仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

ギャレス・エドワーズ版『GODZILLA』を観る

2014-08-18 17:15:28 | 劇場の虎韜
8月も半ばを過ぎたところで、ようやく春学期の採点・集計作業が終了。レポートの採点は、毎年のことながら常に地獄で、学生の力量を見極めることの難しさ、種々の同情との戦い、そして自分の教授力の未熟さ、無力感にうちひしがれる日々であった。今年も「残念ながら」、何の工夫もない丸ごとコピペのレポート、巧妙に偽装したコピペのレポートを発見、作業中に左目を負傷したりヘルパンギーナを患ったりしたのだが、これは確実に採点のダメージで免疫力が低下していたせいだろう。しかし、それでも気分転換に、四谷会談の合宿で箱根の温泉に浸かったり、幾つか映画を観にゆくこともできた。まずは、1日のオープン・キャンパス模擬授業終了後に鑑賞した、ギャレス・エドワーズの『GODZILLA』について書いておこう。

ギャレス・エドワーズといえば、不思議な魅力の漂うロード・ムービー風怪獣映画『MONSTERS』で一躍名を馳せた新進気鋭の映画監督である。平成ガメラ・シリーズの提起した「怪獣災害」的な視点から、地球外生命体の南米における繁殖・拡大をリアリスティックに捉え、客観的なエイリアンの描写から生命の不可思議さと崇高さ、そして人間の怪物性を逆説的に浮きだたせてみせた。そんな監督の作品ゆえに否が応にも期待は高まるわけだが、まず観終わっての第一印象は、「こういう映画で新鮮味のある、あるいはオリジナリティ溢れる物語を作るのは難しいな」ということだった。突き詰めれば、「ゴジラ映画って何なの、何をもってゴジラとするの」という議論になってしまうのだが、今回の作品は「ゴジラ」ではなく「ガメラ」だったのである。より具体的にいうと、平成ガメラ・シリーズで伊藤和典・金子修介の提示したガメラvsギャオスの構図が、そのままゴジラvsムートーに援用されているのだ。同シリーズでは、ギャオスは、超古代文明が増えすぎた人口を調整するため、遺伝子操作によって生み出した怪物とされた。それに対してガメラは、ギャオスの暴走を抑えるため、亀の甲羅のような器に地球のマナを集めた生態系の守護者="Guardian of the universe"と位置づけられている。今回の『GODZILLA』では、ムートー・ゴジラとも、もともと放射性物質をエネルギー源とするペルム紀の生物と設定されているが、渡辺謙演じる芹沢博士が、ゴジラに自然=地球生態系の調整力を象徴させて語るシーンがある。すなわち、ゴジラが生態系の攪乱者としてのムートーを「調整」するために狩るとの見方で、そのままガメラ="Guardian of the universe"論と重なってくる。ガメラの場合、「人間がギャオスに替わり生態系の破壊者と認定されれば、ガメラは容赦なく人間の敵に回る」ことが危惧され、人類文明への警鐘となっているのだが、ゴジラの場合、放射能を纏ったその存在自体が、そもそも人類文明への強烈なアンチテーゼであった。ガメラのように静謐な神の視点からではなく、放たれた野獣としての荒ぶる神、人類とは根本的に相容れない存在こそがゴジラなのである。しかし残念ながら、今回のゴジラにはそうした凶暴性がほとんど見受けられない。ローランド・エメリッヒ版『ゴジラ』の巨大トカゲから脱して、神としての表象を再獲得したのはよいが、それはやはり、人間にとって都合のよい神でしかないような気がした。
また、すでにいろいろなところで指摘されているが、今回の設定で「後退」と思われるのは、過去の原水爆実験に対する歴史修正ともいえる正当化がなされていること、核の恐怖や惨禍がほとんど現実味をもって描かれていないことである(『ダークナイト・ライジング』でも感じたことだが、これはレジェンダリー・ピクチャーズのお家芸なのか?)。繰り返しになるが、1954年のオリジナル『ゴジラ』では、眠りを覚まされて日本へ上陸し、オキシジェン・デストロイヤーで滅ぼされる彼自身が、原水爆実験の被害者だった。いわば、ゴジラを通して、人間という生き物の業の深さ、罪深さが追及されていたのである。今回は、ゴジラが完全無欠の神として描かれている分、核がいったいこの生き物に何をもたらしたのかは語られない。むしろ、核なんて、放射線なんて大したことない、という印象が起ち上がってきてしまい、その方が怪獣より怖ろしい気がした。それから、これは1984年『ゴジラ』以降全般的にいえることなのだが、かつての東宝映画が持っていた「民俗伝承との関わり」が、まったく窺えなくなってしまったのも寂しい。ゴジラがなぜ南方からやって来るのかという問題については、金子修介版ゴジラ(『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』)がひとつの答えを出していたが、これは現代社会における民俗学の「地位」とも関係のある事象かもしれない。オープニングで伝説の怪物たちが映し出されてゆき、ゴジラとの繋がりが示唆されるのだが、本編ではそうした言及は一切なく、地質学や古生物学的に関わる「科学的説明」に終始していた。素人の科学的説明が神話を痩せ細らせる、NHK『幻解!超常ファイル ダークサイド・ミステリー』的な幻滅感を味わった。

