宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

知性単一説

2015年02月28日 | こっくり亭日記

政治経済・科学技術・芸能スポーツ・・・などと違って、精神世界というジャンルには、「日々のニュース」と呼べるようなものが、あんまり無い。たいていの話題は、世間の一般人にまでは広がっていないものの、一部の地球人類の間では、千年も二千年も前から知られていたことばかりだ。半年間もブログを更新せずに放置していても、何事もなかったように再開できるのは、そのおかげとも言えるだろう(笑)

たとえば、「知性単一説」というものがある。「人は、死んだらどうなるの?」という素朴な疑問に対する、有力な回答のひとつだ。いわく、この宇宙には一つの知性がある。すべてのものは、そこから分離して、やがてそこに戻る。The One、ワンネスの世界だ。大いなる根源だ。人はそれぞれ、生きている間は個性がある。でも、それは生きてる間だけの話。死ねば、大いなるワンネスに溶けて、消えて無くなってしまう。人それぞれの個性は、そこで消滅する。我は無い。ただ、全体あるのみ。われわれは、全体として永遠に存在し続ける・・・。

この話をすると、「そうだ、その通りだ」と賛同する人もいれば、「人は、死ねばお終いだ」というニヒリズムにつながる発想だとして嫌う人もいる。それは、人それぞれだろう。

でも、これは現代のインターネットの中における、精神世界マニア同士の見解相違にとどまるものではない。これは「知性単一説」と呼ばれ、千年前のペルシャ(いまでいうイラン)の大哲学者が唱えて以来、西洋世界では何百年もの大論争を引き起こした、古くて新しいテーマなのだ。

というのも、昔は、誰もがイスラム教やキリスト教を信じていた。これらの宗教では、神が世界を創造した・・・ということになっている。善い人々は、死後に神の王国で永遠の生命を与えられる。悪い人や、無信仰な人たちは、燃え盛る炉の中に投げ込まれたり、永遠に消滅させられてしまう。このように、死後の霊魂に対して、神は徹底した信賞必罰で臨む。その権威は、絶対だ。

その一方で、多くの哲学者が「知性単一説」を支持していた。哲学者にとっては、それこそが真理と呼ぶに値するものだった。この矛盾する2つの考えを、どうやって結び付けたら、信者もナットクするような説明ができるのか。哲学者にとっては、それが課題だった。これを説明できなきゃ、中世のガチガチな宗教国家では生きていくことすら、おぼつかない。まさに命がけの問題だ。中世のアラビアでもヨーロッパでも、当時の最高の知性が集まっては、この問題を論じあっていた。これは、地球人類にとって最大級の難問のひとつだった。

それくらい難しい問題なんだから、これに対する明確な答が見つからなかったとしても、心配する必要はない。スパッと「ファイナル・アンサー」を求めたところで、すぐには無理というもの。簡単に答が見つかるくらいなら、何の苦労もない。「ああでもない、こうでもない・・・」と悩むこと自体に意義を見出すくらいでないと、とてもやってられないのも事実。

それにしても、この地球は、過酷なサバイバル環境だ。ここは、そこに生きるもの同士を争い戦わせようとして神が設定した、無限のバトル・フィールド。ここでは、人間や鳥や獣や魚といった個別のものたちが、バラバラに分かれて生存競争している。これじゃあ、争いが起きないほうが不思議。この地球が存在する意義とは、そうやって、個別に分離したものたちを、「競争させて鍛えよう」というところにある。もともと、それを意図して創られた世界と見るのが、自然な解釈というものだろう。

もちろん、それは、この地球が存在する本当の理由ではないのかもしれない。でも、だとしたら、神の真意はどこにあるのか。ひょっとすると、地球は、全知全能の神にしては珍しく不覚を取った、レアな失敗作なのかもしれない。いや、ここは全知全能の神があれこれと条件設定してできた世界なのではなく、自由放任体制の中から自然に発生した、デタラメな世界なのかもしれない。さらにひょっとすると、ここは、宇宙の神に反乱を起こした、流れ者たちが集まった出来損ないの世界なのかもな・・・。このように、いろいろと考えられる。

とりあえず考えられる最大の可能性としては、「これは途中経過なのだ」ということ。つまり、この地球がバラバラに分かれた支離滅裂な世界なのは、本来の姿なのではなく、あくまでも、統合された理想の世界に向かっていくまでのプロセスにすぎないという見方が成り立つ。

