宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

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輪廻転生といっても、2種類がある

2015年06月03日 | 精神世界を語る
 
「輪廻転生」と一言で言っても、大きく分けて2種類の考え方がある。この2つは、広い意味ではつながっているので、話の中でこんがらがることも多い。でも、この2つは、明確に区別されるべきだと考える。

ひとつは、「地球生命系の中における輪廻転生」。通常、輪廻転生といえば、こちらを指す。「輪廻転生から卒業しましょう」というのも、普通はここからの離脱を目指すことを意味する。

地球生命系というのは、物質界の地球を中心とする大きなシステムで、その周囲を非物質界が包み込んでいる。地球の物質界に生まれた人は、やがて死んで、非物質界に帰る。ここが「死後の世界」だ。そして、しばらくすると、また物質界に戻る。つまり、またまた、この世に生まれる。そうやって、行ったり来たりを繰り返す。もちろん、地球生命系の中には、人だけでなく、鳥や獣や、そのほかの生き物も含まれている。これらが、壮大な輪廻転生のシステムを作り上げているのだ。
 

もうひとつは、「宇宙全体における輪廻転生」で、これは、生まれ変わりというより、「永遠の生命」と考えるべきだろう。ここでは、地球生命系に転生する前の生命や、そこから卒業した後の生命までが含まれる。これは、地球で生きている人間にとっては、計り知れないナゾの領域だ。そもそも、「過去から未来に向かって生まれ変わる」ということ自体、地球における時間の感覚を前提としているので、そこから根本的に見直す必要がある。地球で生きている者にとって、それは無理なことだ。だから、考えるだけムダというもの。

 
ここで考えるべきなのは、なんといっても前者、つまり、「地球生命系の中における輪廻転生」のほうだろう。地球で、この世とあの世のあいだを行ったり来たり。何度も生まれ変わっては、また死に変わる。放っておけば、いつまでも終わらない無限ループ。なんといっても、ここから離脱することが目標なんで、「宇宙への帰還」は、ひとえにそこにかかっている。図にすると、下記のようになる。

(永遠の過去) ⇒⇒⇒ (宇宙での永遠の生命) ⇒⇒⇒ 地球生命系での転生開始 ⇒⇒⇒ 地球で生まれたり死んだりを繰り返す(←いまココ) ⇒⇒⇒ 地球生命系からの卒業 ⇒⇒⇒ (宇宙での永遠の生命) ⇒⇒⇒ (永遠の未来)

ここで、両サイドにある( )内の部分については、とりあえず考えなくていい。重要なのは、真ん中、つまり、いま現実に地球で生きているというところ。

お釈迦様の教えも、「輪廻転生からの卒業」がメイン。中には、「ボクは、輪廻転生には興味がありません。でも、お釈迦様の教えは大好きです」という人もいる。そういう人は、単なる人生論として仏典を読んでいるのだろう。カンジンの主題である、「輪廻から離脱するメソッド」については、スルーしている。まあ、例えてみれば、「肉は嫌いだけど、ハンバーガーは好き」というようなものだろう。ハンバーガーから中のお肉を抜いて、パンだけを食べても美味しいというのだから、仏典とはなんともすばらしいものだ(笑)。

それはともかく、地球での輪廻転生は、一種の砂時計だ。上には非物質界があって、下には物質界がある。その中を、サラサラと砂が流れ落ちるように、生命が移動している。時間が来たら、ひっくり返る。こういう、行ったり来たりが、いつまでも続く。



5億年くらい前までは、地球には微生物とか、小さな原始的生物しかいなかった。そのときは、おそらく、輪廻転生のシステムといっても原始的なものだっただろう。物質界と非物質界の境界も定かでなく、全体的に「集合生命」みたいな感じだったに違いない。

恐竜の時代くらいからは、個としての生命が確立されていったと思われる。地球に発生した土着の生命には、この頃から輪廻を続けている者たちも多い。ものすごく長い時間をここで過ごし、数え切れない経験をしてきた。それは、意識の深いところに刻みこまれて、残っている。地球で生きていく上で、その経験が有利なのは間違いない。要するに、彼らは、地球生命系で生きていくことに「慣れている」。

