「これでいいのだ」
田中良紹の「国会探検」2011年11月10日 22:27
外国と交渉する時、国内が一つにまとまる方が交渉力は強まると思われがちだが、政治はそんな単純なものではない。むしろ意見が一つだと相手を篭絡するのが難しくなる。多様な意見を背にする方が「したたかな交渉」が出来る。TPP参加を巡って国内の意見が二分された事は、野田政権にとって「足かせ」のように見せながら、実は交渉の舞台づくりに役立っているのである。
日米貿易戦争の歴史は長いが、80年代半ばまでの自民党政権は実に「したたかな交渉」を行なってきた。アメリカから強いバッシングを受けると、それに譲歩して負けたフリをしながら、実利だけはしっかり確保した。その結果、世界最大の金貸し国の地位をアメリカから日本が奪い、1985年には日本が世界一の金貸し国になり、アメリカは世界一の借金国に転落した。日米交渉で煮え湯を飲まされ続けたのはアメリカである。
日米貿易戦争の最前線にいた通産省の天谷直弘氏は「町人国家論」を唱えた。つまり江戸時代に政治、軍事、警察力を握っていたのは武士だが、経済を握っていたのは町人である。町人が力を維持するには、武士との関係に細心の注意を払わなければならない。なぜなら武士は軍事力をちらつかせて「金を出せ」と命令する事が出来るからである。
町人がしたたかに生きるには、情報収集力、構想力、交渉力、そして時には這いつくばってゴマをする能力も必要になる。武士から唾を吐きかけられても揉み手をしながら笑って見せ、それで利益が確保できれば町人は生き残れる。戦後の世界でアメリカが武士ならば日本は町人である。それなら日本は大商人を目指すべきという内容だったと思う。
当時の自民党は社会党が政権獲得を目指さない野党であった事から、選挙で大勝を目指さずに、むしろ野党勢力の数を減らさないよう配慮した。野党勢力を少数に追い込めば、対米交渉にとって決してプラスにならず、国益を損なうと考えたからである。
アメリカから要求を突きつけられた時、野党勢力の強い反対がなければ、町人国家の日本は要求をそのまま飲まざるを得ない。武士に対して町人が正面から逆らえば、どんな仕返しをされるか分からないからである。しかし国内に反対があり、それを潰すだけの力が自民党にない事を見せつければ、アメリカも要求のレベルを下げざるを得ない。交渉では負けた顔をしながら実利を取る。それがかつての自民党のやり方であった。
しかし中曽根康弘、小泉純一郎の二人の総理だけはそうした考えを取らなかった。中曽根総理は86年のダブル選挙で300議席を越える大勝を果たし、「わが自民党は都市にまでウイングを伸ばし」と演説した。すると、自民党の票田である農村を保護する事を認めてきたアメリカが、すぐさま牛肉、オレンジ、コメなどの農作物輸入を要求してきた。また05年の選挙で大勝した小泉政権がどれほどアメリカの要求を飲まされ続けたかは記憶に新しいところである。
過去の貿易戦争に照らせば、TPP問題では野党第一党の自民党が激しく反対する必要があった。ところが現在の自民党にはその役回りが演じ切れない。だから民主党を二分して激しく戦わせる必要があった。国内で反対が高まれば高まるほど、政府は情けない顔をしてみせ、しかし交渉カードを増やせるのである。
アメリカでは超党派の議員がオバマ政権に対し、TPP交渉に日本を参加させる事に慎重であるべきだとの申し入れを行なった。日本を参加させれば交渉は複雑になると言うのだが、真意は過去に煮え湯を飲まされた轍を踏まずに、アメリカ主導で交渉を行なうようはっぱをかけたのである。要するに日米双方の議会は国益を守れと政府に働きかけている。
そもそもアメリカは農業大国でヨーロッパに農産物を輸出する供給国であった。ところがヨーロッパが地域共同体になり、各国間の関税が撤廃されると、アメリカのヨーロッパに対する農作物輸出は激減した。1980年代に水田面積を増やし、コメを作ってヨーロッパに売り込もうと苦労していたアメリカを取材した事がある。日本でパン食を普及させたようにヨーロッパの子供にコメを食べさせようとしていた。しかしそれが成功したという話は聞いていない。
ヨーロッパを向いていたアメリカは否応なく顔をアジアに向けるようになった。クリントン大統領が「アメリカは太平洋国家」と宣言して以来、アジア太平洋地域で覇権を握る事にアメリカは力を入れてきた。日本とオーストラリアが主導してきたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)にも積極的に関わり出した。
