでいる愛する者の所にもどってきて、何かをしてやらんとな。」

老婆は心からほっとした顔で、師匠の言葉に安心しきったふうだった。
 
 
・・・これは、筆者の好きなストーリーだ。いろんな面で、考えさせられるものがある。
 
「生まれ変わり」とか「死後の世界」とかをバッサリと否定する老師だけど、仏教というのは本来、こういうものだった。

というのも、修行者は、自我に執着しない。自我に執着しないから、死後の存続にも関心を持たない。

「ボクは、長生きして幸せな老後を迎えたいな」というくらいなら、まだしも人間的な願望と言える。しかし、「ボクは、死んでも永遠に生き続けたいな」というのは、もはや人間として許される域を超えた、言語道断な自我執着になってしまっている。だから、老師がそんな考えをバッサリと否定するのは当然ともいえるだろう。

しかし、だからといって、「仏教というのは、人間は死んだらオシマイだ。だから、生きてる間は精一杯に生きよう・・・というような思想なんだな」と思ったら、それは大きな誤解になってしまう。それは、20世紀の実存主義哲学の考え方。昭和の時代に、左翼の学生運動をやってたような人たちにアリガチな考え方だ。

仏教は、それとはまったく異なる。そもそも、現代の西欧人と、古代のインド人の住む世界が違いすぎた。

というのも、インドでは、「輪廻転生」は当たり前の常識。誰もが、それを当然の前提として話をしていた。古代のインド人が「ここで」と言えば、それは「この世で」を意味した・・・とさえ言われている。たとえば、「ボクは、ここで商店をやってます」といえば、それは、「この人生では、商人になりました。次の人生で何をやるかは、まだ決めていません」・・・というような意味。

今の日本や欧米で「輪廻転生」の話をしたら、「ちょっと変わったスピ系の人」って感じだけど、常識というのは、時代や地域によって変わるもの。

「輪廻転生」が当たり前の常識になっているところでは、わざわざ、「人は、死んだらオシマイだなどと思っちゃあいけません。実は、生まれ変わってるんですぜ!」などと主張するまでもない。「そんなの知ってるよ。だから何なのさ?」と言われて終了だからだ。「仏教は輪廻転生を否定している」と主張する人たちは、そこのところを根本的に見落としている。そうではなくて、仏教は、もともと輪廻転生を当たり前の前提として、すべての話をしているのである。

それはともかく、「人は、死ねば無になる」という上級者向けの深遠な哲理を説いたところ、老婆がさびしそうな表情になった。それを見た山田無文老師の、変わり身の早さが見どころだ。

なんと、「菩薩は、悩める衆生を救うため、また生まれ変わってくる」というのだ。

それを聞いた老婆は、ほっとした表情になった。こういうのが、優しさというものだろう。
 
古代インドのお釈迦様も、そうだった。在家のお爺さん・お婆さんに対しては、「善いことをすれば、善いところに生まれ変わります。悪いことをすれば、悪いところに生まれ変わります」と説く。その一方で、出家したプロの修行者に対しては、「人は、死ねば無になる」と説く。この、見事なまでの使い分け。こういうのを、「対機説法」という。

しかし、上には上がある。プロの修行者よりも、さらに上をゆく「菩薩」ともなれば、なんと、また生まれ変わってくることになるというのだ。

菩薩は、本当はもう、とっくに地球生命系での輪廻から解放されている。それなのに、悩める衆生を救うため、こんな地球に仕方なく舞い戻ってくるのである。なんとも、ご苦労なことだ。まったく、「菩薩にだけは、なりたくない」と思わせるものがある・・・。
 

(つづく)
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「哲学的な疑問」について

2015年05月20日 | 精神世界を語る

  

世の中には、「哲学的な人と、そうでない人がいる」と、哲学の専門家たちはよく言う。しかも、世の中の大部分の人は後者であり、「哲学的な人」など、滅多にいないらしい。確かに、その通りなのだろう。