でも、それだって、表面的な見方にすぎないのかもしれない。この地球は、一見デタラメな世界に見えるだけで、本当は「考えうる限りで最善の世界」なのかもしれないではないか。ここは、あらゆる可能性の中から、全知全能の神があえて選択した、唯一の現実世界なのだ。それはつまり、早い話が、「ほかの世界は、ここよりもさらに悪い」ということ(笑)。あらゆるパラレル・ワールドの中から、「比較すれば、ここがベストだな」とばかりに、神が選んだ世界が、この地球。

というわけで、われわれがいる地球は、こう見えても、実は最善の世界でした。ありがたや。合掌・・・。これまた、哲学では「最善説」と呼ばれ、17世紀のドイツの大哲学者が唱えて有名になった、古くて新しい考えの一つ。

でも、筆者が「地球はもう嫌だ。魂の故郷に帰還しましょう」という話をすると、そういう反論をしてくる人も実際にいるから、やっぱり古くて新しい。「ここは、神様が創った最善の世界です。アナタは、まだよく分かってないみたいですね」というわけだ。本人は自覚していないとはいうものの、これは近代ヨーロッパの大哲学者と基本的に同じことを言っているのだから、意外とすごいことだったりする。

このように、ここで生きている限り、わからないことは沢山ある。死んで初めて分かることだって、いっぱいあるだろう。死んでも分からないことだってあるだろう。

まあ、普通の人生訓としては、「難しく考えすぎるな」というのが最良の答になるだろう。実際のところ、世間ではそれが最も賢明な態度とされている。でも、それじゃ満足できない人だって、当然に存在する。哲学的な思考は、そこからスタートする。そうやって、深淵な暗黒の迷宮の中に紛れ込み、迷って出て来られなくなる。それもまた、人生の深い味わいのひとつだろう。

結論を言えば、この深淵な問いには、答がない。というより、正確には、見る角度によって答が変わってくる。

つまり、「人は生まれ変わって、それぞれの個性が続いている」とか、「死後の世界で、個性が残っている」というのも、ひとつの真実。でも、「人は、死ねば大いなるワンネスに溶けてしまう。それぞれのバラバラな個性は、生きてる間の錯覚でしかない」というのも、見る角度によっては真実なのだ。こういうのは、物事をどちらの側から見るかによって、見え方が変わってくる。

どちらかと言えば、精神世界の探求者が目指すべきものは後者、つまり「大いなるワンネスに溶けていく」のほうだろう。その一方で、世間の一般人にとっては、まずは「死後の世界はある」とか、「人は生まれ変わっている」というのが精神世界への第一歩で、そこが重要なテーマになる。

このように、この問題に対する答は、人それぞれ。ワンネス思想というわりに、答は一つじゃなかった・・・。

(つづく)

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慣性の法則

2015年02月26日 | こっくり亭日記

いつのまにか月日が流れた。最近、ほんとうに一日が短いと感じる。あっという間に夜になっていて、気がつけば朝になっている。

人間とは、習慣で生きるもの。「ブログを更新する」というのが習慣になっていれば、いくらも書けるのだが、逆に「更新しない」というのが習慣になると、まったく書けなくなるのである。

「慣性の法則」と言ってもいいだろう。いったん止まったモノを動かすのには、大きな力が要る。動き始めたモノを、そのまま動かすのはカンタンだ。というより、止めようとさえしなければ、そのまま動いていくものなのだ。それと同じで、ブログの更新も、いったん止まってしまうと、再開するのに大きなエネルギーを必要とする。

これは、カラオケにも似ている。というのも、カラオケでは、「最初の一曲」が難しいことがよくある。周囲がシーンと静まり返っている状況では、やりにくい。なんとなく、面倒に感じられる。譲り合ってみたり、意味もなくデンモクをいじってみたり。昔だったら、パラパラと曲の目録をめくって、やりすごすところだろう。

ところが、そんなときに、「我こそは」という人が1人いるだけで、状況は一変する。そういう人が先陣を切ることによって、静まり返っていた雰囲気が変わる。そうなると、「我も我も」とばかりに次々に出てきて、逆に順番が回ってこなくなる。

それと同じで、ブログの更新もいったん止まると、なかなか再開できない。しかし、再開すると、それを続けるのは、ぐっとラクになる。そうなると、だんだん更新するのが加速してくる。しまいには、1日に何回も記事を更新して、「無職のヒマ人だ」、「ブログ廃人だ」と言われるようになる。