アメリカが恐れているのは成長著しい中国と技術力世界一の日本とが手を組み、それに韓国が参加する事である。この3カ国を分断し、アメリカがそれぞれと繋がって、アジアでの主導権を握りたいのである。それがTPPに乗り出してきたアメリカの理由である。死活的にアジアを必要としているのはアメリカだから、アメリカにはそれが故の弱みがある。
しかしその弱みをあからさまにして武士を怒らせては町人は生きられない。武士に逆らわない顔をしながら、しっかりアジアの成長から利益を得る作業を続けるのが日本の国益である。そのためには旗幟鮮明な政治など不用である。アメリカは常に二枚舌、三枚舌の外交を行なう国だから本当の事を言うはずがない。それならこちらも千変万化の政治で対抗すれば良い。
党内が二分された民主党を「学級崩壊」と解説し、野田政権の力の低下を云々するメディアがあるが、全く政治の奥深さを分かっていない。そんなレベルで世界の政治は行われていない事を知るべきである。ここまでのところは「これでいいのだ」と私は思う。
<筆者プロフィール>
田中良紹(たなか・よしつぐ)
1945年宮城県仙台市生まれ。1969年慶應義塾大学経済学部卒業。同年(株)東京放送(TBS)入社。ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。1990年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。
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◆小沢一郎裁判=「官僚支配に従う者」と「国民主権を打ち立てようとする者」とを見分けるリトマス紙である2011-10-10 | 政治/検察/メディア/小沢一郎
リトマス試験紙 田中良紹の「国会探検」日時:2011年10月9日
小沢裁判は、明治以来の官僚支配に従う者と、日本に国民主権を打ち立てようとする者とを見分けるリトマス試験紙である。裁判の結果とは別に、誰が官僚の手先で民主主義を破壊する者かがあぶり出される。
初公判での小沢一郎氏の陳述は、私がこれまで書いてきた事と軌を一にするものであった。私が書いてきたのは以下の事である。事件は政権交代を見据えてその推進力である小沢氏の政治的排除を狙ったものである。しかし十分な材料がないため捜査は無理を重ねた。目的は有罪にする事ではなく小沢氏の排除であるから、メディアを使って無知な大衆を扇動する必要がある。大衆に迎合する愚かな政治家が小沢排除の声を挙げれば目的は達する。
民主主義国家における検察は、国民の代表である国会議員の捜査には慎重の上にも慎重を期さなければならない。それが国民主権の国の常識である。国家機密を他国に売り渡すような政治家や、一部の利益のために国民に不利益を与えた政治家は摘発されなければならないが、その場合でも国民が主権を行使する選挙の前や、政治的バランスを欠いた捜査をやってはならない。民主主義の捜査機関にはそれが課せられる。
ところが一昨年、小沢氏の秘書が突然逮捕された「西松建設事件」は、政権交代がかかる総選挙直前の強制捜査であった。しかも政治資金収支報告書の記載ミスと言えるのかどうか分からないような容疑での逮捕である。これで逮捕できるならほとんどの国会議員が摘発の対象になる。そんな権限を民主主義国家が捜査機関に与えて良い筈がない。
しかも捜査のやり方が極めて異常であった。かつて私が東京地検特捜部を取材したロッキード事件も奇怪な事件で、事件の本筋とは言えない田中角栄氏が逮捕され、国民は「総理大臣の犯罪」と思い込まされたが、それでも当時は手順を踏んだ捜査が行なわれた。ところが今回は国会議員に関わる事件であるのに検察首脳会議を開かず、「若手検事の暴走」という前代未聞の形での着手である。
それほどの異常な捜査を新聞もテレビも追及する側に回らず擁護する側に回った。平均給与が全産業を上回るほど利益追求に走った新聞とテレビは、国税や検察がその気になれば、脱税などの犯罪で摘発される可能性があり、財務省や検察を批判する事など恐ろしくて出来ないからだろう。
そして案の定、愚かな政治家が「政治的道義的責任」などと騒ぎ出し、国民生活のために議論しなければならない国会の審議時間を削るような事を言い出した。「国会で国民に説明責任を果たせ」と言うのである。そんな馬鹿な事を言う政治家が世界中にいるだろうか。「説明責任(アカウンタビリティ)」とは会計用語であり、国民から預った税金の使い道について「官僚には説明する責任がある」という意味である。