有名な哲学者の中島義道氏によると、

>読者諸賢のなかで、「未来が『ある』とはどういうことだろうか?」とか「私が『いる』という意味がどうしてもわからない」とか「今日の私は昨日の私と『同一』だろうか?」とか「なぜ『ない』という言葉は『ある』のだろうか?」というような疑問が湧き、いや湧くだけではなく、どうしてもこうした問いが気になって仕方ない人は、哲学をするしかありません。

>会社に入ってみると、同僚が皆これらの問いに関して何の疑いも抱いていないことに愕然とする。としても、哲学でメシを食うつもりはない。こんな人が哲学塾に向いていますし、事実、哲学塾でカントだ、ヘーゲルだ、ニーチェだ、サルトルだ、と必死になって難解な原典に取り組んでいますが、じつはこうした単純な問いに挑んでいるだけです。

ということなのだが、まさしく、こういうのが本当の「哲学的な疑問」。ホンモノの哲学者は、一生をかけて、こういう疑問と真正面から格闘する。そして、答が出ないままに死んでいく。だが、それでいい。「やがて自分は、これらの疑問に答が出ないまま、むなしく死んでいくであろう」ということなど、彼らには、もともと十分すぎるほど分かっている。むしろ、そのむなしさこそが、哲学的な思考への原動力になっているのだ。

「過去は、実在するのだろうか。たとえば、自分も、かつては十代だった。でも、十代の頃の自分は、どこに行ったのか。昔は確かにいたような覚えがあるんだが、今はどこにもいない。今でも、どこか別の世界にいるのか、それとも消えちゃったのか。一事が万事で、『過去』がどこにあるかと探してみても、どこにも見つからない。・・・ということは、要するに、『過去はない』ってことなんじゃないか? もしも、『過去はある』のだとすれば、それはどこへ行ったのか?」・・・というような「疑問」に取りつかれ、ああでもない、こうでもない・・・と考え始めて、泥沼にハマる。

でも、こういうことを考えるのは、自分だけではない。それこそ、カントだ、ヘーゲルだ、ニーチェだ、サルトルだ・・・と、偉大な先輩たちがもっと深く考えてきた。まずは、そういうものを学ぶべし。

カントやヘーゲルを深く読み、しかも自己流でなく、正統派の読み方を謙虚に学んだならば、自分ひとりで考えているよりは、ずっと高度な思考に到達することができる。もちろん、疑問の性質からいって、どちらにしても最終的な解答が得られるようなものじゃないんだが、それにしたって、それなりに高度な思考に到達する。

でも、それだって、決定的な結論が出るわけではない。かつて筆者が愛読していたハイデッガーの「哲学入門講義」でも、「なぜ、存在者はあるのか。そして、むしろ、無があるのではないのか?」という、古代ギリシャの大哲学者たちに由来する「根本的な大疑問」を繰り返すばかりで、どんなに読んでも答は無い。

それはつまり、この世界には、地球がある。そこには、人間とか、鳥とか獣たちが住んでいる。どうせ死ぬのに、なぜか精一杯に生きている。これを見て、「なぜ、こんな世界が存在するんだろう?」という疑問が起きてくる。地球のような惑星がなくたって、別に不思議はない。ていうか、地球が存在することのほうが、ずっと不思議だ。地球が存在する代わりに、「何も無い」というほうが、自然なことなんじゃなかろうか。

それ以上にナゾの存在なのは、「自分」だ。なぜか、この世界には、「自分」がいる。意識があって、思考や感情があって、どうせ死ぬのに、なぜか生きている。もしも「自分」がいなかったならば、こんな世界があることなど、分からなかったに違いない。せっかく、宇宙とか地球とかがあるのに、誰も知らないんだったら、ないのと変わらない。そうなると、この世界は存在しないも同然。つまり、「存在するのではなく、その代わりに、無がある」ということになる。

そんな「自分」が存在するのは、なんとも不思議だ。いないほうが、自然なんじゃないか。・・・どうして、私はあるのでしょうか?

