以前から思っていたのですが、毎年桜の季節になるとなぜか気持ちが焦る・・というか、募ると云った方がよいかもしれません。
とにかくこころがざわめくようなそんな気分にとらわれます。
どこのどの桜を見たいとか、どこそこで花見をしたいとか、別段そうな風に思う訳ではないのにどうしてもそんな気持ちになってしまうんですよね。
ほぼ咲ききった桜を見ていると、その種類による違いもさることながら、同じ品種の桜でもそれぞれはっきりとした個性が見えてくるんですね、本当に。
葉桜や冬の桜にはそんな感じはまったく受けないのですが、この時期の桜にはそれぞれの木が精一杯自分を主張しているみたいなそんな気がしてなりませんね。
こんなにきれいに咲き誇った桜を眺めているとやっぱり「一期一会」の人と物事のその在りようを感じてなりません。
昔、ある先輩がこんな言葉を僕に教えてくれました「物事はすべて移り変わります、二度と再び同じ姿形で出会えることはありません。今この瞬間、この一時が最初であり最後の出会いなのです」と、まぁこんな感じなのですが、その時その先輩はいちども「一期一会」というこの禅的な言葉を使いませんでしたが、今思えばすべてはそういう事だったのですね。
多分冒頭に書いたこんな気持ちはそのひとときの華やかさの奥に潜む、どこかわびしくもあり寂しくもある、そんな気持ちの裏返しかもしれません。
家のヤマザクラは茶地丘のあんなに日当たりのいい場所にいるのにまだまだ固い蕾です。ちょっとショボイです・・。
ここ京都でもいまだ芽も吹いていないようなヤマザクラも見かけますが、ほとんど咲ききった木もあります。そこの土壌や日当たりのようなや様々な条件もあるのでしょうが、やっぱりその木々の持つ個性なのかなぁ、と思ってしまいます、僕的には。
さてさて、知り合いの造園業者に頼んで「大島桜」を植えることにしました。
この桜はずっと前から気になっていて、それは葉っぱがとてもきれいで、尚かつ花と同時に咲いてくるんです。その鮮やかな緑ときれいな白い花のコントラストが得も言えずきれいなんですよね。
まだこのシーズン間に合うらしいので慌てて植えることにしました。
我が茶地丘のワンコの遊び場にまた一本花の木が増えます。楽しみだなぁ・・まったく。
ここで短歌をひとつ。
「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸の騒ぐなりけり」 これ西行の歌です。
僕の好きな歌です。他あまり知りませんがね(^^;)
この季節になんとマッチするものか・・・ですね。
古から桜は人をこんな気持ちにさせていたんですね。
先程、雨の降る前にと、自転車で鴨川畔から上賀茂近くまで行って目一杯、花と人を「愛でて・・」きました。
帰りに下鴨の「鳥匠」に立ち寄って絶品親子丼(肝入り)食べてきました。ついビールも飲んじゃいました(^^;)
家の前の夜桜(僕らはエイスケ桜と呼んでます)これも疎水の橋から。
初めてコメントさせて頂きます。
京都の桜が心をざわつかせるのは
狂気を孕んでいるのかも知れませんね。
多くの生き死にを見ていると植物ですら
そういう気持ちになるのではないでしょうか。
世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
それでも満開の桜は美しく迫力を感じます。