宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

インドの聖者 その2

2016年05月05日 | 精神世界を語る

  

インドは、歴史の国ではない。本当は、インドにも、三国志や戦国時代に勝るとも劣らない群雄割拠の歴史がある。でも、当のインド人が歴史に関心なかったのと、暑い国では昔の記録が残りにくいのもあって、ほとんどの出来事が忘れられてしまった。もしも記録が豊富に残されていたら、さぞかし歴史小説のネタに困らなかっただろう。

インド人に限らず、もともと昔の人にとって「時間」というのは、過去から未来に向かって一直線に流れていくものではなかった。太陽が、朝は昇って、夕方には沈む。次の朝には、また昇る。春が過ぎれば夏が来て、冬が過ぎれば、また春が来る。文明の進歩はゆっくりしていて、たいした変化はなかった。そうやって、グルグルと円環のように回っていくのが時間だったのだ。現代人なら、それは地球の自転と公転が、われわれ人間に見せている視覚効果だと知っている。でも、昔の人はそんな舞台装置の仕掛けのことなど知る由もない。

古代ギリシャ人にとっても、時間はグルグル回るものだった。ギリシャ哲学を深く研究したフリードリヒ・ニーチェは、「同じものの永遠なる回帰」という説を打ち出した。それは、近代ヨーロッパ人に大きなショックをもたらした。キリスト教徒であるヨーロッパ人にとって、時間とは、天地創造から最後の審判に向かって一直線に流れるものだったのだ。

そんなこんなで、古代人にとって、時間とか歴史には、あんまり意味がなかった。歴史教の信者なのは、中国人くらいのものだった。もっとも、中国人でも、「歴史は繰り返す」という思想は徹底していた。

インドは、歴史の国ではない。では、何の国なのかというと、なんといっても哲学と宗教の国で、これこそは、まさしく本場。欧米でも、精神世界関係者はみんなインドに憧れる。「ガンガジ」も、元はといえばアメリカ人だけど、インドに行って聖者の仲間入りした。ガンガジというのは、もちろんインドでついた名前で、本名ではない。

でも、インドの思想を語るには、やっぱり一応、インド思想の歴史をさらっと知っておいたほうが良いと思われる。チマタにはびこる新興宗教を見るにつけ、そう思う。・・・というのも新興宗教では、教祖の教えが、「神から降りてきた思想」として語られることが多い (まあ、宗教なんだから当たり前か)。でも、筆者のように「思想の歴史」に妙にくわしい人から見れば、どれもこれも、話の出ドコロが割れているものがほとんど。

釈迦やキリストの教えでさえも、「突然、天界から降ってきた」というのは、ちょっと誤解がある。それ以前のインド哲学の流れを知っていれば、お釈迦様の教えもその流れの中にあるのが明らかで、そりゃ天界からのインスピレーションもあっただろうけど、たいていの話は、それ以前のインド哲学者たちも言ってたことが多い。もちろん、そんな古代インド思想家の中でもお釈迦様が突出して有名なのは、それだけの理由があり、それまでのインド思想を集大成して大きく飛躍させ、最終結論を出したからなんだけど。

お釈迦さまの教えは、やがて「シャンカラ」に受け継がれた。シャンカラは、日本ではマニアしか知らないけど、インドではビッグネーム。クリシュナムルティの講話にも、「釈迦とかシャンカラの本をいくら読んでも、それだけじゃ意識の覚醒はできません」という具合に、しょっちゅう並んで登場する。

それはラマナ・マハルシや、ニサルガダッタ・マハラジといった現代の偉大な聖者たちも同じで、彼らの説く教えは、シャンカラから脈々と受け継がれてきたインドの伝統思想。

そして、ラマナ・マハルシの弟子のプンジャジの、そのまた弟子のガンガジが、エックハルト・トールに大きな影響をもたらした。エックハルト・トールといえば、「現代のスピリチュアル・リーダー」。こうして、欧米の精神世界にも、この教えが大きく深く浸透している。

というわけで、筆者は、釈迦とかシャンカラはよく読んだし、エックハルト・トールやクリシュナムルティもよく読んだけど、「ラマナ・マハルシ」とかは名前と「私は誰?」くらいしか知らなかった。読むべき本のすべてを満遍なく押さえるなんてことは、いくらヒマ人でもかなり困難だったのだ。でも、これから読んでも遅すぎるなんてことはない。

