〈来栖の独白〉
俄かには信じられない判決。
刑事裁判においては有罪の立証責任は検察官にあり、検察側が被告人の有罪を立証できなければ、被告人に無罪判決が下される(被告弁護側には、無実の立証責任はない)。
気になるのは、「被害者宅に行ったことは一度もない」という被告人の供述。判決でも、嘘と認定された。
真っ白というより、「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」「疑わしきは被告人の利益に」といった、推定無罪の原則に支えられた判決という感じだ。それで良い。無辜を罰することがあってはならないから。
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鹿児島夫婦殺害事件 地裁判決の要旨
日本経済新聞2010/12/10 15:35
【争点と証拠関係】
検察官は(1)犯人が侵入する際にスコップでたたき割った窓の網戸に被告のDNAが、室内に被告の指紋などが付着していたこと(2)スコップが凶器に使用されたこと(3)不審な第三者の痕跡がないことなどを総合し、被告を犯人だと主張。弁護人は、DNAや指掌紋も偽装工作の疑いがあるなどと主張する。
【検討】
検察官が主張する真犯人の行動には、侵入の手口や犯行目的、逃走経路など重要な部分に疑問があり、犯人性を認定するには慎重であるべきだ。
DNA型鑑定の結果は信用でき、汚染や偽装工作が行われたとか、再鑑定できないから信用できないとの弁護人の主張は採用できない。しかし、細胞片が網戸のどこに付着していたかは断定できないので、被告が過去に網戸に触った事実を認定できるにとどまる。
整理だんす周辺から採取された被告の指掌紋が捏造(ねつぞう)であるとの弁護人の主張は採用できず、被告が過去に周辺を触った事実は動かないが、被告の指掌紋が付着した後に別人が物色した偶然の一致も否定できない。
重大犯罪を犯すほど経済的に追い詰められていたとは認められない。アリバイがないこと自体は犯人性を推認させる事情ではない。
現場保全が完璧であったかも疑問であり、真相解明のための捜査が十分に行われたのかも疑問で、検察官の証拠提出の経緯などに照らし、他に被告に有利に働き得る証拠があるのではないかと疑わざるを得ない。
最重要証拠であるスコップから被害者のDNAが検出されたのに、被告の痕跡がまったく検出されなかった事実は犯人性を否定する事情だ。本件が金品目的の強盗であったのか自体に疑問が残ることなどは、犯人性を疑わせる事情だ。
「被害者宅に行ったことは一度もない」という供述はうそであるが、その一事をもち、直ちに犯人であると認めることはできない。
結局、(1)過去に網戸に触った事実(2)過去に窓ガラスの外側に触った事実(3)過去に現場に立ち入り、整理だんすやパンフレット類に触った事実が認められるにすぎないが、単独ではもとより、総合しても被告を犯人であると推認するには遠く及ばない。犯人性を否定する事情が多々認められる以上、うその供述をしていることをもって犯人性が強く推認されるともいえない。
【結論】
本件程度の状況証拠によって被告を犯人と認定することは、「疑わしきは被告人の利益に」という原則に照らして許されない。
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「まさか犯人性まで否定とは…」 検察に衝撃 死刑求刑で無罪
産経新聞 12月10日(金)22時59分配信
「指紋とDNAがあるのに、まさか犯人性まで否定されるとは思わなかった…」。鹿児島地裁で言い渡された無罪判決に、法務・検察内では衝撃が走った。
検察幹部の多くが疑問視するのは、「犯行現場に行ったこともない」とする被告の供述を「嘘」と認定しながら無罪判決を導いた点だ。最高検の幹部は「無罪にするならば、被告の供述と、指紋があるという矛盾点について言及すべきではないか」と話す。
また、法務省でも判決は驚きとともに受け止められた。ある幹部は「自白偏重が批判される時代で、証拠も完璧を求められるとますます捜査が難しくなる」。別の幹部は「検察としては控訴せざるをえないだろう」と語った。
無罪判決を受けて、鹿児島地検の江藤靖典次席検事は「判決内容を十分に検討し、適切に対処したい」とのコメントを発表。
鹿児島県警の笠原俊彦本部長は「警察としては、検察庁と協議協力の上、犯罪の立証に向けて適正妥当な捜査を遂げたものと考えているが、今回の判決についてはコメントを差し控えたい」とした。
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◆犯人は逃すともの精神「疑わしきは罰せず」「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」2006-12-17 | 司法改革/被害者・裁判員参加/検察審査会
