車谷長吉さんと「インターセクシャル (IS)性分化疾患を持つ人々の物語」

2015-07-07 | 本/演劇…など

〈来栖の独白 2015.7.7 〉
 先ごろ亡くなった車谷長吉さん。死因は、食べ物を喉につまらせた窒息のため、ということだった。遺伝性蓄膿症であった車谷さん。鼻で息ができないため、窒息死したのだろう。
 朝日新聞の紙上人生相談、不運を嘆く就職活動中の学生に以下のように答えていた。

 私は遺伝性蓄膿症なので、物心ついた時から鼻で呼吸ができません。口で息をして生きてきました。苦しいことです。

 世には運・不運があります。それは人間世界が始まった時からのことです。不運な人は、不運なりに生きていけばよいのです。私はそう覚悟して、不運を生きてきました。
 私も弟も、自分の不運を嘆いたことは一度もありません。嘆くというのは、虫のいい考えです。考えが甘いのです。覚悟がないのです。この世の苦しみを知ったところから真(まこと)の人生は始まるのです。
 真の人生を知らずに生を終えてしまう人は、醜い人です。己れの不運を知った人だけが、美しく生きています。
 私は己れの幸運の上にふんぞり返って生きている人を、たくさん知っています。そういう人を羨ましいと思ったことは一度もありません。己れの不運を知ることは、ありがたいことです。

 「まことの人生」「己れの不運を知った人だけが、美しく生きています」というフレーズは、私に「インターセクシャル(IS)性分化疾患を持つ人々の物語」を鋭く思い起こさせた。彼らこそ、不運(深い苦しみ)の故に、その人生が矜持ある美しいものとなっているのだろう。ものごとの実相、「まこと」が見えているに違いない。
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車谷長吉の人生相談『人生の救い』朝日文庫 2012年12月30日 第1刷発行

     

