仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

パンドラとIKEAに行きました

2010-02-21 10:58:51 | 劇場の虎韜
遅ればせながら、ジェームズ・キャメロン監督の『アバター』を観てきた。『ターミネーター』以来、キャメロンの映画をいいと思ったことは一度もないが、『エイリアン2』で海兵隊を絶賛した男が180度の転向をみせた点は面白かった。いうまでもなくこれは『駅馬車』の陰画であり、『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』の系譜に属する作品だが、物語のうえでのオリジナリティには乏しい。最終的には自然環境を巻き込んでの殺し合いにしか決着を見出しえないところが、良くも悪しくもハリウッド的であり、キャメロン映画の思想(そもそも、思想を云々してはいけないのだな)的限界なのだろう。主人公の決断は、やがて地球とパンドラとの全面戦争を招来するはずだが、それについての展望や解決策は一切示されない。『ナウシカ』や『もののけ姫』の製作において宮崎駿がぶつかった問いは、キャメロンの前には立ち上がらなかったということだろうか。一部では、アメリカの大国的正義を批判する作品とみられているようだが、どうも9.11以降の二項対立的情況を促進する面があるような気がしてならない(決起を叫ぶ主人公の演説は、『インデペンデンス・デイ』で、「独立の日」の名の下に異星人との徹底抗戦を宣言する大統領と結局は同じだろう)。『エイリアン2』をエイリアンの側からみた物語だ、ということもできるかな。隣の席に座っていた60~70代のご婦人が3Dに驚き、ラスト近くでは涙を拭っていたように、映画としてのカタルシスはあるのだが…(個人的には、ナヴィの行う送り儀礼がよかった)。
ところで技術的には、実写とCGの違和感ない融合の世界に目を見張る。その分、映像としては絵画的印象が強く、運慶的というより快慶的なスタイルになっている(この比喩、分かってもらえるだろうか?)。これは意図的にだろうが、パンドラのジャングルは多くの生命が息づく猥雑さ、危険さより、ユートピア的な美しさが先に立っている。あたかもゴーギャンの絵画をみるようで、共感の存在自体は否定しないが、オリエンタリズムの変奏である点もまた確かだろう。細かく作り込まれてはいるものの、やはりどこかでリアルさが希薄な点が、全体を通して観て「ファイナル・ファンタジーっぽいな」という感想を抱いてしまう原因かも知れない。

さて、映画のあとはモモと合流してIKEA港北店へ。新居に必要な本棚、机などを購入するためだ。新横浜駅前から出る直通シャトルバスに乗り込み、あとは広大な店内を散策してセルフ・サービスの買い物。この「セルフ・サービス」であることによって、通常の家具店よりかなり安い値段で品物を入手することができるのだが、大量の買い物をすると、そのことがかえって仇になるようだ。ネックになったのは185×185cmの本棚8棹で、これをレジに運んでゆくこと自体が重労働だった。仕方なく近くの店員さんに助けを求めたが、「セルフ・サービスにご協力下さい」ととりつく島もない。しかし、なかには親切な店員さんもいて、その協力のもとなんとか台車6台分800kg以上の運び出しに成功したのであった。それにしても、いくら「セルフ・サービス」が売りだからといって、購入量からすればこちらはかなりの顧客のはず。それが店員の方に気を遣わなくてはいけないというのは、何か間違っている気がしてならない。おかげで大いにカロリーを消費した一日であった。

※ 写真は、IKEA内のレストランにて。学食のようだった。
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次兄の新刊と、おまけの龍馬

