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新日山 安国寺 『 不動院 』
14世紀中頃、足利尊氏が全国に建立した安国寺の一つといわれ、のちに禅宗から真言宗に改宗、不動院となった。
原爆によって廃墟と化した広島で唯一残る足利時代の遺構。
唐様建築最大級といわれる金堂(国宝)、
鐘楼と銅製の梵鐘、本尊の木造薬師如来坐像、唐様の楼門は重要文化財に指定されている。
楼門にある木造仁王像は県の重要文化財。また春は桜、秋は紅葉の名所として賑わう。
楼門 国重要文化財
「楼門」と称するが、建築形式的には「楼門」でなく「二重門」(上層・下層境にも軒の張り出しをつくる)である。
安芸・国分寺 不動院 金堂 国宝
薬師如来坐像 国重要文化財
鐘楼 国重要文化財
不動堂
境内の裏山には古い墓所があって
広島城主 福島正則之塚
福島正則
戦国時代には戦火により伽藍が焼失し武田氏も滅亡したが、毛利氏の外交僧安国寺恵瓊により復興された。
関ヶ原の戦いで西軍に組した恵瓊は処刑され、毛利氏も転封後、福島正則が芸備両国の大名として入国し、
正則の祈祷僧である宥珍が安国寺に入り住持となった。
この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本尊とし不動院と称した。
後に浅野氏が国主として広島に入ると、浅野家歴代藩主の保護を受け明治に至った
正則の長男正友は早世したため、姉と別所重宗の間に生まれた正之を養嗣子として家康の養女を嫁に迎えた。
ところが、そあとで実子が相次いで生まれたことで、やがて実子に家を継がせたいと思うようになった。
とはいえ、正之は広島藩の重要拠点である三原城五万三千石を預けられるなど、なかなかの人物だったようだ。
しかし、正則の態度に次第に前途を悲観するようになった正之は、ついには
「刑部少輔正之が近来の所行ただならず、ひとえに狂気のいたるところに似たり」
という状態となって幽閉され、慶長十二年、餓死に追い込まれてしまったという。
正之の死後、実子忠勝が嗣子に立てられた。信濃に減封された正則は所領のうち二万石を忠勝に分知したが、
忠勝は正則に先立って死去したため二万石は幕府に返上された。
かくして、寛永元年(1624)七月、正則は信濃国高井野で病没した。
享年六十八歳死後、遺領は没収され、末子正利が三千石の旗本に取り立てられたが嗣子なく断絶した。
名もなき家に生まれ、一代で栄華と没落を味わった正則の人生は、
たとえばジェットコースターに乗って疾走したようなものであったといえようか。
安国寺 恵瓊之墓
安国寺恵瓊 (あんこくじ えけい)
戦国末期の「怪僧」で,僧侶でありながら大名(伊予6万石)となった人物です。
もとは,銀山城主で安芸守護職・武田信重の子といわれ,毛利氏に武田氏が滅ぼされた際に,毛利元就に助命され安芸・安国寺にて出家したそうです。
その後,荒廃していた安国寺の復興に尽力し,また,1570年には毛利氏と大友氏の和睦を仲介したことから,毛利氏の外交僧としても活躍します。
そして,歴史の表舞台に現れるのは,本能寺の変の直後,備中高松城で対峙する毛利軍と羽柴軍の和睦を取り纏めてからです。
才知に富んだ恵瓊は,この時すでに秀吉の天下取りを読み,先物買いとして毛利氏の為というより秀吉の為に和睦を成立させたと言われています。
しかし,最後の最期となる関ヶ原合戦では,時流を読めず,また毛利家中を一つにまとめることも出来ず,
敗れた西軍の主要人物として京・六条河原で斬首されています。
武田 刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)之墓
銀山城(金山城かなやまじょう)
安芸武田氏は甲斐武田氏が承久の乱による恩賞として安芸守護に任命されたことにより始まる。
戦国時代に入り武田氏は安芸南部の豪族である
しかし武田氏は大内氏に反旗を翻し安芸を支配すべく安芸北部に進出する。
その子光和は尼子氏と結んで大内氏に対抗するが天文10年(1541年)大内氏の命を受けた毛利元就に攻められ落城し滅亡した。
豊臣秀吉 遺髪塚
はじめて行った「不動院」 桜が咲き始めていて 桃も咲いていた
秋に紅葉にでもまた行こうかな 意外と近いし