p12~  
回答;幸運の上にふんぞりかえるより
 私は遺伝性蓄膿症なので、物心ついた時から鼻で呼吸ができません。口で息をして生きてきました。苦しいことです。
 田舎の高校2年生の夏、60日余り、病院へ入院して2度、5時間余の大手術を受けました。けれども額の後ろの骨に溜まっている膿を取り除くには、3度目の手術が必要であり、その手術をするのには目の神経を切断する必要があると言われ、盲(めしい)になってもよい、という同意書に署名・捺印を求められました。私は署名・捺印をすることが出来なかった男です。
 私と同年配の女性で、署名・捺印をして手術を受け、遺伝性蓄膿症はからりと治ったものの、以後、盲人の按摩さんとして生きてきた人を知っています。鼻で呼吸が出来るのは、目が見えないよりは楽だと私に言うています。偉い人です。
 私はこの病があるゆえに、私の独り考えで作家になりました。親の財産はすべて放棄して、弟に譲りました。
 弟は百姓をしていますが、同じ遺伝性蓄膿症なので結婚はしていません。(略)
 世には運・不運があります。それは人間世界が始まった時からのことです。不運な人は、不運なりに生きていけばよいのです。私はそう覚悟して、不運を生きてきました。
 私も弟も、自分の不運を嘆いたことは一度もありません。嘆くというのは、虫のいい考えです。考えが甘いのです。覚悟がないのです。この世の苦しみを知ったところから真(まこと)の人生は始まるのです。
 真の人生を知らずに生を終えてしまう人は、醜い人です。己れの不運を知った人だけが、美しく生きています。
 私は己れの幸運の上にふんぞり返って生きている人を、たくさん知っています。そういう人を羨ましいと思ったことは一度もありません。己れの不運を知ることは、ありがたいことです。
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withnews 2015年05月18日  
車谷長吉さん死去 味のある人生相談 生徒に恋←仕事も家庭も失えば
 直木賞作家の車谷長吉(くるまたに・ちょうきつ)さんが、亡くなりました。69歳でした。車谷さんは、朝日新聞で連載した「悩みのるつぼ」でのユニークな回答で、たびたび話題になりました。「教え子の女子に没入しています」との相談には「破綻して、職業も名誉も家庭も失ってみたら」と回答。単なる人生相談にとどまらない、人間の心の奥底をのぞかせる言葉を残しました。
■健康な人に嫉妬してしまいます
 「虚弱体質で、物心ついたころから大変苦労してきました」という女性の質問。健康な人に対して「嫉妬心を抑えることのできない自分が嫌でたまりません」と訴えました。
 それに対して車谷さんは「人の本質は孤独です。他人と自分を比較することには、価値はありません」と回答。「世の大部分の人は、比較しながら生きています。『愚か』です。明治以来、文部省がそういう教育をしてきたのです」と、他人と比較することが無意味であることを指摘しました。
 解決方法として提示したのは、孤独になることでした。「不幸な人はしばしば、他人から思いやってもらうことを願いますが、その願いはほとんどの場合、かなえられません。ひとりぼっち(孤独)を決意する以外に、救いの道はありません」=(悩みのるつぼ)意味のないことはやりたくない(2010年1月9日)から
■口汚い妻にうんざりです
 口論の絶えない妻との関係に悩む男性から「このような妻とはどのように婚姻を続けていけばいいのでしょうか」との切実な訴えが届きました。
 車谷さんは「人の持って生まれてきた性格は変えられません」としたうえで、「私は離婚なさっても、かまわないと思います」と回答。さらに、離婚を前提に「奈良盆地を歩かれるとよいと思います。法隆寺のようなお寺だけでなく、田んぼの畦(あぜ)道で休憩したり、おにぎりを食べたりなさると楽しいですよ」と、アドバイスしました。=(悩みのるつぼ)口汚い妻にうんざりです(2011年1月22日)から
■教え子の女生徒が恋しいんです
 「自分でもコントロールできなくなるほど没入してしまう女子生徒が出現する」という質問者。「教育者としてダメだと思いますが、情動を抑えられません」と訴えました。
 質問自体、論議を呼びそうな内容ですが、車谷さんの答えはさらに過激です。「あなたの場合、まだ人生が始まっていないのです」と、ばっさり。「破綻して、職業も名誉も家庭も失った時、はじめて人間とは何かということが見えるのです。あなたは高校の教師だそうですが、好きになった女生徒と出来てしまえば、それでよいのです」と、なんと教え子との関係を発展させることをすすめてしまいます。
 そして、こう結びました。「阿呆になることが一番よいのです。あなたは小利口な人です」=(悩みのるつぼ)教え子の女生徒が恋しいんです (2009年6月13日)から
 withnews編集部
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『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 太田出版 (神戸連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗) 
 〈来栖の独白 2015/06 〉
 先般(2015/5/17)亡くなった直木賞作家の作家、車屋長吉氏は、『鹽壺の匙』の〈あとがき〉で、次のように云う。

 詩や小説を書くことは救済の装置であると同時に、一つの悪である。ことにも私(わたくし)小説を鬻(ひさ)ぐことは、いわば女が春を鬻ぐに似たことであって、私はこの二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じつづけて来た。併しにも拘わらず書きつづけて来たのは、書くことが私にはただ一つの救いであったからである。凡て生前の遺稿として書いた。書くことはまた一つの狂気である。(略)
 私は文章を書くことによって、何人かの掛け替えのない知己を得た。それは天の恵みと言ってもいいような出来事だった。

 『絶歌』の著者、元少年Aは、〈被害者のご家族の皆様へ〉に次のように綴る。

 この十一年、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころし生きてきました。(略)でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。

 私事だが、私も勝田清孝が手記を出版したことで、彼の心に触れる切っ掛けを得た。犯罪者ではあるが、彼の人間性に触れることができた。「死刑囚が手記出版など、けしからん」と世の非難が集中するが、勝田は自らを問い詰め「真人間」として生きるために、孤独に文字に向かい、書きつけた。そうしないでは、僅かの日々を生きられなかった。
 被害者遺族にとってみれば、「悪」であるのだろう。
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