今も、仕事をサボってブログを書いている。ハタから見れば、PCに向かって一生懸命に事務作業をしているようにしか見えないことだろう。だが、やってることはブログの更新だ。仕事とは、これといって関係ない。最初の数行を書くのには大きなエネルギーが要るけど、そこを乗り越えれば、あとは勝手に伸びていく。

こういうのは、ブログの更新に限らない。仕事だって同じだ。毎朝のように、「あ〜あ、長期休暇を取りたいな・・・」と思いながら仕事をするのには、毎回、大変な努力をして気力をかき立てなければならない。

車だって、止まった車を動かすためには、エンジンをかけて、アクセルをぐっと踏み込まなければいけない。でも、走り始めた車は、そのままスイスイと動いていく。むしろ、急には止まれない。

それと同じで、いつも仕事に嫌気がさしている人は、仕事に向かうたびに、いちいちエンジンに点火しなければいけない。毎度のことだけど、そのたびに大変だ。

ところが、世の中は、そんな人ばかりではないのである。自分がそうだからといって、他人もそうだと思ってはいけない。仕事をするのが完全に習慣になっている人にとっては、むしろ、仕事をしないほうが非日常で、大きな苦痛なのだ。

以前、勤務していた会社にも、完全に仕事中毒の人がいた。平日も土日も関係なく、常に営業していた。文字どおり、365日やっていた。12月31日には、「今年も一年、ありがとうございました」と顧客にアイサツして回る。そして、次の日には、「今年も一年、よろしくお願いします」とアイサツ回りするのだ。年頭の抱負をきかれて、「今年の目標は、なにか趣味を持ち、仕事以外の生きがいを見つけることです」と語っていた。

そんな人にとっては、仕事をするのに、「さあ、仕事をするぞ〜!」と気合を入れる必要など、まったくない。そのまま、いつもどおりに慣性の法則で、仕事を続ければいいだけだ。むしろ、止めるほうが難しい。

興味や関心にも、同じことが言える。というのも、数年前の筆者は、韓流マニアだった。しょっちゅう、在日の友人とともに新大久保に出かけては、焼肉とかプルコギとかを食べ、家では韓流ドラマを見てK−POPを聴いていた。そのうち、「こういう無意味なことはヤメて、もっと有益なことに時間を使いたいものだ」と思い始めた。でも、なかなかヤメられない。そこが、「慣性の法則」たるゆえん。

ところが、そんな筆者も、後には打って変わって、嫌韓マニアになった。いつも嫌韓ニュースを見ては、「慰安婦ガー、竹島ガー!」と怒るようになった。これまた、しばらく続けるうちに、「こういう無意味なことはヤメて、もっと有益なことに時間を使いたいものだ」と思い始めた。でも、気づけば、つい嫌韓ニュースを見ている自分に気づく(笑)。まさしく、慣性の法則だった。

こういうのは、自分ひとりの問題ではない。日本全体の意識の変化や、その流れにも乗っている。知らず知らずのうちに、大きな潮流の中にいて、一緒に動いている。

思考や感情や、興味関心。そういったことの多くは、ほとんど習慣だけで形成されている。おそらく、この人生に限らず、輪廻転生のプロセスにおいても、この「慣性の法則」が意識を大きく左右している。 

「自分とは、こういう人間だ」という自己定義をする上で、その点を是非とも考えてみなくてはいけない。「こういう人間だ」という内容の大半は、単なる習慣にすぎないのではなかろうか。

単なる「ブログの更新」の問題から、こういう方向に話が広がっていく。これまた、筆者にアリガチな傾向だ。まさしく、慣性の法則なのだ・・・(笑)。

(つづく)

 

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呼吸法 プラーナーヤーマ 〜 本山博氏 その3

2014年11月07日 | ヨーガ瞑想

 
チャクラをより活発に働かせ、物理的な次元ではなく、もっと高い次元の生命エネルギーを吸収するように目覚めさせるための準備運動が、呼吸法(プラーナーヤーマ)だ。

呼吸法を実践するときは、原則として、座禅を組んだり、ヨーガの坐法で座る。もちろん、「姿勢は自由でよい」という瞑想指導者もいるし、それぞれのやり方ってものがある。でも、本山博氏は、ヨーガ瞑想の人。ヨーガでは、「背骨を伸ばす」ということを、ことのほか重視する。だから、背骨が伸びないような座り方(たとえば、アグラをかくとか・・・)を、まずしない。

