仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

慌ただしい月末

2010-03-30 13:49:53 | 生きる犬韜
ずいぶんと更新に間が空いてしまったが、それは仕方のないこと。なぜなら、横浜の自坊から三鷹の新居へ引っ越しを敢行したからである。その間、ゼミの追コン(23日)だの、中国から帰国した水口幹記君の歓迎会(24日)だの、自坊の彼岸会(25日)だの、卒業式(26日)だのいろいろイベントはあったが、ようやく一息ついたところだ。転居作業に関しては、実に4トントラック2台分もの荷物が出て(8割が本)、よくもまあこんなに書物を集めたものだと我ながら呆れてしまった。結局、すべての荷物を運び終えることはできなかったが(あとは夏休みだね)、家族や友人の協力で何とか形を付けることはできた。しかし、これからIKEAの本棚を作り(机・椅子・書類棚を組み立てるだけで大変だった)、荷を解いて書物を整理してゆくことを考えると、本当に生活・研究環境が整うのはいつになるか知れない。4月以後、月刊でシンポや原稿が待っているので、必要なものから整理してゆくしかないだろう(写真は書庫兼書斎の地下室。PCまわりだけは復旧させた。モニターばかりで何の研究室か分からない状態である)。

さて、冒頭に少しだけ書いたが、今年も卒業生を送り出した。彼らはぼくが初めて1年生から担当した学生だったので、それなりに思い入れがある。全体としてはものわかりのよい、素直な子たちであったが、セクト主義で、小さな集団を幾つも作りほとんど他のグループと交流しない。一見何の特徴もないようだが、ひとりひとりの顔をよくよくみてみると、かなり頑固で個性がはっきりしている。ぼくのゼミ生などその典型で、指導には手を焼いたが、客観的に「眺めて」いると非常に面白い子供たちだった。会社への適応という点からすると、そのマイペースぶりは一度壊しておくべきだったかも知れないが、彼らもそのあたりは承知のうえで学生生活を謳歌していたのだろう。案外しぶとく働いていけそうな気がする。ただ、大学院へ進学してくるI君を除いて、ゼミ旅行などへは一度も参加しなかった面々なので(研究室にはよく遊びに来ていたけれど)、あまり深い話ができなかったのが残念なところである。ま、今後もし想い出すことがあったら、研究室へ遊びに来ておじさんをかまってやってください。
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モモ、学位を授与される

2010-03-20 13:07:29 | ※ モモ観察日記
19日(金)、東京国際フォーラムにおいて開催された「首都大学東京・東京都立大学合同卒業式・修了式」にて、モモは研究科代表として博士の学位記を授与されました。途中、石原都知事の「中世という暗黒時代を抜けて、ルネッサンスにおいて人間は解放された」という旧態依然とした歴史観が披露されたり、研究科長がモモの名前を読み上げるタイミングを間違えるなど多々ハプニングはありましたが、彼女は「そこらの小娘じゃないんだから」と堂々とした態度で代表を務めたのでした。こうしてモモは、おかげさまで「博士モモ」に生まれ変わりました。今後ともよろしくお願い申し上げます。
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マルチタスクな日々:研究会2種

2010-03-18 03:38:13 | 議論の豹韜
シンポを終えてようやく引っ越しの準備ができると思ったら、まるでそれをを阻むかのように、次から次へと原稿の校正が押し寄せてきた。ま、1月にそれだけ書きまくったのだからやむをえないが、ある程度は後回しにせざるをえないか…。とにかく、引っ越せないことには始まらない。…などといいつつ、昨日(16日)と今日(17日)は研究会参加のために外出していた。まったく、学者というのは因果な職業だ。

