ほとんどの人は、この美しい惑星・地球上に貴重な命を頂き生活しながら、感謝し、人生を永続する満足のゆく生活を送りたいと願っていらっしゃると思います。人生が充実し、歓びの多い日々であり、他の人の福祉に貢献する生き方であれば素晴らしいと願われ、そのような歩みをされていらっしゃる方々もおられるに違いありません。中には、現在社会の何でも競争の風潮の中、対処しにくい危機の時代で、ご本人はそれとは気付かずに自己中心的、金銭第一主義の生活に陥り、自然の情愛もなく、日々満足を得ることがない生活の方もいらっしゃるかもしれません(テモテ第二3:1~5)。聖書の詩編には、次のような警告の言葉が記されています。
「邪悪な者はそうではない。
むしろ、風の吹き払うもみがらのようだ」(詩編1:4)。
上の聖句の「邪悪な者はそうではない」とは、詩編1編1~3節に記されている神エホバに祝福される人のようではない、という意味です。つまり、邪悪な者と行動を共にしない人、毎日み言葉を学び、その内容を黙想し適用する人は幸いな人であり、その幸いな人は川のほとりの木のように成長し、爽やかさを提供し、実を与える利他的な生き方の人であり、人生が成功に導かれる人のようではない人が、「邪悪な者はそうではない」と記されているのです。神エホバの目には、み言葉を日毎に学び生活に適用しない人が「邪悪な者」と映るのです。神エホバのみ言葉を毎日学び、その教えを黙想し、日々の生活に適用しない人は、「邪悪な者」と見なされ、その人生は「風の吹き払うもみがら」に例えられています。ご年配の方々は「もみがら」はどのようなものかをご存知の事と思います。もみがらは風が吹くとさらさらと吹き流されてしまいます。かつ、もみがらは集められ、火で焼かれる場合もしばしばです。多くの場合、もみがらは無用のものとみなされます。だれもが、このようなもみがらのような人生は、望むものではないと思います。聖書はみ言葉を毎日学び、適用し、幸福な人として歩み、人生に成功するように導きを与えています。イエス・キリストは有名な山上の垂訓の始めに、幸いな人たちとはどういう人かについて教えて下さっています。幸いな人たちとは、神エホバから出る教え・霊的必要を自覚している人たち、人間の不完全さや不義・不公正を見て嘆き悲しむ人たち、温和な気質の人たち、義に飢え渇いている人たち、憐れみ深い人たち、心の純粋な人たち、平和を求める人たち、義のために迫害されてきた人たち、イエスの弟子・真のクリスチャンとして迫害されてきた人たち、のことです(マタイ5:3~11)。あなたの人生もイエスの教えられた幸いな人であり、平安と義の満ち溢れたものでありますように願っています(イザヤ48:17,18)。
ムギワラで 作りし籠の 懐かしや 今日の一句
近くの畑に咲いている「ヒマワリ」