「讀賣新聞2009/06/06 闇サイト殺人「極刑を」32万人署名…連載「死刑」第4部」 から考えてみたい。
以下、抜粋。
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■社会守るため「極刑やむなし」…オウム弁護人、保護司らも
〈当方は死刑を求刑された地下鉄サリン事件の実行犯の弁護をしております。しかし、今回の凶行は悪質極まりなく、社会防衛の観点からも遺族の応報感情の点からも、死刑はやむを得ないと思います〉
第2東京弁護士会に所属する田瀬英敏弁護士(52)は2007年10月、「愛知・闇サイト殺人事件」で娘の利恵(りえ)さん(当時31歳)を殺害された磯谷(いそがい)富美子さん(57)に手紙を書いた。都内の事務所で偶然、磯谷さんのホームページを目にして、残虐な犯行に憤りを覚えた。職員全員で署名をし、手紙とともに投函(とうかん)した。
オウム真理教元幹部の広瀬健一被告(44)(1、2審死刑、上告中)を2審から担当している。弁護士会を通じて、打診が来た。当時、弁護士になって4年目。初めての死刑事件だった。5000人を超える死傷者を出した地下鉄サリン事件の結果はあまりにも重大だが、「一貫して罪を悔いる姿勢を示す広瀬被告には死刑は重すぎる」と感じ、弁護を引き受けた。
「再び社会と折り合える可能性がある加害者の場合、死刑を科すことは慎重であるべきだ。一方、闇サイト事件で死刑判決が下されなければ、女性が夜道を歩くことが命がけになってしまう」。田瀬弁護士は署名した理由をそう説明する。
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北海道のオホーツク海に近い遠軽(えんがる)町に住む米堂(よねどう)征男さん(65)は1998年から、仮釈放者らを支援する保護司を務める。「突然、一人娘を奪われた磯谷さんの悔しさを思うと、居ても立ってもいられなかった」。07年秋、妻とともに、死刑を求める署名に加わった。
更生を手助けすることにやりがいを感じてきた。疑心暗鬼の様子で家を訪ねてきた元受刑者を、「過去を振り返らず、将来だけを考えよう」と励ました。彼は地元の会社に就職でき、今もまじめに働いている。
「加害者の更生は大切だが、もっと大事なのは、まじめに生活している人が人生を奪われないこと。ためらいもなく人を殺害するような行為には、死刑という相応の罰があることを、裁判所が示す必要があると思った」と米堂さんは言う。
■社会のために危険の芽を摘む
東京都内の40歳代の主婦は、磯谷さんに送る署名を集めるために近所を回っていた昨年11月末、裁判員候補者に選ばれたことを伝える通知を受け取った。
署名の数は順調に増えていた。ただ、単純に署名を送ればいいという心境ではなくなった。「裁判員として死刑を選択することを想像したら、死刑がとても重い意味を持つものとして自分に迫ってきた」
一人でも殺したら死刑、というように考えたくはない。でも更生の可能性がないような人はどうすればいいのか。命が大切だからこそ、感情論ではなく、社会のために危険の芽を摘む意味で、私が死刑を求めてもいいのではないか――。
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上の記事を6月6日エントリしてから、友人にメールでご意見をお伺いし、お返事を戴いた。いずれも抜粋で、以下に紹介する。
▼来栖様
読売新聞の記事を読みました。なるほど、一面的、署名への批判は一つもなし。 私ががっかりだったのは、田瀬英敏弁護士です。↓の「オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」」をクリックしてください。
http://tochugesha.web.infoseek.co.jp/shiryo.html
その広瀬さんの弁護士、本来、憎悪を鎮める立場にある人が、わざわざ職員全員で署名したというのですからね。弁護士だから署名が証拠採用されないことを知っているはずですし。大衆が忠臣蔵や水戸黄門が好きなのはわかります。だけど、弁護士や保護司なら加害者の立場に立ち、もうちょっと冷静に考えることができるはずです。まあ、こういう人を選んで記事を書いたんでしょうけどね、読売は。
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▼来栖さま
メールありがとうございます。私は読売を取っているので、この記事読みました。率先して死刑嘆願書に署名したと言う弁護士の話には、呆れ、絶望するばかりです。
スケープゴートを渇望する悪しき「民意」の力によって、本来排除しなければならない感情を法廷の場に持ち込む役目を担わされ、合法的殺人の主役を演じてしまった磯谷さんは、本当なら背負わなくてもいい苦しみを背負うことになるでしょう。光市事件の本村さんも同じですね。
どうして善良?な人たちは、絶望する被害者遺族に、追い討ちをかけるように、自分のストレスの発散の肩代わりをさせていることに気が付かないのでしょうか。本当なら、被害者遺族は法廷から、遠ざけてあげることが優しさであり、彼らが将来立ち直ってゆくために絶対に必要な、「許す」という手段を残しておいてあげることが、社会の成すべき役割のはずです。
にもかかわらず、ストレスの充満した社会心理は、被害者遺族に死刑執行の実行者になることを要請したのです。これほど残酷なことがあるでしょうか? これほどみごとに劇場型報復劇が演じられているのに、マスコミも世論も、その非人道性にどうして気が付かないのでしょう。
これから始まる裁判員制度では、「死」の問題を軽く観る多くの人たちが、ひょったしたら自分が背負うはめになる十字架の存在を知らぬまま、浮ついた正義の名の下に、「死」を宣告してしまう事態が想定されます。信じるものの無い、寄り添ってくれる何かを持たない多くの同朋に対して、そのように自己防衛の手段を持たない人が、他人の「死」に関ることがいかに危険なことかということを、どのように伝えたらいいのでしょうか?