そもそも、代表的な聖者の一人である「プンジャジ」だって、31歳でラマナ・マハルシの弟子になるまでは、いたって普通の人だった。弟子になったといっても、一緒に南インドのアルナーチャラ山にいたのは短い期間で、残りの人生の大半を遠く離れたパキスタンで過ごした。しかも、独立してプロの聖者になったのは、55歳のとき。それでも出家はせず、在家を通した。

「覚醒の巨人」ことニサルガダッタ・マハラジも、34歳で高名な聖者の弟子になるまでは、ごく普通の人生を送ってた。しかも、聖者の話を聞いただけで、修行はとくにしなかったという。有名になったのは、54歳のとき。マハラジも、出家せず在家を通した。

インドには、古代からそういう伝統がある。つまり、若いときは働いて社会貢献し、年をとって隠居してから、教えの道のプロになる。そういう考え方が大昔からしっかりと社会に根付いてた。

この世で精神世界を探求するのに、遅すぎるなんてことはない。さすがに、死んでからじゃ遅すぎるかもしれないが、その前にどこかの時点でやればいいのだ。

日本人も、そんな生き方を学ぶときかもしれない。高齢化社会なんだし、これからは精神世界の探求で余生を送るのが主流になる可能性が高い・・・。

(つづく)

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インドの聖者

2016年04月11日 | 精神世界を語る

   

「インドの聖者」と聞いて誰を思い浮かべるかは、人それぞれだろう。筆者の場合は真っ先に「クリシュナムルティ」だけど、クリシュナムルティの場合は、どっちかっていったらイギリスとかアメリカで活躍した人。

歴史上の人物としては、「釈迦」と「シャンカラ」が二大巨頭だろう。ただし、インドは歴史の国じゃないので、正確な歴史が誰にも分からない。2人とも、なかば伝説的な人物に近い・・・。

現代で、多くの人が「これこそインドの聖者の筆頭」と思う人物といえば、なんといっても、シュリー・ラマナ・マハルシなんじゃないか。他にも聖者が多い中で、ラマナ・マハルシを別格あつかいする人は少なくない。

精神世界系で屈指のアクセス数を誇る某有名ブログでは、ラマナ・マハルシを「千年に一人の人物。この人を超える人は出ていません」とまで持ち上げている。それをそのままウノミにはできないまでも、それくらい、インドでも傑出した人物ということだろう。

以前、ブログを読んだ人たちが、「インドの聖者」について親切にもいろいろと教えてくれたことがある。今でこそ、精神世界全般に通じている筆者だけど(笑)、実際のところ、ブログや掲示板をやってきたおかげで得た情報は多い。この「インドの聖者」関連の話もそのひとつ。他にも、「ダンテスダイジ」とか、「ヴィパッサナー瞑想」とか・・・。どれも、ここでその道のプロから聞くまでは知らなかった。

それはともかく、「ボクも、インドの聖者の本を読んでみよう」とは思ったものの、いろいろあるから迷ってしまった。どこから始めるのがベストなのかと言えば、やはり、基本はラマナ・マハルシ。

でも、もちろん、ラマナ・マハルシしかいないわけではない。まず、弟子として有名な「覚醒の炎」のプンジャジがいる。もっとも、「覚醒の炎」は現在、日本語訳が絶版になっている様子。こういうのは、どうしてもマニア向けの本なので、価格が高い上にすぐ絶版になる。だから、ますます読まれない・・・。

さらに、その弟子として有名になったのは、アメリカ人女性のガンガジ。こちらは、「ポケットの中のダイヤモンド」という名著で知られる。この本には、あの「現代のスピリチュアル・リーダー」こと、エックハルト・トールが序文を付けている。

エックハルト・トールは、このラマナ・マハルシからガンガジに至る系統に、強い影響を受けている。この系統は、「アドヴァイタ派」と呼ばれる。インド思想4大学派のひとつだ。4大学派といっても、ひとつはこの「アドヴァイタ派」で、もうひとつは「ドヴァイタ派」、あとの2つも「なんとかドヴァイタ派」とかいう名前。違いはまったく分からないし、おそらく、あまり違いはないんじゃなかろうか(笑)。

誰もが古代インド最大の哲学者・シャンカラの思想をそのまま受け継いでいて、基本的には同じなので、どれか一つを読めばよいと思われる。最も親しみやすいのは、ガンガジの「ポケットの中のダイヤモンド」。逆にダントツで読みにくいのは、シャンカラの古典。ちなみに、この中で筆者が以前から読んでたのは、シャンカラだけなのだが・・・。