昨日は成城大学の『家伝』研究会。論集締め切り前の最後の例会で、「武智麻呂伝」の伊吹山登山から気比神宮寺創建に至る部分を、篠川賢さんの報告で読んだ。篠川さんは、基本的に『家伝』編纂時における創作との立場だが、ぼくもまったく同感である。ただし、気比神宮寺創建譚の多層的な構成からは、何段階かの述作プロセスが読み取れる。例えば「優婆塞久米勝足」などが何の脈絡もなく出てくるが、山林修行者が神の託宣を受けるという中国の神身離脱譚との比較でいえば、元来はこの勝足をこそ主人公とした物語が存在し、それを武智麻呂に置き換えて再構成したと考えた方が理解しやすい。また、夢に現れた人物の神性を問うくだりは、神身離脱譚よりも祟り神や神殺しの言説に多い。延慶は複数の素材を繋ぎ合わせ、高僧の徳を讃嘆する隋唐の神身離脱譚よろしく、武智麻呂を顕彰する物語へ仕立て上げているものと考えられる。さらに『家伝』というテクストの総体からいえば、歴史叙述の形式の時代性に興味を覚える。『家伝』述作は、仲麻呂の国史編纂事業と並行し、史料の一部を共有しながら進められている。この国史は結局完成をみなかったが、その史料や草稿は『続日本紀』に活かされたと推測される。しかし、『家伝』の叙述形式は古小説的なエピソードを連ねる形態で、『続紀』というよりは『書紀』に近い。ここには、単に「伝記だから」という以上の意味があるように思われる。論集では「兵法の文化史」を書くつもりだが、いずれ「歴史叙述としての『家伝』」も正面から扱わねばならないだろう。

今日は、近代学問シンポでお会いした鹿島徹さんにお誘いをいただき、東洋大学総合人間科学研究所のヘイドン・ホワイト研究会に参加した。どうやら昨年のホワイト来日を記念し、岩波の『思想』誌が特集を組むらしい。『メタヒストリー』の翻訳もついに刊行のようで(平凡社は諦め、作品社から)、今年はホワイトをめぐる議論が盛り上がることになるかも知れない。会自体は、まず主催者の岡本充弘さんが、『思想』の原稿を下敷きにホワイト思想の全体的な紹介をされ、それに上村忠男さんや鹿島徹さんがコメントを付けるという贅沢な形式で行われた。ぼくは、日本史における理論研究の現状をコメントする役どころに終始したが、個人的に強い関心を覚えたのは〈歴史場(historical field)〉の問題である。10年前に「回顧と展望」で叩かれた拙論にも書いたことだが、ホワイトの実証主義批判の白眉は、叙述以前の〈先行形成〉の段階でも隠喩・換喩・提喩・アイロニーが機能しているとした点にある。これらtropeの作用する認識野が〈歴史場〉だが、岡本さんのお話では、ホワイトはこの概念に厳密な定義を与えておらず用法も一定していない。上村さんは、それがいかにして成立しうるのかきちんと説明されなければならないと仰っしゃっていたが、そのとおりだろう。歴史学者に限定して考えれば、ディシプリンの身体化、歴史学者の職業的共同体との関連から、ブルデューの〈場(もしくは「界」。champ)〉の議論に結び付けて考えることも可能だろう。上村さんはより根源的なところに目を向けていらっしゃる印象だったが、ぼくも最終的には、ホモ・ナランスの存在証明たる〈歴史を語る欲望〉に引き付けて考えたいと思っている。もちろん、種の問題に置き換えて本質化してしまうつもりはないのだけれども、歴史学者のハビトゥスというより人間の物語り行為全般に関わる問題ではないかと思うのだ。
この〈歴史を語る欲望〉は、ホワイトのいうpractical pastあるいはpublic historyの生成に直結するが、忘却を恐怖するベクトルの強さからナショナルな語りに回収されやすい。practical pastの多様化に寄与しながら権力との関係をチェックし、(意図的にというより、支配的言説を相対化し歴史の多様化を実現する帰結として)その方向性を修正するのが歴史学者、彼の紡ぎ出すhistorical pastあるいはproper historyの役目なのだろう。もちろん、そのproper historyは、できる限り開かれた言説世界で検証されなければならないわけだが…。ちょっと単純かな。もう少しちゃんとホワイトを読み込んでみるか。

※ 写真はいわずと知れた『メタヒストリー』と、唯一の訳書(といっても小冊子)である『物語と歴史』。『言説の転義』も翻訳中であるとか。
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シンポ「近代学問の起源と編成」終了:濃密な2日間