ヨーガに限らず、歴史のある伝統的なやり方には、「型」がつきものだ。

 

もっとも、「背骨を伸ばす」といっても、無理してピンとまっすぐにする・・・というわけでもない。「浅いS字型」という、人間にとって自然な形でいいみたい。
 
背骨をまっすぐに伸ばし、身体の力を抜いて、下腹部の「丹田」だけに軽く力が入るようにする。

次に、右でも左でもいいんだけど、どちらか片方の鼻の穴から、空気を吸い込む。口から吸い込んではいけない。これに限らず、ヨーガの呼吸は、鼻でするのが基本。

必ず片方の鼻の穴から、ゆっくりと、四秒くらいかけて腹いっぱいに空気を吸い込む。

ここで、「片方の鼻の穴を、指で押さえる」というのも、よくあるやり方。「かわるがわる指で押さえて、右から息を吸い込み、左から息を吐き出す」というようなのは、ヨーガをやったことがある人ならオナジミだろう。でも、この場合は、それをしない。

 

指で押さえないと、片方の鼻の穴から息を吸い込んでいるつもりでも、実際には、両方から息が入ってくる。でも、それでいいらしい。「片方の鼻から吸い込んでいる」という気持ちで呼吸することが大事なんだそうな。要するに、気持ちの問題。

この件に限らず、「・・・のつもりでやる」というイメージトレーニングが、しょっちゅう出てくる。

ここでは、空気を吸い込むといっても、気持ちの上では、そうではない。「宇宙の生命エネルギーを、いま吸い込んでいるのだ」というつもりになることが大事になる。

やはり、ブルース・モーエン氏がいうように、「想像力が大事」ということになるのか・・・。というのはそのとおりで、本山博氏が何十年も前に書いたこの本でも、「想像力が大事」としきりに強調されている。

 
ヨーガの呼吸は、鼻でする。しかも、腹式呼吸する。

つまり、普通の呼吸は、口から胸に息を吸い込む。でも、ヨーガの呼吸は、鼻から腹に息を吸い込む。

空気が腹いっぱいにたまって、限界までふくらんだら、腹をふくらませたまま、息を止める。この、息を止めておく時間は8秒くらい。


(つづく)
 

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チャクラを刺激するトレーニング 〜 本山博氏 その2

2014年07月28日 | ヨーガ瞑想

 
本山博氏によると、人間は、太陽エネルギーだけで生きているわけではない。ふつうの人間は、酸素や水や食物のないところで生きていくことはできないが、修練を積んだヨガの行者なら、そんなところに1ヶ月くらいいても死なない。

もちろん、元気ハツラツ、ふつうの環境と同じように動き回るというわけにはいかない。「呼吸は止まったと思えるほどわずかで、心臓もかすかに動くくらい」という仮死状態だけど、生きていられるという。

クンダリニーヨーガでは、物質的なエネルギーのほかに、もっと次元の高い宇宙の生命エネルギーと呼ぶべきもの、「プラーナ」があると考えている。

空気や水、食物といった物質的なエネルギーを取り入れるのは、口とか鼻、皮膚。

それに対して、プラーナを取り入れる窓口は、「チャクラ」ということになる。

チャクラは、もともと「光の輪」という意味で、ここから取り入れたエネルギーが、全身、とくに内臓に送られる。その通り道は、「ナディ」と呼ばれる。酸素や栄養が、血管を通して送られるようなものだ。ナディは、言ってみれば、見えない血管みたいなもの。

おなかのマニプラチャクラには、「太陽神経叢」というのがあって、ここが第二の脳のようなコントロールセンターとなり、内臓を動かしている。そこには、プラーナを取り入れ、内臓に送るセンターもあるのだ。

普通の人は、このチャクラが目覚めていない。これでは、吸収できるプラーナが、質・量ともに限られる。それに比べて、チャクラが目覚めている人は、次元の異なるプラーナを吸収できる。不食でも生きていけるのは、そのためだ。

チャクラを目覚めさせることができれば、超能力は自然に身につくのだという。

そのためには、固い自我のカラをかぶって人間くさい欲望にとらわれている心を磨き、もっと高い次元に引き上げていかなければいけない。

そこで、トレーニングなのだが、本山博氏が推奨するのは、「腹筋のトレーニング」。

これによって、プラーナが集まっているところ(募穴)を刺激するんだそうな。

カンタンに言えば、座禅で半分だけ足を組んだような姿勢で、腹筋を前後左右にグルグル回すような気持ちで動かすのだ。「右に3回まわしたら、次は左に3回」というように、必ず、左右の回す回数を同じにするのがポイント。