2010-02-17 09:48:31 | 書物の文韜
社会学者である次兄(北條英勝)と義姉(新津尚子)の新刊が出ました。竹内郁郎・宇都宮京子編『呪術意識と現代社会―東京都二十三区民調査の社会学的分析―』がそれ。「運勢を占う、節分の豆撒き、初詣、お守り、神社への祈願などの呪術的行為はどのような人々がどのような意識でおこなっているのか。東京都23区での調査を世代・性別・地域ごとに精密に分析して解読し、現代社会に息づく呪術意識を統計的に浮き彫りにする」もの。目次は以下のとおり。
序 章 「呪術」へのまなざし
第1章 調査の概要とデータの特性
第2章 調査結果概要
第3章 東京都二十三区の呪術的傾向―全国調査結果との比較から
第4章 行事・慣行の現代的意味
第5章 墓参りと現世利益―墓参行為の二重性
第6章 お守りを捨てられますか
第7章 「占いブーム」の現在―その受け手は誰か
第8章 若年層の「呪術」とその特徴―高齢層との比較のなかで
第9章 神棚的秩序と仏壇的秩序
第10章 運命と呪術
第11章 祈願に対する効果意識―呪術効果と心理効果
第12章 呪術的諸要素の特性空間
終 章 生活意識と呪術的なるもの―近代化概念の再検討を目指して
1・4・9・12章が兄、2・3章が義姉の執筆である。ぼくの結婚式に来てくださった皆さんはご承知のことと思うが、次兄は大変な理論家であり、異常に頭がきれる。ぼくはブルデュー、デュルケーム、レヴィ=ストロースなどの知識を彼から学んだ。ここでもシャルチエの〈領有〉概念などが駆使されている。関心のある方は、ぜひ手にとってみていただきたい。
ところでこのような分析を読んで思うのは、近代、そして現代とは何なのだろうということだ。ぼくは普段、古代社会だの民族社会だの、比較的呪術どっぷりの対象を扱っている。両者の相違は歴然としてるが、しかし、長期波動というべきか構造的歴史というべきか、同じような心性がずっと持続しているかに思えるものもある。宗教や呪術にとってかわったようにみえる「科学」も、多くの人々にとっては自身で検証したことのない知識への盲信に過ぎず、その意味では文字どおり「科学信仰」なわけで呪術と変わりがない。古代、中世、近世、近代という時代区分が構築するパラダイムとその機能については、あらためて問題にされなければならないだろう。そういうわけで、アルトーグ『「歴史」の体制―現在主義と時間経験―』も併せて掲げておく。

ところで、大河ドラマ『龍馬伝』はなかなかに出来がいい。龍馬・岩崎弥太郎・武市半平太の、憧憬と嫉妬渦巻く人間関係など、ドラマとしてもよくできているし、何より、江戸期の農村や都市に息づく人々をリアルに描き出そうとした細かい演出、照明、撮影、美術には敬服する。役者もよい。福山雅治については、決定当初は不安が大きかったが、これまでの龍馬役者のうちでいちばん「ぼっちゃんぶり」を表現できている。『竜馬がゆく』と残存している写真の影響でどうにも豪放磊落な印象の強い龍馬だが、実際は城下きっての豪商を本家に持つ相当なぼんぼんだったはずである。常に底辺の生活を強いられてきた弥太郎をもてあます芝居など、感心させられるところもあった。このままのクオリティーを維持してゆくのは大変だろうが、どうか頑張ってほしい。脚本の福田靖の起用傾向からすると、未だ発表のない高杉晋作役は堤真一かな?
そうそう、先週の『週刊金曜日』の特集が「たまには龍馬の悪口も言いたいぜよ」で、これも面白く読んだ。内戦を引き起こした死の商人との位置づけなど、なるほどと思わせる部分もある。しかし、特集として掲げながら、執筆者は新井喜美夫(実業家・著述家)・佐高信・中村うさぎ三氏で、実証的な追究は何ひとつなかった。その点では、対極にあるPHP『歴史街道』の特集などと同レベルで、批判的言説としての芯が通っていない。このあたりが、現在の「左翼的言説」の弱さなのだろう。せめて、現時点での幕末史研究の到達点を前提として、話を進めるべきではなかったのだろうか。あ…だから「批判」ではなく「悪口」なのか。
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「全学共通日本史」採点結果その他

