宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

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最近のアセンション情報

2017年01月29日 | アセンション ~ 地球の次元上昇

 

アセンション・ブームが過ぎ去って何年も経った今、「もはやアセンションは過去のものと化した」と思っている人は多いだろう。

でも、例えは悪いけど、韓流ブームが終わって久しい今だって、ビデオ屋の韓流コーナーに行くと、たいてい誰かが韓国ドラマを借りている。ほとんどのビデオは誰も借りる人もなく放置されているが、たまに借りられている作品がある。ブームは完全に去ったけど、一部のマニアは残っているのだ。

それと同じように、いくら乃木坂46に人気があったって、やはりAKB48にも根強いファンはいる。モーニング娘。だって、昔に比べればマイナーな存在感になったが、やはりファンはいる。それどころか、大昔のおニャン子クラブでさえ、忘れ去られたわけではない。

このような例を見ても分かる通り、ブームが去ったからといって、自分も一緒になってやめる必要などないのである。最後の1人になっても続ければ良いのだ。

アセンションに限らず、あの「ノストラダムスの大予言」だって、そうなのだ。というより、予言はだんだん現実になっている。みるみるうちに巨大勢力となり、インド洋やオーストラリア、アラスカ沖にまで軍艦を送り込んでいる中国を見ると、「ああ、いよいよ、アンゴルモアの大王が復活したな(怖)」と思わずにいられない。

それはともかく、アセンション情報をインターネットで漁ったところ、たくさんヒットした。「2016年のアセンション」、「2017年のアセンション」と、着実に続いているのがよくわかる。チャネリング情報も少なくない。

最近の傾向としては、「個人のアセンション」に向かっている。「地球の次元上昇」という壮大なスケールの話より、個人の意識進化が話題の中心になっている。

もっとも、アセンションというのは、もともと、そういう話であった。地球の意識進化が加速するといったって、全員がそうなるわけでないことなど、当初から分かっていたのである。

かつては、「アセンションを拒否して意識進化しなかった人々は、地球にいられなくなり、別の惑星に移る」という話が盛んだった。

まあ、それも一理あるとは思うんだけど、人の意識レベルの高さなど、日によっても違うし、それどころか1秒ごとにだって違うんだから、判定が難しいなとは感じてた。

ひょっとして、「今日は気分がいいな」と思ったときは、5次元の優良地球にいられるが、「今日は、やけに腹がたってしょうがねえな」というときは、3次元の不良惑星にズドーンと落とされるのかもしれない。心の準備が大変だ。

そんなことより、「個人の意識覚醒がしやすくなる」というのは、アセンションの重要なポイント。

かつては、意識覚醒するのが非常に難しかった。今は、アセンションの時流に乗ることにより、ずっと覚醒しやすくなっている。誰もが、そのビッグウェーブに乗るわけではない。でも、やりやすい環境になっている。

「選ばれた者」が、その波に乗るというわけではない。どちらかといえば、「それを意図した者が乗る」というのが正解。

早い話が、「ボクも意識覚醒しよう」と思うことが重要だ。

 

(続く)

 

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2017年、変化が加速する世界

2017年01月28日 | こっくり亭日記

 

「2012年アセンション」の説は空振りに終わったが、アセンションそのものの寿命が尽きたわけではない。むしろ、これからだ。

ていうか、2017年はどうやら、世界が激動の時代を迎えたようだ。

急速なグローバル化が、大きな反動を起こしている。アメリカも中国も、貧富の差が大きくなりすぎて、まるで革命前夜のような社会情勢。アメリカでは、暴言王のトランプ大統領が登場した。中国は、世界中に軍艦を送りこみ、日本やアメリカとの対決姿勢を明確にしている。

かつて、アセンションがブームだった頃は、「アメリカが滅亡することにより、地球人類は新しいステージに上がる」という、政治的な主張をする勢力が登場した。それに対して筆者は、「いや、それは違う。中国が崩壊することにより、地球人類は新しいステージに上がるのだ」という異論(?)を唱えていたものだ(笑)。

まあ、そのことの是非はともかくとして、途方もなく変化が早い時代に突入したのは確かなようだ。

もちろん、こうした政治・経済の変化が、アセンションに直結するわけではない。でも、諸行無常の世の中を見ていれば、物質世界の虚しさに気づき、急速な意識覚醒へと向かう人々が増える。

地球人類の歴史を振り返ると、一万年前の世界は、ほとんど変化しなかった。千年前の世界はゆっくりと変化していた。百年前の世界は、急速に変化していた。十年前の世界ともなると、あっという間に変わる世の中になった。

