宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

輪廻転生といっても、2種類がある

2015年06月03日 | 精神世界を語る
 
「輪廻転生」と一言で言っても、大きく分けて2種類の考え方がある。この2つは、広い意味ではつながっているので、話の中でこんがらがることも多い。でも、この2つは、明確に区別されるべきだと考える。

ひとつは、「地球生命系の中における輪廻転生」。通常、輪廻転生といえば、こちらを指す。「輪廻転生から卒業しましょう」というのも、普通はここからの離脱を目指すことを意味する。

地球生命系というのは、物質界の地球を中心とする大きなシステムで、その周囲を非物質界が包み込んでいる。地球の物質界に生まれた人は、やがて死んで、非物質界に帰る。ここが「死後の世界」だ。そして、しばらくすると、また物質界に戻る。つまり、またまた、この世に生まれる。そうやって、行ったり来たりを繰り返す。もちろん、地球生命系の中には、人だけでなく、鳥や獣や、そのほかの生き物も含まれている。これらが、壮大な輪廻転生のシステムを作り上げているのだ。
 

もうひとつは、「宇宙全体における輪廻転生」で、これは、生まれ変わりというより、「永遠の生命」と考えるべきだろう。ここでは、地球生命系に転生する前の生命や、そこから卒業した後の生命までが含まれる。これは、地球で生きている人間にとっては、計り知れないナゾの領域だ。そもそも、「過去から未来に向かって生まれ変わる」ということ自体、地球における時間の感覚を前提としているので、そこから根本的に見直す必要がある。地球で生きている者にとって、それは無理なことだ。だから、考えるだけムダというもの。

 
ここで考えるべきなのは、なんといっても前者、つまり、「地球生命系の中における輪廻転生」のほうだろう。地球で、この世とあの世のあいだを行ったり来たり。何度も生まれ変わっては、また死に変わる。放っておけば、いつまでも終わらない無限ループ。なんといっても、ここから離脱することが目標なんで、「宇宙への帰還」は、ひとえにそこにかかっている。図にすると、下記のようになる。

(永遠の過去) ⇒⇒⇒ (宇宙での永遠の生命) ⇒⇒⇒ 地球生命系での転生開始 ⇒⇒⇒ 地球で生まれたり死んだりを繰り返す(←いまココ) ⇒⇒⇒ 地球生命系からの卒業 ⇒⇒⇒ (宇宙での永遠の生命) ⇒⇒⇒ (永遠の未来)

ここで、両サイドにある( )内の部分については、とりあえず考えなくていい。重要なのは、真ん中、つまり、いま現実に地球で生きているというところ。

お釈迦様の教えも、「輪廻転生からの卒業」がメイン。中には、「ボクは、輪廻転生には興味がありません。でも、お釈迦様の教えは大好きです」という人もいる。そういう人は、単なる人生論として仏典を読んでいるのだろう。カンジンの主題である、「輪廻から離脱するメソッド」については、スルーしている。まあ、例えてみれば、「肉は嫌いだけど、ハンバーガーは好き」というようなものだろう。ハンバーガーから中のお肉を抜いて、パンだけを食べても美味しいというのだから、仏典とはなんともすばらしいものだ(笑)。

それはともかく、地球での輪廻転生は、一種の砂時計だ。上には非物質界があって、下には物質界がある。その中を、サラサラと砂が流れ落ちるように、生命が移動している。時間が来たら、ひっくり返る。こういう、行ったり来たりが、いつまでも続く。



5億年くらい前までは、地球には微生物とか、小さな原始的生物しかいなかった。そのときは、おそらく、輪廻転生のシステムといっても原始的なものだっただろう。物質界と非物質界の境界も定かでなく、全体的に「集合生命」みたいな感じだったに違いない。

恐竜の時代くらいからは、個としての生命が確立されていったと思われる。地球に発生した土着の生命には、この頃から輪廻を続けている者たちも多い。ものすごく長い時間をここで過ごし、数え切れない経験をしてきた。それは、意識の深いところに刻みこまれて、残っている。地球で生きていく上で、その経験が有利なのは間違いない。要するに、彼らは、地球生命系で生きていくことに「慣れている」。

