蒲田耕二の発言

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ボビー・ダーリン

2023-08-09 | アート

プレスリーとビートルズの端境期、50年代末に活動した小惑星の一人。生来病弱だったらしく、37歳で夭折した。

あの当時、日本のポピュラー界は、力ずくで単純化すれば美空ひばりか、さもなくば洋楽、といった風だったから、オレもフランキー・アヴァロンやポール・アンカなんかと一緒に、この人の歌をよく聴いていた。

その大昔のアイドル・ポップスが聴きたくなってヤフオクや Discogs をのぞいてみたら、なんと、50年代の初期盤が二度見してしまうほどの安値で売られている。で、5枚ほどバタバタと購入。無論、モノラルである。ステレオ・バージョンも出ているが、多分擬似ステレオだから敬遠。

奇妙なことにアメリカのレコードは、クラシックは早くからステレオになったが、ポピュラーは60年代半ばまでモノラルだった。主要メディアのラジオがモノラルだったからかな。

ついでに言うと、クラシックのアメリカ盤はノイズも歪みも酷くて大体使いものにならないが、ポピュラーは音がいい。日本盤やヨーロッパ盤ではちょっと聞けないような、図太いド迫力の音が飛び出してくる。クラシックは売れないから手抜き、ポピュラーは売れるからカネも手間もかける。実にあっけらかんと明快な資本主義論理だね。

脱線しました。

ボビー・ダーリン(Forvo によればDarinは "デアリン")は、並のアイドル歌手とは少々違っていた。どう違っていたかというと、歌が際立ってうまかったんだよね。メロディアスなナンバーもリズミカルなそれも、何を歌っても余裕があって伸びやかだった。なので、「ドリーム・ラヴァー」のような他愛ない流行歌にも今なおみずみずしい魅力がある。ルックスではなく実力で勝負したアイドルである。

さらにこの人は、リズムのノリが抜群に優れていた。ビルボード No.1 ヒットの「マック・ザ・ナイフ」の名演がその美質をよく物語っている。

「四月の思い出」「朝日のように爽やかに」その他、スイング・ナンバーを盛んに歌っているのは、これらの曲を十八番にしていたフランク・シナトラのファン層にアピールする戦略だったのだろうが(しばしば "シナトラの再来" と呼ばれた)、ボビー自身にもスイングとの親和性があったのだろう。

また、シャンソンをいくつかカバーしているのもアメリカ人歌手としては異例だった。ヒット曲の一つ "Beyond the Sea" はトレネの「ラ・メール」だし(伝記映画のタイトルになった)、ほかにもアズナヴールの「悲しみのヴェニス」やピアフの「ミロール」を歌っている。「ミロール」に至っては、フランス語歌唱である。いい出来とは言いかねるが。

これらのレパートリーから分かるとおり、ボビー・デアリンはロックンロール歌手ではなかった。アメリカ白人音楽のメインストリームを受け継ぐ歌手だった。ロックンロール・スタイルの歌が全然なかったわけではないが、黒っぽいブルース・フィーリングは全然なかった。

その典型的白人音楽のボビーが黒人音楽の牙城のモータウンで録音していたとはね。上掲の『1936−1973』がその1枚。タイトルから見てボビー没後の追悼盤と思われるが、幸い、擬似ステレオ化はされていなかった。

大規模なゴスペル調とかR&Bナンバーを歌っていて、芸域を広げようとしたんじゃないかと思うが、やっぱりボビー本来の持ち味とは水と油の感を否めない。どれほど大げさなサウンドをバックにしても力み返るようなことはなく、アップアップの窮屈な印象を与えない点はさすがだけどね。

しかし、オレがアメリカン・ポピュラーを聴かなくなって60年近いんだけど、子供のころに聴いた音楽が不意に懐かしくなったのは、墓場が近くなったせいかな。
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