中には、他の惑星や生命系から、地球に移ってきた者たちもいる。これには、例によって色んな説があって、「地球人類の大半は、元はといえば宇宙からの転生者なのだ」とか、「全員が地球外に起源を持つ生命なのだ」という人もいる。それはそれで、一理ある。というより、見る角度によっては、その通りだろう。だけど、地球環境における経験値には、明らかに個人差がある。この環境に慣れている人と、そうでない人の差は、大変に大きいと筆者は見ている。

ここで気になるのは、「宇宙からの転生者は、いかにして、地球生命系で輪廻し始めたのか?」ということ。

通常、ニューエイジ系の思想では、「宇宙からの転生者は、ライトワーカーなのである」と考えられている。つまり、意識の大変革期にある地球生命系をサポートするためにやってきた、宇宙からの救世者たちであるというのだ。それも、確かに一理ある。見る角度によっては、その通りだろう。

でも、筆者がそれ以上に共感するのは、ロバート・モンローの著書にあった、「惑星KT95からの転生者」(本ブログの過去記事をご参照)の話だ。率直に言って、「地球はいま、大変な危機にある。ボクは、彼らを助けに行くぞ!」というよりは、こういうノリで地球での輪廻に巻き込まれてしまったケースが多いんじゃないかと考えている。
 
 
(つづく)

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すべてのことを、輪廻転生を前提にして考える その2

2015年06月02日 | 精神世界を語る

 

「輪廻転生」は、地球人類にとって決して耳に新しい話ではない。古代インドでは、とっくに研究されている。現代人には想像を絶する情熱を持って、深く深く研究していた。現代ならノーベル賞級の科学者になるような人だって、この分野の研究に集中していた。


新興宗教の教祖は、よく「古い教えは、もはや死にました。現代において、この私が語る新しい教えこそ、究極の真理なのです」というような言い方をする。確かに、そうでも言わなきゃ教祖になれないだろうから、当たり前といえば当たり前なんだが。

でも、信者が「この教えを誰もが信じるようになれば、世界は変わります。地球人類は、一段階上のステージに上がるのです」とかなんとか言ってるのを聞くと、異和感をおさえきれないものがある。でもって、その「真理」の内容を聞くと、「霊界は実在します。人は生まれ変わっているのです」というのだから、「それのどこが、究極の真理なんだよ?」と思わずにいられない。

もしも本当に、「人は生まれ変わる」という信念が、世間の人々に広まることが人類の意識進化だというのなら、古代インド人は、とっくに集団でアセンションしているはずだ。むしろ、インドでは、それが常識であり、「人は生まれ変わらない」というほうが非常識だったのだ。こういうのを、「ところ変われば、しな変わる」というんだろう。

実際のところ、自分自身を振り返ってみても、幼少の頃から、「人は生まれ変わる」というのを当たり前のように考えていた。あらゆることを、それを前提にして考えていた。「一度きりの人生を、悔いのないように生きよう」と言ってる人を見ると、「この人にとって、人生とは『一度きり』なのか?」とカルチャーショックを受けたものだ。「それは自分自身の考えではなく、どこかの本にそう書いてあるのを読んで、信じ込んじゃったんだろうな」という感じ。このように、世の中にはいろんな人がいて、見る角度がまるきり逆だったりすることも多い。

それはともかく、「死後世界や輪廻転生に関心を持つ」というのは、精神世界をやる上で、スタートラインとなるところ。それをキッカケに関心を持ち、そこから意識探求が始まる。とても、「地球人類に開示された究極の真理」なんていうようなものではない。それは、あくまでもスタートにすぎず、ゴールにはなり得ないのである。テニスでいえば、「まず、ボールとラケットを手に持ってみた」といったところ。ラケットを振ってボールを打つのは、それからということになる。

あらゆることを輪廻転生を前提にして考えるようになると、この世界が、まるで違ったものに見えてくる。「ボクは、こういう人間なのだ」と考えることから、「ボクは、ここではたまたま、こういう人間をやってるのだ」と考えることへのシフト。この違いは、かなり大きい。

古代インド人のように、輪廻転生を当たり前だと思っている人々にとって、「それじゃあ、輪廻転生のメカニズムを徹底的に解き明かそうじゃないか」ということになるのは、必然の流れ。