**に参加して議論していると、多くの人がいかに「死」の問題を軽く考えているかということを実感します。本当に危険だと思います。
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ゆうこ様
「再び社会と折り合える可能性がある加害者の場合、死刑を科すことは慎重であるべきだ。一方、闇サイト事件で死刑判決が下されなければ、女性が夜道を歩くことが命がけになってしまう」の発言が、死刑事件を担当している弁護士さんの発言ということに衝撃をうけました。
おそらく読売新聞記者に、カット、編集されてしまった発言だとは思うのですが、それでも、それを言うなら、地下鉄にサリンを撒かれても、地下鉄に乗るのが命がけになってしまうのは同じだと思いました。
堀被告の弁護人は、被告人には、更生可能性がある、罪を悔いているというようなことを述べていた記憶があります。自分の担当でない被告人のことをどれ程、知っているのだろうか、自分がよく知らない被告人ならば、死刑を科すのは慎重でなくてもいいのか。と思わずにはいられませんでした。私は、法治国家として、署名活動の圧力によって死刑を求める動きは恥ずかしいことだと思っていました。しかし、弁護士さんまでやってるとなったら、その行為は完全に正当化されたことなのだと思い、大変、失望しました。
以前、ゆうこさんが、1人殺人(被害者)であって、3人(加害者)の命を奪うようなことはどうなのだろうか。と書かれていたことで、とても、考えさせられました。もしこれが、3人でなく、30人や300人でやった犯罪であり、1人殺人したからといい、大量に人を殺すなら、、1人殺した被告人らより、30人や300人死刑にした日本国のほうが、国際的には非難されることだと思います。3人程度なら問題にはならないでしょうということなのかもしれませんが、その線引きはどこにあるのだろうかと思いました。最近の死刑判決、濫伐には、私は恐怖を感じます。死刑を反対する国連や国際社会の世論への挑発的行為だと思います。
>ブログにせよ、HPにせよ、意見を表明することは立場上、難しいです。正論に就きたいと念じ、考えつくした末に正論を述べたとしましても、私の立場上、加害者「側」というレッテルで断じられてしまうと思います。それが辛いところであり、苦心を強いられるところです。
私はゆうこ様のご意見は公平なものだと思い、とても安心するのですが、加害者側というレッテルをはられてしまう辛さがわかっていませんでした。
闇サイト事件に関しては、「永山基準は今の時代にあってない古い基準であり、判例主義をやめ臨機応変に刑を決められるようにすべきだ、遺族感情が報われる社会に改善すべきだ」というような意見をよくみました。
この署名を支持する人達は、更生可能性がない犯人は死刑と言いますが、判例主義を支持せず、その代わりに死刑を決める基準というのは、ひどく曖昧な感覚的なものなのだなと思わずにはいられませんでした。(犯人の生い立ちなどは報道されなかったと思うので、他の残忍な殺人事件と違う決め手は、報道の量や、被告人が凶悪顔をしていたことや、共感できる遺族の訴えなのかなと思います。)
話は変わりますが、広瀬被告の文章も読ませていただきました。その達筆さや、聡明さには驚きました。
彼は早稲田大学の応用物理学科を主席で卒業されたそうですが、本当に優秀な方だったのだろうなと思いました。人違いだったら、申し訳ないのですが、大昔にオウムの会報で、彼が書いた体験記を読んだ記憶があります。動物や犬が大好きで、犬の気持ちがわかるようになりたいと思い、オウムに入会したとするものです。その記憶があっているならば、繊細すぎる心をもった優しい少年だったと思うので、彼もどうか死刑にはならないように願っています。
ゆうこさんの以前のコメントにも大変考えさせられました。
>キリスト教圏では、「人権」や「生命」は人間が相互に認め与える(奪う)ものではなく、神(絶対者)から無条件に賦与されたもので、何人(なんぴと)もこれを侵してはならない、という文化があるが、日本は、違う。国民が、生殺与奪の権利を有する。議論以前の問題がある。
キリスト教圏ではどんな人であってもマナーを尽くすのが正義とこどもに教えるのに対し、日本では、自分の価値観に合わない人間は排除せよとしているのが、違うのかなと思います。死刑を正義の価値観にすることには、いじめや自殺など人間関係のストレスに関する問題に対しても大きな弊害があるように私は思え、その面で、暮らしやすい社会であるようには思えないのです。
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〈来栖のつぶやき〉
私は、子を残虐に殺害された経験を持たない。夫も健在だ。そして、死刑囚の姉である。こういう立場を勘案するなら、世の殺人事件には口を挟まないほうが人を傷つけないのでは・・・、そのような気持ちもあって、昨年Y新聞から取材の依頼があったとき、お断りした。「匿名でもよい」と記者は食い下がったが、「匿名では意味をなさないでしょう」と断った。
