慰安所:朝鮮人男性従業員の日記 / 安秉直(アンビョンジク)ソウル大学名誉教授が発見

2013-09-10 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

慰安所:朝鮮人男性従業員の日記発見 ビルマなどでつづる
 毎日新聞 2013年08月07日 07時00分(最終更新 08月07日 15時56分)
 【ソウル澤田克己、大貫智子】第二次世界大戦中にビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働き、その様子をつづった朝鮮人男性の日記が、韓国で見つかった。男性は、1942年に釜山港を出発した「第4次慰安団」に参加し、44年末に朝鮮へ戻った。慰安所従業員の日記の発見は、日韓で初めて。旧日本軍による従軍慰安婦問題では、数十年たってからの証言が多いが、現場にいた第三者による記録は、冷静な議論をする上で貴重な資料と言える。
 朝鮮近代経済史が専門で、慰安婦問題にも詳しい安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授が見つけた。約10年前にソウル近郊の博物館が古書店で日記などの資料を入手。これを安名誉教授が最近精査し分かった。堀和生京大教授と木村幹神戸大教授が、日本語訳の作成を進めている。
 日記は、朝鮮半島南東部・慶尚南道(キョンサンナムド)出身の男性が、ビルマとシンガポールの慰安所で働いた43、44年に記した。漢字やカタカナ、ハングルで書かれている。
 男性は05年生まれで79年に死去。22年から57年までの日記が残る。ただ、朝鮮で慰安婦募集に携わった可能性のある42年を含む8年分は、見つからなかった。
 男性は、43年7月10日に「昨年の今日、釜山埠頭(ふとう)で乗船し、南方行きの第一歩を踏み出した」と記述。44年4月6日には「一昨年に慰安隊が釜山から出発した時、第4次慰安団の団長として来た津村氏が(市場で)働いていた」と書いた。
 ビルマで捕らえた慰安所経営者を米軍人が尋問し45年11月に作成した調査報告書には、42年7月10日に慰安婦703人と業者約90人が釜山港を出港したとの記録がある。釜山出港の日付が一致し、日記の正確性を裏付ける。
 安名誉教授は「米軍の記録が第4次慰安団を指すのは確実だ。慰安団の存在は、組織的な戦時動員の一環として慰安婦が集められたことを示している」と指摘する。ただ、安名誉教授は、韓国で一般的な「軍や警察による強制連行があった」という意見に対しては、「朝鮮では募集を業者が行い、軍が強制連行する必要は基本的になかったはずだ」との見方を示した。
 また、日記には「航空隊所属の慰安所2カ所が兵站(へいたん)管理に委譲された」(43年7月19日)、「夫婦生活をするために(慰安所を)出た春代、弘子は、兵站の命令で再び慰安婦として金泉館に戻ることになったという」(同29日)などと、慰安所や慰安婦と軍の関係が記されている。
 一方、「鉄道部隊で映画(上映)があるといって、慰安婦たちが見物に行ってきた」(43年8月13日)、「慰安婦に頼まれた送金600円を本人の貯金から引き出して、中央郵便局から送った」(44年10月27日)など、日常生活の一端がうかがえる内容もあった。
*従軍慰安婦問題
 第二次大戦中に日本が支配した植民地や占領地などから女性が慰安所に集められ、日本の将兵から性的被害を受けたとされる問題。1990年に韓国の女性団体が日韓両国に真相解明や謝罪、補償を求めたのをきっかけに社会問題化した。日本政府は93年8月、慰安所設置や慰安婦移送に旧日本軍が直接、間接に関与したことを認め、「軍の関与の下に女性の名誉と尊厳を傷つけた」と謝罪する「河野談話」を発表した。ただ、女性の連行段階での軍の関わりについては、第1次安倍内閣当時の07年、「政府が発見した資料には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」という答弁書が閣議決定された。
 *上記事の著作権は[毎日新聞]に帰属します
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慰安婦募集広告~日本兵の月給7円時代に月収300円超 『日本人が知っておくべき「慰安婦」の真実』 2013-09-07 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉 
 慰安婦募集広告 日本兵の月給7円時代に月収300円超の記録
 NEWSポストセブン2013.09.07 16:00

