宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

あるがままに ~ ラマナ・マハルシ

2017年01月09日 | 精神世界を語る

 

2017年になりました。早いもので、「2012年のアセンション」ブームから、4~5年がすぎさろうとしている。見たところ、まだ地球人類はアセンションしていないようだ(笑)。

ずっとブログを更新してはいないものの、精神世界や哲学に関連する本は、それなりに読んでいる。つまり今までは、放電せずに、ひたすら充電してきたという状態。年末年始に読んだ本の中には、精神世界の基本書ともいえる、「ラマナ・マハルシ ~ あるがままに」なんかもあった。

ラマナ・マハルシは、某有名ブログによれば「千年に1人の人物。この方をこえる人はいません」というくらい、すごい覚醒者。たいていの精神世界の大物には、熱烈なシンパとアンチがいるものだけど、この人に関しては、アンチがまず見当たらない。精神世界関係者のほぼ全員から尊敬されているという、まことに稀有な人物だ。

「あるがままに」は、マハルシとのお付き合いが長かった人が書いたもので、「著者による編集が入っており、マハルシそのものではない」という批判もあるものの、やはり基本書といえる一冊だろう。

少年時代からずっと山中にこもってきた人だけに、話の内容は純粋で、理論的な印象を受ける。ここは、ずっと俗世間にいて、オジサンになってから精神世界にデビューしたニサルガダッタ・マハラジたちとは異なるところ。

「真我」というのが、この本のメインテーマ。

真我とは何かというと、そのまんまだけど、本当の自己を意味する。日ごろ、「ボクはこういう人間だ」と思っているのは、自分に関する物語にすぎず、本当の真実ではない。つまり、「偽我」だということになるだろう。

その「偽我」を乗り越えるのは難しい。そのためにはどうすればいいかというと、マハルシによれば、「真我探究」をするしかない。瞑想をしていても、いつかはこの道にたどりつける。でも、「真我探究」のほうが、ずっと早い道を行ける。これに勝る方法論はないらしい。

では、「真我探究」とはどういうものかというと、これが実にシンプルで、「私は誰?」と自分自身に問いかける・・・というもの。これを1回や2回ではなく、ひたすら問い続ける。それがメイン。

われわれ人間は、通常、自分の身体を「これが自分だ」と思っている。精神世界ファンなら、「自分に関しては、そんなことない。私は、身体が自分ではないと知っている」と思うところだろう。確かに、そのとおり。身体は、この世における仮の宿り、一時の乗り舟にすぎない。おそらく、大半の精神世界ファンがそう考えていると思われる。ラマナ・マハルシも、「身体は自分ではない」と、いつも強調していた。

でも、「身体が自分ではない」ということを実感するのは、実際には非常に難しい。なんといっても、誰もが、何十年もこの身体で生きてきているのである。「ほかの身体に乗り移ったことがある」という経験者は、ごく少数。ほとんどの人には、そんな経験がない(笑)。まず普通は、ずっと一つの身体を使い続けてきた人ばかり。あれこれ故障してきても、ガマンして使い続けるしかない。

そんな、何十年もかけて刷り込まれてきた身体感覚から、離れるのが容易でないのは当たり前。

その先には、「心が自分ではない」という、さらに難関のハードルが待ち受けている。

身体が自分ではないのは分かったけど、では、心はどうなのか。怒ったり、喜んだり、悲しんだりしている、この心が、本当の自分ではないと、どうして分かるだろうか。ラマナ・マハルシは、「心を破壊せよ」と繰り返し説いていた。そのためには、「真我探究」。つまり、「私は誰?」と問い続ける・・・ということ。それしかないみたい。

いや、それしかないというわけではなく、普通の瞑想でもそれは可能なんだけど、「真我探究」のやり方に比べて、ずっと時間がかかります・・・ということなんだそうな。

筆者もさっそく、「私は誰、私は誰、私は誰・・・?」と、念仏や題目のように唱えることにした。

私は誰なのかっていったら、まあ、とりあえず、「こっくり」だろう。かつては、「コンサル星人」という名前も使ってた。これもまた、偽我なのか。いや、単なる筆名。

それはともかく、2017年こそは、真我に目覚める年にしたいものだ。

ほとんどブログを更新してないけど、今年もよろしくお願いします。

 