といっても、インドは歴史の国ではない。もちろん歴史がないわけじゃなくて、実際にはものすごい悠久の歴史があるんだけど、当のインド人が興味なかったもんだから、歴史に意味がない。だから欧州や中国と違って、インドの場合は、思想の歴史をたどることにも、あまり意味がない。

そもそも、真理を外部の世界に求めて探し回っても報われない。真理は、自分の心の内側にある。

異口同音にそう言ってた人たちの本を、片っ端から読み漁る。それこそ、矛盾というものだろう。「思考を止めようと考える」というのに通じる、根本的な矛盾。

それはともかく、ラマナ・マハルシの系統の外にいる人で、マハルシに勝るとも劣らない名声を博しているのは、二サルガダッタ・マハラジ。

ラマナ・マハルシと、二サルガダッタ・マハラジでは、どっちがより高い位置付けになっているのかというと、「マハルシを超える人物などいない」という信奉者もいれば、「マハラジしか読まない」という人もいる。どちらとも言えないとはいうものの、ややマハルシが優勢か(笑)。

そして、マハラジの弟子として有名なのは、ラメッシ・バルセカールという人。あと、セイラー・ボブって人も有名。

これくらいの予備知識があれば、この分野に入っていける・・・。

(つづく)

 

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量子力学 その5 〜 電子雲

2016年04月07日 | 精神世界を語る

量子力学のおかげで何が分かったのかといえば、まずは何よりも、「原子の構造」が分かった。

というのも、それまでは原子といえば、「原子核のまわりを電子が回っている」という図が定番だった。まるで、太陽のまわりを地球が回っているみたい。

でも、量子力学のおかげで、この図は修正された。どうなったかというと、「原子核のまわりを電子の雲がとりまいている」という図に変わった。

 

電子は、誰も見ていないところでは波動になって広がる。原子核のまわりでは、ボワーッと雲のように広がっている。

まるで、1個の梅干しと、1粒のコメでできている仮想オニギリみたい。見た目は、数えきれないほどのおコメでできたオニギリに見える。でも、食べてみると、あら不思議。じつは、梅干しと1粒のコメでした・・・。

つまり、タネを明かせば、一粒の電子。それが雲のように広がって、丸い原子になっている。その意味で、これはトンデモない水増し疑惑。

でもって、ここがカンジンなところなんだけど、上の図で、色の濃いところは、電子が存在する確率が高い。色が薄いところは、電子が存在する確率が低い。

とはいうものの、この「電子雲」の図を日頃から見慣れてる人でない限り、まずピンとこないだろう。日常生活で身近なものの中に、これと似たものがあるかっていったら、全然ない。だから、分かりにくいのは当たり前。

そもそも、前回も書いたけど、量子力学に関して「分かる」などということは、まず期待できない。こればっかりは、「慣れる」しかないのである(笑)。

それはともかく、この電子雲がどういう雲なのかというと、「電子が存在する確率の雲」。たくさんのパラレルワールドにいる無数の電子たちが、一斉に出現して1ヶ所に集まっている・・・という感じ。

これこそが、われわれが暮らす物質世界の、真の姿なのだ。まさしく、闇夜にボーッと浮かび上がる幻影のような「電子雲」こそが、物質の本当の姿。なにもかも、これが集まってできている。これが並び方によっては、あのガチガチに硬い鉄 とかコンクリートとかにもなるんだから、実によくできているものだ。

もっとも、いくら幻影にしか見えないからといって、「原子の構造って、なんだか幻影みたいですね?」などと言えば、専門家から「これは幻影などではない」と言われてしまう。そこで、「それなら、何なのですか?」ときくと、「これは確率分布なのだ」という答が返ってくる。

「じゃあ、これはあくまでも数学理論上の仮想的な存在なんですか?」とさらに聞けば、「いや、電子雲は物質として確かに存在している」と言われる。

つまり、この「電子雲」は、やっぱり現実の存在なのである。

ただし、「確率」っていうくらいだから、日常生活で接する堅固な物質と比べると、かなり怪しい存在には違いない。

電子が存在する確率が50%のところでは、半分くらいボヤけて存在している。存在確率が10%のところでは、ほとんどボヤけて存在している。その意味では、影が薄い幽霊みたいなものだ。

