「戦争の犠牲となり、今日の日本国の繁栄の礎となった戦没者の御霊に、追悼の誠を捧げること」
に日本国民の誰ひとりとして反対する人はいない、と思います。
では、「追悼の誠を捧げる」という「意志」を、どう実体としての「行為」に表象させてゆくのか?
という課題に対して、議論が分かれることになります。
即ち、「靖国神社」という施設が、「意志」を「行為」に表象させる「場」としてふさわしいのか否か、ということです。
もちろん、一宗教法人たる「靖国神社」に誰がどう参拝しようが、基本的には自由です。
ここで、「靖国神社」について考えてみます。
岩波書店の広辞苑によると、「神社」とは、「神道の神を祀るところ」と書いてあります。
次に、「祀る」を引くと、①供物・奏楽などをして神霊を慰め、祈願する②神としてあがめ、一定の場所に鎮め奉る、と出ています。
「靖国神社」とは、「国家権力の命により戦争等の国事に殉難した軍人、軍属等の人々」を「神としてあがめ、鎮め奉る」場所ということになります。
だからこそ、「遺族会」の皆さんが、国の為に戦死した肉親は「靖国神社」で「神様になったのだ、として「靖国神社」に手を合わせる気持ちはよくよく理解できます。
他方、「戦没者」あるいは、「戦争の犠牲者」という言葉は、軍人・軍属だけでなく、一般の戦争犠牲者をも含む広い言葉です。更に「追悼」という言葉は「死者をしのんで、いたみ悲しむこと」を意味します。
以上から、導き出される結論は、「戦没者を追悼する」という行為と、「靖国神社を参拝する」という行為の間には、その対象あるいは、対象に対する意志において、ある種の乖離が生じることになります。
国家として、毎年8月15日に「全国戦没者追悼式」を執り行うのは、まさしく「戦没者」を「追悼」する為であり、国家として「不戦」の誓いをたてることにつながっています。
しかし国家の指導者が、過去の戦争を指導した人々までもが「神様」としてあがめ祀られている場を、参拝することは、控えるべきではないでしょうか?
なぜなら、「靖国神社」に併設されている資料館である「遊就館」に象徴されるが如くに、「靖国神社」は、ある種の歴史観に基づいて、戦争指導者を「神」として、祀ってるのであって、そこに国家の指導的立場にある人々が赴くことは、「ある種の歴史観」を国家として助長することになるのではないでしょうか?
昨夜、安倍官房長官が4月に靖国神社を参拝していたことが明らかになりました。
しかし、ご本人は、「行ったか、行かなかったか、今後も行くか、行かないかを含めて申し上げるつもりはない」とコメントしています。
まさしく、このコメントこそ、「戦没者を追悼する」ことと、「靖国神社を参拝する」こととの意味の乖離、更には、「イメージとしての靖国神社」と「実体としての靖国神社」の違いが見事に表現されています。
即ち、堂々と言えない弱みが「現在の」靖国神社には、あるということです。
これは、「参拝するか、しないかも含めて適切に判断する」としかコメントしない、小泉総理の言葉も同じことだと思うのです。
に日本国民の誰ひとりとして反対する人はいない、と思います。
では、「追悼の誠を捧げる」という「意志」を、どう実体としての「行為」に表象させてゆくのか?
という課題に対して、議論が分かれることになります。
即ち、「靖国神社」という施設が、「意志」を「行為」に表象させる「場」としてふさわしいのか否か、ということです。
もちろん、一宗教法人たる「靖国神社」に誰がどう参拝しようが、基本的には自由です。
ここで、「靖国神社」について考えてみます。
岩波書店の広辞苑によると、「神社」とは、「神道の神を祀るところ」と書いてあります。
次に、「祀る」を引くと、①供物・奏楽などをして神霊を慰め、祈願する②神としてあがめ、一定の場所に鎮め奉る、と出ています。
「靖国神社」とは、「国家権力の命により戦争等の国事に殉難した軍人、軍属等の人々」を「神としてあがめ、鎮め奉る」場所ということになります。
だからこそ、「遺族会」の皆さんが、国の為に戦死した肉親は「靖国神社」で「神様になったのだ、として「靖国神社」に手を合わせる気持ちはよくよく理解できます。
他方、「戦没者」あるいは、「戦争の犠牲者」という言葉は、軍人・軍属だけでなく、一般の戦争犠牲者をも含む広い言葉です。更に「追悼」という言葉は「死者をしのんで、いたみ悲しむこと」を意味します。
以上から、導き出される結論は、「戦没者を追悼する」という行為と、「靖国神社を参拝する」という行為の間には、その対象あるいは、対象に対する意志において、ある種の乖離が生じることになります。
国家として、毎年8月15日に「全国戦没者追悼式」を執り行うのは、まさしく「戦没者」を「追悼」する為であり、国家として「不戦」の誓いをたてることにつながっています。
しかし国家の指導者が、過去の戦争を指導した人々までもが「神様」としてあがめ祀られている場を、参拝することは、控えるべきではないでしょうか?
なぜなら、「靖国神社」に併設されている資料館である「遊就館」に象徴されるが如くに、「靖国神社」は、ある種の歴史観に基づいて、戦争指導者を「神」として、祀ってるのであって、そこに国家の指導的立場にある人々が赴くことは、「ある種の歴史観」を国家として助長することになるのではないでしょうか?