2010-02-16 16:07:11 | 生きる犬韜
一般入試の判定会議が終了。今年は文学部の入試方式を一部改変し、昨年まで2次試験として行っていた論述試験をマークシートと同日に行ったため、100数十名受験者が増えた。しかし、歩留率は余計に読みがたくなり(他大学へ去ってゆく人が多くなるということだけは確かだが)、教員一同頭を悩ませていた。入試判定に参加するのは今年で4回目だが、未だに自分のなかに「判定基準」が出来上がってこない。ま、データに頼れる作業ではないので当たり前なのだが、先輩の先生方のご意見を伺うに任せた。試験自体は終了したが、入試に関しては今後どのような問題が出来するか分からない。とにかくまだまだ気が抜けないのだ。

一般入試、大学院入試の合間を縫って、秋学期の担当科目を採点。今期はほとんどが演習科目だったので、時間がかかったのは「全学共通日本史」だけであった。例年この科目はレポートを提出させているのだが、登録者が200名を超え、またコピペの不正も後を絶たないため、今年は「予め調べてきた内容をテスト時間内に論述する」という形式に変えた。持ち込んでよいのは手書きのノートと授業で配布したプリントだけなので、たとえどこかでコピペを行ったにしても、記述することで何かしらの勉強にはなっているはず。
テーマは講義の内容に沿って、「日本史における聖徳太子の意味」と「日本史における動物の意味」から選択させた。前者は、現在の日本史学における聖徳太子研究の現状について、きちんと把握できているかが評価の分かれ目。講義では、『書紀』の関係史料を逐次的に批判してきたので、自分がどう考えるかは自由だが、授業内容が踏まえられていなければ論外となる。もちろん、梅原猛『隠された十字架』や関裕二『聖徳太子は誰に殺されたのか』の内容をまとめてきても評価はできない。
後者は、人間の政治・文化・社会形態の変化に伴って動物との関わり合いや位置づけが変転すること、動物に照明を当てることで歴史理解のあり方が変わってくることが押さえられていればよい。学生たちがどんな動物を対象に選んでくるかも関心があったが、大体において授業で扱った熊・狼・猫、そして蛇・狐・馬・犬などが多かった。鯨や鳥などは少数派。「聖徳太子」に比べて点数の付け方が難しかったが、講義中にも説明しておいたとおり、文献を批判的に読み込めているか、自分の意見と他人の意見を区別できているかを基準にした。狐や蛇を選んだ答案の論調が、ほとんど「吉野裕子」であることには辟易したが、まあ今回は吉野批判など扱っていなかったので仕方ない(あれを鵜呑みにしてしまうのもどうかと思うが…)。
授業を真面目に受けてくれた学生によい成績が出るようにしたかったので、出席やリアクションも厳密に評価したが、結果、テストはよかったのに不合格となった者、逆にテストは?だが合格点に達した者も出た。最終的に、答案を提出した170余名のうち、Aをとれたのは10名ちょっと。D・Fが同数程度、B・Cが非常に多いという印象である。今回はまったく下駄をはかせていないので、秋学期の就学態度のありのままが出たといえるだろう。しかし、史学科でAの獲得者が少なかったのは、ちょっと残念であった。

そうそう、上智大学コミュニティ・カレッジの2010年度春学期の開講講座がオープンになった。ぼくは、研究仲間の工藤健一さん、佐藤壮広さん、深澤瞳さんと、「身体からさぐる宗教文化―モノガタルカラダ―」という輪講を行う。工藤さんが最近打ち込んでいる平家語り、佐藤さんのブルースの実演を中心に構成し、物語り論・身体論から宗教文化を考えようというコアな企画である。しかし、果たして受講者が集まるかが問題で、申し込みが少なければ幻の企画に終わってしまう。皆さん、どうか受講についてご一考くださいますよう。
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「毀学」の語る清末民衆社会

