仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

まとまらない毎日

2009-03-06 15:08:13 | 生きる犬韜
今年度も終わりに近づき、ストックしてあった個人研究費を使って書物を買い漁っている。研究費を貰えるということが、専任になって最もありがたいことのひとつだ。新刊本でいちばん食指の動いたのは左のシリーズ、秋道智弥監修『論集 モンスーンアジアの生態史―地域と地球をつなぐ―』全3巻で、総合地球環境学研究所の共同研究プロジェクトの成果をまとめたものである。写真もふんだんに使っている豪華な本で、弘文堂の心意気も伝わってくる。ひとつひとつの論考を読むのが楽しみだが、ぼく自身の問題関心としては、こうした生業研究を心性史の構築に活かすことにある。環境と心性との関わりを考える枠組みについては、以前にも論文を発表したことがあるが、個別に検討しなおさねばならない問題も多い。また、本書の方法論の基本は生態人類学的アプローチなので、〈生態史〉といっても扱われている時代は近現代、遡っても近世までである。「実地調査をしえない古代の環境史はいかにして可能か」という難問についても、現状に満足せず考え続けなければならないだろう。このあたりのことは、今週末の環境/文化研究会(仮)の例会報告「二項対立のアポリアを考えるために―雲南省納西族〈祭署〉をめぐるデッサン―」でも話をしようと思っている。

現在、校務の方は各種委員会の会議がちらほらある程度だが、上にも触れた3/8(日)の環境/文化研究会(仮)例会の報告と、/10(火)の初年次教育学内研修会パネル報告の準備、熊野古道の概説など数本の原稿の執筆を併行して進めているので、何が何だか訳が分からなくなってきている。精神的にも散漫になっていて、まさに「まとまらない毎日」である。
そうしたところへ、妻の伯父が急逝したとの知らせが舞い込んだ。べらんめえで気持ちのいい人であったが(義母の葬儀での発言)、十数年前から肺を患い、以降はどこへゆくにも酸素タンクが手放せない生活だった。ぼくは昨日、学科会議の終了後に通夜に駆けつけたのだが、勤行を担当した日蓮宗の導師の、故人を置き去りにしたような説教がやや気になった。ところが今日、葬儀に出ていた妻から入った電話によると、その僧侶がリリジャス・ハラスメント※1まがいの暴言を吐いたという。駐車スペースの確保ができていないだの何だのと文句をつけ、これでは故人も成仏できないと、遺族を平身低頭謝らせたというのだ。僧侶としていちばん云ってはいけない言葉だし、してはいけない行動だろう。大切な人を喪って悲しみに暮れている人間に、さらに追い打ちをかける。義伯父の家族の心中を考えると、悔しさと怒りがこみあげてくる(義伯父本人だったら、きっと大声で「お前にお経をあげてほしくない、帰れ!」と一喝したろう)。仏教は僧侶自身の手によって日々衰退しているのだと云わざるをえない。

※1 monodoiさんから、スピリチュアル・アビューズ(spiritual abuse)の方が適切ではないかとの指摘を受けましたので、注記しておきます。
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