また、ずいぶん更新に間が空いてしまった。大学の正規の授業はほぼ終わったのだが、毎月末の横浜の生涯学習の講義があり、首都大のオープン・ユニバーシティも始まった。今年は、上智のオープン・キャンパスでも公開授業を担当している。滞っている各種委員会の仕事も片付けねばならない。なんだかんだで、7月も最後まで疾走し続けることになりそうだ(8月もだけどね)。
原稿の方は、今日ようやく、「神仏習合と自然環境」を脱稿した。最初は、5月に『上代文学』に書いたものを分かりやすくまとめればいいか、程度に思っていたのだが、少し欲を出したところから迷走が始まり、ずいぶんと〆切を超過してしまった。いつもながら、まことに申し訳のない限りである。『上代文学』では注に回していた、『太上洞淵神呪経』等にみえる〈甲申年の災害〉説と八斎戒との関係、草木発心修行成仏論と神身離脱説との関係などを表に出してみたのだが、案の定問題が大きすぎて収拾がつかなくなった。奈良時代の宗教思想史は、まだまだ追究すべき点を多く残している。やはり、四天王信仰は『金光明最勝王経』だけからでは分からないし、大仏の意義も『華厳経』や『梵網経』だけからではみえてこない。とくに、『女青鬼律』や『洞淵神呪経』に出て来る、疫鬼を統率し力士を派遣して種民を守る魔王の存在と、阿含系経典などにみえる四天王の機能はかなり重複している。『提謂波利経』前後の八斎戒隆盛の情況をみても、こうした信仰が道教/仏教の交渉によって成り立っているのは明らかなので、(自分としては)四天王信仰の新たな一面を発見した思いだ。天然痘流行から国分寺創建に至る思想情況は、この、疫鬼ヴァーサス四天王の構図を前提にするとより分かりやすくなるし(四天王像が踏みつけている邪鬼もね)、東大寺や初期神仏習合の寺院が抱える水(須弥山周囲の四大海を模した水、お水取り、一般的神社占地の山水など)の問題も、鬼のもたらす洪水との関係で把握すると面白いかも知れない。
ところで、例の神雄寺は「橘諸兄の別荘跡」との見解も出ているようだが、良弁の話は誰も出さないのだろうか。木津川周辺に良弁開基の寺院が点在するのは、やはり後世の仮託と決めてかかっているからなのか。『興福寺官務牒疏』の研究って、いま中心的にやっている人はいるのだろうか。ずいぶん前に書いた「良弁の出自と近江国における活動」、誰かみなおしてくれないかな?(「金鍾寺」が「金鍾香水」に基づくという浅井和春さんの説も、水を媒介に考えるとさらに面白くなるように思う)。
今日はもうひとつ、日本史出版の老舗H社のTさんが研究室を訪ねてくださった。
ぼくは周知のとおり、学位論文を提出していないのだが、それにはもろもろの事情がある。ひとつは今のように課程博士の輩出を推進するようになる前後の、端境期に院生であったこと、もうひとつには、研究を広げてゆくのは好きだが畳むのは苦手という本人の性格。そしてもうひとつは…ここでは書くことができない。いずれにしろ、幾つかの要因が重なって現在の悲惨なありさまを露呈しているわけだが、そろそろ教務の関係もあって学位論文をまとめざるをえなくなってきた。論文も、内容の質はともかく、数だけは60本近くあるので、単純に繋げるだけでも論文集の体裁は作れる。しかし、10年前に書いた論文の方向性といまのそれとはずいぶん違ってしまっているので、かなり細かく手は入れなければならないだろう。3冊は作れるだろう量を、1冊のできるだけコンパクトな形にまとめたい(値段もあるし)。しかし、やらなければいけないことは分かっていても、目の前の仕事を片付けることに追われて、なかなか手は着けられない。書き下ろしの単行本も2冊抱えており、まずはそれを仕上げねばならないので、このままゆくと論文集はずっとずっと後回しになる危険性がある。
そんなところへH社さんが、タイミングよく、「論文集を出しましょう。3~5年かかっても結構です」というお話を持ってきてくださった。書いてもいない学位論文の版元が決まってしまった。背水の陣を敷いた、ということだろう。とりあえず、サバティカルのとれそうな?3年後を見据えて頑張るとしましょう。
しかしH社とは…モモも首を傾げていたけれど、ぼくの論文、歴史学界における位置とは、もっともイメージのかけ離れた出版社であるような。