それに対して、答はない。疑問を提起するだけしておいて、答は出さないのが、ハイデッガーの特徴。といっても、もちろん、それはハイデッガーが悪いんじゃなくて、もともと答が出るはずのない疑問なのが悪いんだが。

優秀な哲学者諸氏に言わせれば、本ブログのような「精神世界の探求」は、こういう哲学的な疑問との真の格闘を避けて、脇道にそれたように見えることだろう。でも、こちらの立場から見れば、そういう人たちの方こそ、哲学よりもさらに深遠な思想 (釈迦とか、クリシュナムルティとか・・・) にたどりつく一歩手前のところを深く掘っている、残念な人たちに見える。

もちろん、全員がそうなのではない。19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーだって、インド思想に傾倒して、まるで釈迦の弟子みたいな思想内容になってた。でも、それは、哲学者として正統派の生き方とは言えない。あくまでも、西洋的な論理によるアプローチに徹する。「時間とは何なのか、人間は、それをどこまで認識できるのか」とかなんとか、そういうのをジックリと吟味する。それでこそ哲学者だ。

もちろん、哲学者を批判しているわけではなく、本当は、その知的な格闘の生き方をすばらしいと思っているのである。ただし、短い人生でどうせ学ぶなら、やっぱり、釈迦とかクリシュナムルティとかのほうが、より根源的な思想のように思えるんだが・・・。

もちろん、筆者には、東大文学部の哲学科を出た学者と議論できるような、西洋哲学の専門知識があるわけではない。でも、総合力では負けていない。ヒマな時期が多かった人生のおかげで、西洋哲学に限らず、いろんなものを幅広く大量に読み込んでいるのが当方の強み。それ以前に、少なくとも高校生の頃の英語や国語の学力は、彼らの大半よりも筆者のほうが確実に上だった。つまり、素の読解力では、もともと上回っていたのだ。こういうのが、いくつになっても、いつまでも自信の根拠になっているというのも、アリガチなパターンであるとはいうものの・・・(笑)。

それはともかく、上の引用文にもあるように、職場で出会うような人たちは、まず、こういった疑問について何も考えていないのが普通だ。かつて、筆者も試しに、職場仲間に上のような話をしてみたところ、失笑されただけに終った。

しかし、こういった疑問にはハテがない。

古来から最大の疑問のひとつである、「人は、死んだらどうなるの?」が、その最たる例のひとつだろう。

上に挙げた中島義道氏も、幼少の頃からその疑問に取りつかれて、哲学を志したという。もっとも、中島義道氏の場合は、「死んだらどうなるの?」というより、「人は、どうせ死ぬのに、なぜ生きているの?」といったところか。そういう疑問に取りつかれ、ムダだと分かっていても考えずにいられない人から見れば、世間の一般人は、なんで、この疑問を気にせずに平然と生きていられるのか、そこが不思議なのだ。

それに対しては、「20世紀最大の哲学者」ことハイデッガーの有名な言葉がある。いわく、「人は、いつか死ぬ。だが、当分の間、自分の番ではない」というのが、世間の一般人の信念。これがあるから、人は平然として生きていられる・・・。

哲学では答が出ない疑問にも、スピリチュアルなら、実にあっさりと答が出る(笑)。いわく、「生きてるうちは分からないかもしれませんが、死ねば分かりますよ。死後世界が、アナタを待っています」ということになる。

だが、死んだからって、最終解答が出るってものでもない。

死後世界にたどりついた人は、空も飛べるし、心の中で想起したものが目前に現れる世界に直面して、「これが死後世界だったのか」と思う。「人は、死んだらどうなるの?」という、とても答が出そうになかった疑問は、これで解決した。しかし、上記のような「哲学的な人」なら、ただちに、次の疑問が起きることだろう。

「なぜ、死後世界があるのか。そして、むしろ、無があるのではないのか?」・・・。

そして、考えに考え抜いた結果、「死後世界もまた、真の実在ではない」という結論に到達する。では、真の実在とは何なのか。こればっかりは、死んでも結論が出そうに無い。

・・・とまあ、そういうわけで、早い話が、これらの疑問には答がない。 どこかで、折り合いをつける、つまり、妥協して生きるしかない。

哲学的な人がどれほど選民意識(?)を持ったところで、世間の一般人と、結果は同じなのである。違うのは、途中のプロセスだけ。結果は、変わらない。そもそも、どうせ死ぬんだから、考えたところでムダというもの。

結局のところ、考えること自体をやめるのが、唯一の解答だ。「汝の思考を停止せよ」。それが、ファイナルアンサーになる。

精神世界ブログにしては多少ややこしい話になっちゃったけど、ときどき、こういう話になるのが筆者の特徴。それでいて、「見るからに、何も考えてなさそうな人」ともよく言われる。それはあくまでも、思考を停止した結果なのだ。本当に何も考えていないわけではない・・・(笑)。 

(つづく)

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次は2020年あたりか?