2010-02-13 12:40:33 | 議論の豹韜
今日は土曜だが、修士論文の公開口頭試問のため出勤。日本史の報告はなかったのだが、劉珊珊さんの「清末新政と『毀学』風潮」を面白く聞いた。
20世紀初め、諸外国への巨大な賠償金を抱えた清朝政府は、確たる財源もないまま、強制的な義務教育の施行に踏み切った。西洋式の教育に転換した学堂は、その必要性に対して様々な疑問を孕み、また財源の不足を民衆への多様な税金で賄ったり、寺院や道観、祠廟などを校舎へ転用して伝統的祭祀の場を破壊したりしたため、「毀学」と呼ばれる破壊行為を誘発したという。劉さんは、その主な発生理由を8つほどにまとめているが、なかでも「戸口調査によるもの」という項目が目を引いた。民衆が、戸口調査を「新税をかけるための布石」と誤解したとの説明だが、ぼくが関連して想起したのは、フレーザーの『旧約聖書のフォークロア』である。『旧約聖書』における、王が人口調査を行うと神罰が下るという事例を民族学的に追究し、王権と共同体秩序の軋轢を描き出したことで有名な書物だ。人口調査という現象を、共同体の隅々まで権力がその手を伸ばそうとする典型的な事例と考えたとき、その軋轢が、ひとつ古代世界のみならずあらゆる時代に起こりうることに気付かされる。日本史研究でも、義江彰夫氏がこの枠組みを適用、庚午年籍の編纂と壬申の乱の勃発を結びつけて説明している。
清末「毀学」の背景にも、寺観を追われた宗教者による古代以来の災異説の喧伝がつきまとっており、近世中国民衆社会の「前近代性」を如実に物語る事件のように思われる。劉さんは、各省ごとに「毀学」の発生数の統計もとっているが、一番多いのは浙江省であった。もちろん使用史料の偏り、性質の相違自体も考えねばならないが、同省における寺院・道観・祠廟の多さも影響しているような気がする。試問に際して行われた議論では、近代的視点から「経済」を捉える発言が多かったが、むしろその「経済」の前近代的意味が問われるべきなのではないだろうか(これは、ぼくが現在追究している「負債」の問題とも関わってくるが…)。
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一安心

2010-02-10 18:51:50 | 生きる犬韜
本日、ようやく今年度の一般入試が終了。この間、心配事が多くて何も手につかず。まだまだ油断できない情況が続くが、まずは一段落といったところだろうか。あとは入試の事後処理、それからテストの採点に来年度のシラバス作成。それが終われば、近代学問シンポの準備と、年度内に出すべきもう1本の論文の仕上げにとりかかれる。

『上代文学』の原稿は、8日(月)にようやく脱稿。暮れから3本の論文を書き、別の1本を校了、シンポジウムでの報告もこなした。1年で最も忙しい時期に頑張ったものだが、『古代文学』『上代文学』の論文については、それぞれの大会シンポで発表させていただいた段階から、ほとんど先へは進めなかった。先行研究の議論に乗っかりまくっている部分もあり、反省することしきりである(これが学生の卒論なら手ひどく叱っているところだ)。しかし後者の方では、「甲申の災害」(道教の終末論、劫運思想)に関する菊地章太さんの研究を読み直していて、幾つか新たな着想を得た。まだ憶測に過ぎないが(そればっかり)、列島古代の洪水、水害を語る諸言説にその影響があるのではないかと思うのだ。例えば以前に分析した『三宝絵』所載の「観音縁起」だが、主人公?の祟りなす樹木は「大水」によって出現し、やがて疫病を蔓延させる。女青経典などに語られる「甲申の災害」も、水害と疫病がその主体となっていて共通性が高い。「縁起」にある大水の干支は「辛酉」で異なるが、「甲申」は木属だから、出現するのが樹木であることとの繋がりはあろう(強引か?)。「甲申の災害」を引き起こす疫鬼は、『冥祥記』などによって、現身離脱を望む廟神と同じように表現される。「縁起」の祟る樹木も最終的に観音像に造られることから、神身離脱と同一の論理をもって構築されていると考えられる。「観音縁起」述作の史料となった、僧侶が流木を用いて造寺や造仏を実践するという物語群の成立も含め、道教と仏教の交渉のなかで捉え直してゆかねばならないだろう。

