浄土真宗親鸞会 熊本火の国のひろば

熊本で親鸞聖人の教えを学ぶ皆さんとのふれあいを語ります

朝礼にした話

2012-02-13 19:24:18 | ある親鸞学徒の視点

今テレビで、似た意味の単語として

千載一遇=盲亀浮木

阿鼻叫喚=無間地獄

と言っていた。上は分かるが、下はちゃうやん。とつっこんでいたら、無間地獄を「むげんじごく」とアナウンサーが言っていた。「漢検1級の底力!」とわめいていたが、その程度の実力か!とつっこまずにおれず。「むけんじごく」ですから。正しいのは。よろしいですか。

 

私の高校の先生で「よろしいですか」をいつも「やらしいですか」と発音する人がいた。

体育祭の練習で暑い中、マイクから「やらしいですか」と聞こえるたびに、女子の機嫌が悪くなっていったものだ。

 

就活シーズンということもあり、銀行は午後3時以降何をやっているのですか?と聞かれることがある。

たとえば今日などはこんな会話をしていた。

「ダイベンの計算また間違ってるよー」

「だいたいゼンショーのとき気づくのよね」

「ゼンショーでも気づけばいいさー。ショーキャクのとき気づくこともある」

「ひどいのになるとショーキャクでも気づかずにケーバイのときにあっと叫ぶことになる」

「ダイベンのショーサはきちんとやらんといかん」

「この場合、タナアゲがあるから、ややこしい・・・。ハケでこんなことやるから、ジッパになって面倒なことになる。ヨウチュウでやるのなら分からんでもないけど、ヨウカンでも普通やらないんじゃないの」

という、部外者にとってはまったく意味不明な話をしている。

ダイベンって臭いほうのダイベンじゃないですよ。じゃあ何かと聞かれても、説明するにはものすごく時間がかかるので省略しなければならない。だから銀行員って社内結婚が多いのかも。

 

さて、今朝は私が朝礼の番でした。

こんな話をしたら、深いねーと言われました。

 

我が社の会計監査人は、天下の新○本ですけども。

私の大学の同級生にそこに公認会計士で勤めていた人がおりまして。

先日やめたんです。

なんでかって聞いてみたらですね、あの

監査法人ってクリーンなイメージがありますけど、内実はけっこうどろどろしているらしいです。

彼によれば、もはや泥舟だとか。

泥舟に監査されている我々はどうなるのかという気もしますが。

オリンパスとか大王製紙とか見てると、あれもあそこですから、確かに泥舟なのかもしらんと思わないでもないです。

で、彼の言っていたことで、印象的だったのは、

公認会計士になっても有無同然だったということです。

有無同然ってのは、大無量寿経というお経に出てくるんですけど、

「田なければ田あらんことを欲し、、、田あれば田を憂う。有無同じく然り」

とあります。

田んぼがない人は田んぼがあったらいいなと苦しみ、

田んぼがある人は、管理のためにまた苦しむ。

これ、田んぼだけじゃないですよね。お金、財産、名誉、地位、家族みんなそうです。

だから、持てる者と持てざる者というのは、本質的には何も変わらないってことですね。

お経には、持たない者は鉄の鎖につながれていると。

持つ者は、金の鎖につながれている。

鉄と金の違いはあれど、鎖に繋がれていることに変わりはない。

彼は、中学高校と開成で、東大の経済学部を出て、公認会計士となったという、私からみてもエリートコースを進んでいたわけですが、それでも人生苦しいんだなあと。

日本で一番難しい資格をとっても、憂いは変わらないというんですから。

仏教は2600年前にインドでお釈迦さまが説かれたものですけど、

現代の日本にもそのままあてはまる。

仏教は今ブームですけど、

ブームで終わってはもったいないなあと思いました。

仏教も気分転換にといってはもったいないですが、関心を持ってみてもいいかもしれませんね。

ということで、今週も気分を変えてがんばりましょう。

 

(分かる人には誰のことか分かるかもしれませんが、一部フィクションを入れています念のため)

支店長から「深い!インドに出張してもいいぞ!(冗談)」と言われました。

コメント (0) |  トラックバック (0) | 

たとえば12月の夜に

2011-12-31 18:09:46 | ある親鸞学徒の視点

先日、12月といえば、この曲というお題で、テレビでランキングをやっていました。

クルシミマス・過労とか、陣苦ベルとか、出ていましたが、

個人的に12月といえば、「たとえば12月の夜に」という歌があります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

懐かしいものばかりが 輝いてみえるときは

新しいどこかへ行く はじまりと

君はまだ あの頃のまま 無防備に 歩いてますか

たとえば12月の夜に

(「たとえば12月の夜に」 GARNET CROW)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

12月というのは、1年の終わりということですが、人生の終わりという比喩でもあるわけですね。懐かしいものばかりが輝いて見えるのは、年をとった証拠です。

人生の終わりになっても、まだ「無防備に歩いてますか」。

やがて死んで行くのに、その準備もしないまま、無防備に生きてるんですか?