電子の実体は、もともと1粒の粒子。だから、電子雲のどこかにいる。どこにいるかは決まってないけど、原子核のまわりを高速周回している。電子がどこにいるかを突き止めたら、電子雲は消える。「存在する確率が100%」の電子1つだけが残って、幽霊みたいな残りの連中はすべて消える。

このように電子は、人間が見ていないところでは、雲のように、というより、ホログラムのように広がっている。物質は、この水増しシステム(?)みたいなもののおかげで成り立っている。これがなければ、物質世界もない。

もちろん、この量子力学の話を聞いて、「物質は、存在するかしないか、どっちか1つに決まるはずだ。どちらともつかない『確率50%の存在』なんて信じられるかいな?」と思った人もいた。その中でも特によく知られているのは、かの高名なるアインシュタイン博士。「神はサイコロを振りたまわず」という名言を吐いて、死ぬまで反対し続けた。でも結局のところ、百年近くたった今も、誰も量子力学の結論を否定できずにいる。それどころか、ますます動かしようのない事実として固まっている。

どちらにしても、この物質世界は、どこまで本当の意味で「実在」しているのか。それが、かなり疑わしく見えてくるのは事実。

われわれ、物質世界で生きる者にとってはあまりにも重大な事実なんだけど、なぜか、あんまり世間には知られていない・・・。

↑ 電子顕微鏡で見たシリコン原子の配列

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量子力学 その4 〜 多世界解釈

2016年04月03日 | 精神世界を語る

 

電子というのは、原子核のまわりを回っている小さな粒。ところが、二重スリット実験の結果、「電子は波である」ということが分かった。粒なのに、波でもある。ここが、量子力学のカナメとなるポイント。

水滴が集まって川になり、海となり、寄せては返す波になる。これは分かる。でも、電子の場合は、「たくさん集まって波になる」というわけではない。ひと粒なのに、波になる。

電子は、もとはといえば小さな粒子。でも人間が観測していないときは、波動になって広がりだす。人間が観測すると、もとの粒子に戻る。観測した瞬間、パッと戻ってしまう。

これこそ、量子力学の要点。これが意味不明なのは誰にとっても同じで、ワケが分からなくても仕方ない。なんたって人類最大級のナゾなんだから、それも当然といえるだろう。これには、分かるなどということはあり得ず、慣れるしかないのである(笑)。

それはともかく、なんで、ひと粒なのに波なのか。そこが問題。

実のところ、波になるのは、無数の分身たちなのだ。電子は、電子銃から発射された途端に、無数の分身に分かれ、波になって進む。

でもって、ここがカンジンなところなんだけど、電子が通る確率が高いところには、分身が多い。電子が通る確率が低いところには、分身が少ない。

つまり、電子銃から発射された時点では、未来は決まっていない。電子がどこを通って、どこに当たるかは、これからの話。たくさんの未来が電子を待っている。未来が決まるのは、人間が観測したときか、最後にスクリーンに当たったとき。結果が出るまでは、たくさんの分身に分かれて、多くの未来が同時進行する。結果が出た瞬間に、無数の分身たちはすべて消えて、ひとつだけが残る。

もちろん、これは科学者にとっても意味不明なストーリーであることに変わりはない。それなのに、なんで皆がこれに納得しているのかというと、この考えを前提にして確率計算をすると、実験結果と計算結果がピタリと整合して、きれいに説明がついてしまうから。物理のプロにとっては、それこそが問題解決を意味する。

それにしても、この話のどこが、そんなに意味不明なのか。もちろん、「最初から最後まで」と言ってしまえばそれまでなんだけど、特に意味不明なのは、「人間が観測した途端に、無数の分身たちがすべて消えてしまう」というところだろう。

この最大の欠点を改良したのが、かの高名なる「エヴェレットの多世界解釈」と呼ばれる理論。

物理学では主流じゃないにもかかわらず、なぜか精神世界では人気抜群で、マニア同士の会話には普通に出てくるほどよく知られている。主流派よりも、「多世界解釈」のほうが遥かに認知度は高い。もはや、これは物理の専門用語というより、精神世界の用語と言っていいだろう。

電子銃から発射された電子は、どこを通って、どこに当たるか決まっていない。たくさんの未来が電子を待っている。右のスリットを通る電子、左のスリットを通る電子、その間に当たって届かない電子、横にそれてしまう電子・・・。そんな多くの未来が、無数の分身に分かれて同時進行する。