2015年03月26日 | 精神世界を語る

「地球人類がアセンションする」と言われていた、2012年の冬至を過ぎてからというもの、かなりの月日がすぎた。結果的に、2012年12月という期日には、とくに意味がなかった。2015年の今も、時は過ぎている。

「じゃあ、あれは何だったの?」ということになるかもしれないが、過ぎたことを気にしても仕方がない。渡邉美樹氏の「夢に日付を!」じゃないが、人間、目標には期日ってものがほしいのである。地球で生きる者の寿命は短い。「今から1万年と2千年の後に、アセンションが起きるであろう」とか、「8千年すぎた頃から、もっと意識が上がります」などと言われたところで、とうてい実感がわくものではない。もっと現実感のある期日を設定しないと、やってられないのが本音だ。

とはいうものの、本当は、いま、この瞬間にアセンションするしかない。

というのも、「では、これから何年かの後にアセンションいたしましょう」と言ってる時点で、まだまだ「時間」という幻想にとらわれたままなのは明らかだからだ。幻想にとらわれているうちは、アセンションできない。つまり、「では、何年かの後に」と言ってるような人は、アセンションできない。地球で生きている人間には、こういう矛盾がつきものだろう。

それは分かっているのだが、まあ、とりあえず筆者は、次は「2020年」あたりをメドにして飛躍的な意識進化に努めることとする(笑)。

2015年の今、ますます時間は加速し、世界の変化は顕著になっている。地球の進化が加速しているのは明らかだ。地球環境にも、人間の文明にも、次々に変化が起きている。新たな科学技術が、次々に生み出されている。

例の「シェールガス革命」だって、今までは掘削できなかったシェールガスを、科学技術の進歩により、取り出せるようになった。それによって、地球人類を苦しめてきたエネルギー不足が、根本的に変わりつつある。こういう変化を軽視すべきではない。

そうなると、中東の石油がだんだん要らなくなってくる。だから、「中東の皆さん、そんなに戦争がやりたいのなら、仕方ないから続けてください」と、世界中から言われるハメになる。そうなると、戦争しても仕方がないということになるだろう。戦争に勝って、石油の利権を勝ち取ったとしても、カンジンの石油の価値が暴落しては元も子もない。

何百年も、何千年も前から、地球人類の困難の原因だった課題が、こうして次々に解消されていく。それはそれは、ものすごい速さだ。どんどん加速しているから、予想外の早さで変化が近づいてくる。

しかし、精神世界の探求者たるもの、そういう外部の変化にばかり、目を奪われているわけにもいかないだろう。重要なのは、意識の進化だ。それも、自分自身の意識の進化が特に重要だ。

では、意識が進化すると、どうなるのか。

愛と知が、意識の奥底から、無限にわき上がってくる。それはつまり、愛の心でいっぱいになるということ。

もちろん、中には、「愛の心でいっぱいになる? それじゃ、ボクとは違うな。ボクは、ストレスと花粉症でとても苦しんでいる。アセンションどころか、ウツ病になる一歩手前なのだ」という人もいるだろう。

まあ、ウツになるのなら、とことん落ち込んでみるのもいい。世の中、「上がったものは下がるし、下がったものは上がる」と相場が決まっている。つまり、いままでの反動で、ソウになればいいのだ。「お前はストレスのたまりすぎのせいか、妙にハイテンションになってるな? だいじょうぶか」と言われるくらいでちょうどいい。

五井昌久みたいな言い方をすれば、「高級霊は上機嫌」。

まずは上機嫌になることが、高級霊への道だ。

やっぱり、アセンションは近い。われわれの前には、アセンションへの道が開かれている・・・。

(つづく)