前にも書いたが、アメリカのクリントン大統領には「ホワイトウォーター疑惑」と呼ばれるスキャンダルがあった。アーカンソー州知事時代に不動産業者に便宜を図って違法な献金を受けた疑惑である。事件が発覚した後に自殺者も出た。特別検察官が選ばれて捜査が開始された。しかしクリントン大統領に「議会で国民に説明しろ」などという声は上がらない。議会が喚問したのは検察官である。議会は行政府をチェックするところであるからそれが当たり前だ。説明責任があるのは政治家ではなく検察官僚なのである。それが日本では逆転している。
日本の捜査機関は国会に呼ばれてもろくに答弁しない。「捜査中につきお答えできない」で終わる。サリン事件が起きた時、日本の警察は国会でそう言って答弁を拒否したが、同じ頃にアメリカ議会ではFBI、CIAが議会に喚問され、アメリカ国内でのオウム真理教の活動について捜査内容を証言させられた。そのビデオテープを自民党議員に見せたら「うらやましい」と言った。日本の国会は行政府に舐められているのである。
「ホワイトウォーター疑惑」に関わったとされるヒラリー夫人は大陪審に喚問されて証言した。しかし議会には喚問されない。司法が追及している時に、議会が同じ事をやる意味はないし、議会にはそんな暇もない。ところがこの国では不思議な事が続いてきた。何かと言えば「国会で証人喚問しろ」と言うのである。それがどれほど意味のないバカバカしいパフォーマンスであるかを、政治家はイヤというほど見てきた筈だ。
ところが今回も野党の党首クラスが揃いも揃って「証人喚問」などと騒いでいる。全く学習効果のない哀れな連中である。ロッキード事件以来続けられてきた「政治とカネ」のスキャンダル追及ほど民主主義政治の足を引っ張ってきたものはない。国民の税金の使い道を徹底して議論しなければならない予算委員会で、日本の政治は肝心要の事をやらずに政治家のスキャンダル追及に力を入れてきた。大衆に気に入られたいためである。
下衆(げす)な大衆は権力者の凋落を見るのが何より楽しい。それが自らの生活を貶める事になるとは思わずに「やれ、やれ」となる。直接民主制であった古代ギリシアでは有能な政治家ほど大衆から妬まれて追放された。偉大な哲学者ソクラテスは愚かな大衆から死刑判決を受けた。ギリシアの民主主義は長く続かなかった。民主主義は厄介なもので、大衆が政治や裁判を直接左右すると民主主義は潰れるのである。それが歴史の教訓である。
明治以来の官僚支配の背景にも官僚勢力とメディアによる大衆の扇動があった。政党政治家の原敬が暗殺され、反軍演説をした斉藤隆夫が衆議院から追放され、田中角栄が「闇将軍」となった背景にもそうした事情がある。
小沢陳述はそうした過去にも触れつつ、検察権力の横暴と議会制民主主義の危機を訴えた。しかしそれに対するメディアの反論は、「検察が不起訴としたのに検察を批判するのは筋が違う。起訴したのは検察審査会だ」とか、「4億円の出所を言わないのはおかしい」という瑣末なものである。
すべての問題の発端を作ったのは検察で、目的は小沢氏の政治的排除にあるのだから、そもそも不起訴にして大衆の扇動を狙っていた。従って乗せられた方ではなく乗せた方を批判するのは当然である。また自分の財布の中身をいちいち説明しなければならない社会とはどういう社会なのか。それが違法だと言うなら、言う方が違法性を証明しなければならない。それが民主主義社会のルールである。「政治家は公人だから」と言ってあらゆる責めを負わせるのは、国民主権を嫌う官僚の昔からのやり口である。
ともかく初公判後の記者会見で小沢氏は検察とメディアに対し闘争宣言を行なった。潰れるか潰されるかの戦いを宣したのである。検察もメディアも引けないだろうが、不起訴処分にした検察は既に一歩後ろに退いており、前面に立つのは司法とメディアである。
行政権力の手先だと世界から見られている日本の司法とメディアがこの戦いにどう対抗するのか。小沢氏を潰そうとすればするほど、民主主義の敵に見えてくるのではないかと私には思える。(⇒)
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◆「小沢一郎氏を国会証人喚問」の愚劣2011-10-20 | 政治/検察/メディア/小沢一郎
国会証人喚問の愚劣 田中良紹の「国会探検」
新聞が民主主義の破壊者である事を示す論説を読んだ。10月17日付朝日新聞の若宮啓文主筆による「検察批判は国会でこそ」という論説である。
初公判を終えた小沢一郎氏が記者から国会の証人喚問に応ずるかと問われ、「公判が進んでいる時、立法府が色々議論するべきでない」と語った事を批判し、「公判で語った激しい検察批判は、国会で与野党の議員たちにこそ訴えるべき」と主張している。
