奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。
井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、
奈良時代建立の金堂、講堂を初め、多くの文化財を有する。
唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている
唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。
寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語であったが、
「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。
つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。
●南大門 南大門 扁額
●金堂 (国宝)
奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである 2000年から解体修理(「平成の大修理」)が行われた
◎唐招提寺金堂(国宝)への一般の入堂
翌日の新聞記事
唐招提寺金堂(国宝)への一般の入堂が3日、奈良時代の創建以来初めて認められた。
創建以来1250年 初めての事! しかも一日限り! 奇跡としか言いようがない。
10年に及ぶ解体修理を経て行われた昨年11月の落慶法要から1年を記念しての特別拝観。
入堂できるのは1日限りで、大勢の参拝客が本尊の盧舎那仏坐像(国宝)などの荘厳な姿にため息を漏らしていた
正面7間、側面4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す)で、
手前の7間×1間を吹き放し(壁、建具等を設けず、開放とする)とすることがこの建物の特色である。
吹き放しとなった堂正面には8本の太い円柱が並び、この建物の見所となっている
堂内 には中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置する(いずれも国宝)ほか、
本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する(仏像はいずれも国宝)。
鴟尾(国宝)
大棟の左右に鴟尾(しび)を飾る。このうち西側の鴟尾は創建当初のもので、
東側は鎌倉時代の元亨3年(1323年)の補作であったが、いずれの鴟尾も劣化が甚だしいため、
平成の大修理に伴い、屋根上から下ろして別途保管することとなり、屋根上には新しい鴟尾が飾られている。
●講堂 (国宝)
平城宮の東朝集殿を760年代初めに移築した建物で、唯一の宮殿遺構
●鼓楼(国宝)・礼堂
鼓楼は金堂・講堂の東側に建つ、小規模な楼造(2階建)の建物
この建物には太鼓ではなく、鑑真が唐から請来した仏舎利を安置しており、そのため舎利殿とも称する
礼堂(重要文化財)
隣の鼓楼(舎利殿)に安置された仏舎利を礼拝するための堂として礼堂(らいどう)と呼ばれる
●経蔵、宝蔵(各国宝)
礼堂の東側に並んで建つ。
ともに奈良時代の校倉造倉庫。
経蔵は唐招提寺創建以前ここにあった新田部親王邸の倉を改造したものとされ、
宝蔵はここが寺になってから建てられたものと推定される
●鑑真和上像 (国宝)
御影堂に安置
像高80.1センチメートル。鑑真の弟子の忍基が、唐招提寺の講堂の梁が折れる夢を見、師僧の死去が間近いことを知って造らせたものという。
鑑真が没した天平宝字7年(763年)頃の作と推定され、日本最古の肖像彫刻といわれている。
脱活乾漆造だが、膝上で組んだ両手は木製である。肖像彫刻としては異例の、目を閉じた形に表される。
この像は1977年にはパリのプティ・パレ美術館で展示され、1980年には中国に「里帰り」して揚州(鑑真の故郷)と北京で公開された。
●アライグマ被害
奈良市の唐招提寺で、鼓楼(ころう)(国宝)や御影堂(重要文化財)の柱などにアライグマによるとみられる傷が見つかった。
東大寺や正倉院(奈良市)、法隆寺(斑鳩町)などでも数年前から同様の被害が相次いでおり、各寺院は対策に頭を悩ませている。
境内の監視カメラに3匹の親子らしきアライグマが映っていたという。
今回の大和路の旅は天候にも恵まれ なんといっても唐招提寺金堂の入堂ができたことは 一番の 奇跡的な出来事で、
平城遷都1300年の記念すべき年に由緒ある寺院を巡ることができたことは 本当に幸せでした
でも見聞きしたことをすぐに忘れてしまうので・・・・