週のはじめに考える
実施まで三年を切ったというのに、なお、だれが、何のためにの声が聞こえるほど国民の裁判員制度への理解は深まっていません。国民の司法参加の大義は-。 来年一月二十日から一般公開される周防正行監督・脚本の映画「それでもボクはやってない」に感心しました。
通算八年余の司法記者生活の経験がありますが、ズブの素人がその間に知り、考えさせられた日本の刑事裁判への疑問が二時間二十三分のドラマに凝縮されていたからです。
映画は通勤電車内の痴漢で被害者の女子中学生に現行犯逮捕されてしまった青年の物語。周防監督は取材に三年かけたそうですが、映画でも現実でもしばしば、容疑を全面否認するところから悲劇は始まります。
無辜を罰していないか
警察や検察の取り調べで無実の主張に耳は傾けられず、犯行を自供するまで、証拠隠滅や逃亡の恐れを理由に身柄を拘束されてしまいます。
警視庁管内でことし六月、友人たちの奔走でアリバイが証明されるまで十カ月も勾留(こうりゅう)されるひき逃げ冤罪(えんざい)事件が発覚しました。そんな悪名高い「人質司法」は珍しくなく、捜査機関に釈明の余地はありません。
日本の刑事裁判は「調書裁判」「検察司法」とも評されます。法廷より捜査段階での自白調書が決定的証拠とされ、裁判は検察の主張を追認するだけのシステムとの批判です。
検察立証に1%でも合理的疑いが生じれば無罪のはずですが、有罪率99%、日本の数字は異様です。
「疑わしきは罰せず」や「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」の刑事裁判の原則がなぜ適用されないのか。映画のテーマですが、さらに深刻な問題提起が周防監督のコメントの中にあります。「(裁判は)今現実に日本に生きている多くの人たちの気持ちの反映かもしれません」「『疑わしきは捕まえといて』の方が本音に近いのかもしれません」-。
同じ裁判映画として名高いヘンリー・フォンダ主演の「十二人の怒れる男」が「犯罪者を釈放しようとしているかもしれないが、有罪を確信できない場合は無罪だ」と米・陪審制度の精神を語って感動を誘うのとは対照的です。
市民が刑事裁判を変える
刑事裁判への裁判員制度導入は、職業裁判官に独占されている事実認定や有罪・無罪の判断、刑の宣告に市民が加わる点で画期的です。
職業裁判官三人、市民裁判員六人構成で、痴漢ではなく、殺人や強盗など重大事件を審理します。普通の市民に理解してもらうために検察側も弁護側も、難解な専門用語は避け分かりやすい言葉で、迅速で的確な立証が必要です。
全員一致の陪審制度と違って裁判員制度は多数決。市民の参加で刑事裁判が大きく変わるとの期待の半面で「職業裁判官主導で市民裁判員が追認するだけにならないか」「実体的真実究明の場から遠くなる」の危惧(きぐ)も出ています。
一人の無辜を罰しないために真犯人を逃してしまうことに耐えられるかどうか-。厳格を求める日本人の秩序感覚を変えられるかどうかが最大のカギといえそうです。
裁判員制度の難問は、国民が司法参加の意義を認めながら、裁判への参加を望んでいないことです。内閣府や最高裁の調査で60-70%の人が参加を躊躇(ちゅうちょ)し、それも「有罪・無罪の判断が難しそう」「人を裁きたくない」の軽くない理由です。
刑事裁判取材で最も衝撃的で、今なお内部で折り合いがつかない事件があります。永山則夫元被告の四人連続射殺事件で一九八一年の東京高裁の控訴審判決でした。
「被告人に贖罪(しょくざい)の道を歩ませるべきだ」。一審の死刑判決を破棄、無期懲役に減軽した判決に、永山被告自身が、一瞬、戸惑ったようにみえました。
死刑制度の否定ではない。犯行時十九歳、悲惨な成育歴、獄中結婚、印税での遺族への弁償、情状をくむ判決文には被告を救いだすための苦心が歴然としていました。世論の反発を恐れて、弁護士の一人が「報道を止めることはできないか」と訴えたことも覚えています。
永遠に分からぬことが-
永山元被告の無期は最高裁で破棄され、九〇年五月の死刑確定、九七年八月の刑執行となっていきますが、生かす選択は本当になかったのか。今もわかりません。いや永遠になのかも。裁きは神の領域と思えることがあるのです。
裁判員は選挙人名簿から抽選で選ばれ、生涯を通じると十三人に一人が裁判員になるとの試算もあるそうですから人ごとではありません。
裁判員制度の狙いは司法や社会への市民の積極参加と社会構成員としての自覚。「統治の客体」から「統治の主体」への国民の意識変革が究極の目的ともされます。
そうであるなら、義務より権利。裁判員制度は、国民の理解はもちろん、進んで参加してもらえる緩やかな制度にすべきです。(中日新聞 社説 2006年12月17日)