食後すぐとか、おなかの調子が悪いときには、やってはいけない。できれば、朝起きたときとか、夜の寝る前にやるのが効果的だという。

もちろん、そんな具合に腹筋をグルグル回せる人など、世の中には滅多にいない(笑)。ここは、あくまでも、「そういうつもりになって、腹筋を動かす」ということ。左右にヒネリを加えることで、おなかのチャクラへの刺激を強化するのだ。
 

 
 
(つづく)
 

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超能力ヨーガ瞑想 〜 本山博氏

2014年07月26日 | ヨーガ瞑想

 
前回の「なんたって背骨が大事」を書いてから、もうだいぶ経ってしまったけど、本山博先生の話の二回目。

ここで取り上げた「自分でできる超能力」という本は、ほかの本山博氏の著書が通常、あまりにも分厚くて難解なのに比べて、本山ヨーガ理論の入門書として最適だ。
   

本山氏によると、超能力トレーニングとは、基本的には、「心のトレーニング」だという。

生まれてから現在まで、何十年かをかけて固めてきた心のカラを破り、心を自由にすることが本来の目的だ。それによって、眠っていた超能力が、目を覚ますのだという。 

そのために重要なのは、なんたって、背骨。

ヨーガでは、背骨をとても重視する。ヨーガのアーサナ(座法)には、背骨を伸ばしたり、曲げたり、左右にひねったり・・・というポーズが、とても多い。

これにはワケがある。というのも、背骨に沿って、「スシュムナー管」という、クンダリニーが通る通路があると考えられているからだ。だから、クンダリニーを昇らせるためには、通路が大事・・・ということになる。

とくに、背骨が「ゆがんでいる」というのは、大問題。もしも、背骨がズレてゆがんでいるようなら、これを矯正することが最初のテーマになる。

背骨がゆがんでいるかどうかは、人に指で触って診断してもらえば良い。自分でもできるけど、よほど腕が長い人でない限り、届かない範囲がある。

そこで連想するのは、「神の使者」の著者、ゲーリー・レナード氏。子供の頃から、セキツイ側わん症(背骨が曲がっている症状)に悩まされ、病院に通っていた。背骨をまっすぐにするために、いろんな手段を用いて、ものすごい努力をした。
 

本人は自覚していないが、これこそ、知らず知らずのうちに、ヨーガ行者のトレーニングをしていたようなものだ。それが超感覚的認識の開発につながり、ひいては現在の彼につながったとも考えられる。

 ちょうど筆者が、ADHD(注意欠陥・多動性障害)を克服するため、集中力を強化するトレーニングに取り組んだようなものだろう。修行せざるを得ないように、人生ができているのだ。昔の野球マンガに出てきた「大リーグボール養成ギプス」と同じで、これこそ、「災い転じて福となす」というもの。


>「心のトレーニングをするのに、なぜ背骨が関係あるのだろう?」という疑問の声が聞こえてくるような気がしますが、ここではただ、「背骨にゆがみがあると超能力開発がうまくいかない。そればかりでなく、身体に悪い影響をもたらすこともありうる」とだけ覚えておいてください。

背骨をまっすぐにするためのトレーニングは、ヨーガにはたくさんある。なんたって、最も根本的なテーマだけに、そういうメニューがたくさんある。

代表的な基本ポーズには、次のようなものがある。
 






それぞれのポーズには、意味がある。たとえば、上のポーズは、「飛び出した背骨を引っ込める」というのが目的で、真ん中のポーズは、「引っ込んだ背骨を、元に戻す」、下のポーズは、「左右にゆがんだ背骨を、まっすぐにする」というのが目的。

前にも書いたけど、筆者は身体に関することがどうも苦手で、ハタ・ヨーガの難しいアーサナのポーズには苦手意識がある。というより、まずムリだ。

上に挙げた画像も、こんなに深く曲げるなど、マネしようったって、到底できるものではない。

ただし、ここまでの域に達するのはムリでも、本来は、とても簡単なポーズばかりだ。しかも、難しいことをやるより、こういう簡単なポーズを繰り返すほうが、ずっと効果が高くて有意義だという人が多い。「継続は力なり」という、典型的な例だろう。
 


YOGA.jp ポーズ辞典 

(続く)

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