中には、他の惑星や生命系から、地球に移ってきた者たちもいる。これには、例によって色んな説があって、「地球人類の大半は、元はといえば宇宙からの転生者なのだ」とか、「全員が地球外に起源を持つ生命なのだ」という人もいる。それはそれで、一理ある。というより、見る角度によっては、その通りだろう。だけど、地球環境における経験値には、明らかに個人差がある。この環境に慣れている人と、そうでない人の差は、大変に大きいと筆者は見ている。

ここで気になるのは、「宇宙からの転生者は、いかにして、地球生命系で輪廻し始めたのか?」ということ。

通常、ニューエイジ系の思想では、「宇宙からの転生者は、ライトワーカーなのである」と考えられている。つまり、意識の大変革期にある地球生命系をサポートするためにやってきた、宇宙からの救世者たちであるというのだ。それも、確かに一理ある。見る角度によっては、その通りだろう。

でも、筆者がそれ以上に共感するのは、ロバート・モンローの著書にあった、「惑星KT95からの転生者」(本ブログの過去記事をご参照)の話だ。率直に言って、「地球はいま、大変な危機にある。ボクは、彼らを助けに行くぞ!」というよりは、こういうノリで地球での輪廻に巻き込まれてしまったケースが多いんじゃないかと考えている。
 
 
(つづく)

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すべてのことを、輪廻転生を前提にして考える その2

2015年06月02日 | 精神世界を語る

 

「輪廻転生」は、地球人類にとって決して耳に新しい話ではない。古代インドでは、とっくに研究されている。現代人には想像を絶する情熱を持って、深く深く研究していた。現代ならノーベル賞級の科学者になるような人だって、この分野の研究に集中していた。


新興宗教の教祖は、よく「古い教えは、もはや死にました。現代において、この私が語る新しい教えこそ、究極の真理なのです」というような言い方をする。確かに、そうでも言わなきゃ教祖になれないだろうから、当たり前といえば当たり前なんだが。

でも、信者が「この教えを誰もが信じるようになれば、世界は変わります。地球人類は、一段階上のステージに上がるのです」とかなんとか言ってるのを聞くと、異和感をおさえきれないものがある。でもって、その「真理」の内容を聞くと、「霊界は実在します。人は生まれ変わっているのです」というのだから、「それのどこが、究極の真理なんだよ?」と思わずにいられない。

もしも本当に、「人は生まれ変わる」という信念が、世間の人々に広まることが人類の意識進化だというのなら、古代インド人は、とっくに集団でアセンションしているはずだ。むしろ、インドでは、それが常識であり、「人は生まれ変わらない」というほうが非常識だったのだ。こういうのを、「ところ変われば、しな変わる」というんだろう。

実際のところ、自分自身を振り返ってみても、幼少の頃から、「人は生まれ変わる」というのを当たり前のように考えていた。あらゆることを、それを前提にして考えていた。「一度きりの人生を、悔いのないように生きよう」と言ってる人を見ると、「この人にとって、人生とは『一度きり』なのか?」とカルチャーショックを受けたものだ。「それは自分自身の考えではなく、どこかの本にそう書いてあるのを読んで、信じ込んじゃったんだろうな」という感じ。このように、世の中にはいろんな人がいて、見る角度がまるきり逆だったりすることも多い。

それはともかく、「死後世界や輪廻転生に関心を持つ」というのは、精神世界をやる上で、スタートラインとなるところ。それをキッカケに関心を持ち、そこから意識探求が始まる。とても、「地球人類に開示された究極の真理」なんていうようなものではない。それは、あくまでもスタートにすぎず、ゴールにはなり得ないのである。テニスでいえば、「まず、ボールとラケットを手に持ってみた」といったところ。ラケットを振ってボールを打つのは、それからということになる。

あらゆることを輪廻転生を前提にして考えるようになると、この世界が、まるで違ったものに見えてくる。「ボクは、こういう人間なのだ」と考えることから、「ボクは、ここではたまたま、こういう人間をやってるのだ」と考えることへのシフト。この違いは、かなり大きい。