2010-03-15 18:57:40 | 生きる犬韜
13・14日の土・日、早稲田大学高等研究所主催のシンポジウム、「近代学問の起源と編成」が終了した。この2日間は本当に濃密で、その印象を未だ整理して語ることができない(昨夜の帰宅途中、電車のなかで偏頭痛に悩まされたほどだ)。しかし、このようなシンポジウムにおける収穫とは、本当に人と人との出逢い、繋がりにあるのだとあらためて実感した。まずは、シンポでお世話になった方々に御礼の言葉を記し、議論の成果や問題点については追々語ってゆくことにしたい。

まずは企画者の藤巻和宏さんと井田太郎さん。藤巻さんとはいろいろな場面でご一緒しているが、あらためてフィクサーとしての凄さを痛感した。藤巻さんほどの広く精密な視角がなければ、これほどのシンポジウムをまとめることはできなかったろう。ご報告「文学研究の範囲と対象」からも、近代学問のディシプリンが未だに我々の認識自体を規制し、その自由な実践を束縛している矛盾を強く感じ刺激を受けた。井田さんとは初対面であったが、学問に対する考え方の深いところで共鳴する部分があるようだ。常に冷静な彼の口から紡ぎ出される言葉には、いちいち納得させられる。向こうは迷惑かも知れないが、新たな同志を発見したようで心強くなった。
このブログにもときどきコメントをいただいている田中貴子さんとは、今回初めてお会いした。テレビなどではお顔を拝見していたが、思ったとおりの理知的な方だった。討論の場で颯爽と、しかし誠実かつ丁寧にコメントされる姿が頼もしかった。今回はぼくが不義理をして(1日目終了後、別の約束で早急に移動せねばならなかった)、ご挨拶程度のお話しかできなかったのが悔やまれる。「中世に本質はないと思いながら、ふと気付くと〈中世らしさ〉を探している」とのお話は、このシンポの全体を貫くキーワードでもあったろう。
笹沼俊暁さんのご研究は、今回のシンポジウムの基調を形成しているともいえる。2日目の討論の際にぼくの報告に質問をいただいたが、他者表象の叙述について同様の問題意識をもって格闘されている方だと知った。台湾での教育・研究は大変困難を伴うだろうが、そうした場でこそ培われた深みが、ご発言の随所に表れていた。
平藤喜久子さんには、近代と古代をつなぐ緻密なご業績にいつも刺激を受けていた。「環境/文化研究会(仮)」にも参加していただいているのだが、今回ちゃんとご挨拶できなかったのが残念である。神話を考察する枠組みの問題は、すぐさま自分の学問を相対化する役に立った。マックス・ミューラーと仏教学、神話学の問題は、2日目のぼくの報告でも「ジャーマン・インパクト(青谷さん命名)」との関連で言及させていただいた。
玉蟲敏子さんは、周囲の人間に本当に気を遣われる方だった。極端な〈創られた伝統〉の議論に抵抗し、前近代よりの継承を地道に論証されたご報告には、まさに学問のあるべき姿をみるようで感動した。
藤田大誠さんは、「自分は場違いではないか」と盛んに恐縮されていたが、国学が近代学問の知的基盤を形成したという議論は、大変に刺激的で有意義だった。休憩時間に、渋谷学への取り組みについてちょっとだけ伺うことができたのも収穫だった。今度はぜひ、死者表象の問題についても意見交換したいものだ。
青谷秀紀さんには、日本人としてヨーロッパ研究の一線で活躍している人の凄みを感じた(ぼくのようにエセではない)。ご報告で提起された、リースとピレンヌとの関係には虚を突かれる思いがした。懇親会の終わり近くにようやく意見交換できたが、歴史学者として同じ思いを抱いて実践している人がここにもいたのか、と嬉しくなった。