俄かには信じられない判決。
刑事裁判においては有罪の立証責任は検察官にあり、検察側が被告人の有罪を立証できなければ、被告人に無罪判決が下される(被告弁護側には、無実の立証責任はない)。
気になるのは、「被害者宅に行ったことは一度もない」という被告人の供述。判決でも、嘘と認定された。
真っ白というより、「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」「疑わしきは被告人の利益に」といった、推定無罪の原則に支えられた判決という感じだ。それで良い。無辜を罰することがあってはならないから。
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鹿児島夫婦殺害事件 地裁判決の要旨
日本経済新聞2010/12/10 15:35
【争点と証拠関係】
検察官は(1)犯人が侵入する際にスコップでたたき割った窓の網戸に被告のDNAが、室内に被告の指紋などが付着していたこと(2)スコップが凶器に使用されたこと(3)不審な第三者の痕跡がないことなどを総合し、被告を犯人だと主張。弁護人は、DNAや指掌紋も偽装工作の疑いがあるなどと主張する。
【検討】
検察官が主張する真犯人の行動には、侵入の手口や犯行目的、逃走経路など重要な部分に疑問があり、犯人性を認定するには慎重であるべきだ。
DNA型鑑定の結果は信用でき、汚染や偽装工作が行われたとか、再鑑定できないから信用できないとの弁護人の主張は採用できない。しかし、細胞片が網戸のどこに付着していたかは断定できないので、被告が過去に網戸に触った事実を認定できるにとどまる。
整理だんす周辺から採取された被告の指掌紋が捏造(ねつぞう)であるとの弁護人の主張は採用できず、被告が過去に周辺を触った事実は動かないが、被告の指掌紋が付着した後に別人が物色した偶然の一致も否定できない。
重大犯罪を犯すほど経済的に追い詰められていたとは認められない。アリバイがないこと自体は犯人性を推認させる事情ではない。
現場保全が完璧であったかも疑問であり、真相解明のための捜査が十分に行われたのかも疑問で、検察官の証拠提出の経緯などに照らし、他に被告に有利に働き得る証拠があるのではないかと疑わざるを得ない。
最重要証拠であるスコップから被害者のDNAが検出されたのに、被告の痕跡がまったく検出されなかった事実は犯人性を否定する事情だ。本件が金品目的の強盗であったのか自体に疑問が残ることなどは、犯人性を疑わせる事情だ。
「被害者宅に行ったことは一度もない」という供述はうそであるが、その一事をもち、直ちに犯人であると認めることはできない。
結局、(1)過去に網戸に触った事実(2)過去に窓ガラスの外側に触った事実(3)過去に現場に立ち入り、整理だんすやパンフレット類に触った事実が認められるにすぎないが、単独ではもとより、総合しても被告を犯人であると推認するには遠く及ばない。犯人性を否定する事情が多々認められる以上、うその供述をしていることをもって犯人性が強く推認されるともいえない。
【結論】
本件程度の状況証拠によって被告を犯人と認定することは、「疑わしきは被告人の利益に」という原則に照らして許されない。
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「まさか犯人性まで否定とは…」 検察に衝撃 死刑求刑で無罪
産経新聞 12月10日(金)22時59分配信
「指紋とDNAがあるのに、まさか犯人性まで否定されるとは思わなかった…」。鹿児島地裁で言い渡された無罪判決に、法務・検察内では衝撃が走った。
検察幹部の多くが疑問視するのは、「犯行現場に行ったこともない」とする被告の供述を「嘘」と認定しながら無罪判決を導いた点だ。最高検の幹部は「無罪にするならば、被告の供述と、指紋があるという矛盾点について言及すべきではないか」と話す。
また、法務省でも判決は驚きとともに受け止められた。ある幹部は「自白偏重が批判される時代で、証拠も完璧を求められるとますます捜査が難しくなる」。別の幹部は「検察としては控訴せざるをえないだろう」と語った。
無罪判決を受けて、鹿児島地検の江藤靖典次席検事は「判決内容を十分に検討し、適切に対処したい」とのコメントを発表。
鹿児島県警の笠原俊彦本部長は「警察としては、検察庁と協議協力の上、犯罪の立証に向けて適正妥当な捜査を遂げたものと考えているが、今回の判決についてはコメントを差し控えたい」とした。
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◆犯人は逃すともの精神「疑わしきは罰せず」「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」2006-12-17 | 司法改革/被害者・裁判員参加/検察審査会
