2008/11/14 (72
新しい旅立ち(7)
忠範はけげんそうに渡された小石をながめた。
「これは、石ころではないか」
「そうです」
犬丸はうなずいて、忠範の耳もとでささやくようにいった。
「弥七は、こうわたしめに言づけたのです。忠範さまは、われら悪人ばらのためにお山で修行なさるのだ。だから忠範さまに伝えてほしい。もし、運よく物事がはこんで、自分がなにか偉い者ででもあるかのように驕りたかぶった気持になったときは、この石を見て思いだすことだ。自分は割れた瓦、河原の小石、ツブテのごとき者たちの一人に過ぎないではないか、と。そしてまた、苦労がつづいて自分はひとりぼっちだと感じたときは、この小石のようにたくさんの仲間が世間に生きていることを考えてほしい、と。弥七はそのように申して、これを忠範さまに渡すようにと頼んで消えました。そうそう、もう一つ。なにか本当に困ったときには、どこかにいる名もなき者たちにこの小石を見せて、弥七の友達だといえばいい、と」
忠範はその小石を手のなかににぎりしめた。犬丸の懐のなかにあったせいか、かすかなぬくもりが感じられた。
「ありがとう」
と、忠範はいった。犬丸にでもなく、弥七にでもなく、伯父やサヨたちにでもなく、なにか自分をとりまくすべてのものに対して、心から感謝したい気分だったのだ。
「では、さらばじゃ」
と、範綱がいい、牛車にのりこんだ。(略)
どこかで読経の声がきこえていた。忠範は遠ざかっていく牛車を見送りながら、門前にたちつくした。すべてが遠ざかっていく。母親の顔も、父親の姿も、弟たちの笑い声や、そしてサヨのほほえみが、頭にうかんでは消えた。
弥七や、河原坊や、法螺房や、黒頭巾や牛頭王丸の姿までが、次第に遠くなっていく。
〈きょうから自分は、あたらしい人間に生まれ変わるのだ〉
と、忠範は心のなかでつぶやいた。
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〈ゆうこのつぶやき〉
>自分は割れた瓦、河原の小石、ツブテのごとき者たちの一人に過ぎないではないか、と。そしてまた、苦労がつづいて自分はひとりぼっちだと感じたときは、この小石のようにたくさんの仲間が世間に生きていることを考えてほしい、と。
泣いてしまった。泣いてしまった。隆慶一郎の世界であり、イエスの、パウロの世界だ。なんという優しさだろう。今、多くを書かなくていい。
関連:http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/hon7-tadateru.htm