現代なら、「人は生まれ変わるのか、それとも死ねばオシマイなのか、議論しようじゃないか」ということになり、そこで議論が大荒れに荒れることだろう。でも、古代インドでは、そこのところを省略していい。というより、それについては、とっくに結論が出ていた。「人は生まれ変わっている」に決まってるんで、最初から、それを前提にして話をスタートさせてよいのである。地球人類の中でも最優秀な人々が、「輪廻転生」にものすごい情熱を傾けて、壮大な研究を繰り広げた。当然のことながら、現代の新興宗教を遥かに超えるような、深遠な研究成果が続々と出ることになったのだ。

そういうと、「地球人類は、古代から進歩するどころか、むしろ後退したんじゃないか?」ということになるかもしれない。確かに、輪廻転生の研究に関しては、現代人は古代インドのレベルから後退している。神の研究に関しては、中世のアラビアよりも後退している。でも、その代わり、それ以外のあらゆる局面において圧倒的に進歩しているから、総合力では現代人のほうが遥かに上を行っているのは間違いない。ただし、部分的には後退したというのも事実。精神世界の探求者たちは、そこをなんとかしようとしている。

話を戻すと、あらゆることを輪廻転生を前提にして考えるようになると、この人生の位置づけが、まるっきり変わってくる。「悔いのないように完全燃焼すべき、かけがえのないもの」から、「ハテしなく続く、長い道のりの途中」へと劇的に変化する。そうすると、今までは自分の全存在を揺るがすほどの深刻な悩みだったことが、「たまたま、この人生において抱えている問題」にすぎなくなる。「この人生では、問題点はココなんだな。生きてる間に解決できるかな?」という風に、すべてが途中経過になってしまう。

そうやって、「この人生」から、「輪廻転生」へと、関心の軸足がだんだん移っていく。

現代人が「この人生を、より良い人生にするには、いかにすべきか」と頭を悩ませるのと同じように、「この輪廻転生を、より良い輪廻転生にするには、いかにすべきか」と、頭を悩ませるようになる。

さらに進むと、「こんな人生は、もう嫌だなあ。ボクは、もう死んでしまいたいよ」という考えから、「こんな輪廻転生は、もう嫌だなあ。ボクは、もう生まれ変わりたくないよ」という考えへとシフトすることになる。前者は、ウツ病になって自殺につながりかねない、危険な考えだ。それに比べて後者は、別に危険ではない。このように考えている人は、ウツ病になどならない。せいぜい、奇人変人になるくらいですむ(笑)。

現代では、輪廻転生について語ると、「夢のあるロマンティックな話」と受け取られることが多い。それは、現代人が本気で考えていないからだ。古代インド人のように、本当に真剣に「輪廻転生」を考えている人々にとって、これほど恐ろしいものは他にない。次はどこに生まれて、どんな目に合わされるか。予想もつかないだけに、これは怖い。

そもそも、人にもよるけど、まず、たいていの場合、地球での人生は苦しい。だいたい、苦しいものと相場が決まっている。たとえ今は楽しく暮らしていても、最終的には、人は老いて死ぬ。でもって、たいていの場合、死ぬのは苦しいことや痛いことが多い。それが果てしなく、無数に繰り返されるのだから、ゾッとするほどの恐ろしさだ。

とても、「夢があっていいね」などというような、生易しい話ではない。 本気なら、頭を抱えてしまう問題だ。ここから、「輪廻転生のメカニズム」の研究が始まる。

「より良い輪廻転生にするには、どうすべきなのか」ということや、「輪廻転生は、どうすれば終わらせられるのか」ということ。人類の英知を集めて、それを研究する。

自動車が走るのは、ガソリンのおかげ。電車が走るのは、電気のおかげだ。それと同じように、人が輪廻転生を走り続けるのも、何かが動力源になっているはず。それが何なのかを、古代インド人は研究した。


(つづく)

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すべてのことを、輪廻転生を前提として考える  その1

2015年05月28日 | 精神世界を語る
秋月龍泯師がかつて、このようなことを書いていた。

>もうだいぶ昔のこと、山田無文老師が朝日講堂で講演されたある夕ベの話である。法話の後で舞台裏の控え室に老師を訪ねた。かねて老師の熱心な信者だった老婆が先に来ていて、ふと老師に問いかけた。