この主筆は、国会がこれまで繰り返してきた証人喚問の愚劣さ、それが日本の民主主義を損ねてきた現実に目をつむり、証人喚問を「議会制民主主義」を守る行為であると思い込んでいるようだ。政治の現実からかけ離れた論説を読まされる読者は哀れである。
国会の証人喚問が脚光を浴びたのは1976年のロッキード事件である。テレビ中継の視聴率は30%を越えた。喚問された小佐野賢治国際興業社主は「記憶にございません」を連発してそれが流行語になった。3年後のグラマン事件では喚問された海部八郎日商岩井副社長の手が震えて宣誓書に署名できず、喚問を公開する事の是非が議論された。
そもそも証人喚問は国政調査権に基づいて行なわれるが、行なうには全会一致の議決が原則である。それほど慎重にすべきものである。容易に証人喚問が出来るようになれば、多数党が野党議員を証人喚問し、場合によっては偽証罪で告発できる。国民から選ばれた議員を国会が政治的に潰す事になれば国民主権に反する。民主主義の破壊行為になる。
また証人とその関係者が刑事訴追を受けている場合、証人は証言を拒否する事が認められている。つまり司法の場で裁かれている者は証人喚問されても証言を拒否できるのである。従って司法の場で裁かれている証人を喚問しても真相解明にはならない。真相解明はあくまでも司法に委ねられる。
それではなぜ刑事訴追された者まで証人喚問しようとするのか。大衆受けを狙う政党が支持率を上げるパフォーマンスに利用しようとするからである。これまで数多くの証人喚問を見てきたが、毎度真相解明とは無縁の単なるパフォーマンスを見せられてきた。しかし大衆にとっては、いわば「お白洲」に引き出された罪人に罵詈雑言を浴びせるようなうっぷん晴らしになる。かつて証人喚問された鈴木宗男議員や村上正邦議員は喚問には全く答えず、ひたすら野党とメディアによる批判の儀式に耐えているように見えた。
証人喚問には海部八郎氏の例が示すように人権上の問題もある。日本が民主主義の国であるならば証人の人権を考慮するのは当然だ。リクルート事件で東京地検特捜部が捜査の本命としていたのは中曽根康弘氏だが、野党が国会で中曽根氏の証人喚問と予算とを絡ませ、審議拒否を延々と続けていた時、中曽根氏が頑として喚問に応じなかったのは人権問題であるという主張である。
野党と中曽根氏の板ばさみとなった竹下総理は証人喚問のテレビ撮影を禁止する事にした。そのため証人喚問は静止画と音声のみのテレビ中継になった。その頃、アメリカ議会情報を日本に紹介する仕事をしていた私に、自民党議員からアメリカではどうなっているのかと聞かれた。調べてみると、アメリカでは証人の意志で公開か非公開かが決まる。真相究明が目的なら非公開でも全く問題はないはずである。しかし証人が自分を社会にアピールしたければ公開にする。なるほどと思わせる仕組みであった。
ところが日本では「真相究明」は建前で「本音はパフォーマンス」である。非公開になると証人喚問を要求した政党も、ここぞとばかり証人を叩きたいメディアも、うっぷんを晴らしたい国民も納まらない。「何でオープンにしないのか」、「それでは民主主義じゃない」と、滅茶苦茶な論理で見世物にしようとする。いつもその先頭に立ってきたのが民主主義の破壊者たるメディアなのだ。
中曽根氏の抵抗で国会の証人喚問は静止画放送となった。民主主義国でこんなグロテスクな放送をする国があるだろうかと呆れていると、あちこちから批判されて再びテレビ撮影は認められるようになった。しかしアメリカのようにはならない。違いは公開か非公開かを決めるのが証人ではなく委員会なのである。なぜ証人の意志が無視されるのか。人権的配慮と民主主義についての認識がアメリカ議会と日本の国会では全く違う。
この違いをうまく利用してきたのが検察であり官僚機構である。本来ならば政治にコントロールされるべき存在が、コントロールされずに、国民と一体であるはずの政治を国民と対立させる事が出来た。リクルート事件が顕著な例だが、違法ではない「未公開株の譲渡」を、朝日新聞が「濡れ手で粟」と報道して大衆の妬みを刺激し、次いで譲渡された政治家の名前を小出しにして大衆の怒りを増幅し、そこで「国民が怒っているのに何もしない訳にはいかない」と捜査に乗り出したのが検察である。メディアと検察が一体となって政治を叩いた。まるでそれが民主主義であるかのように。
『リクルート事件―江副浩正の真実』(中央公論新社)を読むと、江副氏は検察から嘘の供述を強要され、その供述によって次代の総理候補であった藤波孝生氏やNTT民営化の功労者である真藤恒氏などが訴追された。この事件がどれほど日本政治を混乱させ、弱体化させたかを、当時政治取材をしていた人間なら分かるはずである。