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「八ヶ岳の聖人」が急逝

2016年10月13日 | こっくり亭日記

やはり、「虫の知らせ」ってものは、あるみたいだ。

先日、収蔵してた本の山を整理したところ、蘆原瑞穂氏の「黎明」が出てきたので、急に読みたくなり、久しぶりに読み返し始めたら、ハマった。数年前に読んだときよりも、「黎明」が気になりだした。

そこで、「蘆原瑞穂講演会にでも行ってみるかな?」と思ってサイトを見たところ、なんと、「蘆原瑞穂氏はつい最近、交通事故で急逝されました。追悼集会を開催します」とあるではないか。

亡くなったのは10月2日だというから、急に「黎明」が気になり始めたのは、その数日後。かつての愛読者ならではの、虫の知らせだったか・・・。

それにしても「黎明」は本当に、精神世界で知るべきことを全て網羅した、空前絶後の体系書。これだけの著書を残せば、人生に悔いはあるまい。地球での役目を終えて、一足お先に宇宙のどこかに還ってしまったんでしょうな。残念だけど仕方ない。

特に、序章から第一章・第二章あたりがいい。「科学的な物の見方にあまり関心のない方は、ここを適当に読み飛ばしていただいて構わない」と、本人が書いてるだけあって、物理の話をとても詳しく書いている。久々に読んでみると、「物質界は実在しない」ということが、ほぼ完全に証明されている。

物理学もさることながら、哲学の考え方に慣れてない人にとっては、かなり面食らう内容だろう。「いきなり、こんな難しい話から始めて大丈夫かいな?」と、他人事ながら心配になってしまう箇所。もうちょっと序盤から入りやすい本になっていたら、普及度も違っただろうに。それでも、愛読者が少なからずいるんだから、結果的にはOKなんだけど。

いずれにしても、また「黎明」を読み返す。読み返して、ブログにも書きます。

それにしても、惜しい人物を失ったものだ。交通事故で急逝?・・・事情はよく分からないけど、こればっかりは仕方ないねえ。

講演会に行きたかった。この世での縁がなかったようだ。残念。

謹んでご冥福をお祈りします。

 

  久遠の昔   そこから私はやって来て

  永遠の時を掛けて  私はそこへ還って往く

   それが  私の求めているものです

   (黎明 序文より)

 

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意識は今ここにある ガンガジ

2016年09月19日 | 精神世界を語る

 

「意識を進化させる」というのが、本ブログのスタンスだ。根がマジメな努力家のせいか、一所懸命に精神修養して、意識レベルの向上に取り組む。そういうのがポリシー。

 

でも、皆がみんな、そう考えているわけではない。これとは違う考え方もある(まあ、当たり前っちゃあ、当たり前か)。これはやっぱり、世界に冠たるマジメな民族、日本人の発想なのかもしれない。それとも、精神修養のプロセスを重視するのは、中国の儒教の影響か。


クリシュナムルテイにしても、ラマナ・マハルシにしても、ディーパック・チョプラにしても、インド人の思想には、こういう発想があんまりない。


ガンガジによれば、「意識とは、今ここなのです」ということになる。


この記事のタイトルは、「意識は、今ここにある」となってるけど、それは正確ではない。本当は、「意識とは、今ここなのである」と言うべきなのだろう。


「いまここ」そのものというくらいなんだから、当然、過去も未来もない。だから、過去から未来に向かって進化することもないのである。

 

 (この記事は書きかけです・・・つづく)


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持って生まれた使命

2016年09月19日 | 精神世界を語る

 

またしても、何ヶ月も更新せずに過ぎてしまった。「またしても」っていうか、これほど長く更新しなかったのは初めてかもしれない。といっても、ブログを始めて10年以上にもなるだけに、まだ続いてるだけ上出来か。

実際のところ、このブログは必ずしも、人に何かを訴えようとしているものではない。半分は、自分自身があとで読み返すために書いている。たとえば、しばらく更新しなかった後に本ブログを読み返す。すると、忘れていたことも思い出し、たちまち精神世界ジャンル全般がすっきりと頭に入る。とくに、失業してヒマだった頃に書いた記事は、今じゃ書くのに手間ヒマかかりすぎて再生不能。じつに重宝する。