「老師さん、私ら死んだらどうなりますのじゃ。」

老師は無造作に答えられた。「死んだらおしまいじゃ。身も心も何にも亡くなる。」

一瞬、老婆は淋しそうな顔をした。「何にもないんですか。魂もないのですか。」

老婆の様子を見て老師は言われた。

「そうじゃな。自分のためなら、霊魂も何もないがな。菩薩はなあ、後に残って苦しんでいる愛する者の所にもどってきて、何かをしてやらんとな。」

老婆は心からほっとした顔で、師匠の言葉に安心しきったふうだった。


・・・これは、筆者の好きなストーリーだ。いろんな面で、考えさせられるものがある。
 

「生まれ変わり」とか「死後の世界」とかをバッサリと否定する老師だけど、仏教というのは本来、こういうものだった。

というのも、修行者は、自我に執着しない。自我に執着しないから、死後の存続にも関心を持たない。

「ボクは、長生きして幸せな老後を迎えたいな」というくらいなら、まだしも人間的な願望と言える。しかし、「ボクは、死んでも永遠に生き続けたいな」というのは、もはや人間として許される域を超えた、言語道断な自我執着になってしまっている。だから、老師がそんな考えをバッサリと否定するのは当然ともいえるだろう。

しかし、だからといって、「仏教というのは、人間は死んだらオシマイだ。だから、生きてる間は精一杯に生きよう・・・というような思想なんだな」と思ったら、それは大きな誤解になってしまう。それは、20世紀の実存主義哲学の考え方。昭和の時代に、左翼の学生運動をやってたような人たちにアリガチな考え方だ。

仏教は、それとはまったく異なる。そもそも、現代の西欧人と、古代のインド人の住む世界が違いすぎた。

というのも、インドでは、「輪廻転生」は当たり前の常識。誰もが、それを当然の前提として話をしていた。古代のインド人が「ここで」と言えば、それは「この世で」を意味した・・・とさえ言われている。たとえば、「ボクは、ここで商店をやってます」といえば、それは、「この人生では、商人になりました。次の人生で何をやるかは、まだ決めていません」・・・というような意味。

今の日本や欧米で「輪廻転生」の話をしたら、「ちょっと変わったスピ系の人」って感じだけど、常識というのは、時代や地域によって変わるもの。

「輪廻転生」が当たり前の常識になっているところでは、わざわざ、「人は、死んだらオシマイだなどと思っちゃあいけません。実は、生まれ変わってるんですぜ!」などと主張するまでもない。「そんなの知ってるよ。だから何なのさ?」と言われて終了だからだ。「仏教は輪廻転生を否定している」と主張する人たちは、そこのところを根本的に見落としている。そうではなくて、仏教は、もともと輪廻転生を当たり前の前提として、すべての話をしているのである。

それはともかく、「人は、死ねば無になる」という上級者向けの深遠な哲理を説いたところ、老婆がさびしそうな表情になった。それを見た山田無文老師の、変わり身の早さが見どころだ。

なんと、「菩薩は、悩める衆生を救うため、また生まれ変わってくる」というのだ。

それを聞いた老婆は、ほっとした表情になった。こういうのが、優しさというものだろう。
  
古代インドのお釈迦様も、そうだった。在家のお爺さん・お婆さんに対しては、「善いことをすれば、善いところに生まれ変わります。悪いことをすれば、悪いところに生まれ変わります」と説く。その一方で、出家したプロの修行者に対しては、「人は、死ねば無になる」と説く。この、見事なまでの使い分け。こういうのを、「対機説法」という。

しかし、上には上がある。プロの修行者よりも、さらに上をゆく「菩薩」ともなれば、なんと、また生まれ変わってくることになるというのだ。

菩薩は、本当はもう、とっくに地球生命系での輪廻から解放されている。それなのに、悩める衆生を救うため、こんな地球に仕方なく舞い戻ってくるのである。なんとも、ご苦労なことだ。まったく、「菩薩にだけは、なりたくない」と思わせるものがある・・・。
 

(つづく)
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「哲学的な疑問」について

2015年05月20日 | 精神世界を語る

  

世の中には、「哲学的な人と、そうでない人がいる」と、哲学の専門家たちはよく言う。しかも、世の中の大部分の人は後者であり、「哲学的な人」など、滅多にいないらしい。確かに、その通りなのだろう。

