私の母は勝田に殺されました。・・・彼が最後に幸せだったことは、許されないことです。 2005,6,18

2016-05-05 | 死刑/重刑/生命犯

〈旧HP原稿〉

「彼が最後に幸せだったことは、許されないことです」2005,6,18
 2005年6月7日、次のようなメールを頂戴した。《ご自身を含め実名で書いてくださっていたが、伏させて戴く》

 私の母は勝田に殺されました。(略)「○○○子」私の母です。勝田は貴方に、死ぬ前の気持を伝えられたけれど、私の母は何も言えぬまま殺されました。
 勝田は覚悟を決められたけど母は決められなかったと思います。(略)
 大人になってから、色々とかたりたいこともあったと、そー思います。
 勝田のなにをうったえたいのかわかりません・・・。実はいい人とでも?・・・
 罪は許されないが彼は許される?
 彼が最後に幸せだったことは許せないことです。

 指摘されている一つ一つが正当端的で、立ち上がってくる切なる思いに、私は打たれた。殺害されたお母上への哀惜に満ちて綴られているこのメールは、勝田清孝の友人となり、姉弟となった経緯を私に振り返らせた。
 清孝の遺書に拠れば、確かに彼は幸せと認識して逝き、覚悟を決めて旅立ったように感じられる。勝田によって唐突に理不尽に何の覚悟も無く命を奪われた被害者の最後とは天地の開きであり、許し難いことである。
 清孝が覚悟して旅立てたのには、役所(拘置所)の配慮もあっただろうし、立ち会いの教誨師(僧侶)の導きもあったに違いない。感情の振幅の激しい人ゆえ、死刑執行の宣告直後は根が生えたように座して動かなかったという。8階の居室からエレベーターに乗るまでに随分時間がかかった。それを役所は、じっと待ってくださった。
 (同日同所で、勝田の執行の前に宮脇喬死刑囚への執行が為されている。「藤原は動揺しやすいので、宮脇さんの後にしました」、「動揺しやすいので力を貸してください、と僧侶に御願いしました」など、受刑後、所長との面接で私は聞かされている)
 また、初めは「遺書は書かない」と言っていたそうである。この辺りの清孝の心の裡が、私には解る気がする。宣告から遺書作成そして教誨~執行といった、死に向けての一連の流れをどうかして切断したかったのだろう。
 このような勝田に周囲の人々は、自分の足で歩き、エレベーターに乗るようにし、「遺書を書きたい」と言わせ、被害者に「ごめんなさい」と涙させ、僧侶始めすべての人に感謝の念で旅立てるようにしてくださった。
 死後、勝田へ寄せる惻隠の淵でこれら一切の情景は私を支え続けたが、ご遺族の皆様には申し訳ない極みであった。
 「許せない最後」に至るまでの勝田と私の道程については、拙著『113号事件勝田清孝の真実』にも記したことであるけれど、いま一度振り返ってみたいと思う。
 1987年秋だったと記憶する。勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』を、同じ名古屋拘置所に収監されていたクリスチャンのA被告から宅下げされて読んだ私は、翌年1月半ば、感想文のような手紙を初めて勝田に宛てて出した。
 手記は拙劣な表現ながら、生い立ちや事件について正直に綴られており、7件の殺害について自ら告白するくだりは、それによって死刑が決定的となる不安恐怖も隠してはおらず、私は手紙に「勝田さんの正直な佇まいに、心を動かされました」と認めた。
 ところで、勝田のような死刑被告に手紙を出す人の多くは、死刑廃止運動体の人達らしいのだが、私は平板な人生を送ってきた主婦に過ぎなかった。司法とか死刑については疎い人間だった。そんな私だったから、勝田に近づいたのは、ただただ自らの重罪を赤裸々に告白する勝田の悔悟の姿に圧倒されたからに過ぎない。
 このような、言ってみれば迂闊に始まった私たちの交流であったが、人間不信、猜疑に悩む死刑囚とのやりとりは難渋を極めた。
 それでも日を重ね、受け取る手紙のなかから私が感じ取ったものは、勝田から発せられる渇くような「人間への執着」であった。弁護人控訴趣意書にもあるように、親の愛を受けずに育った勝田は、その渇愛の代償として物欲を満たしていった。「殺人を楽しんでいた」と書いた雑誌類もあったようだが、そうではなかった。金を窃取しようとして発見され逮捕を恐れて殺害、或いは無抵抗のうちに金を得ようと、脅しのつもりで携えた凶器によって殺害に至ってしまう、それが勝田の犯罪であった。
 勝田は、書信にそれら悔いを綴ってきた。面会でも、繰り返し犯罪を口にした。悔やんだところで、罪を償うことはできない。よく判決理由として「命をもって償うしかない」と裁判所は言うが、死刑によっても罪は償えないのではないか、と私は思っている。原状回復できない限り、償いとは言えないのではないか。原状回復とは、喪われた命だけでなく時計(環境一切)をあの時刻に戻すことだ。犯罪が起きる前の次元に戻すことだ。それは人間には不可能だろう。人間には、せめて命で詫びる、それが精一杯ではないかと思う。
 これといった死刑廃止の考えも有していなかった私が、勝田という死刑囚の友人となった最大の理由は、多分彼の悔いの心をじっと聞いてやりたかったのだと思う。「そうだね、悪いことをしたね。酷いこと、取り返しのつかないことをしてしまったね」と、彼の涙のわけを聴いてやりたかった。孤房で壁に向かって涙するしかない勝田であったから、その幾分かでも私は見届けてやりたかったのだと思う。
 メディアで「鬼畜」「冷血」と謳われた勝田の悔いの心に目を留め、人間として遇した人は何人かいた。捜査官の山崎氏始め愛知県警の刑事たちが、そうだった。山崎氏は「おまえの言うことは、俺は信じるんだ」と言い、藤原清孝の訃報に接しては「冥福を祈ります」と言われた。
 このようなことを書き立てれば、ご遺族のお気持を愈々逆撫ですることにしかならない。勝田が死してなお続くご遺族の深いお悲しみの前に、私の軛は何と軽いことだろう。人は、たった一つの場にしか立てないものだ。
 申し訳ない気持でいっぱいである。
 沙羅双樹の花の季節に

    

     (2005,6,18 up)来栖宥子
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* 「遺言書」藤原清孝 ■ プロフィール 
意思によって、死刑囚の姉である、ということ。 2008-07-08 
* 『113号事件 勝田清孝の真実』---8人の命を、その手で失くした人の誕生日であった。「おめでとう」と言って良いのだろうか---
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