という挑発であります。

 

GARNET CROWには、またこんな歌もあります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Because over blow 

風が吹いて 君の影を さらっていくよ もう あとかたもなく

瞬きの間まで 試されているみたいに

("over blow")

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

blow overというと、一陣の嵐ですべて吹き飛んでしまいますという意味のようです。

悠久の宇宙からみれば、たかだか100年の人生も一瞬の間ですが、そんな一瞬の間にすべてをさらってしまう風が吹いている。それはつまり、死ですね。死がくればすべてを奪い去ってしまいます。

「瞬きの間まで試されている」というのが、切迫感を引き立てています。

人生はマッチ箱のようなものだと芥川龍之介は言いました。軽く扱えば、火事になってしまう。切迫した重大な問題を抱えているのが、人生だということでしょうか。

それはずばり、死んだらどうなるか、という一大事でしょう。

そしてもうひとつ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ね あの日より早く 駆け抜けた道は

たどりつけない場所がある

Secret path  泡のように消える 日々をつなぐ 

たしかな方法(みち)なんてないから

("Secret Path")

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

secret pathとは、抜け道とか裏道という意味です。

しかし、なんでもかんでも裏道があるわけではない。

その一つがこの人生。

泡のように消える日々の積み重ねがすなわち人生でありますが、その人生はどこに向かっているのでしょうか。

人生の目的が分からないと、その目的をどうやって果たすかという「方法」は問題にならない。

「日々をつなぐ方法(みち)なんてない」というのは、つまり目的が分からないということの裏返しを歌っているのでしょう。

当面を都合よくすりぬける抜け道を探すよりも、目的について正面から考えてみなさい、と歌っているように聞こえます。

 

そしてその答えは、親鸞聖人の教えにしかないのですね。いやあすごいなあと。

 

GARNET CROWの歌は、決してメジャーにはならないのですが、名曲がたくさんあります。作詞者はすべてAZUKI七さん。やたら人が死ぬ歌が多いのが特徴です。

気になった方は、youtubeで検索してみてください。

たとえば12月の夜にでも。(あと5時間で終わるけど)

コメント (0) |  トラックバック (0) | 

立川談志とAKB

2011-12-16 20:31:13 | ある親鸞学徒の視点

”確かに未来へ 風は吹いている すべて失って 途方に暮れても

 確かに私は ここに存在する 前を塞いでる 瓦礫をどかして 今を生きる

 もしも風が止んでしまっても 風が消えた 世界はないんだ

 どんな時も呼吸をしてるように 今日という日が
そうつらい一日でも できることを 始めようか” 
(AKB48 "風は吹いている")

いろんなことが連想できます。

確かに私はここに存在する。デカルトのコギトエルゴスム(我思う、ゆえに我あり)を思い出しますね。

そして風といえば、無常の風であります。

人は病気では死なないが、無常の風にさわれたら死んでしまう。

それも「呼吸のあいだ」だと教行信証に書かれてあります。

無常といえば、私の祖母の義理の姉が先週のテレビ座談会のときに亡くなりました。

それは個人的なことですが、最近のニュースでいえば、立川談志さんも亡くなりました。

そのときの日本経済新聞の朝刊のコラムにこう書いてありました。


立川談志さんに「神が降りた」と語り草になっている高座がある。4年前の12月18日に都内で演じた「芝浜」。映像しか知らぬが、なるほど鬼気迫る出来だった。しかし、驚いたのはむしろ、71歳のダンシがつつましげだったことである。

「この年になっても何も分からない。せいぜい落語がいくらか分かるくらい」とマクラに振り、「また違った『芝浜』ができました。よかったと思います」で終わった。落語というばかでかい海を泳いで泳いでまだゴールが見えない。神妙になるよりないじゃないか。そんな風情があった。
(春秋)


ダーウインも、大海原を前にして砂浜で砂を拾っているような一生だった的なことを言って死んで行っているそうですが、

何かを極めた人の一生といっても、みんな同様なのでしょう。

そんななか、なんのために生まれたのか親鸞聖人から聞かせていただいている我々親鸞学徒は幸せだなあと思う訳です。

瓦礫をどかして、今を生きる。いいですねえ。

あさっては富山県射水市の親鸞会館で2000畳座談会、そろそろ出発の時間です。

 

コメント (0) |  トラックバック (0) | 

地震報道の陰で

2011-03-18 19:46:48 | ある親鸞学徒の視点

東北地方太平洋沖地震では、東日本を中心に甚大な被害が出ています。

私の会社では4月の人事異動が凍結され、月曜時点では安否のわからな
い職員もいました。地震とは関係ないそうですが、みずほ銀行の4日連
続のシステムトラブルにより、給料振込みができなくなりそうだ、とい
う情報もありました。公務員は16日が給料日でしょうが、民間は25日が
多いと思いますので、こちらの被害も増えそうです。

