早稲田演習の採点、豊田地区センター生涯学習の7月例会も終わり、前期の仕事はほぼ片付きました。J大の成績評価が残っていますが、8月下旬まででよいので、レポートは時間をかけて読みたいと思います。しかし、だからといって夏休みになるわけではなく、土・日は『災害史』の再校を仕上げねばなりませんし、来週からは早稲田の学芸員資格課程夏期集中講座が始まります。ちなみに、今度は講義をする方ではなく、受ける方になるんですね。実は、史学の教員で学芸員の資格を持っている人は、意外に少ないのです。私も、歴博の共同研究などしているにもかかわらず、学生時代は博物館学しか受講していませんでした。今回、ある事情で必要に迫られましたので、一夏学生に戻って精進しようというわけです。月~金の朝9時から夜7時半までみっちり講義、これは教員をやっているよりつらいかも知れません。
そういうわけで、来週からはまったく時間がなくなるので、金曜は久しぶりに映画を観てきました。写真に挙げた『日本沈没』です。ネタばれになるので未見の方は読まないでいただきたいのですが、さすが樋口真嗣、オーソドックスな物語としてはよくできていたと思います。泣かせどころも心得ていて、ラスト近くではけっこうぐしゃぐしゃになってしまいました。
しかしこの映画、原作や前作とはまったく違う物語として観た方がいいかも知れませんね。主役の何人かは新しいキャラクターですし、原作にある登場人物も、性格付けや活躍の仕方がけっこう違う。何より物語の枠組みが、ずいぶん変更されてしまっているのです。
原作や前作は、日本列島という甘えの元凶=〈母胎〉を失うことで、日本とは何か、日本人とはいかなる存在なのかを問うのがテーマでした。ところが新作はそういった哲学的なベクトルを脇に置き、未曽有の災害に立ち向かう人間の姿を群像劇風に描いているのです。つまり、前作ではなす術もなかった自然の猛威を、今回は人間の力がはねかえすことになる。草薙剛演じる小野寺の命がけの働きによって、日本列島は完全な沈没を免れるのです。そこに、自然に対する日本人の心性の変化を読み取る気はありませんが(例えば『妖星ゴラス』『メテオ』など、自然を改変して災害を脱するという映画は昔もありました)、どうも小野寺への讃歌のようなラストが気になってしまいます。
自己犠牲を物語のモチーフとしてどう評価するかということは、宮澤賢治好きの真宗僧侶である私にとってはけっこう深刻な問題です。『グスコーブドリの伝記』『銀河鉄道の夜』にも感動しましたし、『ヤマト』や『アルマゲドン』にも涙を流してしまうのですが、いつもどこかに疑問が残る。もちろん自己犠牲をまったく否定するわけではないですし、とくに主体的な選択肢としては目標に置いておきたいのですが、どうも納得がゆかない。自己犠牲から感動をひねり出そうとする作品は、生き延びた人々のその後、死んだものの命を背負わされたものの心情を、ちゃんと描こうとしないからかも分かりません。今回の映画では、小野寺を送り出す田所の描写につらさを滲ませてはいましたが、少数の犠牲によって多数が救われる現実を想定はしうるものの、それを疑問視する方向性もしっかりと確保しておかなければ、「神風」を讃美し正当化する心性を醸成してしまう。エンターテイメント大作ではないものねだりなのでしょうが、多くの人が観る作品だからこそ、映画人の責任として注意してもらいたいところです。
ちょっと批判方向に筆が乗ってきてしまいましたが、キャラクターの個性、人間関係、災害に立ち向かうそれぞれの理由も類型的で、新鮮な深みは感じられませんでした。豊川悦司演じる田所博士と大地真央の危機管理担当大臣が元夫婦だったという設定や、阪神淡路大震災をトラウマに持つヒロインが語る体験談、心情などには、リアルさよりも手練手管の印象があります。だからこそ安心して観ていられるところもあるのですが、没入しかけた意識がパッと引き戻されてしまう。ただし演出は長丁場を飽きさせない手慣れたもので(パンフによると、樋口真嗣の演技指導はかなり細かいそうで、これはアニメ的に絵コンテを描く監督の特徴でしょう。ただ、冒頭の田所博士のシーンで、研究室で飼われているネコがカメラ目線になっているなど、見落とし?もみられました)、画のパースや撮り方にも工夫があり、そして何より沈没の災害描写が(不謹慎ないい方ながら)美しい(本来はもっと残酷なもののはずで、美しくみせてしまうところが問題という議論もあるでしょうが……)。なお、列島各地の情況を鳥瞰図でみせる映像、時折現れるちょっとしたシーンやテロップ、音楽の使い方には、前作への強いオマージュが感じられました。