このような加速が、ますます進行している。それが、2017年の世界。

この調子で変化が加速していけば、やがて、変化それ自体が日常となり、限りなく流動的な世界になってくるだろう。「まだ遠い先のこと」と思っていたことが、予想外に早く到来する。やがて、変化しているのが通常の状態となる。

今までは、「こんな世界がずっと続く」、「自分がこの世からいなくなっても続く」と思いこんでいたことが、次々と、自分が生きている間に崩壊し、消えていくことだろう。

そんな体験が続けば、人々は、「ずっと続くものなど、何もない」と考えるようになるだろう。何事も、「もうすぐ変わる」、もしくは、「もうすぐ無くなる」ということを前提にして考えるようになる。

それは、強烈な信念体系の崩壊をもたらす。

そうなると、どうなるか。おそらく、「この世は共同幻想の産物であり、仮想世界である」ということが、誰の目にも歴然としてくるだろう。

このように、筆者の考えでは、「変化の加速」と「アセンション」には切っても切れない関係がある。それは、表裏一体と言ってよい。 

もともと、アセンションというのは、そういう話だった。「時間の加速」を抜きにしては語れない話だった。「マヤ暦の終焉」とか、そういう都市伝説が後から出て来て、そちらがブームになりすぎたおかげで、話のポイントがズレてしまったのだ。今こそ、原点に戻るとき。

もっとも、現実をどのように解釈しようとも、その現実のほうが、人々の意識より先に変わってしまいそうだが・・・。

(つづく)

 

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「私」に意識を集中する

2017年01月25日 | 精神世界を語る

 

ラマナ・マハルシによると、真我に目覚めるためには、「私」に意識を集中する必要があるらしい。

 とにかく、「私、私」とひたすら集中し続ける。それも、強烈な意識の集中。他のことが少しも心に浮かばないほど、「私」という一点に意識を集中する。

 いつも自分のことしか考えてない人たちなら大勢まわりに見てきただけに、これは意外(笑)。実は、そこが覚醒へのカギとなるポイントだったか。逆転の発想だ。

 実際のところ、筆者はずっと「無我論」ひと筋だった。無我というのは、そのまんまだけど、「我は無い」ということ。自分という個別存在そのものが、錯覚の産物であり、文字通り「無い」のである。

 ひとえに、「我は無い」というのがポリシー。「真我」という言葉すら嫌ってた。十年近くも精神世界ブログを書いてきたけど、「真我」という言葉は多分、今まで使ったことない。これだけ有名なラマナ・マハルシの本を、つい最近になるまで読んでなかったのも、ひとつにはそれが原因だった。

 一方、「真我論」のほうは、「私は有る」(I AM)という世界。「私は有る」ということ、それ自体が真我なのだという。我あり。それこそが、究極の真実。

 このように一見、正反対のことを言ってるみたいなんだけど、実は、無我と真我のあいだに、見た目ほどの違いはない。

 というのも、いくら「仏教は無我の思想だ」と言ったって、前々回も書いたように、さすがに、「人は死ねば無になる。だから、生きてる間は精一杯に生きよう」なんてことを言うわけではない。それじゃ20世紀の実存主義哲学になってしまう。それは仏教ではない。「仏教は霊魂を否定した」とまでいうのは、ちょっと現代的な解釈が行きすぎている。

 一方、「真我の思想」のほうも、これまた、世間の一般人が「これは自分の心だ」と思ってるもの、それが真我だというわけでは、もちろんない。それは錯覚の産物、つまり「偽我」。それを「破壊せよ」と言ってるんだから、実際には、「無我」とほとんど変わらない。

 やっぱり、意識の覚醒とは、無我に目覚めること。そしてそれは、イコール「真我」に目覚めること。それに尽きると言っていいだろう。それぞれ、言葉による表現が違うだけで、実際には変わらない。

 ただし、「真我」という概念には、ちょっと危険な匂いもある。というのも、「真我」というのは、言い換えれば、「神」に等しい。それも、聖書や神話に出てくるような人格神でなく、宇宙に偏在する究極の神。「我は神なり」と叫んで処刑された、昔のイスラム神秘家を思い出す。

自分が真我であることを認識するとは、最終的には、「我は神なり」という領域なだけに、使い方を誤れば危険思想。毒にもなれば薬にもなるとは、このことか。

といっても、普通はそこまで行こうったって行けるものじゃないのも事実。まずは、「一段上の、高次の自我意識に目覚める」というような、着実なステージ・アップを目指したい。