あるレポートによれば、農産物・燃料などは全国的には供給が需要を上回っているものの、東日本では道路が寸断されているために、物資が届かないという状況だそうです。

福島第一原発3号機では、私の大学の後輩が働いていますが、家族と電
話がつながったときに「いざとなったら命を捨てなければならない」と
言い残しました。

茨城にいる大学の先輩によれば、水道が止まっているので、駅の公衆便
所なんかは衛生的に非常によろしくない状態におちいっているとのこと。

死者数は6400人を超え、被害額は20兆円にのぼり、阪神大震災以上の震
災であることは間違いありません。

一方で、日本の年間自殺者数は3万人を超えています。3万人÷365でお
よそ1日あたり100人が自ら命を絶っていっています。

地震で200〜300の遺体が海に浮かんでいると言われると、ショックを受
けますが、毎日100人が自殺していることのほうがより重大なような気
もします。地震が発生して1週間、自衛隊・警察・各国の救助隊が必死
に救助活動している中、やるせないことに700人が自殺しているわけで
す。

有名人の自殺なら報道もされますが、ほとんどは報道もされず、ひっそ
りと誰にも知られず死んでいきます。

原子力の報道で福島県外に逃げたい人が増えていることで分かるのは、
誰だって死にたくないという事実です。

にもかかわらず、死んだほうがいっそ楽だと思って死ぬ人がいるという
現実。

阪神大震災では3日間、今回も3日間、テレビは地震だけを報道していま
した。自殺についても同じくらい取り上げられてしかるべきでしょう。

菅総理は、「戦後65年で未曾有の危機」と言いましたが、日本は以前か
ら危機状態だったともいえそうです。

 

高森顕徹先生監修の『なぜ生きる』の一節にこうあります。

★・。☆♪。・。★*
 ・:.
   ・:.。
☆。・★。・●。☆。
阪神大震災で瓦礫の山となった街に、多くの救助隊やボランティアが、必死の救援活動に挺身しました。壊れた家の軒下から、九死に一生助け出されたときは、「良かった良かった」と泣いて喜び祝福されたのに、「あのとき、死んでいればよかった」と、プレハブ生活の六十七歳の男性が、みずから命を絶っています。同じ道を選んだ人は一人や二人ではありません。

「なぜここにいるのだろう」「こんな生活、つづけないといけないのかな」と、よく漏
らしていたそうです。不幸や悲しみの壁にぶつかったとき、強烈に「なぜ生きる」と、問わずにはいられなくなります。

(『なぜ生きる』)
★・。☆♪。・。★*
  :.
   ・:.。
★・。☆♪。・。★*

「なぜ生きる」に対する答えが示されないところに、人類の危機はある
のだといえそうですね。

ここを明らかにしようとしないのは、報道各社の怠慢なのか無知なのか
隠蔽しているのか、どうなんだ?という懸念があります。(地震報道を
否定するものではありません)

コメント (0) |  トラックバック (0) | 

硝子戸の中

2011-03-04 21:06:33 | ある親鸞学徒の視点

夏目漱石の晩年の作品『硝子戸の中』(がらすどのなか)からの引用で
す。

★・。☆♪。・。★*
 ・:.
   ・:.。
☆。・★。・●。☆。
▼ある人が私に告げて、「ひとの死ぬのはあたりまえのように見えます
が、自分が死ぬという事だけはとても考えられません」と言った事があ
る。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々たおれるの
を見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」と聞いた
ら、その人は「いられますね。おおかた死ぬまでは死なないと思ってる
んでしょう」と答えた。それから大学の理科に関係のある人に、飛行機
の話を聞かされた時に、こんな問答をした覚えもある。

「ああして始終落ちたり死んだりしたら、あとから乗るものはこわいだ
ろうね。今度はおれの番だという気になりそうなものだが、そうでない
かしら」

「ところがそうでないと見えます」

「なぜ」

「なぜって、まるで反対の心理状態に支配されるようになるらしいので
す。やっぱりあいつは墜落して死んだが、おれは大丈夫だという気にな
ると見えますね」

私もおそらくこういう人の気分で、比較的平気にしていられるのだろう。
それもそのはずである。死ぬまではだれしも生きているのだから。

・・・

しかしおりおり考えると、自分の生きているほうが不自然のような心持
ちにもなる。そうして運命がわざと私を愚弄するのではないかしらと疑
いたくなる。

★・。☆♪。・。★*
  :.
   ・:.。
★・。☆♪。・。★*

客観的にはいつ死んでもおかしくないのに、主観的にはいつまでも死な
ないと思っている。そこに人間の大いなる矛盾があるようです。

これについて、浄土真宗親鸞会公式HP

こちら死がそんなに恐ろしく思えぬのはなぜか

の記事が勉強になります。

コメント (0) |  トラックバック (0) |