    

 「慰安婦問題」について、日本批判を繰り返す韓国政府。しかし、韓国人ノンフィクション作家の金完燮氏は慰安婦が「性奴隷」だったとする主張に異を唱える。新刊『日本人が知っておくべき「慰安婦」の真実』(小学館)の中で、金氏は以下のように解説している。
 * * *
  不当な扱いを受けたと証言する元慰安婦については、その言葉が事実だとしても、当事者の証言とその家族や女衒(ぜげん)の立場はかなり異なる可能性があることを忘れてはいけない。たとえば、女衒が慰安婦の両親に莫大な前払い金を渡した場合でも、両親は娘に売春婦として売ったとは言えず、事実を隠したまま挺身隊に行くのだと話したり、日本にある工場や病院に就職するのだと伝えたりして、業者について行くよう諭したこともあっただろう。
 従軍慰安婦問題に関する資料には、朝鮮で慰安婦を集めた女衒が少なくて300円、多い時は2000円もの大金を両親や家族に支払ったという記述がある。このような場合、女衒は投資額を回収しなければならないため、相当の期間、慰安婦に報酬を支払わないことになる。一方の慰安婦当事者は、強制的に連れて来られ、一銭ももらうことなく酷使されただけで故郷に帰ったと信じるようになるのである。
 ただし、朝鮮出身の慰安婦についてはその社会性、つまり、600年もの長きにわたる儒教思想による純潔と貞操観念が厳しい社会で、慰安婦として働いたという前歴がどれほど彼女たちを精神的に苦しめたかということは理解しておく必要があろう。
 では、当時の慰安所の規模と運営実態はどうだったのだろうか。戦争が拡大していくにつれて、軍では後方に対してより多くの慰安婦を要請した。これに対して日本政府は多様な方法で、必要な数の慰安婦を供給するよう努めた。
 日中戦争初期までは、軍人100人あたり慰安婦1人の基準を充足するのに特に問題はなかった。しかし、1942年、戦線が東南アジアと太平洋地域に拡大され、海外に派兵された日本軍の規模が急激に増大すると、慰安婦への需要も増加した。日本国内で慰安婦を確保するのが難しくなった業者は、朝鮮や台湾、中国で両親に前金を渡したり、勤労挺身隊としてたくさん稼ぐことができると騙したり、あるいは道端の拉致という方法で慰安婦を調達したのである。
 売春婦を連れて軍隊を回れば大金を稼げるという事実が知れわたり、多くの業者がこの事業に駆け込んだことだろう。彼らは手段と方法を問わず慰安婦少女を確保しようとしたはずだ。
 そのひとつの例として、1944年10月27日付『毎日新報』にはホ氏という人物が「軍慰安婦急募」という広告を出しており、1944年7月26日付『キョンソン日報』にも「クムジョン紹介所」名義で「慰安婦大募集」という広告が掲載されている。
 この広告には17歳以上の女性を対象に月収300円以上、前払い3000円可能という内容が記されている。当時、皇軍の2等兵の月給が7円だったことを考えれば、当時の慰安婦事業がどれほど大好況だったか推測するに余りある。
 そして、それだけの収入が得られるならば、自分の意志であろうが、親など他人の意志であろうが多くの少女が志願したのではないだろうか。しかし、その数字は韓国の国定教科書で主張されている10万人から20万人とは相当の乖離がある。
※『日本人が知っておくべき「慰安婦」の真実』(小学館)より
 *上記事の著作権は[NEWSポストセブン]に帰属します 
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◇ 慰安婦問題 「バカな親日家と罵られても、私は真実を語る」安秉直(アン・ビョンジク)ソウル大学名誉教授 2013-09-10 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉    
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