いままでに何度も自慢してることだけど、筆者はもともと「文系秀才」という一面を持っている。どこの中学にも高校にも、数学とかスポーツとかはあんまりできないけど、英語や国語などの文系科目に関してはトップクラスというような人がいるものだ。でも、そんな人たちを日本全国から集めても、筆者の国語や世界史の論述答案を見れば、「なんで、こんなにスラスラ書けるのか。やはり世の中、上には上がいるもんだな」と、たいてい脱帽されるレベル。これで、高級官僚とか大学教授とかにでもなったのなら嫌味なのかもしれないが、実生活でこれといって才能を活かしてもいないから、平気で自画自賛できるのである(笑)。要するに、難解な文章を読んだり書いたりする能力には、相当なレベルで定評がある。

一見、イイカゲンに見えるかもしれないけど、実はそれだけの特技をもった人が、ややこしい精神世界本や哲学書や歴史書その他・・・をせっせと読み込みつつ、かなりマジメに書いてきたブログなのだ。われながら、「読み返して勉強するのに便利」と思えるのも当然かもしれない。

ていうか、今ふと思ったことだけど、本当は自分には、もっと書くべき使命があったのかもしれない。もともと、そういう使命を帯びて、この地球そして日本に生まれたのかもしれない。ということは、もっと宗教その他をメチャクチャ勉強して、もっともっと熱く語るべきであったのか。いや、それはそれで、さらに人生をまちがえるのがオチなのだろうか・・・?(笑)

まあ、何もしないのに比べたら一応、精神世界ブログを書いただけマシか。

というより、自分の考えとしては、「高次の意識の覚醒者は、たとえ洞窟にこもって何もしていないように見えても、実際には、その愛と智の波動で地球を変革しているのである」というのが根底にある。つまり、意識の覚醒者というのは、世間の一般人にとって、何もしていない人でも別にかまわない。結論としては、何もしなくていいし、ましてや、精神世界ブログを書かなくてもいいのである。

早い話が、久しぶりに自分が過去に書いたブログを読み返してみて、「よく、こんだけ書けるなあ」と他人事のように感心してしまった。とても、自分が書いたとは思えないような記事も少なくない。まあ、それだけの話なんだけど。

なんで、いまさら、「持って生まれた使命」がどうのと考え始めたのかというと、これまた精神的な背景がある。というのも、筆者には、「新興宗教が嫌い」という一面がある。10年前にブログを始めた頃は、もっと熱いキャラだった。ネット上で某新興宗教の教義批判を展開し、そこの信者諸氏といつも荒っぽい論争を繰り広げていた。それだけ、新興宗教をモーレツに毛嫌いしていたのだ。

マジメな話、「自分はなんらかの使命を持って生まれてきたのに、それを果たさず、まちがった人生を送っているのではないか?」という疑念にとらわれている人は、決して少なくないと思われる。というのも、何かの縁でたまたま最初に知り合った新興宗教を見て、「私は、この教えと出会うために生まれてきたのだ」とか、「この教えを広めることが、私が持って生まれた使命なのだ」とか、すぐに感激してしまう人があまりにも多かったからだ 。宗教界をよく知ってる人から見れば、「おいおい、それはまだ早すぎるよ。もうちょっと、いろいろ見てから結論を出してみても遅くないんじゃないの?」という感じ。まるで、タマゴからかえったばかりのヒヨコが、最初に見たものを親鳥だと思い込み、どこまでも後ろをついていくみたい。

そんな信者諸氏を批判する人が、「ボクには持って生まれた使命があるのです」などと言ってるようでは、「お前のほうこそ、なんだか信者っぽいな?」と言われかねない。だから、そんなことを考えるはずもない。でも、一筋縄ではいかないのが世の中の常。いまにして思えば、本当は自分のほうこそ、なんらかの使命を帯びていたのかもしれないではないか(笑)。

なんとなく、そういうのも一概には否定できないんじゃないかという気がしてきている。実際のところ、「持って生まれた使命」ってのは、あっても別におかしくない。というより、実際にあるんじゃないか。