昨夜、安倍官房長官が4月に靖国神社を参拝していたことが明らかになりました。
しかし、ご本人は、「行ったか、行かなかったか、今後も行くか、行かないかを含めて申し上げるつもりはない」とコメントしています。
まさしく、このコメントこそ、「戦没者を追悼する」ことと、「靖国神社を参拝する」こととの意味の乖離、更には、「イメージとしての靖国神社」と「実体としての靖国神社」の違いが見事に表現されています。
即ち、堂々と言えない弱みが「現在の」靖国神社には、あるということです。
これは、「参拝するか、しないかも含めて適切に判断する」としかコメントしない、小泉総理の言葉も同じことだと思うのです。
それ以前に文章に繋がりが感じられないのですがね。
まったく、野党議員とは気楽な商売ですな。
あなたはどの国の議員さん?
誰に向かって、何を言いたいのかわかりませんw。
「現在の政府の指導者が、過去の政府の責任を今も担っている」という見方をした場合、これは悪いことですか?
戦争で命を失うしかなかった人々に対する哀悼の意を表する為であり、この所信は変える事が出来ないと言うのである。
○「戦争で死んだ人々を追悼する事はどの国も、誰もが自然な事。どのような形態で哀悼の意を表そうが個人の
自由である。私の参拜を問題視する考え方を理解することができない」(小泉)
まことに心無い人である。
靖国神社に安置されている『戦争で命を失った人々』は戦犯だ。他の国に対する武力攻撃を企てたり加わったりした
加害者達である。彼らは死ぬ前に既に隣国の多くの人々の命を奪い取った。彼らは哀悼を受ける資格がない者達だ。
死んでも自分たちの暴力的攻撃に対して懺悔をしなければならない。
いかなる事情で2次世界大戦以降に、戦勝国であるアメリカがわき腹を突いて作った、敗戦国の日本は戦争や武力に
よる威嚇または武力行使は、国際紛争を解決する手段としては永久に放棄して交戦権も認めないと憲法9条(別名・
平和憲法)を明記したのだろうか。
なのに戦争を起こした犯罪者である彼らを追慕する事は、『どの国の、誰もが自然に自由にできる哀悼の行為』
ではなく彼らが行った犯罪行為を美化しながら褒め称え、同時に彼らの敗北を惜しんで今後の勝利を確認する。
図々しくも隣国達を無視する、眼下無人の脅迫的な行為となるのだ。
だから小泉は靖国神社へ行って『戦争を起こして死んだ犯罪者達』を哀悼する事ではなく、彼らに命を奪われた
多くの隣国の被害者達の為に静かにひざまずいて哀悼を示す事だ。
日本国内でも左派係市民達は『憲法9条を守る会』を作り、「憲法9条(平和憲法)は日本の宝物」と主張して、
歴史歪曲教科書採択の主張とミリタリズム復活を企てる保守右翼勢力の動きを警戒しているが、既に日本は
平和憲法とはかけ離れた自衛隊という名前の軍事力を育て、世界4位の軍事費を使う(2005年軍事費支出・
日本42億ドル/ 韓国16億ドル)軍事強国になってしまった。中国と韓国など周辺国たちが小泉の見極めの無い
神社参拝に神経を逆立てて中止を要求する事は当たり前の事だ。
私は数年前、巫俗を研究する学者に付き添ってチョン・フィクムお婆さん(1914年南海生まれ-2004年死亡)に何度か
会った事がある。お婆さんは17歳になった日に、先祖の弔いと新しい国運を迎える第2の開天節(韓国の建国記念日)の
行事を準備しなさいという、檀君の啓示を受けて、亡くなる直前まで70年越える歳月を行事の準備で使われる品物を
作っていた。
(中略)
お婆さんのお話によれば、日本の神社を守る女神は日本を巡る姿が気に入らないと、日本の神社を離れて今は
韓国へ来ていると言う。
(中略)
だから小泉が靖国神社の参拜に霊妙な力に頼って何かを図ろうとするならば、それは無駄になるだろう。神社の
神霊は小泉と同じく過去の戦争からまともな教訓を読み出すことができない者等が嫌いで、韓国に身を隠して
いるから…。仮に死んだ者等に何かを期待しているのならそれも無駄だ。死者は何も動かす事が出来ないし、
何も言わない。
そのまま哀悼して追慕するだけなのか?そう、それなら哀悼と追慕は彼らに向けてでは無く、彼らによって生命を
奪い取られて彼らの為に被害を被った多くのの隣国の人々に向けてしなければならないことではないのか。
武力で願いを叶えようとしたり、武力で平和を作る事が出来ると信じる者は、世界から非難を受けて当然だ。
戦争犯罪者を哀悼する者も世界から非難を受けて当然だ。
小泉が霊妙な力もない戦争犯罪者達だけ横たわっている場所へ行き、厳粛な姿で頭を下げる度にお婆さんから
事情を聞いた私には彼の行為が馬鹿らしく思われる。
小泉様、神社の霊妙な女神は平和に暮したいと、数年前から韓国に来ていらっしゃいます。
信じようが信じまいが・・・。
ソース:デイリーサプライズ(韓国語)
http://www.dailyseop.com/section/article_view.aspx?at_id=48162