古代インド人のように、輪廻転生を当たり前だと思っている人々にとって、「それじゃあ、輪廻転生のメカニズムを徹底的に解き明かそうじゃないか」ということになるのは、必然の流れ。

現代なら、「人は生まれ変わるのか、それとも死ねばオシマイなのか、議論しようじゃないか」ということになり、そこで議論が大荒れに荒れることだろう。でも、古代インドでは、そこのところを省略していい。というより、それについては、とっくに結論が出ていた。「人は生まれ変わっている」に決まってるんで、最初から、それを前提にして話をスタートさせてよいのである。地球人類の中でも最優秀な人々が、「輪廻転生」にものすごい情熱を傾けて、壮大な研究を繰り広げた。当然のことながら、現代の新興宗教を遥かに超えるような、深遠な研究成果が続々と出ることになったのだ。

そういうと、「地球人類は、古代から進歩するどころか、むしろ後退したんじゃないか?」ということになるかもしれない。確かに、輪廻転生の研究に関しては、現代人は古代インドのレベルから後退している。神の研究に関しては、中世のアラビアよりも後退している。でも、その代わり、それ以外のあらゆる局面において圧倒的に進歩しているから、総合力では現代人のほうが遥かに上を行っているのは間違いない。ただし、部分的には後退したというのも事実。精神世界の探求者たちは、そこをなんとかしようとしている。

話を戻すと、あらゆることを輪廻転生を前提にして考えるようになると、この人生の位置づけが、まるっきり変わってくる。「悔いのないように完全燃焼すべき、かけがえのないもの」から、「ハテしなく続く、長い道のりの途中」へと劇的に変化する。そうすると、今までは自分の全存在を揺るがすほどの深刻な悩みだったことが、「たまたま、この人生において抱えている問題」にすぎなくなる。「この人生では、問題点はココなんだな。生きてる間に解決できるかな?」という風に、すべてが途中経過になってしまう。

そうやって、「この人生」から、「輪廻転生」へと、関心の軸足がだんだん移っていく。

現代人が「この人生を、より良い人生にするには、いかにすべきか」と頭を悩ませるのと同じように、「この輪廻転生を、より良い輪廻転生にするには、いかにすべきか」と、頭を悩ませるようになる。

さらに進むと、「こんな人生は、もう嫌だなあ。ボクは、もう死んでしまいたいよ」という考えから、「こんな輪廻転生は、もう嫌だなあ。ボクは、もう生まれ変わりたくないよ」という考えへとシフトすることになる。前者は、ウツ病になって自殺につながりかねない、危険な考えだ。それに比べて後者は、別に危険ではない。このように考えている人は、ウツ病になどならない。せいぜい、奇人変人になるくらいですむ(笑)。

現代では、輪廻転生について語ると、「夢のあるロマンティックな話」と受け取られることが多い。それは、現代人が本気で考えていないからだ。古代インド人のように、本当に真剣に「輪廻転生」を考えている人々にとって、これほど恐ろしいものは他にない。次はどこに生まれて、どんな目に合わされるか。予想もつかないだけに、これは怖い。

そもそも、人にもよるけど、まず、たいていの場合、地球での人生は苦しい。だいたい、苦しいものと相場が決まっている。たとえ今は楽しく暮らしていても、最終的には、人は老いて死ぬ。でもって、たいていの場合、死ぬのは苦しいことや痛いことが多い。それが果てしなく、無数に繰り返されるのだから、ゾッとするほどの恐ろしさだ。

とても、「夢があっていいね」などというような、生易しい話ではない。 本気なら、頭を抱えてしまう問題だ。ここから、「輪廻転生のメカニズム」の研究が始まる。

「より良い輪廻転生にするには、どうすべきなのか」ということや、「輪廻転生は、どうすれば終わらせられるのか」ということ。人類の英知を集めて、それを研究する。

自動車が走るのは、ガソリンのおかげ。電車が走るのは、電気のおかげだ。それと同じように、人が輪廻転生を走り続けるのも、何かが動力源になっているはず。それが何なのかを、古代インド人は研究した。


(つづく)