蒲田耕二の発言

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『家へ帰ろう』

2021-10-08 | 映画
優れた映画作品を産み出す国として、韓国を挙げる人はいてもアルゼンチンを挙げる人は多くないのではなかろうか。オレも、この国を映画と結びつけてイメージしたことはなかった。

その固定観念を、アマゾンプライムで偶然見つけた映画にあっさり覆された。予備知識はまったくなく、ステイホームでヒマだから観始めたのだが、予想をはるかに超えてずんと胸に刺さる1本だった。

主人公は、ホロコーストを生き延び、ブエノスアイレスで暮らすユダヤ人の老いた仕立屋。そこそこ財をなして何不自由のない暮らしだが、家族には疎まれ、施設に入れられようとしている。そこでありったけの金を持って家を飛び出し、かつて命を助けてくれた親友に会いに母国のポーランドへと向かう。

映画はこの頑固老人の一人旅を追うロードムービーだ。題材とプロットに新味はないが、道中で出会う様々な人々、特に女性のキャラが興味深い。

最初は、マドリードの安ホテルのコンシエルジュ。若作りだが、よく見るとシワだらけの60がらみの婆さんで、泊まりに来た老人にポンポン憎まれ口をたたく。だが、ジイさんとは妙にウマが合い、一緒に飲みに行く。マドリードに住んではいるが不仲だったジイさんの娘との和解を取り持ったりもする。

列車を乗り換えるパリの駅でジイさんは、ドイツを通過するのは絶対に嫌だと言い張る。駅員はスペイン語もイディッシュ語もまったく解しない。そこへ居合わせたドイツ人女性が助け船を出す。ジイさんは彼女を拒否しまくるが、彼女は列車に乗ってからもジイさんに何くれとなく気を遣う。

ワルシャワに着いた老仕立屋は持病が悪化して入院し、気のいい若い看護師のケアを受ける。退院したら生まれ故郷のウッチまで同行してくれとジイさんに頼まれ(ワルシャワからウッチは東京から甲府ほどの距離らしい)、彼女はちょっと渋い顔をするものの快く引き受ける。

70年音信不通だった親友に会えるかどうか、不安に怯えるジイさんを励ましながら車椅子を押してウッチの街を歩き回り、ジイさんが親友と再会したのを見届けて静かに立ち去る看護師の姿が美しい。

この映画が胸を打つのは、老人と行きずりの人々とのあいだに本音の触れ合いがあるからだ。ジイさんは自分と関わり合う人間に誰彼かまわず不平不満を浴びせる。浴びせられた人々は、特にドイツ人女性が典型的なのだが、感情的に反発することもなく自分を押し殺すこともなく、ごく自然に理性的に対応する。

ノーベル賞を受賞した真鍋淑郎さんは、記者会見で次のように述べたそうだ。

「日本で人びとは常に、お互いの心をわずらわせまいと気にかけています。とても調和の取れた関係性です。これが、日本の人びとが簡単に仲良くなる理由の一つです」

他人をわずらわせたくないという「思いやり」は、美点には違いない。だが同時にそれは「わずらわされたくない」思いの裏返しとも言える。簡単に良くなる仲は、簡単に切れる仲でもある。「思いやり」は、時として人と人との繋がりを希薄にする。

ナチスに目の前で肉親を殺された怨みを、戦争を知らない若いドイツ人女性に遠慮なくぶつけた老人は、その正直さによって彼女の同情、というより信用を獲得した。

そういえば、映画の冒頭で登場する老人の孫娘は、ワガママいっぱいに祖父にねだる。そういう少女を、老人は目に入れても痛くないほど可愛がっている。

本音をぶつけるより自分を抑える日本式の付き合い方は、本当のマナーなのか。相手への気兼ねは、実は逃げではないのか。むかし毛沢東は「ケンカしないと仲良くなれないよ」と言ったけど。拾い物のアルゼンチン映画を観ながら、そんな感想が去来した。

すぎやまこういちが亡くなって、朝日までが「1点のスキもない音楽的構造」「一瞬にして人の心をとらえる天賦の才」と絶賛の嵐。あれだけ悪口言われときながら、なんとまあ……と思ったら、津田大介の批判的コメントでバランスを取っていた。

記事本文より津田さんのコメントの方がはるかに説得力があったが、彼一人に憎まれ役を押しつけるのも大新聞のやることじゃないんじゃないかね。これも、死者をムチ打つような真似はしないという日本的マナーかも知れないが。
コメント
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