やがて、結果がひとつに定まる。

ここで、主流派(コペンハーゲン解釈と呼ばれる) の場合は、無数の分身たちが消えて、ただひとつの結果だけが残る。

ところが、多世界解釈の場合は、そのまま行ってしまうのである。つまり、たくさんの分身たちは、消えずに突き進む。そして、たくさんの違う結果になって残る・・・。

早い話が、これはパラレルワールドの理論。

電子を待っていた多くの未来は、そのまま無数のパラレルワールドに分かれて、異なる未来となっていく。「どんだけ多くの世界に分かれるんだよ」と思うけど、このように考えると、主流派の理論の最大の難点が解消される。

あとは、そんなパラレルワールドが本当にあると思えるかどうかだけ・・・ということになるだろう。

精神世界マニアに言わせれば、科学者たちはまだパラレルワールドの存在が信じられず、古い主流派の理論にシガミついているのだ・・・ということになるんだけど、実際のところ、主流派と多世界解釈の違いは、意外と大きくない。というのも、主流派の理論も十分に奇妙で、勝るとも劣らないほど変だからだ。両者の違いは、紙一重といってよい。

「粒子が、無数の可能性に分かれて重なりあった状態になる」というところまでは、どちらも同じ。違うのは、主流派では「ただ一つの結果に決まると、残りの可能性は消えてしまう」と考えるのに対し、多世界解釈では、「残りの可能性は、別のパラレルワールドに行ってしまったのだ」と考えるところ。

電子銃から発射された瞬間に、電子は多くの未来に分かれる。無数の状態が重なりあい、波動になって進む。電子は、右側にあるのか、左側にあるのか。人間が観測するまで、それは決まっていない。観測すれば、どちらかに決まる。

ここで、観測したら左側にあったとする。この場合、主流派の解釈では、「さっきまで右側にあった分身は消えて、左側が残ったのだ」と考える。多世界解釈では、「ボクは今、左側にある電子を観測している。でも、右側にあった分身は消えたのではない。別のパラレルワールドに行ってしまったのだ。そこには、右側にある電子を観測している自分がいる」という風に考える。

これで、主流派の意味不明なナゾは解消された。その代わり、パラレルワールドというさらに奇妙な、「信じるかどうかはアナタ次第です」というシロモノが登場する。

ただし、このパラレルワールドという考え方は、精神世界マニアにとっては、実にピンときやすい。だから、量子力学そのものだって、世間の一般人より精神世界マニアのほうが、ずっとナジミやすいのは確かだろう。筆者も、これまで科学者や科学評論家が書いた量子力学の本をたくさん読んできたし、講義も聞いたけど、やっぱり、「パラレルワールド」を前提にして考えると、実にシックリ来るものがある。

もはや、哲学だけでなく科学でさえも、精神世界の素養があったほうが分かりやすいという時代になっているのだ・・・(笑)。

それはともかく、少数派とはいうものの、一部の専門家は多世界解釈を支持している。ある有名な量子コンピュータの研究者は、「量子コンピュータは、いままでなら千年もかかったような膨大な計算をあっという間に処理してしまう」と語り、「なんで、そんなに速いんですか?」と聞かれて、「無数のパラレルワールドで同時に計算するから」と答えていた。

(つづく)

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量子力学 その3 〜 観測問題

2016年03月30日 | 精神世界を語る

 

昔、「侍ジャイアンツ」というマンガに、「分身魔球」ってのが出てきた。ピッチャーが投げたボールが、無数の分身に分かれて押し寄せる。バッターはどれを打っていいのか分からず、マゴマゴしてるうちにボールは通りすぎる。でも、キャッチャーミットにおさまったのを見ると、なぜかそれは1個のボール。

量子力学の二重スリット実験は、そんな魔球に近い。電子は、もともと1個の粒子。それなのに、電子銃から発射された途端、なぜか波動に変身する。2本のスリットを通り抜けて、スクリーンに押し寄せる。そして、寄せては返す海岸の波打ち際のような、美しいシマ模様を残す。

ところが、なぜか、波動になっている姿は見えない。スクリーンに残った波動の痕跡のシマ模様を見て、「あ、波だったんだ」と分かるだけ。実際に波になって動いてるところを見た人は、誰もいない。