政治の弱体化は相対的に官僚機構を強化させる。野党が「ええ格好」する証人喚問と法案審議を絡ませれば、法案を吟味する時間はなくなる。官僚機構が作った法案は厳しくチェックされることなく通過していく。そうした事をこの国の国会は延々と繰り返してきた。国政調査や真相解明は建前で、パフォーマンスで大衆に媚びる政治がどれほど議会制民主主義を損ねてきたか、国民は過去の証人喚問の惨憺たる事例を見直す必要がある。
朝日新聞の主筆氏は「検察や法務省権力が議会制民主主義を踏みにじったというなら、小沢氏は証人喚問に応じてそこで国会議員に訴えるべきだ」と述べているが、その主張はこれもアメリカ議会の人権や民主主義の感覚とかけ離れている。小沢氏の一連の事件でまず国会に喚問されるべきは小沢氏ではなく検察当局である。国民主権の国ならばそう考えるのが常識である。
国民の税金で仕事をさせている官僚を監視し監督をするのは国民の側である。それを国民の代表である政治家に託している。その政治家に対して捜査当局が捜査を行なうと言うのであれば捜査当局には「説明責任」が生ずる。だから前回も書いたが、クリントン大統領の「ホワイトウォーター疑獄」で議会に喚問されたのは大統領ではなく捜査に当った検察官なのである。適切な捜査をしているかどうかが議会から問われる。
小沢事件で国会が喚問を行なうなら、検事総長を証人に、なぜ選挙直前に強制捜査をする必要があったのか、事前に「検察首脳会議」を開いて決めたのか、巷間「若手検事の暴走」と言われているのは何故か、容疑の妥当性はどうかなどを国会が問い質せば良い。実際、西松建設事件が起きた直後にアメリカ人政治学者は検察こそ国会で「説明責任」を果たすべきだと指摘した。
民主主義政治を見てきた者ならばそれは当然の反応である。「説明責任」を果たすべきは政治家ではなく官僚なのである。ところがこの時に検察は「すべては裁判で明らかにする」と言って国会での「説明」を拒否した。
それならば小沢氏も裁判で明らかにすれば良い。証人喚問を求められる事自体がおかしい。それをこの国のメディアも国会議員も理解できない。ともかくこれは極めて政治的な色彩の強い事件である。従ってこの事件に対する反応の仕方で民主主義政治に対する姿勢が分かる。つまりリトマス試験紙になる。今回の朝日新聞の論説はそれを見事に示してくれた。この新聞は官僚の手先で国民主権を冒涜するメディアなのである。
投稿者: 田中良紹 日時: 2011年10月19日 22:08 *リンクは来栖
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◆「衆愚の時代」予算の議論をしない予算委員会/参院の存在意義2010-10-29 | 政治/検察/メディア/小沢一郎
「衝突のビデオテープ」や「小沢氏の国会招致」を取引材料にするつもりだろうが、しかしいつまでこんな馬鹿馬鹿しい国会を続ける気でいるのだろうか。野党の自民党はかつての野党の馬鹿馬鹿しさを良く知っている筈だが、今では全く同じ馬鹿になろうとしている。それでは政権に復帰してもろくな政権になれる筈がない。国民が勘違いして再び自民党政権が出来ても「ねじれ」は変わらないから、安倍、福田、麻生政権と同じように所詮は短命の政権が出来るだけの話である。
小沢元幹事長の証人喚問が取引材料として取り沙汰されているが、これまで予算委員会で行われてきた証人喚問がどれほど不毛なものであったかを議員を含めて国会関係者は今一度思い起こして貰いたい。これまでの証人はみな「刑事訴追されているので答弁は差し控える」と繰り返してきた。国会で疑惑解明など出来る筈がない事は何度も証明済みである。繰り返すが疑惑があれば司法の場で行えば良い話なのである。
かつてリクルート事件で証人喚問を要求された中曽根元総理は頑として証人喚問に応じなかった。困った竹下総理が議院証言法を改正して映像の撮影を禁止し、中曽根氏に喚問に応ずるよう説得した事がある。そのため一時期「静止画像」という奇妙な形の証人喚問が行われた。私は世界に対して恥ずかしいと思った。(⇒)
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◆『TPP亡国論』/怖いラチェット規定やISD条項(毒まんじゅう)/コメの自由化は今後こじ開けられる2011-10-24 | 政治(経済/社会保障/TPP)
◆TPP:反対請願の賛同議員(一覧) / TPP:参加反対集会にJAなど3000人2011-10-26 | 政治(経済/社会保障/TPP)