いま、地球の変化はものすごく加速している。こればっかりは、精神世界を抜きにしても、そう考えている人が世界的に多い。たとえば、中国の経済規模は15年前には日本の3分の1もなかったが、今じゃ日本の2倍以上もある。まあ、「統計がデタラメだ」とか、「急激に伸びたものは潰れるのも早い」とか、そういう外野の声はさておいて(笑)。それにしたって、北京や上海の風景が、以前とは同じ惑星と思えないほど発展してガラリと変わったのは確かだ。アメリカだって、メキシコからの移民の流入で人口が3億人を超え、そこらじゅうでスペイン語を話している国になった。こんな調子で、驚くべき速さで世界中が激変している。

もっと変化が加速するのは、いよいよ、これからだ。21世紀の初めにIT革命が起きて、人工知能が大幅な進歩を遂げた。100年前に登場した建設機械のおかげで超高層ビルや高速道路が広がり、それまでの地球とはまるきり風景が変わったように、これからは人工知能が世界の変化を一気に促進する。変化のスピードが、今までよりも格段に速くなる。そのおかげで医学もバイオテクノロジーも急速に進歩するから、人間の寿命は一気に伸びて、若返りが始まる。こんな時代に過去の古い常識にとらわれて、「どうせ、俺の人生なんか・・・」とかなんとか、ウジウジ悩むのはバカげている。世界が大きく変わり、それに合わせて、軽佻浮薄な世間の一般人の価値観もコロッと変わるから心配いらない。

こんなにすごい変化が起きている時代だけに、ついでに意識を改革する絶好のチャンスでもある。その意識変化を促進するのは、われわれ精神世界系の人しかいない。これこそ、持って生まれた使命と呼ぶに値する。

その使命を果たすために何が必要かといえば、なんといっても、自分自身の意識を改革することだろう。おのれの意識の波動を高めることにより、長年にわたる生存競争で荒れはて、殺伐としてしまった地球の意識空間を波動調整する。重要なのは、意識波動を高めること。そうすれば、たとえ洞窟の中にいて何もしなくても、持って生まれた使命を果たすことができる。

「なんだ、結局、何もしないんじゃないか」と言われるかもしれないが、実際その通りなのだから仕方がない・・・。

(つづく)

 

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私は誰?

2016年05月15日 | 精神世界を語る

 

ラマナ・マハルシの教えの中で有名なのは、「私は誰?」だろう。孫弟子のガンガジの本にも、当然ながら登場する。

これを見て思い出すのは、ウスペンスキーの本に出ていた、あやしい瞑想セミナーに参加した人のエピソード。そこではなんと、「私は誰?」という自問を、何日も延々と繰り返させられたという。朝から晩まで、「私は誰、私は誰、私は誰・・・?」と、ひたすら心の中で唱え続ける修行。やってる間は「なんじゃこりゃ?」と思ったが、セミナーを出て日常生活の中に戻ったとき、すべてがまったく違って見えたという。すれ違う人々は皆、日常生活の中に埋没していた。自分だけは、いつのまにか、そこから意識が抜け出していた・・・。

「アナタが自分だと思っているものは、じつは自分ではない」というのが、インド伝統の教え。「○○は、自分ではない。××も、自分ではない。△△も、自分ではない・・・」がひたすら続くのは、仏典でもオナジミだ。

たとえば、「ボクはお金持ちだ」と思っている人がいたとする。でも、おカネなど、この世という仮の宿りでしか通用しない。「おカネは、墓までは持っていけない」のである。土地とか株とか貴金属とか、財産もみんなそう。こういうものは、本当の自分ではない。これは、すぐわかる。

「ボクは背が高くてやせた人だ」とか、「ボクは背が低くて太った人だ」とかいうのも、本当の自分ではない。肉体もまた、この世での乗り船にすぎず、いつかは消えてなくなる。その後に残るものが自分。これも考えれば、すぐにわかる。

では、そういう社会的な属性とか、肉体的な特徴とか・・・を取り除いた後に残るものは何なのか。それはやっぱり、「魂」とか、「心」ということになるだろう。

ところが、ここがカンジンなところなんだけど、それもまた、本当の自分ではないのである。ここは、スピリチュアリズムの道に入った人が、最初に誤解しやすい関門だろう。世間の一般人ならともかく、精神世界の探求者なら、「肉体は本当の自分ではない」なんてことは、当たり前のスタートラインといってよい。それは結論ではなく、話の前提でしかない。そこで止まったんじゃ、なんとも中途半端。まずは肉体や物質の実在を否定するのが当たり前で(笑)、「自分とは何か」という検討が始まるのは、それからだと思ったほうがいいみたい。