ところで。忙しさにかまけて、諸先輩、諸先生方には相変わらず不義理をしてしまっている。三浦佑之さんからは、なんとまたご本を頂戴した。今度は『霊異記』の入門書で、驚くべきことに、今年に入って3冊目の新刊である(昨年の12月にも、NHKラジオのテキストを出されているので、4冊目といってもいいのだ)。まったく、3本の論文を書いたとひーひー云っている場合ではない。
いつも何かとご教示をいただいている石井公成さんからは、近代学問シンポに関する資料を頂戴したり、5月刊の『東方宗教』に掲載されるご高論の「『書紀』仏教関係記事道慈述作説」に対する批判箇所をみせていただいたりしている。倭習に関してはかなり説得力のあるご指摘で、やはり道慈自身が叙述したのだという考え方は無理があるといわざるをえない。先日の『日本書紀』を考える会でも少々議論になったのだが、編纂や述作という概念自体を厳密に考えなおす必要がある。ぼく自身としては、『書紀』の述作者に、現在判明している誰かを当てはめてゆくという考え方自体に無理があると思うが…(森さんの説も含めて。それは英雄史観でしかなかろう)。
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たとえ文学「少女」と呼ばれようが

2010-02-05 10:52:51 | 生きる犬韜
入試業務の合間を縫って続けている『上代文学』掲載論文の執筆が、佳境に入って難航している。シンポジウムのときには上々の評判だったのだが、どこがそれほどよかったのか自分で分からなくなってしまった。ここが踏ん張りどころだろう。
4月の御柱シンポのテーマも提出しなければいけないというので、通勤・帰宅の車内のなかであれこれ考え、とりあえず以下のような方向性でゆくことにした。
アジアに広く伝わる〈動物の主〉神話では、人間は狩猟対象である動物の主と契約を結び、毛皮や肉、骨などを獲得する。身体を提供した神霊は、丁重に饗応され他界へ送り返されるが、そこは人間の死者も赴く魂の原郷であった。このような〈送り〉の祭儀は植物や無生物をも対象とし、例えば高知県のいざなぎ流神道などでは「木魂送り」の技が確認されているし、イオマンテ(飼熊送り)がよく知られるアイヌには「家送り」もある。仏教的な意匠をまとった○○供養という儀礼の基底にも、〈送り〉の思想が流れているのかも知れない。
ところで、御柱祭を担う諏訪大社は、列島の神社のうちでは例外的に、狩猟採集の宗教文化を色濃く残している。御柱が氏子たちの歓声のなかで「山出し」「里曳き」されてゆくさまは、イオマンテの子熊が囃し立てられる光景を連想させる。樹木婚姻譚の典型をなす「三十三間堂棟木由来」の物語でも、樹木が柱に転換されるうえで〈曳かれること〉が重要な意味を持つ。式年造替で心御柱を建てる伊勢神宮でも、山口神祭・木本祭と続く一連の祭儀のなかに、やはり「奉曳式」が存在する。イオマンテを通じて熊神のグレードが上がるように、樹木も祭儀を通じて神聖な存在となってゆくのである。
しかしこのとき、樹木に宿っていた樹霊はどうなってしまうのだろう。熊神と同じように他界へ送られるのか、それとも忌部氏の行う木鎮め祭儀のように造形物の守護神となってゆくのか。この疑問は、結局〈柱〉とは何なのか、なぜ樹木を〈柱〉にせねばならないのかという根本的な問題にゆきつく。アジアの諸事例も視野に入れて考えてみたい。
どうだろうか。まだ御柱祭についてちゃんと勉強していないので、本当にこれで報告ができるのか心許ないのだが、列島のアニミズムが(どの段階で、という歴史過程も重要だが)、動物と植物をどう区別していたか、あるいはまったく区別していなかったのか、という問いにも迫れるような気がする。あとは、「長谷寺縁起」の木鎮め的分析の際に課題としていたように、〈引くこと〉〈引き回すこと〉を祭儀の歴史のなかにきちんと位置づけたい。今後の考察次第で、少しずつ方向を修正し、しっかり仕上げてゆこう。