というより、もっと身近なところで、筆者の知る範囲で「真我」を唱える人たちに、どうもエゴの肥大した高飛車な人物が少なからずいた。精神世界を探求した結果、自我が強烈になったんじゃ本末転倒。それが「真我」への反感と、「無我」への信奉につながったのは否定できない(笑)。

まあ、「教えはすばらしいと思うけど、周囲がなんだか嫌な人たちばかりでした」といって教団を退会する、新興宗教の信者みたいなものか。しかし、たまたま運悪く、そういう人たちがいただけであって、それ自体に問題があるわけではない。 

通常の瞑想行を通じて真我に目覚めようとするより、ラマナ・マハルシの説く、「私は誰? という真我探究」のほうが、ずっと安全な道のように思われる。

それはともかく、「私に意識を集中する」というのはつまり、「私という意識が本当は何であり、どこから出てくるのか」という観察に集中せよということ。

実際には、前回も書いたように、ラマナ・マハルシは、この質問に対する答を教えてくれている。でも、ここは自分自身で発見したい。言語による理解は、真の理解ではない。自分自身で観察することが重要だ。

それも、他人をいくら観察したところで、深く理解できるものではない。やっぱり、しょせん他人のことは分かりかねる。何年も同居したって、分からないものは分からない。

観察すべきものは、やっぱり、自分自身なのである。これも、古代インドからの伝統だ。

古代インド人は、現代のような医学などまだほとんどなかったのに、瞑想して自分の体内のエネルギーの流れを観察することにより、なんと、7つのチャクラを発見した。これらのチャクラは、現代医学が明らかにした内分泌系や神経系の中枢の位置と、驚くほど一致していた。これこそ、観察の威力。まさに恐るべし。

さあ、これからは、「私、私」と唱えよう。カラオケでも、「矢切の私」を歌おう。おっと違った、「矢切の渡し」でした。すいません、超つまんないダジャレで、しかもド古い歌でした・・・。

 (この話はまだまだ続くけど、とりあえず今回は終了)

 

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「私」という想念はどこから出てくるのか?

2017年01月23日 | 精神世界を語る

 

ラマナ・マハルシによると、「私」という想念がどこから出てくるのか・・・それを知ることが重要だ。

といっても、マハルシはその答をすでに教えてくれている。「ハート」というのが、その答。

「ハート」というのは、胸の右側の位置にあるセンター。胸の中心よりもやや左側に寄っている心臓とは逆に、少し右側に位置している。なんと、そこに「真我」があるというのだ。

もちろん、ハートというのは英語で、もとは「フリヤダム」というのを訳した言葉。でも、普通は「ハート」で通っている。

とはいうものの、「胸の右側にあるとは知りませんでした。真我って、意外なところにあるんですね」なんて言おうもんなら、「いや、そういうことではない。誤解するな」と言われてしまう。

そりゃそうだろう。ただでさえ、「身体を自分と同一視するな」と言われてるのに、真我が自分の身体の中にあるというのは、そもそも矛盾している。

実際のところ、真我は、自分の身体よりも遥かに大きい。というより、もともと物理的な大きさがない。ラマナ・マハルシによれば、ハートの中に身体がある。いや、世界がある・・・。

とにかく、ハート・センターが重要だということは分かった。「私」という想念は、そこから出てくる。出てくるだけでなく、そこに戻って消えていく。

「私」という想念から、あらゆる想念が生まれてくる。「私」は、「ああでもない、こうでもない」という、自然にわき起こる無数の想念によって、日常生活をスミズミまで支配されている。というより、そういう無数の想念の束が「私」だと言うべきか。これは、止めようったって止まるものではない。

人は通常、それを「私の心」だと錯覚している。これこそが、真我ではない自分という錯覚、「偽我」というものだろう。

 

またまた話が脱線するけど、ここで思い出すのは、18世紀スコットランド人の哲学者、デイビット・ヒューム。

ヒュームは、「私というのは実在しない。それは、無数の想念の束なのである」と主張した。想念の束というからには、バラバラなのかと思ったら、そういうわけではない。それは、あまりにも早く生起し、無尽の噴水のようにわき出し続けるので、切れ目のない一連のカタマリのように思える。それが、「私の心」だというのだ。