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知性単一説

2015年02月28日 | こっくり亭日記

政治経済・科学技術・芸能スポーツ・・・などと違って、精神世界というジャンルには、「日々のニュース」と呼べるようなものが、あんまり無い。たいていの話題は、世間の一般人にまでは広がっていないものの、一部の地球人類の間では、千年も二千年も前から知られていたことばかりだ。半年間もブログを更新せずに放置していても、何事もなかったように再開できるのは、そのおかげとも言えるだろう(笑)

たとえば、「知性単一説」というものがある。「人は、死んだらどうなるの?」という素朴な疑問に対する、有力な回答のひとつだ。いわく、この宇宙には一つの知性がある。すべてのものは、そこから分離して、やがてそこに戻る。The One、ワンネスの世界だ。大いなる根源だ。人はそれぞれ、生きている間は個性がある。でも、それは生きてる間だけの話。死ねば、大いなるワンネスに溶けて、消えて無くなってしまう。人それぞれの個性は、そこで消滅する。我は無い。ただ、全体あるのみ。われわれは、全体として永遠に存在し続ける・・・。

この話をすると、「そうだ、その通りだ」と賛同する人もいれば、「人は、死ねばお終いだ」というニヒリズムにつながる発想だとして嫌う人もいる。それは、人それぞれだろう。

でも、これは現代のインターネットの中における、精神世界マニア同士の見解相違にとどまるものではない。これは「知性単一説」と呼ばれ、千年前のペルシャ(いまでいうイラン)の大哲学者が唱えて以来、西洋世界では何百年もの大論争を引き起こした、古くて新しいテーマなのだ。

というのも、昔は、誰もがイスラム教やキリスト教を信じていた。これらの宗教では、神が世界を創造した・・・ということになっている。善い人々は、死後に神の王国で永遠の生命を与えられる。悪い人や、無信仰な人たちは、燃え盛る炉の中に投げ込まれたり、永遠に消滅させられてしまう。このように、死後の霊魂に対して、神は徹底した信賞必罰で臨む。その権威は、絶対だ。

その一方で、多くの哲学者が「知性単一説」を支持していた。哲学者にとっては、それこそが真理と呼ぶに値するものだった。この矛盾する2つの考えを、どうやって結び付けたら、信者もナットクするような説明ができるのか。哲学者にとっては、それが課題だった。これを説明できなきゃ、中世のガチガチな宗教国家では生きていくことすら、おぼつかない。まさに命がけの問題だ。中世のアラビアでもヨーロッパでも、当時の最高の知性が集まっては、この問題を論じあっていた。これは、地球人類にとって最大級の難問のひとつだった。

それくらい難しい問題なんだから、これに対する明確な答が見つからなかったとしても、心配する必要はない。スパッと「ファイナル・アンサー」を求めたところで、すぐには無理というもの。簡単に答が見つかるくらいなら、何の苦労もない。「ああでもない、こうでもない・・・」と悩むこと自体に意義を見出すくらいでないと、とてもやってられないのも事実。

それにしても、この地球は、過酷なサバイバル環境だ。ここは、そこに生きるもの同士を争い戦わせようとして神が設定した、無限のバトル・フィールド。ここでは、人間や鳥や獣や魚といった個別のものたちが、バラバラに分かれて生存競争している。これじゃあ、争いが起きないほうが不思議。この地球が存在する意義とは、そうやって、個別に分離したものたちを、「競争させて鍛えよう」というところにある。もともと、それを意図して創られた世界と見るのが、自然な解釈というものだろう。

もちろん、それは、この地球が存在する本当の理由ではないのかもしれない。でも、だとしたら、神の真意はどこにあるのか。ひょっとすると、地球は、全知全能の神にしては珍しく不覚を取った、レアな失敗作なのかもしれない。いや、ここは全知全能の神があれこれと条件設定してできた世界なのではなく、自由放任体制の中から自然に発生した、デタラメな世界なのかもしれない。さらにひょっとすると、ここは、宇宙の神に反乱を起こした、流れ者たちが集まった出来損ないの世界なのかもな・・・。このように、いろいろと考えられる。