まあそれでも、エメリッヒ版より相当出来がよかったのは確かだろう。伝家の宝刀白熱光(放射能火焰)がゆらめき(最後にメスのムートーへお見舞いしたときは、ちょっと嘔吐っぽくて気持ち悪かった)、CGゆえにディフォルメされた動きなど(アベンジャーズか!)、いろいろ気になった点はあったけれども、もっと工夫のしどころはあったと思うが、駄作というほど酷い作品ではなかった。
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人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」第7回 :亡霊論3―現代思想としての〈亡霊〉―

2014-08-18 17:11:15 | ※ 四谷会談
人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」の第7回です。テーマは「亡霊論」の3回目、〈亡霊〉というツールを使って、文学や歴史をいかに読み込めるか、現代を生きる手法・態度をいかに構築できるか考えてゆきます。話題は、『遠野物語』99話の復習に始まり、いとうせいこう『ノーライフキング』、近代オカルティズムと宮澤賢治、アメリカン・ゴシック、ハーワード・フィリップ・ラヴクラフトまで多岐にわたります。そして終着点は、亡霊を歓待すること。終盤には、最近固定ファンの付いてきた岩崎千夏さんによる、語りの場を凍り付かせた爆弾発言も飛び出します。
真夏の一日、夜空に弾ける花火でも御覧になりながら、お聴きいただければ幸いです。
なお、次回は霧に包まれた箱根の某ホテルで、突如巻き起こる怪奇現象にもめげず、2時間喋り倒す特別篇です。どうぞお楽しみに。

《第7回収録関係データ》
【収録日】 2014年7月25日(金)
【収録場所】 上智大学四谷キャンパス北條研究室
【収録メンバー】 山本洋平(司会:英米文学・環境文学)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世史)/岩崎千夏(トーク:日­本文学・中国語)/堀郁夫(トーク:株式会社勉誠出版編集部)/新飼早樹子(アシスタント・トーク:歴史学・日本古代史)/北條勝­貴(技術・トーク:歴史学・東アジア環境文化史・心性史)
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
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人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」第6回:「亡霊論2―『遠野物語』99話を読む―」

2014-08-03 18:43:01 | ※ 四谷会談
人文学系情報発信型ポッドキャスト「四谷会談」の第6回をお届けします。テーマは「亡霊論」の2回目、前回終盤で紹介した『遠野物語』99話を、さらに読み込んでゆきます。
『遠野物語』99話は、明治29年の三陸大津波の記憶を伝える、極めて重要な物語。2013年の東日本大震災の直後、赤坂憲雄氏や三浦佑之氏によって再評価され、多くの研究者たちが関心を寄せてきました。主人公の福二と亡妻がある夏の夜に田の浜の渚で邂逅する、極めて簡素な話にもかかわらず、福二の複雑な心中、亡妻の切ない思いが溢れ出して、私たちの心に強く訴えかけてきます。
死者を迎えるお盆の近づく夏の夜、皆さんも、亡くなった人たちの思いに耳を傾けてみてはいかがでしょうか。

※ 青空文庫『遠野物語』 http://www.aozora.gr.jp/cards/001566/card52504.html

《第6回収録関係データ》
【収録日】 2014年7月25日(金)
【収録場所】 上智大学四谷キャンパス北條研究室
【収録メンバー】 山本洋平(司会:英米文学・環境文学)/工藤健一(トーク:歴史学・日本中世史)/岩崎千夏(トーク:日­本文学・中国語)/堀郁夫(トーク:株式会社勉誠出版編集部)/新飼早樹子(アシスタント・トーク:歴史学・日本古代史)/北條勝­貴(技術・トーク:歴史学・東アジア環境文化史・心性史)
【主題歌】 「自分の感受性くらい」(作詞:茨木のり子、曲・歌:佐藤壮広)
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