ところで、ぼくの報告の終了後、なんと鹿島徹さんが声をかけてくださったのは衝撃だった。鹿島さんのご論文は『思想』で初めて拝見し、以来、度々引用させていただいてきた。2004年、一橋大学で日本哲学会の大会があり、歴史と物語りとの関係が議論されたときにも、鹿島さんのご報告を伺いに出かけた記憶がある。人づてに聞いたところでは、一昨年、『歴史評論』の「歴史学とサブカルチャー」で鹿島さんの論に言及した際、それを読んでくださって編集委員会へお手紙をくださったようだ。こちらが抜刷も差し上げずに不義理をし続けていたにもかかわらず、わざわざ足を運んでくださったのである。恐縮至極である。近年、方法論研究を怠けて海外文献もろくに読んでいないのだが、これではいけないと気持ちを新たにした。
中世文学の尾崎勇さんが「あなたの論文を引用したことがありますよ」と、比較文学の河野至恩さんが「情報交換しましょう」と声をかけてくださったことも嬉しかった。懇親会の席上で濃密な議論をさせていただいた、美術史の権威大西廣さんにも感謝申し上げたい。討論の場での力のあるお言葉、自らのポジションの自覚と相対化が大事であるとのご発言には、深く頷かされた。
また、ブログ「繭の図書館」を運営している民俗学者の卵、cocoon12さんと直接話ができたのもよかった。「若気の至り」とは無縁な、誠実そうな好青年だった。彼を通じて村田小夜子さんからいただいた「都市伝説「港のメリーさん」のゆくえ」は、「人を通じて歴史を理解する」ことを先取りした内容で感激した(いずれこのブログで感想を書きます)。それから、やはりcocoon12さんに紹介していただいた吉村晶子さん。帰宅途中に、「あっ、香炉と往生の人だな」と気付いたのだが、後の祭り。今度の寺社縁起研究会で、これまた興味深い「日本平安期および中国往生伝における「匂い」」とのご報告をされるらしく、絶対に聞きにゆかねばと思ったのだが、なんと勤務校の卒業式と重なっている。残念。今度、ぜひゆっくり話を聞かせてください。
去年ぼくのゼミを卒業したN君も、忙しいなか報告を聞きにきてくれて、懇親会にまで付き合ってくれた。「いつか学問の世界に帰るために」と、積極果敢に研究者に語りかける彼の姿には、志の高さを感じた。

最後に盟友の工藤健一さん。13日、シンポ1日目が終わった夜には、佐藤壮広さんと、工藤さんの平家語りライヴを聞きに行ったのだ。彼は学生時代からバンド活動をしていたが、研究者としての実践とともに、アーティストとしての取り組みも続けている。ロックな平家語りを始めたという話は数年前に伺っていたが、今回ようやく拝見・拝聴することができた。古来神祭りに使われた弦と鈴に引き寄せられ、地霊・怨霊の唸りのような管が叫びだし、緊張感に満ちた工藤さんの語りが始まる。叩き付けるような義仲、文覚のくだりは迫力に満ちて圧巻であった。途中、マイクのトラブルなどがあって、完全主義のご本人には納得できない出来であったかも知れないが、ぼくは充分に堪能させていただいた。しかし、管の奏者が工藤さんのテンションに付いていけていないかな、DJとも時々呼吸がずれるところがあったかな、という印象は抱いた。工藤さんのイメージを体現できるメンバーを集めるのは大変かも分からない。14日、ライヴでへろへろになっているはずのその工藤さんが、朝一から報告を聞きにきてくれたのは何よりありがたかった。

とにかく、今回のシンポジウムに関わった皆さんに心から御礼を申し上げる。ありがとうございました。
さて、あとは引っ越しだ!
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博士号取得!

2010-03-08 17:47:04 | ※ モモ観察日記
われらがモモが、おかげさまで、みごと博士号を取得したようです。万歳!
とりあえずご報告まで。詳細は後日あらためて。
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早く、スピヴェット君に会う環境を整えよう

2010-03-04 11:37:34 | 書物の文韜
3月に入って、大学の仕事も新年度へ向けて舵をきった。幾つかの委員会の会議をこなし(来年度から教授会の書記も引き受けることになったので、学科長会議にも出席せねばならない)、シラバスの登録も終了(特講では前にも書いたとおり「異類婚姻譚・変身譚」を扱うことにし、全学共通日本史のかわりに担当することになった「原典講読」では、絵巻を素材にテクストと画像の関係を考えることにした)。また、某学会誌の依頼で特集の企画案を作成、承認されるか半信半疑で「種間倫理の再構築」を掲げてみたのだが、何とかなりそうな気配でさらに具体化してゆくことになった。皆さん、もし執筆の依頼が届きましたらご快諾ください。
私的には、確定申告など税金関係の処理、シンポジウムの準備に明け暮れているが、体調が万全でなく充分に集中できない状態である。時間ばかりが無駄に過ぎてゆくようで、精神的にもよろしくない。『古代文学』は校了、『上代文学』は初校を終了。倉田実さんの還暦論集も初校が出てきたが、〆切がシンポとかぶるので少々待ってくれるようお願いした。2月中に仕上げたい論文がもうひとつあったのだが、これもシンポのため2週間作業を休止。シンポの終了後は引っ越し作業を始めなければならないが、なんとか同時進行で脱稿したいものだ。その後も4月の御柱シンポ、4月末・5月末・7月末・8月末〆切の論文が1本ずつ控えている。4・5月は複数の研究を仕上げてゆかねばならないので、けっこうきつそうである。ふー。3月末には、引っ越しの打ち上げにモモと温泉にでもゆこうかと思っていたが、「一服する余裕」があるかなあ。