とりあえず考えられる最大の可能性としては、「これは途中経過なのだ」ということ。つまり、この地球がバラバラに分かれた支離滅裂な世界なのは、本来の姿なのではなく、あくまでも、統合された理想の世界に向かっていくまでのプロセスにすぎないという見方が成り立つ。

でも、それだって、表面的な見方にすぎないのかもしれない。この地球は、一見デタラメな世界に見えるだけで、本当は「考えうる限りで最善の世界」なのかもしれないではないか。ここは、あらゆる可能性の中から、全知全能の神があえて選択した、唯一の現実世界なのだ。それはつまり、早い話が、「ほかの世界は、ここよりもさらに悪い」ということ(笑)。あらゆるパラレル・ワールドの中から、「比較すれば、ここがベストだな」とばかりに、神が選んだ世界が、この地球。

というわけで、われわれがいる地球は、こう見えても、実は最善の世界でした。ありがたや。合掌・・・。これまた、哲学では「最善説」と呼ばれ、17世紀のドイツの大哲学者が唱えて有名になった、古くて新しい考えの一つ。

でも、筆者が「地球はもう嫌だ。魂の故郷に帰還しましょう」という話をすると、そういう反論をしてくる人も実際にいるから、やっぱり古くて新しい。「ここは、神様が創った最善の世界です。アナタは、まだよく分かってないみたいですね」というわけだ。本人は自覚していないとはいうものの、これは近代ヨーロッパの大哲学者と基本的に同じことを言っているのだから、意外とすごいことだったりする。

このように、ここで生きている限り、わからないことは沢山ある。死んで初めて分かることだって、いっぱいあるだろう。死んでも分からないことだってあるだろう。

まあ、普通の人生訓としては、「難しく考えすぎるな」というのが最良の答になるだろう。実際のところ、世間ではそれが最も賢明な態度とされている。でも、それじゃ満足できない人だって、当然に存在する。哲学的な思考は、そこからスタートする。そうやって、深淵な暗黒の迷宮の中に紛れ込み、迷って出て来られなくなる。それもまた、人生の深い味わいのひとつだろう。

結論を言えば、この深淵な問いには、答がない。というより、正確には、見る角度によって答が変わってくる。

つまり、「人は生まれ変わって、それぞれの個性が続いている」とか、「死後の世界で、個性が残っている」というのも、ひとつの真実。でも、「人は、死ねば大いなるワンネスに溶けてしまう。それぞれのバラバラな個性は、生きてる間の錯覚でしかない」というのも、見る角度によっては真実なのだ。こういうのは、物事をどちらの側から見るかによって、見え方が変わってくる。

どちらかと言えば、精神世界の探求者が目指すべきものは後者、つまり「大いなるワンネスに溶けていく」のほうだろう。その一方で、世間の一般人にとっては、まずは「死後の世界はある」とか、「人は生まれ変わっている」というのが精神世界への第一歩で、そこが重要なテーマになる。

このように、この問題に対する答は、人それぞれ。ワンネス思想というわりに、答は一つじゃなかった・・・。

(つづく)

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慣性の法則

2015年02月26日 | こっくり亭日記

いつのまにか月日が流れた。最近、ほんとうに一日が短いと感じる。あっという間に夜になっていて、気がつけば朝になっている。

人間とは、習慣で生きるもの。「ブログを更新する」というのが習慣になっていれば、いくらも書けるのだが、逆に「更新しない」というのが習慣になると、まったく書けなくなるのである。

「慣性の法則」と言ってもいいだろう。いったん止まったモノを動かすのには、大きな力が要る。動き始めたモノを、そのまま動かすのはカンタンだ。というより、止めようとさえしなければ、そのまま動いていくものなのだ。それと同じで、ブログの更新も、いったん止まってしまうと、再開するのに大きなエネルギーを必要とする。

これは、カラオケにも似ている。というのも、カラオケでは、「最初の一曲」が難しいことがよくある。周囲がシーンと静まり返っている状況では、やりにくい。なんとなく、面倒に感じられる。譲り合ってみたり、意味もなくデンモクをいじってみたり。昔だったら、パラパラと曲の目録をめくって、やりすごすところだろう。