有名な哲学者の中島義道氏によると、

>読者諸賢のなかで、「未来が『ある』とはどういうことだろうか?」とか「私が『いる』という意味がどうしてもわからない」とか「今日の私は昨日の私と『同一』だろうか?」とか「なぜ『ない』という言葉は『ある』のだろうか?」というような疑問が湧き、いや湧くだけではなく、どうしてもこうした問いが気になって仕方ない人は、哲学をするしかありません。

>会社に入ってみると、同僚が皆これらの問いに関して何の疑いも抱いていないことに愕然とする。としても、哲学でメシを食うつもりはない。こんな人が哲学塾に向いていますし、事実、哲学塾でカントだ、ヘーゲルだ、ニーチェだ、サルトルだ、と必死になって難解な原典に取り組んでいますが、じつはこうした単純な問いに挑んでいるだけです。

ということなのだが、まさしく、こういうのが本当の「哲学的な疑問」。ホンモノの哲学者は、一生をかけて、こういう疑問と真正面から格闘する。そして、答が出ないままに死んでいく。だが、それでいい。「やがて自分は、これらの疑問に答が出ないまま、むなしく死んでいくであろう」ということなど、彼らには、もともと十分すぎるほど分かっている。むしろ、そのむなしさこそが、哲学的な思考への原動力になっているのだ。

「過去は、実在するのだろうか。たとえば、自分も、かつては十代だった。でも、十代の頃の自分は、どこに行ったのか。昔は確かにいたような覚えがあるんだが、今はどこにもいない。今でも、どこか別の世界にいるのか、それとも消えちゃったのか。一事が万事で、『過去』がどこにあるかと探してみても、どこにも見つからない。・・・ということは、要するに、『過去はない』ってことなんじゃないか? もしも、『過去はある』のだとすれば、それはどこへ行ったのか?」・・・というような「疑問」に取りつかれ、ああでもない、こうでもない・・・と考え始めて、泥沼にハマる。

でも、こういうことを考えるのは、自分だけではない。それこそ、カントだ、ヘーゲルだ、ニーチェだ、サルトルだ・・・と、偉大な先輩たちがもっと深く考えてきた。まずは、そういうものを学ぶべし。

カントやヘーゲルを深く読み、しかも自己流でなく、正統派の読み方を謙虚に学んだならば、自分ひとりで考えているよりは、ずっと高度な思考に到達することができる。もちろん、疑問の性質からいって、どちらにしても最終的な解答が得られるようなものじゃないんだが、それにしたって、それなりに高度な思考に到達する。

でも、それだって、決定的な結論が出るわけではない。かつて筆者が愛読していたハイデッガーの「哲学入門講義」でも、「なぜ、存在者はあるのか。そして、むしろ、無があるのではないのか?」という、古代ギリシャの大哲学者たちに由来する「根本的な大疑問」を繰り返すばかりで、どんなに読んでも答は無い。

それはつまり、この世界には、地球がある。そこには、人間とか、鳥とか獣たちが住んでいる。どうせ死ぬのに、なぜか精一杯に生きている。これを見て、「なぜ、こんな世界が存在するんだろう?」という疑問が起きてくる。地球のような惑星がなくたって、別に不思議はない。ていうか、地球が存在することのほうが、ずっと不思議だ。地球が存在する代わりに、「何も無い」というほうが、自然なことなんじゃなかろうか。

それ以上にナゾの存在なのは、「自分」だ。なぜか、この世界には、「自分」がいる。意識があって、思考や感情があって、どうせ死ぬのに、なぜか生きている。もしも「自分」がいなかったならば、こんな世界があることなど、分からなかったに違いない。せっかく、宇宙とか地球とかがあるのに、誰も知らないんだったら、ないのと変わらない。そうなると、この世界は存在しないも同然。つまり、「存在するのではなく、その代わりに、無がある」ということになる。

そんな「自分」が存在するのは、なんとも不思議だ。いないほうが、自然なんじゃないか。・・・どうして、私はあるのでしょうか?