というと、「ヒュームはインドの無我論を説いていたのか」という感じがするけど、そうではない。これは、インドの無我論ではなく、イギリスの経験論。  

これには、理由がある。というのも、かの近代哲学の祖、高名なる17世紀のフランス人・デカルトは、「我思う。ゆえに我あり」という名言を吐いた。

近代に入って、神の存在が疑わしくなってきた。もちろん全員じゃないけど、それまでに比べれば、神の存在を疑う人が増えた。キリスト教の世界で神を疑うのだから、何も信じられるものがない。何もかも疑わしくなってきた。

デカルトは、そこに「我あり」と異を唱えた。「どんなに何もかも疑ったところで、その疑っている自分が存在するのだけは、さすがに疑う余地がないだろう?」というのだ。他人のことはいざ知らず、自分自身をふりかえってみれば、それが存在するのは、どう考えてもまちがいない。「私はある」、どんなに疑り深くても、それだけは信じられる。

さらに、そこから先がある。話せば長いんだけど平たく言えば、その疑う余地なく存在する私には、生まれつき、完全なる神という観念が備わっている。それこそが、神が存在する証拠なのである・・・と、デカルトは考えた。ここでは、「生まれつき備わっている」というのがポイント。こういうのが、フランスの合理論。

それに対する反論がイギリスの経験論で、それを極限まで突き詰めたのがヒューム。なんと、「私があることだけは誰にも否定できないっていうけど、そんなの否定できるでしょうが」と言い出した。いわく、私という意識は、無数の想念の束にすぎない。つまり、それは錯覚であって、実在するものではない。そもそも、人には生まれつき備わっているものなど何もない。白紙の状態で生まれてきて、すべてを経験によって後から刷り込まれる。「私」という意識も、そのひとつ・・・。

てなわけで、意図するところはまるきり異なるにも関わらず、イギリスの経験論と、インドの無我論は、なんだか似た意見になってきてしまった。やはり、かつての大英帝国としての、見えないつながりだったのか。


それはともかく、「これが自分の心だ」と信じているところのものは、本当は実在しない。錯覚である可能性が高い。つまり、それは偽我。

偽我を捨てよ。真我に目覚めよう・・・。

(つづく)

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身体を自分と同一視する

2017年01月22日 | 精神世界を語る

自己を実現するために必要なことのすべては、静かに在ることである。それ以上簡単なことがあるだろうか。アートマ・ヴィディヤ(自己探究)はだから、最も簡単な道である。 ~ラマナ・マハルシ

 

精神世界の探求とは、自分のポケットの中のダイヤモンドを探して、この世界を旅して求め続ける壮大なプロセス。

長くて苦しい、ものすごい旅だけど、実は、探し求めるダイヤモンドは自分のポケットに入っている。というより、はっきり言って、自分自身がそれなのだ。でも、それが簡単に分かるなら苦労はない。なかなか分からないから、人生はおもしろい・・・(?)

それはともかく、マハルシの話の中では、「身体を自分と同一視する」というのが、誤った見方として、たびたび登場する。でも、この「同一視」って、どういうこと?

世間の一般人は、当然に身体が自分だと思っている。ここは普通に生きてる分には、何も疑問を感じないところだ。スピリチュアルに関心がある人なら、身体とは別に「霊魂」があると考える。身体という、この世での乗り舟に、霊魂が転生して人間になっているとする。

ただ、ここが正統派の、というより、上級者向けのインド思想では微妙なところ。「霊魂」を、どのように取り扱うか。仏教でも、アドヴァイタ哲学でも、クリシュナムルティでもそうなんだけど、「人は死ねばどうなるんでしょうか?」という素朴な質問に対して、彼らの回答はいつも明確でない。いや、言葉は明快なんだけど、実際のところ死後は具体的にどうなるのかが、俗人にはイマイチはっきりしないような答え方をするのが共通する特徴だ。

明快な答えを聞きたければ、霊能者とか、新興宗教の教祖のところに行くのが一番てっとりばやい。「人は死ねば、あの世に行くのです」とか、「生まれ変わり、死に変わり、永遠の輪廻転生を続けていくのです」とかなんとか、キッパリと保証してくれることは請け合いだ。もちろん、それが悪いというわけじゃないし、それはそれで良いんだけど。それでも、多少の安心感は得られる。人によっては、絶対的な安心感が得られることもある。だから、いちがいに否定はできない。

でも、このインド思想の伝統の中では、それは好まれない。というのも、「ボクは、なるべく長生きしたいなあ」というのでさえ、自我への執着であり、好ましくないのである。ましてや、「ボクは、死んでからも永遠に生きていたいなあ」というのは、人間の分を超えた自我への執着であり、さらに好ましくない。だから、「人は、死ねば天国で永遠の生命を得るのです」というような話は、まず出てこない。