ところが、そんなときに、「我こそは」という人が1人いるだけで、状況は一変する。そういう人が先陣を切ることによって、静まり返っていた雰囲気が変わる。そうなると、「我も我も」とばかりに次々に出てきて、逆に順番が回ってこなくなる。

それと同じで、ブログの更新もいったん止まると、なかなか再開できない。しかし、再開すると、それを続けるのは、ぐっとラクになる。そうなると、だんだん更新するのが加速してくる。しまいには、1日に何回も記事を更新して、「無職のヒマ人だ」、「ブログ廃人だ」と言われるようになる。

今も、仕事をサボってブログを書いている。ハタから見れば、PCに向かって一生懸命に事務作業をしているようにしか見えないことだろう。だが、やってることはブログの更新だ。仕事とは、これといって関係ない。最初の数行を書くのには大きなエネルギーが要るけど、そこを乗り越えれば、あとは勝手に伸びていく。

こういうのは、ブログの更新に限らない。仕事だって同じだ。毎朝のように、「あ〜あ、長期休暇を取りたいな・・・」と思いながら仕事をするのには、毎回、大変な努力をして気力をかき立てなければならない。

車だって、止まった車を動かすためには、エンジンをかけて、アクセルをぐっと踏み込まなければいけない。でも、走り始めた車は、そのままスイスイと動いていく。むしろ、急には止まれない。

それと同じで、いつも仕事に嫌気がさしている人は、仕事に向かうたびに、いちいちエンジンに点火しなければいけない。毎度のことだけど、そのたびに大変だ。

ところが、世の中は、そんな人ばかりではないのである。自分がそうだからといって、他人もそうだと思ってはいけない。仕事をするのが完全に習慣になっている人にとっては、むしろ、仕事をしないほうが非日常で、大きな苦痛なのだ。

以前、勤務していた会社にも、完全に仕事中毒の人がいた。平日も土日も関係なく、常に営業していた。文字どおり、365日やっていた。12月31日には、「今年も一年、ありがとうございました」と顧客にアイサツして回る。そして、次の日には、「今年も一年、よろしくお願いします」とアイサツ回りするのだ。年頭の抱負をきかれて、「今年の目標は、なにか趣味を持ち、仕事以外の生きがいを見つけることです」と語っていた。

そんな人にとっては、仕事をするのに、「さあ、仕事をするぞ〜!」と気合を入れる必要など、まったくない。そのまま、いつもどおりに慣性の法則で、仕事を続ければいいだけだ。むしろ、止めるほうが難しい。

興味や関心にも、同じことが言える。というのも、数年前の筆者は、韓流マニアだった。しょっちゅう、在日の友人とともに新大久保に出かけては、焼肉とかプルコギとかを食べ、家では韓流ドラマを見てK−POPを聴いていた。そのうち、「こういう無意味なことはヤメて、もっと有益なことに時間を使いたいものだ」と思い始めた。でも、なかなかヤメられない。そこが、「慣性の法則」たるゆえん。

ところが、そんな筆者も、後には打って変わって、嫌韓マニアになった。いつも嫌韓ニュースを見ては、「慰安婦ガー、竹島ガー!」と怒るようになった。これまた、しばらく続けるうちに、「こういう無意味なことはヤメて、もっと有益なことに時間を使いたいものだ」と思い始めた。でも、気づけば、つい嫌韓ニュースを見ている自分に気づく(笑)。まさしく、慣性の法則だった。

こういうのは、自分ひとりの問題ではない。日本全体の意識の変化や、その流れにも乗っている。知らず知らずのうちに、大きな潮流の中にいて、一緒に動いている。

思考や感情や、興味関心。そういったことの多くは、ほとんど習慣だけで形成されている。おそらく、この人生に限らず、輪廻転生のプロセスにおいても、この「慣性の法則」が意識を大きく左右している。 

「自分とは、こういう人間だ」という自己定義をする上で、その点を是非とも考えてみなくてはいけない。「こういう人間だ」という内容の大半は、単なる習慣にすぎないのではなかろうか。

単なる「ブログの更新」の問題から、こういう方向に話が広がっていく。これまた、筆者にアリガチな傾向だ。まさしく、慣性の法則なのだ・・・(笑)。

(つづく)

 

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