それに対して、答はない。疑問を提起するだけしておいて、答は出さないのが、ハイデッガーの特徴。といっても、もちろん、それはハイデッガーが悪いんじゃなくて、もともと答が出るはずのない疑問なのが悪いんだが。

優秀な哲学者諸氏に言わせれば、本ブログのような「精神世界の探求」は、こういう哲学的な疑問との真の格闘を避けて、脇道にそれたように見えることだろう。でも、こちらの立場から見れば、そういう人たちの方こそ、哲学よりもさらに深遠な思想 (釈迦とか、クリシュナムルティとか・・・) にたどりつく一歩手前のところを深く掘っている、残念な人たちに見える。

もちろん、全員がそうなのではない。19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーだって、インド思想に傾倒して、まるで釈迦の弟子みたいな思想内容になってた。でも、それは、哲学者として正統派の生き方とは言えない。あくまでも、西洋的な論理によるアプローチに徹する。「時間とは何なのか、人間は、それをどこまで認識できるのか」とかなんとか、そういうのをジックリと吟味する。それでこそ哲学者だ。

もちろん、哲学者を批判しているわけではなく、本当は、その知的な格闘の生き方をすばらしいと思っているのである。ただし、短い人生でどうせ学ぶなら、やっぱり、釈迦とかクリシュナムルティとかのほうが、より根源的な思想のように思えるんだが・・・。

もちろん、筆者には、東大文学部の哲学科を出た学者と議論できるような、西洋哲学の専門知識があるわけではない。でも、総合力では負けていない。ヒマな時期が多かった人生のおかげで、西洋哲学に限らず、いろんなものを幅広く大量に読み込んでいるのが当方の強み。それ以前に、少なくとも高校生の頃の英語や国語の学力は、彼らの大半よりも筆者のほうが確実に上だった。つまり、素の読解力では、もともと上回っていたのだ。こういうのが、いくつになっても、いつまでも自信の根拠になっているというのも、アリガチなパターンであるとはいうものの・・・(笑)。

それはともかく、上の引用文にもあるように、職場で出会うような人たちは、まず、こういった疑問について何も考えていないのが普通だ。かつて、筆者も試しに、職場仲間に上のような話をしてみたところ、失笑されただけに終った。

しかし、こういった疑問にはハテがない。

古来から最大の疑問のひとつである、「人は、死んだらどうなるの?」が、その最たる例のひとつだろう。

上に挙げた中島義道氏も、幼少の頃からその疑問に取りつかれて、哲学を志したという。もっとも、中島義道氏の場合は、「死んだらどうなるの?」というより、「人は、どうせ死ぬのに、なぜ生きているの?」といったところか。そういう疑問に取りつかれ、ムダだと分かっていても考えずにいられない人から見れば、世間の一般人は、なんで、この疑問を気にせずに平然と生きていられるのか、そこが不思議なのだ。

それに対しては、「20世紀最大の哲学者」ことハイデッガーの有名な言葉がある。いわく、「人は、いつか死ぬ。だが、当分の間、自分の番ではない」というのが、世間の一般人の信念。これがあるから、人は平然として生きていられる・・・。

哲学では答が出ない疑問にも、スピリチュアルなら、実にあっさりと答が出る(笑)。いわく、「生きてるうちは分からないかもしれませんが、死ねば分かりますよ。死後世界が、アナタを待っています」ということになる。

だが、死んだからって、最終解答が出るってものでもない。

死後世界にたどりついた人は、空も飛べるし、心の中で想起したものが目前に現れる世界に直面して、「これが死後世界だったのか」と思う。「人は、死んだらどうなるの?」という、とても答が出そうになかった疑問は、これで解決した。しかし、上記のような「哲学的な人」なら、ただちに、次の疑問が起きることだろう。

「なぜ、死後世界があるのか。そして、むしろ、無があるのではないのか?」・・・。

そして、考えに考え抜いた結果、「死後世界もまた、真の実在ではない」という結論に到達する。では、真の実在とは何なのか。こればっかりは、死んでも結論が出そうに無い。

・・・とまあ、そういうわけで、早い話が、これらの疑問には答がない。 どこかで、折り合いをつける、つまり、妥協して生きるしかない。

哲学的な人がどれほど選民意識(?)を持ったところで、世間の一般人と、結果は同じなのである。違うのは、途中のプロセスだけ。結果は、変わらない。そもそも、どうせ死ぬんだから、考えたところでムダというもの。

結局のところ、考えること自体をやめるのが、唯一の解答だ。「汝の思考を停止せよ」。それが、ファイナルアンサーになる。

精神世界ブログにしては多少ややこしい話になっちゃったけど、ときどき、こういう話になるのが筆者の特徴。それでいて、「見るからに、何も考えてなさそうな人」ともよく言われる。それはあくまでも、思考を停止した結果なのだ。本当に何も考えていないわけではない・・・(笑)。 

(つづく)

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次は2020年あたりか?