殺人事件加害者の家族という立場は、時に発言を慎ませもするが、一方、ホームページでは名前を出して、小さい声だけれど発してきた。『勝田清孝と来栖宥子の世界』は、公式の、つまり固有名詞のサイトである。
いわゆる事件名「闇サイト殺人事件」について、これまで何度かブログにエントリしてきた。そのなかで切実に感じたことは、人の死を望む姿の無惨と危うさだった。
被害者遺族の方は今は多くの賛同者を得て、かつまた高揚した気分が持続していらっしゃるのだろうが、歳月を経たのち大丈夫かな、と案じないではいられない。私なら、怖い。自分の動きによって2つの命が失われた・・・。このことは、私には堪えられないほど恐ろしい(遺族の上訴を裁判所が聴き入れたなら、3つの命が失われることになる)。もし遺族の獅子奮迅の死刑嘆願活動がなければ、3つもの命は失われなかったはずだ。名地裁裁判長は、遺族の感情と行動に動かされてガイドラインを越えた。
広島女児殺害事件の遺族(父親)の「自分が(加害者の命とはいえ)殺すことになる」との吐露は、人の命を自分の手で奪う危うさ、恐れを実感として表現している。私も、こんな恐ろしいことは堪えられそうにない。発狂してしまいそうだ。車の運転でちょっとした物損事故を起こしたぐらいでも、自分を喪うであろう私である。
東海テレビの番組だったか、遺族がおっしゃっていた。「永山基準によって、下される量刑が決まっているのなら、裁判の必要も意味も無い」と。これは間違っている。裁判は、量刑を決めるために行われるのではない。
また同番組中、「死刑を求める磯谷さんの前に立ちはだかったのは、『被害者1名のケースでは死刑の選択は無理』という永山基準だった」とのナレーションがあったように記憶しているが、これも違うのではないか。磯谷さんの要求の前に立ちはだかったのは「命の尊重」という理念ではないだろうか。
上掲の友人の一人は「再び社会と折り合える可能性がない」と断言できる人がいるでしょうか、とも云われた。
私は昨秋より新聞連載の小説、五木寛之氏の『親鸞』を感慨深く読んでいる。
貴族の生まれとはいえ、不遇に育った親鸞は叡山で修行の少年期を送るが、やがて吉水へ法然の説法を聴きに通うようになる。自己の罪深さ、断ち切れぬ煩悩に悩む親鸞が必死に道を求める行動だった。その頃の事を、法難が迫ったある日、『選択本願念仏集』を親鸞に託して、法然は言う。
「わたしは、そなたを信じている。だれがなんといおうと、そなたを信じる。もし、彼らのいうとおりそなたが比叡山の目付け役だったとしても、わたしは後悔などしない。 かつて百日間、一日も休まずにわたしの話をききつづけたそなたの目の色を、わたしははっきりとおぼえているのだよ。あれは、闇のなかから生き返ってくる人間のすがただった。わたしはそなたをみつめながら、そなた一人にむけて話しをしているような気持ちでいた。だからわたしはそなたにこの書をあずけるのだ。わたしにもしものことがあったときは、世間に広くこの選択集をひろめるがよい。よいか、たのむぞ」
綽空(親鸞)は全身に法然上人の声がしみわたるのを感じ、床に頭をおしつけた。涙があとからあとから、とめどなくながれた。
私は上記法然の「 闇のなかから 生き返ってくる 人間の すがた 」との言葉に泣いた。私も、この「やみ」と「すがた」、「目の色」を見たことがあるからだ。「人間」を見た。
この「すがた」は、本人だけの努力によって得られるものではない。祈ることが、念仏することが、人間の側から一方的に発せられるものではなく、上(神)からの呼びかけであるように、生き返るすがたも、上からの無償の恵みよって、成る。生殺与奪というが、人間には誰一人、命を創った者などいない。髪の毛一本すら造れない。与えられたのである。不完全な被造物にすぎない者が、完全なこと(断言・死刑)をし、希望を失わせては(闇に戻しては)ならない、と私は思う。「希望」を残しておく、それが危うい存在である人間の、せめてもの知恵ではないだろうか。人は、一人で更生などできぬ。人は、人の間に生まれ、人の間で生きて、更生するものだ。
最後に、要らぬお節介だけれど、ご遺族に、負を志向するサポーターではなく、もう少し別の世界へ誘う人との出会いがあったら、と思わないではいられない。
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◇ クロマグロ禁輸-ワシントン条約会議 われらを養ってくれる「いのち」
と書いてしまったのですが、これは広瀬被告でなく獣医師だった遠藤被告だったかもしれないと思うようになりました。しかしそれもはっきりしません。記憶が曖昧で誰だったかもよくわからないことを書いてしまいました。上箇所は全く事実ではなく、私の間違いです。事実でないことを書いてしまい申し訳ありませんでした。お詫びと訂正をさせていただきます。