だからといって、じゃあ、「人は死ねば無になる。だから、生きてる間は精一杯に生きよう」というのがいいかというと、そういうわけでもない。

この身体の死をもってして、自分の終わりと見なす。それこそ、「自分を身体と同一視している」ということになる。この身体が生まれたことを、自分の始まりと思い、この身体が老化したことをもって、自分が衰えたと思う。そして、この身体の死をもって、自分の終わりとする。まあ、人間としては自然ではあるんだけど、これは好まれない。一見、自我への執着を捨ててサッパリと未練がない考え方に見えるけど、やっぱり、これも好まれない。

上記の2つの考え方、つまり、「人は死後も生き続ける」とか、「人は死後は無になる」というのは、両方とも良くない。でも、どちらも同じくらい良くないのかといったら、そういうわけでもない。そこには、おのずから優先順位というものがある。

端的にいって、後者の「人は死後は無になる」という考え方、これのほうが絶対にダメなのだ。「自分を身体と同一視する」ということこそ、修行者がまず最初に捨てるべき誤った考え方だというのに、身体の死をもって自分の終わりと見なすことなど許されるはずもない。これに比べたら、前者の「ボクは死んでも生きていたいなあ」は、未練がましくて見苦しいとはいうものの、まだしも害が少ない。

「人は死後にどうなるのか?」という問いは、単純なようでいて、このような重大な問題を含んでいる。この問いに、俗人が満足するような明快な回答を得られないのも仕方がない。

「じゃあ、どうすりゃいいの?」ということになるのだが、結局のところ、この問題に答えはない。この2つのどちらでもない、一段上のステージに上がる必要がある。高次の自我、すなわち「真我」に目覚めるしかない・・・。

それにしても、話はまたまた脱線するけど、現代の精神医学には、「離人症」というものがある。なんと、「自分が他人のように思える」という、精神障害の一種だというのだ。離人症にかかった人は、強度のストレスにさらされて自我が崩壊する危機に瀕したとき、急にボンヤリしてしまうという。そして、自分が自分じゃないように感じ、その場から心が離れる。これは、「自分を身体と同一視しない」ということへの、強力なステップになるかもしれない。

筆者が「離人症」で検索してヒットした、とある心理学のブログによると、

>さて、前置きが長くなりましたが、今回のテーマである、disidentification (脱同一視化)という概念はここから一段上のものです。

>自分が大切だから、自己愛が強すぎるから、人間は極度に怒ったり悲しくなったり傷ついたり、あらゆる負の感情を経験するわけですが、そういう時、 人は、自分自身の感情や自らの置かれた状況を客観視できなくなっています。心の余裕がなくなってしまっています。

>この生きづらい状況からうまく脱出する方法は、「自分自身をその状況から少し引き剥がしてみる」ことです。これが、「自分との距離」、つまり 「脱同一視」だけれど、言ってみれば、自分と自分の取り巻く人々や状況を、もう一人の自分が上から静かに観察することでもあります(このためのテクニックとして、少し前に紹介した12個の『認知のゆがみ』について自覚することも効果的です)。

>まるであたかも、物語でも見ているかのように、自分自身を「観察」してみます。

>この「脱同一視」とよく似た現象で、精神病理の症状に、「離人症」(Depersonalization)というものがあります。これは、「自分が自分でない様に感じる」 、「自分の経験していることがまるであたかも他人のしていることのように感じる」という自我の脆弱性に起因するもので、「解離性障害」と呼ばれる精神障害のひとつです。ここで、精神病理である 「離人症」と、健全な「脱同一視」の大きな違いは、そこに「Awareness:自覚と気付き」 が存在するかどうかです。

(引用ここまで)

う~ん、なんとも恐るべし、「離人症」。

精神疾患を軽く見るわけにもいかないが、おそらく、本来の「脱同一視」に目覚めつつある人が、周囲の人々に理解されず、このような病名をつけられてしまったケースもあるんじゃなかろうか。いや、そんなことないか・・・。「離人症」をよく知らないのに、勝手な憶測を述べてすいませんでした。

それはともかく、真我を覆い隠して見えなくしている、この世での仮りの人格、すなわち偽我。なんとも、困った存在だ。これを乗り越えるのは、物質世界に生きる人間にとって難しい。

(つづく)

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