※ 写真は、柳田国男の勉強です。『捜神記』と『遠野物語』の比較研究はどの程度行われているのか?オシラサマ以外の論文をあまりみないのだが、きっと相当な蓄積はあるはず…。
原稿の方は、今日ようやく、「神仏習合と自然環境」を脱稿した。最初は、5月に『上代文学』に書いたものを分かりやすくまとめればいいか、程度に思っていたのだが、少し欲を出したところから迷走が始まり、ずいぶんと〆切を超過してしまった。いつもながら、まことに申し訳のない限りである。『上代文学』では注に回していた、『太上洞淵神呪経』等にみえる〈甲申年の災害〉説と八斎戒との関係、草木発心修行成仏論と神身離脱説との関係などを表に出してみたのだが、案の定問題が大きすぎて収拾がつかなくなった。奈良時代の宗教思想史は、まだまだ追究すべき点を多く残している。やはり、四天王信仰は『金光明最勝王経』だけからでは分からないし、大仏の意義も『華厳経』や『梵網経』だけからではみえてこない。とくに、『女青鬼律』や『洞淵神呪経』に出て来る、疫鬼を統率し力士を派遣して種民を守る魔王の存在と、阿含系経典などにみえる四天王の機能はかなり重複している。『提謂波利経』前後の八斎戒隆盛の情況をみても、こうした信仰が道教/仏教の交渉によって成り立っているのは明らかなので、(自分としては)四天王信仰の新たな一面を発見した思いだ。天然痘流行から国分寺創建に至る思想情況は、この、疫鬼ヴァーサス四天王の構図を前提にするとより分かりやすくなるし(四天王像が踏みつけている邪鬼もね)、東大寺や初期神仏習合の寺院が抱える水(須弥山周囲の四大海を模した水、お水取り、一般的神社占地の山水など)の問題も、鬼のもたらす洪水との関係で把握すると面白いかも知れない。
ところで、例の神雄寺は「橘諸兄の別荘跡」との見解も出ているようだが、良弁の話は誰も出さないのだろうか。木津川周辺に良弁開基の寺院が点在するのは、やはり後世の仮託と決めてかかっているからなのか。『興福寺官務牒疏』の研究って、いま中心的にやっている人はいるのだろうか。ずいぶん前に書いた「良弁の出自と近江国における活動」、誰かみなおしてくれないかな?(「金鍾寺」が「金鍾香水」に基づくという浅井和春さんの説も、水を媒介に考えるとさらに面白くなるように思う)。
今日はもうひとつ、日本史出版の老舗H社のTさんが研究室を訪ねてくださった。
ぼくは周知のとおり、学位論文を提出していないのだが、それにはもろもろの事情がある。ひとつは今のように課程博士の輩出を推進するようになる前後の、端境期に院生であったこと、もうひとつには、研究を広げてゆくのは好きだが畳むのは苦手という本人の性格。そしてもうひとつは…ここでは書くことができない。いずれにしろ、幾つかの要因が重なって現在の悲惨なありさまを露呈しているわけだが、そろそろ教務の関係もあって学位論文をまとめざるをえなくなってきた。論文も、内容の質はともかく、数だけは60本近くあるので、単純に繋げるだけでも論文集の体裁は作れる。しかし、10年前に書いた論文の方向性といまのそれとはずいぶん違ってしまっているので、かなり細かく手は入れなければならないだろう。3冊は作れるだろう量を、1冊のできるだけコンパクトな形にまとめたい(値段もあるし)。しかし、やらなければいけないことは分かっていても、目の前の仕事を片付けることに追われて、なかなか手は着けられない。書き下ろしの単行本も2冊抱えており、まずはそれを仕上げねばならないので、このままゆくと論文集はずっとずっと後回しになる危険性がある。
そんなところへH社さんが、タイミングよく、「論文集を出しましょう。3~5年かかっても結構です」というお話を持ってきてくださった。書いてもいない学位論文の版元が決まってしまった。背水の陣を敷いた、ということだろう。とりあえず、サバティカルのとれそうな?3年後を見据えて頑張るとしましょう。
しかしH社とは…モモも首を傾げていたけれど、ぼくの論文、歴史学界における位置とは、もっともイメージのかけ離れた出版社であるような。
※ 写真は、柳田国男の勉強です。『捜神記』と『遠野物語』の比較研究はどの程度行われているのか?オシラサマ以外の論文をあまりみないのだが、きっと相当な蓄積はあるはず…。