昨日の帰り、時折立ち寄る神田駅前の啓文堂で、左の本をみつけた。『赤毛のアン』シリーズと並ぶモンゴメリの代表作、『ストーリー・ガール』の新訳である。20年近く前、NHKでカナダ製作の『アボンリーへの道』というドラマを放送しており、ぼくら一家は完全にはまってしまっていたのだが、これはその原作。旧版は、文学少女で『赤毛のアン』好きであった母親の誕生日にプレゼントしたことがある。しかし、自分では読んだことがなかったので、今回あらためて手に取ってみた。”ストーリーガール”の異名をとる主人公のセーラ・スタンリーは、すらりとした長身の14歳の少女。顔も長々していて「美人ではない」が、その形容しがたい虹色の声で語られるオハナシは、誰でも虜にしてしまう。アンにも通じる、モンゴメリ自身の姿を投影したキャラクターであることは容易に想像がつくが、彼女の披露するオハナシ自体も、モンゴメリ家に伝わった実話が多いらしい。プリンス・エドワード島の美しい景観がありありと浮かぶ描写、木村由利子さんによる訳もこなれていて心地よい限り。「お前は文学少女か!」と突っ込まれそうだが、海外渡航が苦手なぼくでも、「ああ、プリンス・エドワード島に行ってみたい!」とミーハーな思いにさせてくれる作品である。
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因幡の「素兎」と毛皮

2010-02-02 19:51:17 | 議論の豹韜
今年の卒論で、「因幡の素兎」をテーマに選んだ女子学生がいた。歴史学的に扱うには難しい対象だが、鳥取大学等でまとまった文献が出ていたこともあったのだろう、それなりに手堅く仕上げられていて感心した。ところでそれを読みながら思ったのだが、シロウサギは、因幡地域の生態的条件に即していうと白毛ではありえないらしい。確かに、『古事記』には毛が白いとは一言も記されておらず、「素」字をシロと訓ませているだけだ。「素」とは和爾に毛皮を剥がされた赤裸の姿を指す。「毛皮を剥がす」…そう、このエピソードも毛皮に関する言説のひとつだったのだ。このブログでも時折書いているように、毛皮は狩猟採集社会の神話において極めて重要なアイテムで、これを通じて獣/人がお互いの存在・世界を行き来する。素兎譚の基底をなす話型「水界の生物が狡猾な陸の獣に騙される」には窺えなかった対称性が、毛皮の奪取と再生というモチーフの付加によってにわかに浮かび上がってくる。以前、斎藤英喜さんが「素兎は八上比売だ」という趣旨のことを書いていたが、毛皮を取り戻し、オオナムチに八上比売との結婚を予言する兎神は確かに比売自身かも知れない(とすれば、群がる和爾たちは八十神であろう)。『古事記』のオオクニヌシ神話を成巫譚として読み解く方法は正しいと思うが、そこには当然のことながら、狩猟採集社会の宗教的心性を見出すこともできるのだ。そうなるとやはり、この緻密で一貫性ある物語を誰が構築したのかが気にかかる。バラバラの物語群を、シャーマンの誕生過程と神話の機能を充分理解し、ひとつながりに仕立て上げていった者たち。もう一度、撰善言司に注目してみようか。