たとえば、「ボクは怒りっぽくてマジメな人だ」とか、「ボクはいつも周囲を笑いの渦に巻き込む人だ」とかいうような場合、それが本当の自分なのかどうかを再検討する必要がある。それもまた、この世で身についた単なる習慣にすぎないというか、本来の自分とは異なる仮の姿である可能性は高い。つまり、「性格」もまた、本当の自分ではない。性格だけでなく、感覚とか、知性と教養とか・・・。そういうのも「自分ではないもの」に含まれる。

こんな具合に、「自分とは何か?」という自問自答を続けて、「ボクは○○である」、「私は××である」というのが次々に思い浮かんだとき、「でも、それは自分ではない」といちいち否定していく。そして、さんざん否定しまくったあげくのハテに、それでも最後に残ったものこそが、「本当の自分」ということになる。なんとも面倒な話だけど、それが古代インドから連綿と続いてきた精神世界の探求。

話が先走ってしまった。というより、いきなり仏教っぽくなってしまった。

それはともかく、結局のところ、「これが私だ」と思っていたものは、ガンガジ流にいえば、「あなたがあなた自身に語る、あるいは、あなたの社会があなたに語ってきた、あなたは何者かという物語」にすぎなかった。

>この、もっとも基本的な、私は誰?・・・という問いこそが、最も見過ごされがちな問いです。私たちは毎日、その時間のほとんどを、自分自身に対して、あるいはほかの人に対して、自分は大事な人間であるとか、自分はつまらない人間であるとか、偉いとか偉くないとか、若いとか年寄りだとか、そう言いながら過ごします。そして、この最も根本的な仮定に本当に問いを投げかけることは決してしないのです。

この、「私は誰?」という自問の作業をずっと続けただけでも、意識の覚醒に到達できるという話だから、やってみて損はないだろう・・・(?)。

意識の覚醒をさまたげているものは、自分自身だったということに気づく。というのも、人は、「私はこういう人間だ」という物語を、いつも自分自身に聞かせているようなもの。「私はサラリーマンである」という具合に、「自分とは何者であるか」という定義づけをしょっちゅうやっている。でなきゃ、とてもやってられない。この世で生きていくためには、それが必要。

>夜、夢を見るとき、夢には始まりがあり、展開があり、そして終わりがあります。夢を見ているときは、それは本当のことに思えますが、目が覚めれば明らかに夢であったことがわかります。

>それと同じように、あなたはあなたの人生という夢の途中で目を覚ますことができます。どんな物語もいずれは終わりますが、あなたの物語が終わる前に目を覚ますのです。話の中にいながら目を覚ますことは「明晰夢」と呼ばれます。

これは、眠っているときに見るオナジミの夢で考えれば、よくわかる。

たとえば、夢の中では、何者かに追いかけられて必死で逃げていたが、目が覚めてみたら自分は布団の中で寝てるだけだった。「明日は大事な試験だ。このままじゃ留年する」と思って必死で勉強していたが、目が覚めてみたら、自分は学生ではなくオジサンだってことを思い出した・・・。

このように、夢の中では必死だったけど、目が覚めてみたら、なんにも意味がなかった。

こういうアリガチなことが、人生にも当てはまる。この人生における自分は、本当の自分ではなく、この世で見ている夢であり、仮の姿に過ぎない。死んでからなら気づくのは簡単だけど、それをなんとか、生きている間に目を覚まして「明晰夢」に変えたい。これこそが、精神世界の探求者の目標。

それが、「意識の覚醒っていうけど、それは要するにどういうことなんですか?」という、よくある質問に対する答になるだろう。この世とか人生というのは、本当の自分が眠っている間に見ている夢にすぎない。普通の人は、「すべてが夢の中の出来事だ」ってことに気づかず、妙に必死で取り組んでいる。でも、目を覚ませば全部、なんの意味もない。現実に起きていることは、何ひとつない。

生きてるうちに目を覚まして、これを「明晰夢」に変える。それが、「意識の覚醒」というもの。

 

(つづく)

 

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