本日は、熊本市国際交流会館にて、高森顕徹先生の以前の御説法をビデオで聞かせていただくご縁がありました。
親鸞聖人の正信偈に
「法蔵菩薩因位時
在世自在王仏所」
とあります。阿弥陀仏が仏になられる前、法蔵菩薩という名前の菩薩であった。その師匠が世自在王仏という仏でした。
法蔵菩薩は、なんとか苦しみ悩む全ての人を救いたい、と師匠に申し出られます。
しかし、師匠の世自在王仏は、全ての人は全身ガンだらけのがん患者みたいなもので、どうにもならない。救うことは不可能である。ムダな努力はしてほしくない、と許可されません。
なんとか救いたい。
救えるものではない。
こんなやりとりが続いたあとで、世自在王仏が根負けされ、「じゃあ、やってみよ」ということで、法蔵菩薩は本願をたてられ、阿弥陀仏となられた。と聞かせていただきました。
こんな深刻なやりとりがなされているのに、当の本人である私たちは、こんこんと麻酔で眠り続けているようなもので、助けてくださいという心もないし、コップ落としたほどにも驚かない。
実に「対応が難しい」のが私たちだということでした。
ここで、はっとしたのは、対応が難しいのは実は自分であった、ということでした。
わたくし、金融機関に勤めておりますが、「対応が難しいお客さん」っているわけです。
お金を貸すのが難しいということもありますが、
貸したあとで、延滞が始まった場合、「支援するか、支援しないか」が問題となります。
金融機関ではこれを「生かすか、殺すか」と日常的に言っています。(おそろしい話ですね。銀行では3時に窓口を閉めたあと、こんな会話をしている人もいるのです)
支援する場合は、「今年は利息だけの支払いで結構です」とかいう話になります。
支援しないとなれば、「今すぐ全額返しなさい。でなきゃ怖いよ怖いよ。」という話になります。
で、部下が「この人は立派な仕事されているから、ちょっと延滞したくらい目をつぶって、支援したいのです」というと、
上司が「気持ちは分かるが、生かす根拠があるのかね?」と反論してきます。
部下は、いろいろ「生かす根拠」を探してくるわけですが、詰めが甘いと、
「うーん。殺さざるをえないよねぇ」という結論になってしまうわけですね。
そうすると、お客さんとしては、当然怒りますよね。「なんでだっ!」と思います。
そして場合によっては、国会議員に相談したりなんかして圧力をかけてくる・・・なんていうお客さんもあります。そうでなくても、1時間以上にわたり文句を言い続ける人もいますし、ときどき怒鳴り声をあげる人もいますし。まあ、そのくらいは可愛いものですけれども。。。
そういう、「対応が難しい」人が多いのが、じつはこの熊本県である。といわれてます。
日本でもトップクラスに難しいんだそうです。
これはなぜなのかわかりませんが、そういう県民性なんでしょうね、といわれております。
みんながみんなそうだというわけではないし、この記事を読んでいる人にはそんな人はいないでしょうが、一般論として、対応が難しい案件が多い。
貸した側が、この「対応が難しい」案件で頭を抱えながらエンピツなめているのに、当の借りた本人はそんなこととは露知らず、「金がないからしょうがないんだよ」と開き直っている(ことが多い)。これはよろしくないのではないか。
と思っていたら、実は「対応が難しいのは、あなた自身なんだよ」と叱られたような気がして、大変心に残った御説法でありました。
今日は、朝から来られた人、水俣から熊本市まで2時間車をとばして来た人、創価学会や日蓮宗の人から何度か誘いを受けたけれど「やっぱり納得できない。親鸞聖人の教えを聞きたい」と来られた人、ありました。