ところで。ぼくの読んでいる複数のブログで、NHKスペシャル「無縁社会」が話題になっている。これも、網野善彦の無縁概念を扱った卒論があったために余計印象に残ったのだが、本来仏教的には「無縁」などありえず、孤独も断絶も因・縁・果のなかで起きる現象ということになる。関係のなかで起きることなのだと自覚した方が事態は深刻に映るはずで、「無縁社会」というネーミングはキャッチーだが正鵠を射ていない気がする。親の死よりペットの死を悲しむというメンタリティーも、個々の対象に対する関係の取り方から来ている。現代社会がなぜそうした関係の創出を選択するのか、しっかりと考えねばならないだろう。
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卒業論文口頭試問終了

2010-02-02 11:16:03 | 生きる犬韜
1日(月)、卒業論文の口頭試問が行われた。日本史専攻は古代・中世、近世・近代の2グループに分かれて実施されるが、このところの傾向で、古代・中世は合計9人と少なく、9:30から始めて昼過ぎには終了となった。

古代史ゼミの卒論テーマは、万葉歌と自然との関係、難波における治水、奈良朝における天智崇拝、兎の神聖性、酒の神聖性と相変わらず個性的である。卒論とはある意味で「4年間の学生時代」の表象される歴史叙述だから、この「個性的である」ことが何より重要なのだ。良くも悪くも、その学生がどのように学生時代を過ごしてきたのかが、テーマの選択・形式・構成・考察結果に如実に表れる。それに成績を付けなければいけないのは大変だが、…今回は全体的にちょっと甘かったかな(成績評価って、いつまでも経っても慣れないものだ。これでよかったのか、うじうじ考えてしまう)。一方の中世史の方は、一見して優秀なものが多かった。指導されている青山先生の性格からか、文書をきちんと読み込んだ詳細な内容のものが多い。毎年口頭試問が終わると、自分の指導方針はこれでいいのかと思い悩む。プレゼミではできるだけ多くの種類の史料を扱えるよう配慮しているのだが、3年のゼミになるとそれらがどんどん忘却されてゆくようだ。今年度から、ゼミは『霊異記』と『中右記』の2本立てで行っているが、関連論文をみればいろいろな史料が引用されているはずが、報告者はほとんどそれらを読み飛ばしてしまう。史料集だけでB410枚以上作ってきたぼくらの頃とは違い、文章の結論だけ引いてきて史料は紹介しない。これでは、報告者も他の参加者も勉強にならない。自ら貴重な勉強の機会を逸しているのだ。学生たちにはぼくのいうことが「ハードルが高い」と映るようで、写本の校訂なども「こんなことをしているゼミは他にない」「やることがありすぎる」といった声が聞こえる。彼らの気持ちも分かるので結局は妥協してしまうのだが、来年度はそのあたりを注意せねばならないだろう。
ぼくの口頭試問は細かいので、毎年、ちゃんと答えられない学生も多い。でも、今年は懸命に発言した方かも知れない。みんな緊張していて、なかには吐き気を催すような子もいた。とにかく「お疲れさま」である。あとは、残り少ない学生生活を悔いのないように過ごしてください。

日本史専攻教員全員による成績確認を終え、研究室に残って『古代文学』の初校を片付けていたら、珍しく予報どおりに雪が降り出した。道教と穴との関わりをもう少し深めたかったのだが、時間も紙数もなく、三浦國雄さんのオーソドックスな議論に乗っかる形になってしまった(これが卒論だったら、ぼくは突っ込みを入れているな)。悪い癖でかなり朱を入れたが、21:00過ぎには何とか作業を終え駅前のポストに投函、すでに遅れ始めている中央線に飛び乗った。ここ数日で、『地域学への招待』の念校も終了。『上代文学』も今日明日で仕上げねば。
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