週のはじめに考える
実施まで三年を切ったというのに、なお、だれが、何のためにの声が聞こえるほど国民の裁判員制度への理解は深まっていません。国民の司法参加の大義は-。 来年一月二十日から一般公開される周防正行監督・脚本の映画「それでもボクはやってない」に感心しました。
通算八年余の司法記者生活の経験がありますが、ズブの素人がその間に知り、考えさせられた日本の刑事裁判への疑問が二時間二十三分のドラマに凝縮されていたからです。
映画は通勤電車内の痴漢で被害者の女子中学生に現行犯逮捕されてしまった青年の物語。周防監督は取材に三年かけたそうですが、映画でも現実でもしばしば、容疑を全面否認するところから悲劇は始まります。
無辜を罰していないか
警察や検察の取り調べで無実の主張に耳は傾けられず、犯行を自供するまで、証拠隠滅や逃亡の恐れを理由に身柄を拘束されてしまいます。
警視庁管内でことし六月、友人たちの奔走でアリバイが証明されるまで十カ月も勾留(こうりゅう)されるひき逃げ冤罪(えんざい)事件が発覚しました。そんな悪名高い「人質司法」は珍しくなく、捜査機関に釈明の余地はありません。
日本の刑事裁判は「調書裁判」「検察司法」とも評されます。法廷より捜査段階での自白調書が決定的証拠とされ、裁判は検察の主張を追認するだけのシステムとの批判です。
検察立証に1%でも合理的疑いが生じれば無罪のはずですが、有罪率99%、日本の数字は異様です。
「疑わしきは罰せず」や「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」の刑事裁判の原則がなぜ適用されないのか。映画のテーマですが、さらに深刻な問題提起が周防監督のコメントの中にあります。「(裁判は)今現実に日本に生きている多くの人たちの気持ちの反映かもしれません」「『疑わしきは捕まえといて』の方が本音に近いのかもしれません」-。
同じ裁判映画として名高いヘンリー・フォンダ主演の「十二人の怒れる男」が「犯罪者を釈放しようとしているかもしれないが、有罪を確信できない場合は無罪だ」と米・陪審制度の精神を語って感動を誘うのとは対照的です。
市民が刑事裁判を変える
刑事裁判への裁判員制度導入は、職業裁判官に独占されている事実認定や有罪・無罪の判断、刑の宣告に市民が加わる点で画期的です。
職業裁判官三人、市民裁判員六人構成で、痴漢ではなく、殺人や強盗など重大事件を審理します。普通の市民に理解してもらうために検察側も弁護側も、難解な専門用語は避け分かりやすい言葉で、迅速で的確な立証が必要です。
全員一致の陪審制度と違って裁判員制度は多数決。市民の参加で刑事裁判が大きく変わるとの期待の半面で「職業裁判官主導で市民裁判員が追認するだけにならないか」「実体的真実究明の場から遠くなる」の危惧(きぐ)も出ています。
一人の無辜を罰しないために真犯人を逃してしまうことに耐えられるかどうか-。厳格を求める日本人の秩序感覚を変えられるかどうかが最大のカギといえそうです。
裁判員制度の難問は、国民が司法参加の意義を認めながら、裁判への参加を望んでいないことです。内閣府や最高裁の調査で60-70%の人が参加を躊躇(ちゅうちょ)し、それも「有罪・無罪の判断が難しそう」「人を裁きたくない」の軽くない理由です。
刑事裁判取材で最も衝撃的で、今なお内部で折り合いがつかない事件があります。永山則夫元被告の四人連続射殺事件で一九八一年の東京高裁の控訴審判決でした。
「被告人に贖罪(しょくざい)の道を歩ませるべきだ」。一審の死刑判決を破棄、無期懲役に減軽した判決に、永山被告自身が、一瞬、戸惑ったようにみえました。
死刑制度の否定ではない。犯行時十九歳、悲惨な成育歴、獄中結婚、印税での遺族への弁償、情状をくむ判決文には被告を救いだすための苦心が歴然としていました。世論の反発を恐れて、弁護士の一人が「報道を止めることはできないか」と訴えたことも覚えています。
永遠に分からぬことが-
永山元被告の無期は最高裁で破棄され、九〇年五月の死刑確定、九七年八月の刑執行となっていきますが、生かす選択は本当になかったのか。今もわかりません。いや永遠になのかも。裁きは神の領域と思えることがあるのです。
裁判員は選挙人名簿から抽選で選ばれ、生涯を通じると十三人に一人が裁判員になるとの試算もあるそうですから人ごとではありません。
裁判員制度の狙いは司法や社会への市民の積極参加と社会構成員としての自覚。「統治の客体」から「統治の主体」への国民の意識変革が究極の目的ともされます。
そうであるなら、義務より権利。裁判員制度は、国民の理解はもちろん、進んで参加してもらえる緩やかな制度にすべきです。(中日新聞 社説 2006年12月17日)