こうなると、波の姿をなんとかして見てみたいものだ・・・と思うのが人情だろう。 

そこで科学者は、二重スリットの横に観測機を置いてみた。1粒の電子が波動に変身して2本のスリットを同時に通り抜け、また1粒の電子に戻るという、歴史的な瞬間を捕らえよう・・・というわけだ。

結果は予想外なものだった。波の姿は、やっぱり見えなかった。電子が分身に分かれるところも見えなかった。電子は、1個の粒子のまま、片方のスリットを通り抜けていった。

それだけではない。なんと、あの「波動の干渉ジマ」まで消えてしまったのだ。

波動を見れなかったのは仕方ないにしても、これは予想を超えていた。つまり、観測した途端に、電子は「波」ではなくなってしまった。     

どうりで、誰も「波」を見たことがないわけだ。動きが速すぎて見えにくいとか、そういう問題ではない。なんと、それまでは波になって動いていたのに、人間が波を見ようとした途端に、電子は態度をコロッと変えた。急に、ただの粒子に戻ってしまったのだ。

なんという、衝撃的な結果。いろんな人が実験してみたけど、誰がどうやっても結果は同じだった。電子を観測しなければ、波動の干渉ジマができる。観測すると、波動の干渉ジマが消える。いくら信じられないことでも、受け入れるしかなかった。では、この事実をどう解釈すべきなのか?

つまり、電子は、人間が見ていないときは、波動になってボワーッと広がりだす。人間が見ると、パッと粒子に戻る。まるで、先生が見てるときだけ慌てて机に戻り、急にシャキッとして勉強し始める、怠け者の生徒みたい。

それにしても、人間が観測するかしないかによって、物質が動きをガラッと変えるとは、どういうこと? これが、かの有名な「量子力学の観測問題」。

さっそく、こんな解釈が登場した。

人間が見ていないときは、物質はフワフワと波のように広がっている。まさしく、幻影のような存在だ。でも、人間が見たときだけ、急にシャキッとして堅牢な物質になる。この物質世界は、人間の意識によって存在しているのだ・・・。

でも、ユリゲラーの念力スプーン曲げじゃあるまいし、普通の人にとって、これはいくらなんでもおかしく思えた。このため、現実的な意見も出てきた。

いわく、「観測機から出ている電磁波が、電子の動きに影響を及ぼすのである」。

もっともな意見だし、今でもそういう説明をする人もいる。でも、これには意外と説得力がない。百年前に比べて、観測機器が大きく進歩してきたし、科学者もいろんな実験方法を考え出してきたけど、結果は変わらないからだ。

そんなこんなで、やっぱり、「人間が認識することによって電子の動きが変わる」というところに、だいたい落ち着いた。

では、この「波」とは、いったい何なのか。それを科学者たちが考えた結果、こんな結論になった。

いわく、電子銃から電子が発射される。その瞬間から電子は、無数の分身に分かれる。右のスリットを通り抜ける分身たちもいれば、左のスリットを通り抜ける分身たちもいる。まわりの仕切りに当たって届かないのも、横にそれてしまうのもいる。

ただし、分身たちは、どこでも同じように広がるわけではない。電子が通りそうなところには多く集まり、そうでないところでは少なくなる。

電子銃から発射された電子の前には、いろんな可能性が広がっている。 右のスリットを通り抜ける可能性、左のスリットを通り抜ける可能性、仕切りにぶつかってスクリーンまで届かない可能性・・・。すべての可能性が同時進行して波を起こす。観測した途端、波はパッと消えて、1粒の電子だけが残る。

なんとも奇妙な話だけど、これを前提にした数学の理論は、驚くほど実験結果にピタリと合った。だから、これが結論になった。

野球に例えてみれば、ピッチャーが投げたボールは、まっすぐ飛ぶかもしれないし、カーブするかもしれない。ワンバウンドになるかもしれない。バッターに当たって死球になるかもしれないし、暴投になって飛んで行ってしまうかもしれない。投げたボールが無数の分身に分かれて、直球や変化球・死球・暴投・・・となり、すべての可能性が一斉に同時進行する。キャッチャーミットに収まった瞬間、なぜか無数の分身たちは一瞬で消滅し、1個のボールだけが残る。そんな感じ。

(つづく)

画像元 nature PEACE

 「わかりやすい」と評判の、参考になる動画 ↓

https://www.youtube.com/watch?v=vnJre6NzlOQ

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