2015年03月26日 | 精神世界を語る

「地球人類がアセンションする」と言われていた、2012年の冬至を過ぎてからというもの、かなりの月日がすぎた。結果的に、2012年12月という期日には、とくに意味がなかった。2015年の今も、時は過ぎている。

「じゃあ、あれは何だったの?」ということになるかもしれないが、過ぎたことを気にしても仕方がない。渡邉美樹氏の「夢に日付を!」じゃないが、人間、目標には期日ってものがほしいのである。地球で生きる者の寿命は短い。「今から1万年と2千年の後に、アセンションが起きるであろう」とか、「8千年すぎた頃から、もっと意識が上がります」などと言われたところで、とうてい実感がわくものではない。もっと現実感のある期日を設定しないと、やってられないのが本音だ。

とはいうものの、本当は、いま、この瞬間にアセンションするしかない。

というのも、「では、これから何年かの後にアセンションいたしましょう」と言ってる時点で、まだまだ「時間」という幻想にとらわれたままなのは明らかだからだ。幻想にとらわれているうちは、アセンションできない。つまり、「では、何年かの後に」と言ってるような人は、アセンションできない。地球で生きている人間には、こういう矛盾がつきものだろう。

それは分かっているのだが、まあ、とりあえず筆者は、次は「2020年」あたりをメドにして飛躍的な意識進化に努めることとする(笑)。

2015年の今、ますます時間は加速し、世界の変化は顕著になっている。地球の進化が加速しているのは明らかだ。地球環境にも、人間の文明にも、次々に変化が起きている。新たな科学技術が、次々に生み出されている。

例の「シェールガス革命」だって、今までは掘削できなかったシェールガスを、科学技術の進歩により、取り出せるようになった。それによって、地球人類を苦しめてきたエネルギー不足が、根本的に変わりつつある。こういう変化を軽視すべきではない。

そうなると、中東の石油がだんだん要らなくなってくる。だから、「中東の皆さん、そんなに戦争がやりたいのなら、仕方ないから続けてください」と、世界中から言われるハメになる。そうなると、戦争しても仕方がないということになるだろう。戦争に勝って、石油の利権を勝ち取ったとしても、カンジンの石油の価値が暴落しては元も子もない。

何百年も、何千年も前から、地球人類の困難の原因だった課題が、こうして次々に解消されていく。それはそれは、ものすごい速さだ。どんどん加速しているから、予想外の早さで変化が近づいてくる。

しかし、精神世界の探求者たるもの、そういう外部の変化にばかり、目を奪われているわけにもいかないだろう。重要なのは、意識の進化だ。それも、自分自身の意識の進化が特に重要だ。

では、意識が進化すると、どうなるのか。

愛と知が、意識の奥底から、無限にわき上がってくる。それはつまり、愛の心でいっぱいになるということ。

もちろん、中には、「愛の心でいっぱいになる? それじゃ、ボクとは違うな。ボクは、ストレスと花粉症でとても苦しんでいる。アセンションどころか、ウツ病になる一歩手前なのだ」という人もいるだろう。

まあ、ウツになるのなら、とことん落ち込んでみるのもいい。世の中、「上がったものは下がるし、下がったものは上がる」と相場が決まっている。つまり、いままでの反動で、ソウになればいいのだ。「お前はストレスのたまりすぎのせいか、妙にハイテンションになってるな? だいじょうぶか」と言われるくらいでちょうどいい。

五井昌久みたいな言い方をすれば、「高級霊は上機嫌」。

まずは上機嫌になることが、高級霊への道だ。

やっぱり、アセンションは近い。われわれの前には、アセンションへの道が開かれている・・・。

(つづく)

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