さて、昨日は出勤して幾つか書類を作成するとともに、出版社K社のH氏と打ち合わせ。1月の立教大学でのシンポの折、ぼくの単行本を出したいと仰った方である。学会やシンポの際にはそういうことを挨拶がわりにいう編集者も多いのだが、H氏はその後ちゃんと連絡をくださり、実際に書き下ろしの単行本を出すべく企画を練ってゆくことになった。勉誠出版の『環境と心性の文化史』の方向性を受け継ぎ、日本的自然観の構築過程を批判的に扱う内容になるだろう。未だ完成をみない秦氏の本も含め、計画的に執筆を進行させてゆかねばなるまい。「調子が悪い」などといっている場合ではない。

左の写真は、最近衝動買いした物語たち。五十嵐大介の『SARU』上巻は、伊坂幸太郎との同一テーマ競作になる書き下ろしの単行本である。五十嵐版『幻魔大戦』とでもいおうか。『西遊記』研究で有名な中野美代子氏が、美人研究者ナカノ・ミヨコとして登場するのも面白い。SARUの宿った少女と神父との対話は『エクソシスト』を髣髴とさせたし、最後のSARUの出現シーンは『エヴァンゲリオン』っぽかった。絵柄がアニメ的だとげんなりしてしまう内容だが、緻密だが乾いた画力が作品世界を支えている。
押井守『ケルベロス・鋼鉄の猟犬』は、『紅い眼鏡』に始まる氏の仮想戦記シリーズ・ケルベロスサーガの最新作。首都圏対凶悪犯罪特殊武装機動特捜班のモデルとなった、ドイツの第101装甲猟兵大隊の興廃を描いたもので、2006~2007年に文化放送で放送していたラジオドラマのノベライズ。『紅い眼鏡』は、まだ映画作家を志していた高校時代にキネカ大森の単館上映で観た。当初は不条理活劇の印象が強かったこのシリーズも、押井作品全体のトーンが変質するに伴ってシリアス一辺倒となっていった。それがちょっと残念だが、宮崎駿における南フランス・イタリア、押井守におけるドイツを考えるうえでは重要な作品でもある。
ライフ・ラーセン『T・S・スピヴェット君傑作集』は、今回いちばん読むのが楽しみな作品。amazonの紹介には以下のようにある。
モンタナに住む十二歳の天才地図製作者、T・S・スピヴェット君のもとに、スミソニアン博物館から一本の電話が入った。それは、科学振興に尽力した人物に与えられる由緒あるベアード賞受賞と授賞式への招待の知らせだった。過去にスミソニアンにイラストが採用された経緯はあるものの、少年はこの賞に応募した覚えはない。これは質の悪いいたずら?そもそもこの賞は大人に与えられるものでは?スピヴェット君は混乱し、一旦は受賞を辞退してしまう。だがやがて、彼は自分の研究に無関心な両親のもとを離れ、世界一の博物館で好きな研究に専念することを決意する。彼は放浪者のごとく貨物列車に飛び乗り、ひとり東部を目指す。それは、現実を超越した奇妙な旅のはじまりだった。アメリカ大陸横断の大冒険を通じて、自らの家族のルーツと向き合う天才少年の成長と葛藤を、イラスト、図表満載で描き上げる、期待の新鋭による傑作長篇。
内容のみならず、その装幀、ページ1枚1枚の凝ったレイアウトが本好きには溜まらない。文学としては少々値の張る本だが、買わずにはいられなかった。新居の書斎でゆっくり読みたい1冊である。
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