エンターテイメントとしてはよくできていたけれども、セルフには響いてこない。感動はしたもののその感動に疑問を抱いてしまう、という難しい映画でしたね。
そういうわけで、来週からはまったく時間がなくなるので、金曜は久しぶりに映画を観てきました。写真に挙げた『日本沈没』です。ネタばれになるので未見の方は読まないでいただきたいのですが、さすが樋口真嗣、オーソドックスな物語としてはよくできていたと思います。泣かせどころも心得ていて、ラスト近くではけっこうぐしゃぐしゃになってしまいました。
しかしこの映画、原作や前作とはまったく違う物語として観た方がいいかも知れませんね。主役の何人かは新しいキャラクターですし、原作にある登場人物も、性格付けや活躍の仕方がけっこう違う。何より物語の枠組みが、ずいぶん変更されてしまっているのです。
原作や前作は、日本列島という甘えの元凶=〈母胎〉を失うことで、日本とは何か、日本人とはいかなる存在なのかを問うのがテーマでした。ところが新作はそういった哲学的なベクトルを脇に置き、未曽有の災害に立ち向かう人間の姿を群像劇風に描いているのです。つまり、前作ではなす術もなかった自然の猛威を、今回は人間の力がはねかえすことになる。草薙剛演じる小野寺の命がけの働きによって、日本列島は完全な沈没を免れるのです。そこに、自然に対する日本人の心性の変化を読み取る気はありませんが(例えば『妖星ゴラス』『メテオ』など、自然を改変して災害を脱するという映画は昔もありました)、どうも小野寺への讃歌のようなラストが気になってしまいます。
自己犠牲を物語のモチーフとしてどう評価するかということは、宮澤賢治好きの真宗僧侶である私にとってはけっこう深刻な問題です。『グスコーブドリの伝記』『銀河鉄道の夜』にも感動しましたし、『ヤマト』や『アルマゲドン』にも涙を流してしまうのですが、いつもどこかに疑問が残る。もちろん自己犠牲をまったく否定するわけではないですし、とくに主体的な選択肢としては目標に置いておきたいのですが、どうも納得がゆかない。自己犠牲から感動をひねり出そうとする作品は、生き延びた人々のその後、死んだものの命を背負わされたものの心情を、ちゃんと描こうとしないからかも分かりません。今回の映画では、小野寺を送り出す田所の描写につらさを滲ませてはいましたが、少数の犠牲によって多数が救われる現実を想定はしうるものの、それを疑問視する方向性もしっかりと確保しておかなければ、「神風」を讃美し正当化する心性を醸成してしまう。エンターテイメント大作ではないものねだりなのでしょうが、多くの人が観る作品だからこそ、映画人の責任として注意してもらいたいところです。
ちょっと批判方向に筆が乗ってきてしまいましたが、キャラクターの個性、人間関係、災害に立ち向かうそれぞれの理由も類型的で、新鮮な深みは感じられませんでした。豊川悦司演じる田所博士と大地真央の危機管理担当大臣が元夫婦だったという設定や、阪神淡路大震災をトラウマに持つヒロインが語る体験談、心情などには、リアルさよりも手練手管の印象があります。だからこそ安心して観ていられるところもあるのですが、没入しかけた意識がパッと引き戻されてしまう。ただし演出は長丁場を飽きさせない手慣れたもので(パンフによると、樋口真嗣の演技指導はかなり細かいそうで、これはアニメ的に絵コンテを描く監督の特徴でしょう。ただ、冒頭の田所博士のシーンで、研究室で飼われているネコがカメラ目線になっているなど、見落とし?もみられました)、画のパースや撮り方にも工夫があり、そして何より沈没の災害描写が(不謹慎ないい方ながら)美しい(本来はもっと残酷なもののはずで、美しくみせてしまうところが問題という議論もあるでしょうが……)。なお、列島各地の情況を鳥瞰図でみせる映像、時折現れるちょっとしたシーンやテロップ、音楽の使い方には、前作への強いオマージュが感じられました。
エンターテイメントとしてはよくできていたけれども、セルフには響いてこない。感動はしたもののその感動に疑問を抱いてしまう、という難しい映画でしたね。